人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
最大の収穫
◆最大の収穫は、作山が大仙であること。自分がちゃんとやっていないということが丸わかりです ね。仲津山かなと思ってきた。あるときやって、要は前方部の高まりの話ですけど、仲津山と大仙の真ん中くらいかな。あ~ややこし、どっちかにしてくれ、と。で古く見て、造山・作山並立、作山長生き説ではどうか、と思っていた。オサホとメサホも念頭にあった。が、今回、両方と比べ、やはり前方部頂前端位置からすると大仙だと。後円部がいびつなので、大仙の段と比べて、どこをどのように合わせてあり、どこは自然地形で流したのかということも考えなくてはならないが。
◆とすると、造山・作山は、俄然、1系列ではないという話になる。允恭即位にともなう権力交替により、造山系譜から作山系譜が浮上するとみたい。そして備前両宮山と同時期だと。作山→宿寺山はいいとして、造山の方の小造とか、もういっこ削平されたやつもあったか。そういうのも後継首長墳なのか、階層構成の産物かという議論もあるが、別系譜という見方で検討できるのではないか。造山はあくまで足守川を向いているし、作山は総社の平野部のまんなかにある。
◆とすると、造山・作山は、俄然、1系列ではないという話になる。允恭即位にともなう権力交替により、造山系譜から作山系譜が浮上するとみたい。そして備前両宮山と同時期だと。作山→宿寺山はいいとして、造山の方の小造とか、もういっこ削平されたやつもあったか。そういうのも後継首長墳なのか、階層構成の産物かという議論もあるが、別系譜という見方で検討できるのではないか。造山はあくまで足守川を向いているし、作山は総社の平野部のまんなかにある。
茶臼山型前方後方墳
◆で、金曜日に茶臼嶽を見せていただきました。がその前に総社市の学びのなんたら、埋文セン ターですね。だから土日は開いてないと思う、たぶん。鬼の城の調査指導の時に、立ち寄っていると思うが、ちゃんと展示を見ていないと思う。とにかく、エエ資料あります。こうもり塚の陶棺や須恵器です。江崎もある。かなくろ谷もあるし、窪木薬師があり、特殊器台やら鬼の城はむろん。またその手作り感がよい。
◆香川のO氏も一緒で、総社のHさんと2人が食事に行っている間、展示を見ることができてよかった。またこうした機会に、いろいろ質問したりして勉強させてもらう。製鉄、製錬ですが、5世紀前半にさかのぼらないものですかね~、とか。組帯文の話も。そのあと栢寺廃寺跡に行く。古代では加夜郡?加夜郷?、まあ伽耶ですわな。
◆茶臼嶽は3段2段で、前方部が細長いと。で、壺型土器だと。その夜、パワポを作りながらハタ と。「持った湯飲みをばったり落とし、小膝叩いてにっこり笑う」。そうか・・・。箸墓古墳を規範として備前車塚がある。鏡多数。あの影響が強すぎたわけです。が、桜井茶臼山を規範とする前方後方墳があってよいわけです。備中側の前方後方墳多数がすべてその論理でちゃんと位置付くか、それはやってみないとわからない。しかし、同じ前方後方墳で、それはそれで前方後円墳でなく後方墳であることの共通性は重要だし、Nさんは思わせぶりなことばかりでハッキリ書いてくれません。が、そこにも2者がありうるんだ、それは王権構造にからんで説明できるかもしれないと思ったわけです。で、現地でもらい墳端かと思われる線を適当に書いた資料をデジカメで写真を撮り、パワポの1コマに使ったのがこの画像です。茶臼嶽がそうだというわけではないですが。現説も終わったので、粗めの図で使わせてもらいます。
◆香川のO氏も一緒で、総社のHさんと2人が食事に行っている間、展示を見ることができてよかった。またこうした機会に、いろいろ質問したりして勉強させてもらう。製鉄、製錬ですが、5世紀前半にさかのぼらないものですかね~、とか。組帯文の話も。そのあと栢寺廃寺跡に行く。古代では加夜郡?加夜郷?、まあ伽耶ですわな。
