人を幸せにする人になろう

ピースリニューアルの記事原稿を書こうと思ったのですが

◆いったい何をしてたのでしょうか。
◆ピースの受付で、館内で撮影するなら事務所で、了解事項を確認し、記帳して許可証をもらう。了解事項とは、1枚のパネルや個別の資料などに近づいての撮影をしないこと。展示風景はいいのだけど、字が読み取れるようなものはやめろ、ということでしょうか。それと商業利用はあかんと。3番目が個人の記録ですよ、と。3番目は正確な言い方ではないが、例えばブログに載せるなということかもしれません。が、ネットに上げてはいけない、という明言はありませんでした。まあ、わりとふつうのことです。これなら、わざわざ事務所に行かせることもなく、受付で対応できると思うし、そんな記帳をさせなくても、入り口の注意で普通は済ませることだと思う。なにか、頭からひっかかった。
◆どこまで書くかはわかりません。展示としてどうか、という視点にしようかと。その前に、やはり侵略という言葉はないです。満州国の権益、と。安倍君と同じですね。それと中国は出さざるをえないが、朝鮮はまったくないがしろにされている。そこからでしょ。いきなり日清戦争で、朝鮮をめぐって日本と清でドンパチやったと。ほとんど併合しか出てきませんよ。で展示。野村工芸が入ってキレイだけど、まあリニューアル委員長があれですから、そういうテーマパーク的展示。伝えようというものが根底にないように思う。それが根本ですね。橋下にやれといわれ、しゃーないとやっている。本来違うでしょ。万単位で空襲で人が死に、その聞き取りをやり、それを残し伝えないといけない、と思った側が働きかけて実現し作った。そういう側の絶対に伝えたいことは何か、ということをもとに展示業者が入って、ノウハウを活かして、それを効果的なものにする、というもの。そうじゃないわけです。
◆前の展示の映像はかなりいいものでしたよ。前にも書いたかも知れませんが、学校教育で連れてこられ、しゃーないから見ている者も、しばらく座っていると、引き込まれていた、と記憶する。
◆お上品なものではだめ。空襲死没者は名前が刻まれているように、不明者ももちろんいるけれ ど、1万人からわかっている。生前の顔写真をたとえ100名分でもいい、了解をとって出してはどうか。この人たち1人1人に人生があったのに、ここで終わったということこそ、戦争の意味ではないか。そしてその先に、攻め込んでいった先の人々の命が、もっと理不尽にも膨大な数、断たれたことを伝えないといけない。それが戦争がいかなるものか、そして平和を考えると言うことであって、起こしちゃならないという抑止力になる。入り口の写真を示すが、もったいない、展示として導入部らしくイメージを伝えたいという技術はあっても、ハートはない。

慰安婦問題に対する歴史学会の共同声明

◆歴史学研究会の声明に感動。そのあと、韓国の新聞社から、大歴にもどう考えるか、意志を表明 するような要請があったと記憶する。で、委員会で、それに応えることも必要かもしれないが、あの声明は非常に重要であるので、歴史学の研究会がもうすこし束になって、例えば金を出し合って新聞1面に意見書を出すとか、それくらいのことをやらなあかんのとちゃうと提案した。事務局長もいろいろ動いてくれたようです。今回の共同声明が、そうしたことのどこまでの産物かは知らないが、とにかくもまとまり、東京で記者会見を開いたことは、とてもよかったと思う。

水野先生を語る催し

◆案内をいただきました。7月5日だそうです。

吉備の古墳時代のイメージ(3)

◆しかし崇神没後、佐紀遷都。東アジアは流動化し、伽耶との関係を深めていく。で神宮寺山166mが旭川河口部にで~んと来る。五色塚も、輿塚も、丹後も(陸路もだが)。神宮寺山の立地は、佐紀段階のありように合致すると。
◆まあしかし続かない。佐紀段階に2代続けて大きいのを造っているのはあまり見ません。これはこれで解かなければなりません。佐紀後半は金蔵山。五社神型の前方後円墳はほぼこれも1代止まりです。けっして古市・百舌鳥段階に続くことはない。佐紀前半が陵山型で表現され、後半が五社神型で表現されるところに、さっきの佐紀段階のなかでの王権のありようならびに地域首長との関係の変化を解く鍵があるのかもしれません。
◆でホムダワケのクーデタ。玉丘の被葬者とともに、佐古田堂山の被葬者も、これに荷担したのでしょう。佐古田堂山はでかい。足守川東岸です。そもそも津堂城山型はまだまだ少ないが、そのなかで玉丘は後続墳を造っている。太田天神山はそれっきり。佐古田も単独。河内政権段階とすれば造山が顕著ですが、佐古田と造山の間をどうみるかです。近しいと思うが別系譜なんでしょうね。
◆で作山となる。
◆次は雄略朝の反乱伝承とかかわる。狩野さんの論文を見ると、日本書紀分注の方に信憑性があるという。雄略7年に、下道前津屋と上道田狭を倒す。日本書紀紀年でいけば463年。允恭没から10年後、両宮山は田狭墓でもいいのか・・・。このへんで、やめましょう。ウラ伝説も考えてみたいところですが。

