人を幸せにする人になろう

クントゥルワシ通信

◆メールを何度かもらい、画像も送ってもらいながら、ぜんぜん紹介できずにいる。ごめんなさい。昨年には、電話もかかってきて、いろいろやっていることを聞いた。すべて新鮮で面白いが、電話をしながらメモしていたものも、どこに行ったのやら。遺跡を訪ねてくる学校の子どもたちとの対応の話を聞いた。が、海岸部の学校からそこそこ来てくれるのに対し、案外、近場のところから来てくれていないんだとか。そういうところにも広げていきたい、といった話をした記憶がある。
◆で、今日また電話をくれた。なんでもサンパブロの小学生+中学生60人に、午前中授業をし、午後、遺跡に連れて行くのをやったところで、電話してくれた。いろいろ話を聞かせてもらった概要でも、その都度、書いていかないと、せっかくなのに、こっちも忘却する。
◆クントゥルワシはペルーでも北部だが、こないだ、その西方の海岸部に行ったそうだ。トウヒーヨとかいうペルー3番目の都市らしい。景観がぜんぜん違いますと。海の幸もおいしいと。海岸線とはいえ砂漠地帯で、アンデスから西流する河川沿いに緑地があり、下流部に都市がある。遺跡もあるが、スペインが徹底的に破壊したらしい。生業ともからんで、昔の海岸部の遺跡と山岳地帯の遺跡との関係にも興味がある。海岸べりの文化が山に入ると考えられているらしいが、クントゥルワシでもマチュピチュでも、神殿みたいなのは山にあるような印象を受ける。水田稲作の日本では、そりゃ平野部でしょと思ってしまうが、そうではないのだろう。一方で、下流部の遺跡は、破壊と、その後の都市化のなかで、やはり遺跡が山のようにはわかっていないという面がおそらくあり、そういうのが判明してくると、理解が変わるのかもしれない。

海外からの観光客増

◆ありがたいことであるが、アンケートを取ったり、冷静に分析し、円安だからでなく、「よさ」 を確認し、過剰な期待をするのでなく、環境整備などを持続的にやっていきたいものですね。年末に〈あさが来た〉の前半総集編をず~と見てました。おもろい。続けて見たいけど、家のテレビは故障したままで見てませんけど、五代が死んで、大阪の証券取引所?前の五代像を訪れたり、企業家ミュージアムの来館者が増えたといった記事もあった。五代はもちろん埋もれた存在でなく、知ってる人は知って入るんですけど、そうメジャーではなかった。日本各地の「よさ」も、なんとなく同じようなものに感じる。そこここにある「よさ」の価値を、あんまり認識していない。自分のところには何もない、なんてことはないので、実はそこここにあるものを見つけ、見直していく、そういうものを大事にしていこう、そういうのと五代という存在が表になることと、通じるものがあるように思った、という次第。五代を知らしめたのはテレビであり、その影響力は圧倒的であるが、われわれがやっている文化とか文化財の仕事は、そんな一気にとはいかないが、こういうものがあるんですよ、と光をあて、環境整備をし、そういうものをあちこちに増やしていく。観光客を期待する前に、まずは住んでいる人たちのまわりに、そんなもんがあるんかと知ってもらう、そういう地道な仕事ですよね。そういうファクターが、これからもこの町に住み続けようということも含めた市民の意識や、落ち着きのある文化的な町づくりの上で、とても重要なんだ、ということが、いずこの地方公共団体でも理解されるようになってほしいものである。

長らく

◆この間、書くことはあるのですが、こちらの調子も少し低空飛行で、おまけに寒いとコタエ(去 年くらいから、寒いとね~、と年寄りじみた話をするようになりました)、ご無沙汰しておりました。大きな懸案がいくつかありますが、もろもろ学内仕事やらなにやら、今日はひとつひとつ片づけていくつもりです。
◆こないだ、カミさんに新聞を指さされ、見ると〈大人の保健室〉コーナーの漫画でした。自分はそんなことは言いませんが、作ろうとしないのは一緒です。

