人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
高砂の町
◆2日、生石神社に初詣。国の史跡になっていました。石の宝殿はそうであろうが、範囲はどうなっているんかいな。おみくじを引くと1番で、大吉が出ました。とはいえ「色に溺れ酒に狂えば凶なり」だそうです。「病気(やまい)信神せよ 治る」。うっ、病気になるということか。
◆せっかくなどで高砂に。加古川下流部の近世の海運のことをよく知っているわけではないが、東 側の加古川でなく、港としては高砂が栄えたのだろう。小豆島に渡ったとき、飾磨港の港町を通ったが、高砂もまた町場が栄え、ちゃんとは知らないが、いくつもの街路と町ができあがっている。そういう町場の絵図など、どこに行けば見れるのでしょうか。むかし、資料館みたいなところに行ったかすかな記憶があり、日笠山貝塚の資料があったように思うが、その頃は近世の展示があったとしても素通りしたのだろう。
◆高砂神社に行き、工楽家を訪れる。そう狭山池館長の工楽さんの本家である。昔、なにわの海の時空間で、高砂工楽家のパネルかなにかがあった記憶がある。『播州高砂工楽家の研究』みたいな研究書が刊行されているはずだ。なんでも丈夫な?帆を開発して、近世の海運業の発達により財をなしたのかな。港にごく近いところにある旧家だが、いまは住んでいないようである。その一画には高砂市の設置した説明看板もあった。そして港沿いにも古い倉庫がまだ少し残っているようだ。町歩きをする対象は、いっぱいありますね。
◆高砂といえば、西谷真治先生のところの酒造家も立派な家で、惣盛という日本酒を造っていた。むかし車で高砂に南下していて、ここかと思ったことがある。が、先生もお亡くなりになり、もう酒造もやめているそうである。
◆ついでに川を渡り尾上神社に行く。が、ここまでとして引き返す。
◆午後、兄弟が集まってきて夜まで語らう。姉の甥は就職して何年かたち、姪は短大を今年度卒業して保母さんになることが決まっている。小さい子がいないと寂しいが、次はひ孫世代ですね。それもそう遠くなく、やってくるのだろう。自分がジイさんになるのは、さて何歳のことになるのだろうか。来年だったりして・・・。
◆せっかくなどで高砂に。加古川下流部の近世の海運のことをよく知っているわけではないが、東 側の加古川でなく、港としては高砂が栄えたのだろう。小豆島に渡ったとき、飾磨港の港町を通ったが、高砂もまた町場が栄え、ちゃんとは知らないが、いくつもの街路と町ができあがっている。そういう町場の絵図など、どこに行けば見れるのでしょうか。むかし、資料館みたいなところに行ったかすかな記憶があり、日笠山貝塚の資料があったように思うが、その頃は近世の展示があったとしても素通りしたのだろう。
◆高砂神社に行き、工楽家を訪れる。そう狭山池館長の工楽さんの本家である。昔、なにわの海の時空間で、高砂工楽家のパネルかなにかがあった記憶がある。『播州高砂工楽家の研究』みたいな研究書が刊行されているはずだ。なんでも丈夫な?帆を開発して、近世の海運業の発達により財をなしたのかな。港にごく近いところにある旧家だが、いまは住んでいないようである。その一画には高砂市の設置した説明看板もあった。そして港沿いにも古い倉庫がまだ少し残っているようだ。町歩きをする対象は、いっぱいありますね。
◆高砂といえば、西谷真治先生のところの酒造家も立派な家で、惣盛という日本酒を造っていた。むかし車で高砂に南下していて、ここかと思ったことがある。が、先生もお亡くなりになり、もう酒造もやめているそうである。
◆ついでに川を渡り尾上神社に行く。が、ここまでとして引き返す。
◆午後、兄弟が集まってきて夜まで語らう。姉の甥は就職して何年かたち、姪は短大を今年度卒業して保母さんになることが決まっている。小さい子がいないと寂しいが、次はひ孫世代ですね。それもそう遠くなく、やってくるのだろう。自分がジイさんになるのは、さて何歳のことになるのだろうか。来年だったりして・・・。
あけましておめでとうございます
◆12月29日から1月3日までは実家廻りです。うちの子らは、帰ってこないのですが。
◆和歌山に行き、籠もっていましたが、天気もよく、30日はドライブに。ほんとは行くべきところもあったのですが、そこには行けず、紀ノ川沿いをぐるりと。とはいえ和歌山市内には入っていないか。ちょっと行ってもいいかと根来へ。一乗閣が修復の上、デンと例の尾根に移築されている。その西側の谷部もまた関連施設の工事をやっているようで、これはこれでそういう計画だったのか?、遺構は?と思ってしまう。西側の南北尾根の姿がこれによっても失われてしまうことになる。
