人を幸せにする人になろう

宇治の古代官道

◆いま宇治橋にまっすぐつながる斜め道、これ巨椋池を迂回し、宇治川を渡り、山科に抜け近江に 至る重要ルートとして昔からあるものではあるが、この直線道そのものも古代に整備されたとみるのが自然。が、宇治橋は昔はより上流部で、平等院の拡張のなかで前に出したと考えられているらしい。斜め道も宇治川手前で東西道になっていたとするのかな。そうかもしれませんが。たしかに宇治川に橋を架けるのは難事業で、中州がある上流部の方がやりやすいだろう。が、7世紀的に考えると、やはり直線道で宇治川を渡河するようにしたが、なんぼ作っても橋が流れてしまうなかで上流部に架け直され、それが再び下流側になる、とみた方がいいんではないか、などと考えていた。勉強が足りません。

平等院

◆前に歴史学ハイキングで宇治に来たのはいつだったか。鳳凰堂は修理中?、ミュージアムはでき ていた。今度、平成の修理が行われ、外側の塗装をやりかえ瓦を葺き直し、昨2014年に竣工したところで、色が鮮やかである。鳳凰堂は、平等院に入る入館料とは別に金を払って少人数ごとに入るようにしてあり、2時間待ちというのでスルー。えらい人がぎょうさんいてます。大観光地ですね。
◆ミュージアムとかでちゃんとパネルを読んでいくと、いかに茶のあきないが宇治を支えてきたかがよくわかる。上林家というのが代官。そういう近世のあり方はあんまり今回のテーマになっていなかったが、こっちの関心がそういう方面に向いてきているので、上林記念館とか、そういう選択肢もあったように思う。昼飯の自由時間で町歩き をする。もひとついうと、交通の要衝というのも、いますこし解説がほしいところ。古来、いくたの戦いが宇治川で行われていることの意味ですね。
◆でウジノワキイラツコを宇治神社で祀っていると。陵墓も作られた。住吉中皇子が宇治宮を攻めるべく進軍し、宇治で溺れさせられた。で、ウジノワキイラツコって誰なんですか。いるんですか。応神とミヤヌシヤカワエヒメとの間に生まれたワキイラツコ。応神の子であるワカヌケフタマタ王のことを考え、太田茶臼山はオオホド王墓なんだろうと思うが、そういう畿内の要所に王族を配置するということはありうるのだが、ウジノワキイラツコなり宇治宮なりが営まれたこともありえたと思わせる中期はじめの前方後円墳はない。近いところでいえば久津川車塚があるが、まあ宇治じゃないですわな。
◆ウジノワキイラツコとオオササギの譲り合い、というか、その前の応神の詔り分けというのは、実はオオササギとイザホワケの間のことで、ウジ=オオササギと思っているが・・・。むしろ6世紀の宇治二子塚の方が重要で、これを考えないといけませんね。

土曜日は宇治

◆歴史学ハイキング。この2年、行けていなかった。高井田8:21で、宇治駅9:25着。縣神社→平等院 →昼→浮島→宇治神社→宇治上神社→橋寺→太閤堤→萬福寺という行程。京橋で懇親会。教員込み38名でした。

金曜日の考古の呑み会

◆今回はロシア料理でした。

木曜日は某所の測量

◆木曜日はうってかわっての快晴も快晴。山から見ると、ハルカスがあり六甲山が見える。海は見えないが、昔はよく見えたことでしょう。なんとか1日で予定箇所をすべて終えた。そのあと寝屋川のスーパー銭湯で2時間、湯治。露天で仰向けになり快晴の空を見上げ、暮れていくのを18時から20時まで眺め、サウナで阪神の試合を見ていました。
◆翌日は、そのトレース。金曜日はそんなんで暮れていきました。

水曜日は雨

◆某所へ出向くつもりが、前日の天気予報ではかなり降るが9時頃にはやんで、なんとか作業はできると思っていたが、今日の天気予報では、その後も雨が来るとのことで、明日全力を上げることにして中止。おかげでヒストリアの仕事などはできたが、その他、いろんなことを、やってもやっても終わらず、疲弊してきました。