早期教育

◆1月5日の朝日新聞の記事を挙げておきます。とても重要ではないだろうか。小学生の塾は児童虐待にとどまらず、効果もないということだ。遊べ。とはいえ遊んでくれる友達がいないんだわ、これが。
◆それと共有型と強制型の話も面白いですね。これは大学教育にも言えるのではないか。

五塚原古墳を見学

◆3日の夜に大阪に戻り、翌日から出勤しました。ほぼ誰も来てませんが。で、丸2日は論文を書い ていました。終わりませんけど、今度の3連休がデッドラインと決めて、仕上げないといけません。
◆6日は向日市の五塚原古墳を見学させていただくことになる。久津川の図面のトレースの打ち合わせを別途日程調整をしていたが、同じ日に立命館の学生等も見学に行くというので、午前中にやることにする。東向日駅に行ったのは、いまから30年前以来かもしれない。1983年と1984年、ここから物集女車塚古墳に通ったもの。間の住宅地を抜けて、いかに近道をするか、どこを通ればいいのか、うろうろしていたな~、というのを思い出す。
◆東向日駅に集合し、3人でファミレスで打ち合わせ。飯を食ってから、その他の見学者は13:30東向日駅集合となっており、もう一度出向き、市役所に車をおいて、五塚原へ。立命は8人、うちは自分をいれて3人、計11人でお邪魔しました。久津川部隊の学生等とは、10月4日の骨折時以来でした。
◆いや~見事な発掘ですね。そして古い、と。箸墓以前の前方部の長い段階をやっぱり設定すべきなんでしょうね。養久山とか讃岐型というのは、もひとつ前のパターンとして(その後の最新型がもたらされることなく伝統的墳形になるにせよ)、理解すべきなのかな、と。そして現地説明会資料等にあるように、東田大塚とか、纒向地域にモデルがあると考えないといけない。中山大塚も。一挙に箸墓でない、もひとつ前くらいのものの設定である。レキハクの共同研究での2回目の発表は、そういうことをめざそうとしてやったものだが、結局、いま書いているのは、それではなくなった。
◆纒向地域のものが、かなりの程度、発掘が進められてきて、一度、考え方を整理する時期にさしかかっているのでしょうね。
◆とても丁寧に説明いただき、ありがとうございました。裾部が急角度で、折れをもって傾斜の変わる墳丘斜面の典型として、学ぶところは多い。むろん中山大塚などもそうなんだが、残りも よく、そういう特徴を示す墳丘斜面のありようを赤裸々に目の当たりにすることができた。
◆それと乙訓古墳群という名称での群指定に進んだこと、また何年か前に現場を見せてもらった元稲荷の報告書がもうちゃんとできあがっていることを知る。ただ単に知らないことが多く、恥ずかしい限りである。

銀の馬車道

◆行きは高速道路で生野まで行ったが、帰りは地道を下る。生野銀山からは銀の馬車道というのが 飾磨港まで伸びている。これは小豆島へ行くときのフェリー乗り場の2階が展示館になっていて、そこで存在を初めて学ぶ。これも西欧の道路建築技術?に学び、鉄道敷設以前の明 治期に馬車で銀を運ぶために整備されたもの。全部がぜんぶ残っているわけではないが、現道を少し脇に入れば残っているところも多く、あちこちに看板が立てられている。これ経産省の「近代化産業遺産」に認定されたもののよう。
◆福崎に入り、柳田国男記念館のところに行くが、その奥の移築した郡役所を利用した町の資料館を含めて、年末年始の休館でした。大庄屋の家も修理中。が、カッパは正月でも働いていました。