◆0時をまわり、新年となり、丹生神社に初詣。そこから移動して加古川へ。
◆このブログ、ついに無料の容量99%に達した(残り6メガ)。いよいよ有料に切り替えるか、昔のをざっくり切るか、決めないといけません。
◆2016年。あと定年まで13年ちょっとになりました。自分の予定表に、去年から、あと14年といったカウントダウンを表記するようになりました。
◆和歌山に行き、籠もっていましたが、天気もよく、30日はドライブに。ほんとは行くべきところもあったのですが、そこには行けず、紀ノ川沿いをぐるりと。とはいえ和歌山市内には入っていないか。ちょっと行ってもいいかと根来へ。一乗閣が修復の上、デンと例の尾根に移築されている。その西側の谷部もまた関連施設の工事をやっているようで、これはこれでそういう計画だったのか?、遺構は?と思ってしまう。西側の南北尾根の姿がこれによっても失われてしまうことになる。
◆0時をまわり、新年となり、丹生神社に初詣。そこから移動して加古川へ。
◆このブログ、ついに無料の容量99%に達した(残り6メガ)。いよいよ有料に切り替えるか、昔のをざっくり切るか、決めないといけません。
◆2016年。あと定年まで13年ちょっとになりました。自分の予定表に、去年から、あと14年といったカウントダウンを表記するようになりました。
しゃかりきで雑用を
◆昨日は自分の論文に費やしてしまいました。年末年始くらい、趣味の世界のこと、やらしてください。で、本日28日、仕事納め。しゃかりきで、年を越すため、雑用をこなしています。
◆21:51。そろそろ帰りますわ。今年はここまで。みなさん、よい新年をお迎え下さい。
◆21:51。そろそろ帰りますわ。今年はここまで。みなさん、よい新年をお迎え下さい。
歩けるようになってます
◆12月21日に病院に行き、カカトの骨に差し込んであった金属ピン2本を抜いてもらう。予想はして おり、前日に、自分の足から金属ピンが出ている写真を撮っておこうと思いつつ 忘れてしまった。1本はすでにユルユルになっていたが、もう1本の長い方はそうでもなかったが、一瞬ですからとアッという間に抜かれる。歩けと言われて体重をかけるものの、この金属ピンがあると、なんとなく痛かったが、それも解消した。で、即日、松葉杖なしでも何とか歩けるようになりました(ずっとじゃないですよ)。
◆毎日、時間を決めて、歩く訓練をしないといけません。病院に行ったとき、「歩いてないでしょ」と言われた。骨萎縮は回復するのに時間がかかりますよと。早く直すのが一番なので、机を離れ、リハビリを意識的にやる必要がある。
◆大歴関係でチラシが2つ入っていたので、挙げておきます。
◆毎日、時間を決めて、歩く訓練をしないといけません。病院に行ったとき、「歩いてないでしょ」と言われた。骨萎縮は回復するのに時間がかかりますよと。早く直すのが一番なので、机を離れ、リハビリを意識的にやる必要がある。
◆大歴関係でチラシが2つ入っていたので、挙げておきます。
2015年もあとわずか
◆27日の日曜日、朝9:00研究室。近頃は、土日に車で出勤すると、閉めてある正門を守衛さんが朝 晩開けてくれるようになっている。感謝。
◆さて今日は伏見城の仕事をせねばなりません。ある論文は、昨晩家でやってましたが、なかなか。これも本筋を離れて日本書紀の紀年論をぜんぶ解明してやる、と思っているのですが、そう簡単に落ちません。しかしきっと解けますよ。7末8初の編纂者が智恵を傾けたカラクリは、きっと解けるであろう。
◆飛び込みで入ってきた商業出版本ができたので送られてきた。見ていると、ねらいとはズレているんではないかな・・・、と。いろんな人が陵墓をやってるもんで、そういう研究をひととおり知ることはできるとはいえ、一般の関心は古墳時代にあるのではないか。
◆この本の一部を書いたから、というわけではないが、もうこういう商業出版本は断ろうか、と思う。本来やらねばならないことがある。むろん、講演も含め、こういう機会をもらうことで勉強し、研究が進むことも否定できないが、他律的でない自発性でもって課題に取り組み論文を書くことの方が大事である。それを知ってもらうことも必要ながら、それは自分でなくてもいいわけだ。この年末までに執筆承諾の返事をしないといけないオファーがあり、前に編集者から電話で頼まれたときはOKしたが、すこし躊躇しているものがある。OKと言った以上、これはやるかなと思いつつ、この本をめぐっては別の懸念がある。さてと。
◆今日は、部屋の片付けと、課題の列挙を中心に、年末の仕舞支度をやるというところか。ゆっくりと。