吉備の古墳時代のイメージ(2)

◆3世紀第2四半期くらいか、卑弥呼治政の後半に入り、中国魏との関係ができ、箸墓古墳が築造され、前方後円墳共有システムが本格的に発動されていく。その時に、箸墓型である浦間、宍甘、網浜という3基が備前側にあり、前方後方墳である車塚を含め、すべて旭川東岸。操山の先端に古墳が築造され、背後には140mの浦間がある。そこには畿内の都月型埴輪があると。
◆一方で、西方は前方後方墳が多く、しかし規模はそう大きくはない(美作地域も視野に入れないといけないが)。前方後円墳もある。全体的に見れば、美作を含む特殊器台の分布域と、前方後方墳のありようの重なりがあり、そこに東から前方後円墳が進出しているイメージ。庄内式から布留1式の津寺遺跡などのありよう、しかし初期の大型前方後円墳が備中に現れないことは、倭国に連なりながらも、鯉喰以後の盟主なき連合関係の延長にあり、箸墓型のような王権とのより直接的なつながりは入り込んでいかない様子。備前車塚古墳もまた前方後方墳で、そうした吉備における関係のなかにありつつも、前方後円墳に取り囲まれ、三角縁神獣鏡多数を与えられ、とても興味深い位置を占めるようにも思われる。まっこうから対立しているとはいえないだろうが、吉備の首長間関係のそれはそれで隠然たるまとまりそのままに任せるほかないが、備前側首長を王権に近い存在として起用しているイメージ。
◆で4世紀に入り、吉備津彦が。半分冗談で、半分まじめです。中山茶臼山は行燈山型である。行燈山形前方後円墳のあり方からすると、崇神はかなり列島広域にわたり、倭国に緩やかに参画していた諸地域に対し、王権の関与を強めていくように思っている。丹後の湧田山、会津大塚山、大分の小熊山など。で中山茶臼山が吉備の中山に出現する。大型前方後円墳がここまで来たと。

吉備の古墳時代のイメージ(1)

◆弥生時代後期の特殊器台の共有にしめされるまとまりの形成と楯築の築造。しかしそのあとのイメージは、倭国形成主体論ともからみ、なかなか難しい。津寺があると。足守川河口部の交易拠点ができ、瀬戸内海上交通の重要な中継地である。例えば特殊器台の議論でも、立坂、向木見と、分布は拡大するんですかね。文様の系統論もあり単純に時期区分できないとしても、立坂が楯築を画期にできあがったとして、これが130年くらいとして、箸墓が250年、宮山や矢藤寺山などはややさかのぼるとしても、宮山型は別にしても、向木見が例えば2世紀中か、3世紀第1四半期まであるのか、知りませんが、へたすりゃ立坂から向木見まで100年くらい使われたのかもしれませんよね。3つとか、4つとかに時期区分でき、それによって共有関係がどう進展したのか、といった論文にお目にかかったことがないようにも思います。まあ、独立度の高い吉備、しかし西日本の諸権力の一画に位置付いていたと。
◆その次、鯉喰として、それが纒向石塚並行くらいだろうか。2世紀半ば。そのあと吉備の王墓はどうなるんでしょうか。2世紀後半は、ヤマトが求心力を強めていく時期にあたり、吉備ではせっせと特殊器台は作られ、まとまりを維持しようとしてはいるんだろうが、盟主的な大型墳墓は途絶えたのかな。
◆倭国乱が収束し3世紀に入る。倭国が確立する。瀬戸内一帯であるが。吉備の3世紀前半の墳墓はどんなだろう。そこに宮山と矢藤寺山という前方後円墳が現れる。総社と吉備中山に。なので、倭国の枠組みに入り、前方後円墳を共有する関係が発現する。しかし、そのあと、そのまま前方後円墳の社会が拡大するわけではない。