お茶でもと

◆お茶でもと、町屋建築でガイダンス施設や体験学習施設になっているところに行くも、正月で閉 まっていた。あきらめて帰ろうとしたら、コーヒーという幟が見え、入っ ていくと、なかなかおしゃれな茶店がありまし た。これも古い民家ながら、玄関を入り、踏み石伝いに玄関を上がると、趣味的な衣料品などの店舗になっていて、それを抜けると茶店になる。もとは畳の和室だろうが、板間とし、テーブルがいくつかとカウンターがある。そのカウンターはシンガーミシンの脚を利用して板を取り付けたもの である。
◆ほかの店が閉まっていることもあって、お客がそこそこ入っており、また入ってきた。

文化的景観

◆工場部分にも近代の煉瓦建築が残っているようだが、いまも工場内で、自由に見学できるという 状態にはない。そして労働者の宿舎などが広がっていた。甲だったか、地区の名前ですが、そこに建てられた10数棟のうち3~4棟が当時のものが残っており、修理され見学施設として公開されている。うちひとつはここで生まれた映画俳優の志村喬の記念館となっている。が正月で休館していた。年末年始だからこそ訪れている観光客も少なくはなかったが。
◆で、谷の入り口の町の部分。いくつかの町屋が資料館や体験施設などに利用されている。あるいは近代建築も、いくつか登録文化財になっているようだ。単品で、伝建までにはなっていないようだ。いまレールははずされているが、トロッコが工場から川沿いに通され、そのための近代の石垣が構築されている。渓谷ともいえる川筋、その向こうに見える町屋、その手前のアーチをところどころに設けた石垣、その上を通るトロッコ軌道、こういう鉱山町全体が重要文化的景観に指定されたようである。

金蔵

◆江戸時代までの灰吹銀とよばれる精製技術、それによる円盤状の銀が展示されている。こういう 実物資料もそう残ってはおらず、文化財指定されている。解説文を読んでいると、この銀は大阪城の御金蔵に収められたという。いま豊臣石垣公開施設を建てようとしている脇に、重要文化財となっている大阪城では数少ない江戸期の金蔵が1棟残っているが、そこには生野の灰吹銀が収められていたのか、と思うと感慨深い。

1月3日は生野へ

◆翌日、前の神子畑に続き、生野へ行く。手前に奉行所?などの経営側の町屋があり、中程には工 場と労働者住宅などがあり、谷奥に鉱山入り口がある。明治初めに、フラ ンス人技術者が入り、三菱に払い下げられ、いま でも三菱マテリアルが操業している。国の重要文化的景観になっている。
◆まずは谷奥の鉱山の入り口に行く。入ると左手に新しいミュージアムがある。100円だか200円なのだが、あまり人は入っていない。パネルも新しく、ひととおりのことを学ぶことができる。
◆そしてその奥に、坑道に入っていくための料金を徴収する区画が別途ある。700円か800円だったか、そこそこの料金である。そこにも左手に資料館があり、右側に精錬の模型がある。こっちの方が古くからある施設のようで、資料館内には文書や絵図の実物があるが、全体に展示は古い。どうも経営主体が違うのではないかな。より内側の坑道に入っていくところを含めての部分は三菱関係で、新しいのが行政によるものかな、と。いまも土地所有ばかりでなく関連資料ももっているのは三菱であって、これを文化財として活用していこうとする行政と、完全には一緒になっていない感 じである。
◆いよいよ坑道。生野は歴史は古いが、近代の生産量が多く、歴史遺産としては三菱時代の近代のものがメインとなる。あわせて1㎞のほぼ平らな見学路があり、松葉杖で一周するとかなり手首に来てしんどかった。巻き上げ機やダイナマイトの発破の音響、穿岩機などの実物展示がある。水の流れもかなりある。近世の頃も、その排水がかなり大変だったようである。生野町の人口推移グラフがあったが、近代の増産で大正期に1万人となり、昭和に入って減少、戦後再び増加して昭和30年代に1万人となり、平成15年で5000人を切ったようである。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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