そのあとと日曜日

◆終了後、会場にS君が来てくれていて、場所を移して話をする。彼は車でドリンクだが、こっちはワインをがぶがぶと。いろいろ話を聞きました。これはこれで何とかならんもんですかね。ひとまず事情は理解した。
◆大学に寄らずそのまま家に帰り着き、そのままダラダラ休むことにする。翌日も、先週来の疲れがあり、1日休もうかとは思っていたが、いくつかすることはあるな~と思いつつ、まあ月曜日は月曜日!、ということで。
◆日曜日、橿原博物館に継体の展示を見に行きました。9時前に着いて、外の横口式石槨などを見て、入館。800円か、高くなりましたね。いろいろ感じるところはあるが、ひとつだけ。展示と図録はむろん対応し、何を見てもらうかを考え、図録の原稿を作りつつ、それも使いながら展示パネルも作られていくんでしょう。が、展示パネルがおろそかになっているように感じるのです。
◆隅田八幡の鏡があると、それがどういう意味をもつのか、継体朝の理解にとってどう重要かが伝わらない。また尾張型埴輪があると。で尾張の埴輪がならび、額田部の埴輪もならぶ。尾張型埴輪の分布図がほしい。このへんの埴輪の研究はかじっているけど正確には知らないし、しかし一方で断続ナデの埴輪もある。いま埴輪研究でどこまでのことが言われているのか、勉強したいのです。また一足飛びに欽明朝にならないわけで、大伴の失脚も関連し、安閑側と欽明の対立とか、学問的には共通理解にないとしても、スムーズに継体→欽明とはいかないというのもまた、考えてもらう材料として必要なんじゃないか、と。

でしゃべりました。

◆330名の聴衆。これだけ埋まっていると、やりがいありますね。館長からも2時間めいいっぱい しゃべってもいいと。実は最後のところで、すこしアジろうと前から思っていましたが、控えめにしました。まず、倭国が倭国乱が持続するなかで休戦合意し、卑弥呼を立てて収束させたこと。日本の国家形成の最大の特質はここにある。そして第2代も女王としたこと、この100年で日本の君主制の基調ができあがった、前方後円墳の共有という特異な制度の発達もそこに原因があるという、いたって学問的な話。
◆もひとつです。コンフリクトという言葉は、考えていたが出せなかったが、いわゆる平和学の話。いろんなコンフリクトがある、それをどのように解消するか。競争・競合を果てしなく続けるのでない解決方法があるんだと。卑弥呼共立に現代社会も学ぶべきだというものです。これ大まじめな話です。イスラム国の画像を調べました。そんな画像はいやだし、見ない。が首を切られた写 真が累々と出てくる。頭を銃で撃った瞬間の写真も、刃物を何十本も突き立てられた遺骸・・・、など。これを画像で示すのはやめたが、日本人2人がとらわれている画像を出そうと思っていた。がこれもやめた。で、最後に自国の問題として、いまの安保法制の議論とか、日本国憲法の話をして(卑弥呼共立と通じます)、グローバルホークとかオスプレイとかイージス艦の話を持ち出し、最後に文化財保護予算の話で終わろうと。が、思っていたようにはしなかった。卑弥呼共立に学ぶべし、というところまで。

5月30日弥生博

◆13時前に行き、展示を見る。リニューアルしてからは見たことがない。とはいえ、全面新しくす るほどの予算はなく、どこが変わったんだろうと思いながら見る。弥生文化全体の面と、一方で近畿地方の弥生という面があるだろう。全般的に総体として弥生文化を示すのはわかるが、しかし北部九州の資料なんかも上げつつ、近畿の弥生文化の全体像がわかるようなものであってほしい。そして、前期、中期、後期という動き、変化も。解釈はちがえど、池上曽根を含めて拠点集落が継続せずに廃絶していく、そのことの重要性、そして後期にはどうなっていくのか。そういう動きが感じられない。農耕文化がどのように熟成し、そして大きく変化していく、そういう変動を是非とも示して欲しいと希望する。
◆そして特別展の卑弥呼。人、多かったです。撮影禁止のものは印があり、あとはフリー。まんな かは鏡がずらずらあり、熱心に撮影している人もいる。こっちも撮影禁止以外のものを撮ったが、カメラの性能がいまいちで、再出撃したほうがいいかも。図録を見ると、Mさんが年代論をいろいろ書いていて、わたしの議論にも言及してくれている。勉強が足りないのは確かでしょうね。ご指摘を受け止め、丁寧に先行研究をふまえるよう努力したい。

29日の金曜日、そろそろ弥生博の準備を

◆公務は会議がひとつ。あとは杭全神社に連絡するも宮司さんは不在で、これは夕方。あるところ の測量の段取りがようやくついた。そしてひたすらピースの原稿を書き、けっこうな分量を書いてきたが、そろそろ弥生博のパワポを作ろう(16:30)。
◆20:50ほぼ終了。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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