◆さて今日は伏見城の仕事をせねばなりません。ある論文は、昨晩家でやってましたが、なかなか。これも本筋を離れて日本書紀の紀年論をぜんぶ解明してやる、と思っているのですが、そう簡単に落ちません。しかしきっと解けますよ。7末8初の編纂者が智恵を傾けたカラクリは、きっと解けるであろう。
◆飛び込みで入ってきた商業出版本ができたので送られてきた。見ていると、ねらいとはズレているんではないかな・・・、と。いろんな人が陵墓をやってるもんで、そういう研究をひととおり知ることはできるとはいえ、一般の関心は古墳時代にあるのではないか。
◆この本の一部を書いたから、というわけではないが、もうこういう商業出版本は断ろうか、と思う。本来やらねばならないことがある。むろん、講演も含め、こういう機会をもらうことで勉強し、研究が進むことも否定できないが、他律的でない自発性でもって課題に取り組み論文を書くことの方が大事である。それを知ってもらうことも必要ながら、それは自分でなくてもいいわけだ。この年末までに執筆承諾の返事をしないといけないオファーがあり、前に編集者から電話で頼まれたときはOKしたが、すこし躊躇しているものがある。OKと言った以上、これはやるかなと思いつつ、この本をめぐっては別の懸念がある。さてと。
◆今日は、部屋の片付けと、課題の列挙を中心に、年末の仕舞支度をやるというところか。ゆっくりと。
翌日は北海道博物館
◆札幌も暖冬で雪は少ないが、それでも松葉杖なので、あちこち出歩くわけにはいかない。娘は2限 の授業があるというので、午前中は北海道博物館に行く。前の名前は開拓記念館。20年近く前に一度行っているはず。が、もしかすると、その時は漆の特別展だけだったのかなと。開拓の厳しさを展示したジオラマなどを見た記憶もあるが、別施設だったのかもしれない。北海道の埋文センターも近くだったが行けず。
◆この博物館90年代はじめにリニューアルしたらしいが、常設展の記憶がないので。で名前も、この時は開拓記念館のままだったが、2000年代に入って北海道博物館になったらしい(今年の4月だそうです!)。ひとわたり歴史展示があり、アイヌ文化のスペースもある。2階の北海道らしさ、という展示は面白かった。通史的なものでなく、展示物や経緯は歴史的たらざるをえないが、諸産業など をとくに取り上げたもの。自然史がもうすこしスペースがあってもよく(別コーナー)、北海道らしさ、のところにも折り合って共存できると思う。自然史系の展示は別施設があるのかもしれない。そもそもこの所在地は広大な自然公園で、そのなかに開拓の村というのがあり、建物などが移築されているようである。そっちにもまた行ってみたいものである。
◆この日24日、娘もとくに予定もないらしく、あるのは20時だかに馬の世話をしに行かないといけないとのこと。昼過ぎに札幌に戻り、駅前で靴とかかばんとか、いろいろ買い物をして16:30から再び呑みに突入しました。この日は和風居酒屋で海産物、日本酒。
◆翌日25日、大阪に戻ってきた。
◆この博物館90年代はじめにリニューアルしたらしいが、常設展の記憶がないので。で名前も、この時は開拓記念館のままだったが、2000年代に入って北海道博物館になったらしい(今年の4月だそうです!)。ひとわたり歴史展示があり、アイヌ文化のスペースもある。2階の北海道らしさ、という展示は面白かった。通史的なものでなく、展示物や経緯は歴史的たらざるをえないが、諸産業など をとくに取り上げたもの。自然史がもうすこしスペースがあってもよく(別コーナー)、北海道らしさ、のところにも折り合って共存できると思う。自然史系の展示は別施設があるのかもしれない。そもそもこの所在地は広大な自然公園で、そのなかに開拓の村というのがあり、建物などが移築されているようである。そっちにもまた行ってみたいものである。
◆この日24日、娘もとくに予定もないらしく、あるのは20時だかに馬の世話をしに行かないといけないとのこと。昼過ぎに札幌に戻り、駅前で靴とかかばんとか、いろいろ買い物をして16:30から再び呑みに突入しました。この日は和風居酒屋で海産物、日本酒。
◆翌日25日、大阪に戻ってきた。
実習展続き
◆学生とともに一緒に勉強していると、あれやこれや紹介したくなります。資料の所蔵は大学史資 料室なので、あんまり表にできませんが、いくつか。商大最後の学長は、京大滝川事件で、末川とともに商大に招かれた恒藤恭といいます。末川は文部省や官憲から目を付けられていたようで、京大法学部教授全員が辞表を出しますが、京大総長は末川のは受理して文部省に送り、そのまま辞職します。恒藤は残留組になるが、それはおかしいとほか1名とともに改めて辞職したわけです。その2人を大阪商大が採用するのです。