備前と備中

◆講演会後、彫刻家の方のご夫妻の方に岡山駅まで送っていただく。途中、ここから備前ですよと 道標を教えてくれる。興味深くしていると境川?、両国橋へ案内される。北側の山 裾、1本の川があり、それが国境で、そこに架かる橋を両国橋というのだそうである。きっと条里でしょうねと。
◆帰ってきて、服部さんの本を見ました。やはり南北とも、条里の単位は違うが、条里地割にしたがって平野部は直線国境となっている。
◆吉備の中山が国境とされるのは、地勢的に必然なのかも知れませんし、政治的意図があるのかもしれませんが、わたしにはよくわかりません。

忘れてました岡山県博

◆当日の午前中、1985年以来、岡山県博に行ったわけです。2階分。1階にも考古のイメージ展示が あり、これだけ?と思ったら、2階にもあって、そっちは1部屋だが考古資料がならんでいた。縄文の貝塚とか、あかん、ほとんど記憶が・・・。新庄天神山でしたっけ、の石枕、これは感動的。前方後円墳の宮山の出土品。銅鐸、楯築の弧帯石のレプリカ。このほんものは月初めの日曜だったか、定例の掃除があって、その時には見れるのだとか。やっぱり弧帯石はすごい。
◆岡山県博もさびしいですね。むろん古代吉備文化財センターにも来ていただいたらいいのだけど、そこは岡山市の一大観光地である後楽園、そこにあるわけで、大勢の観光客が、後楽園に来たなら県博も見とくというものになればいいのだけど、1回見たらそれでいい博物館ではないでしょうか。旧態依然たる古い博物館、ひとことでいえばそういうものです。残念。撮影も禁止され、楽しみもありません。刊行物もさびしい。市博も県博も・・・。朱千駄の石棺など赤磐市に返せばと思うが。赤磐市の民俗資料館はいいですよ。

で造山蘇生会講演会

◆7年目という話。地域のみなさんが地域のためにやりたいと、それをガイド歴の長い方に打ち明 け たことに始まり、地元の町内会も巻き込んで、地域の活動に完全に根付いている。それを母体としながら、具体的にはガイド養成をめざし、4期といったか、30人強のガイドさんを養成している。またこういう解説をせよという縛りをもうけず(倉敷美観地区や後楽園のガイドは決められているらしい)、あくまで個人の自発的な意志を尊重し、しかしそこは小学生にむかってガイドするという実践のなかで、それぞれがよりわかりやすいものにしていく、のだそうだ。
◆そうですよね。学生もまったくしかり。自分がこれやってみたいという自発性がすべて、なんです。それが生きていく、あるいは何かをやるすべての根本。なので、やる気を削ぐのが最悪。
◆今年度は4月5月ですでに1500人をガイドし、飛躍的に数を増している。懇親会の時や、講演会の時にうかがった話です。いや~、まったく行政主導でなく、自分たちのやりたいという発意で、自分たちでやっていくという団体であることが重要。むろん、孤高でというのでなく、岡山市や総社市や岡大の先生などと関係をもつ。うれしいじゃないですか。そういう話を聞くと、こっちも応援せなあかん、ということになります。考古学とか文化財保護の応援団を作っていくという意味でも。
◆造山と作山が別系列で、そこで主導権が代わっている、という話はショックだったようです。安心してください。そんなことほとんど誰も言っていない珍説ですから。とはいえ、作山が大仙でいいなら、俄然、話は河内の王権の権力の推移とビビッドにつながりますよ。両宮山は未完成、作山は完成し、しかし宿寺山で規模は大きく縮小する、そのことを雄略朝の話とどうからめていくか、それはこっちの課題です。
◆今回、残念だったのは、倭国王墓と比較するところまでやって、造山・作山の話はこっちの考えが明確に伝わったと思うが、箸墓型、いや楯築以来の岡山の歴史的動態について、そこから筋を明確に示すというところまで作業がいかなかったことである。巨大な古墳がごろごろある。尾上車山も再測量されたようだし、そういう素材を大和や河内を見ている目からいかに考えるか、それはこちら側の課題です。

岡山シティミュージアム

◆岡山駅前のホテルにチェックインする前に、隣の博物館に行きました。たいそうなエスカレー ターで上がり、だが基本ワンフロア。前はバーチャルという名前だったの だったか。それも見てないけど。基本、撮影禁止だったと思う。が、まあ撮影したいものもあまりなく、イメージ展示ですね。岡山城、備前焼、エライ人、そこに南方の木製品などがひっそりたたずむ。
◆岡山空襲の展示は、あれは企画展なのかな。そっちは力が入っていたが、常設展はお飾りですね。あれで岡山市の歴史と文化を学ぶというには、あまりに皮相的。学べません。へんてこな博物館だった。

プラグイン

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索