◆で、1949年新制大阪市大になったとき、恒藤はそのまま学長になり、山根の難波宮調査も支援します。で、恒藤の資料は市大に寄贈されて、いま大学史にあるのです。その恒藤が滝川事件当時に書いた自分の文章や、いろんな新聞記事や人の論評を切り抜いて貼ったスクラップブックがあるのです。そこから1点。
◆で、末川本もあり、滝川事件直後に出版された本が残っています。
◆そして特筆すべきことは、戦後、滝川事件の時のようなことが起こっているのです。これをパネルでは「商大の戦後処理」と呼びました。「大阪商大事件」で追われた教員の復職、その一方で、戦争に協力的だった教員の追放および辞職勧告です。それは学生1000人の集会でも決議されます。商大教授会は、恒藤に判断を一任し、全員が辞表を提出することになります。30数人いた学部の教授らは半分以下になります。その時の教授会決議がそのまま『学報』(大学の「官報」ですね)に掲載されている。
◆で、1949年新制大阪市大になったとき、恒藤はそのまま学長になり、山根の難波宮調査も支援します。で、恒藤の資料は市大に寄贈されて、いま大学史にあるのです。その恒藤が滝川事件当時に書いた自分の文章や、いろんな新聞記事や人の論評を切り抜いて貼ったスクラップブックがあるのです。そこから1点。
◆で、末川本もあり、滝川事件直後に出版された本が残っています。
◆そして特筆すべきことは、戦後、滝川事件の時のようなことが起こっているのです。これをパネルでは「商大の戦後処理」と呼びました。「大阪商大事件」で追われた教員の復職、その一方で、戦争に協力的だった教員の追放および辞職勧告です。それは学生1000人の集会でも決議されます。商大教授会は、恒藤に判断を一任し、全員が辞表を提出することになります。30数人いた学部の教授らは半分以下になります。その時の教授会決議がそのまま『学報』(大学の「官報」ですね)に掲載されている。
いまの正門と通用門
◆市大の前身である大阪商大は、戦時中に海軍に建物を提供することになり(学徒出陣および勤労 奉仕で大学教育は実質的に停止していた)、そのため9月末和歌山に上陸した米軍は、商大キャンパスも接収する。10月7日以降。1週間で立ち退けとの命令。ちょうどそのころGHQの指令で政治犯・思想犯が釈放され、大阪商大事件関係者も出獄する。
◆で10年かかっているわけです、返還に。なので、どことも1949年に新制大学化し、戦後の教育を再出発する重要な時期に、市大は学部ごとに、市内の旧小学校などに分散していたわけです。難波宮の第1次発掘だってそうですね。大阪市美が基地だったんではないか。文学部の先生はいまの靭公園のとこだったか、違ったかな。
◆まあいい、1952年に、敗戦後7年にしてようやく1部返還。さらに全面返還まで3年。その間、図のようなことになったわけです。旧商大キャンパスは2区間だった。それを越えて米軍は接収。赤の輪郭。1952年に水色部分が返還されたが、まわりは鉄条網があって、米軍の兵舎がならんでいた。これキャンプサカイという名前の駐屯地。
◆でです、商大が杉本に移転したときにできた正門は、どうやら米軍接収時代に撤去されている。で、いま踏切をわたったところにある通用門が、この水色部分のみが大学に戻った時の玄関だったんだ、ということを認識した、という話です。学生等は、そこを入って1号館に向かっていたわけです。ちゃんちゃん。
◆で10年かかっているわけです、返還に。なので、どことも1949年に新制大学化し、戦後の教育を再出発する重要な時期に、市大は学部ごとに、市内の旧小学校などに分散していたわけです。難波宮の第1次発掘だってそうですね。大阪市美が基地だったんではないか。文学部の先生はいまの靭公園のとこだったか、違ったかな。
◆まあいい、1952年に、敗戦後7年にしてようやく1部返還。さらに全面返還まで3年。その間、図のようなことになったわけです。旧商大キャンパスは2区間だった。それを越えて米軍は接収。赤の輪郭。1952年に水色部分が返還されたが、まわりは鉄条網があって、米軍の兵舎がならんでいた。これキャンプサカイという名前の駐屯地。
◆でです、商大が杉本に移転したときにできた正門は、どうやら米軍接収時代に撤去されている。で、いま踏切をわたったところにある通用門が、この水色部分のみが大学に戻った時の玄関だったんだ、ということを認識した、という話です。学生等は、そこを入って1号館に向かっていたわけです。ちゃんちゃん。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。