◆茶臼嶽は3段2段で、前方部が細長いと。で、壺型土器だと。その夜、パワポを作りながらハタ と。「持った湯飲みをばったり落とし、小膝叩いてにっこり笑う」。そうか・・・。箸墓古墳を規範として備前車塚がある。鏡多数。あの影響が強すぎたわけです。が、桜井茶臼山を規範とする前方後方墳があってよいわけです。備中側の前方後方墳多数がすべてその論理でちゃんと位置付くか、それはやってみないとわからない。しかし、同じ前方後方墳で、それはそれで前方後円墳でなく後方墳であることの共通性は重要だし、Nさんは思わせぶりなことばかりでハッキリ書いてくれません。が、そこにも2者がありうるんだ、それは王権構造にからんで説明できるかもしれないと思ったわけです。で、現地でもらい墳端かと思われる線を適当に書いた資料をデジカメで写真を撮り、パワポの1コマに使ったのがこの画像です。茶臼嶽がそうだというわけではないですが。現説も終わったので、粗めの図で使わせてもらいます。
岡山のいい図面はないものか
◆木曜日、へろへろになって資料を作り、印刷をして原版とし、これで22時。パワポはそこから。5つくらいの過去のパワポを準備し、そこに今回の作図データを加え、出かける準備をする。パワポの材料としてはちょっと不足だが、研究室で1日かける時間はもうない。金曜朝から出かけることになったので。まあ金曜日の晩があるし、なんとかなろうと。早く新大阪につき、岡山には待ち合わせの11時より40分くらい早かったか。茶店でパワポを作る。
◆今回、動き出しが1週間早ければ、岡山市さんにお願いして、湊の図面ありませんか、とかおねだりしたいところでするが、まあその日暮らしが続き、やり始めたのが水曜日ですし・・・。岡山県史すら、図書館に入ってしまうと足が遠のき・・・。やはりリポジトリは偉大ですわ。網浜は報告書のリポジトリがあって図を借用できた。
◆でまあ、常套手段では地図作りから入るわけである。海岸線、丘陵、川、そこに古墳を置いて いく。そうしないと頭に入らんわけです。播磨は、遙か昔、加古川の講演会の時に手作りしたものがある。地図のコピーに山の裾線を入れ、トレペをかけてスクリーントーンを貼り、切っていく。たぶん、それは原版として保管し、それをコピーして、ロットリングで古墳を書き込んで行った?、いや直接?、忘却の彼方です。どっかに原版があるかもしれません。まあよくトーンを切ったもんですわ。えんえんと。
◆等高線では絶対に切りません。地形で切ります。山裾を追うわけです。段丘とかありますが、大局的な地勢図なので、それでよい。とにかく地図にまず古墳の位置を落とす。大学1年の時に向日丘陵の古墳とか、オオヤマトの古墳を2万5000に落としていったが、あれと同じです。その手作業によって古墳の名前や位置を覚えていくもんです。
◆で、播磨の図、それを兵庫県の太子町で講演するとなったときに、イラレでなぞったるかと。
◆吉備も作りたい・・・、ところですが、これめっちゃ時間がかかりますよ。イラレは実に便利だし、ペンタブは使いませんが便利だし、手より早いとは思いますが(手トレやトーン切りも極めると差はないかもしれませんが)、基本やってることは同じ。
◆今回、動き出しが1週間早ければ、岡山市さんにお願いして、湊の図面ありませんか、とかおねだりしたいところでするが、まあその日暮らしが続き、やり始めたのが水曜日ですし・・・。岡山県史すら、図書館に入ってしまうと足が遠のき・・・。やはりリポジトリは偉大ですわ。網浜は報告書のリポジトリがあって図を借用できた。
◆でまあ、常套手段では地図作りから入るわけである。海岸線、丘陵、川、そこに古墳を置いて いく。そうしないと頭に入らんわけです。播磨は、遙か昔、加古川の講演会の時に手作りしたものがある。地図のコピーに山の裾線を入れ、トレペをかけてスクリーントーンを貼り、切っていく。たぶん、それは原版として保管し、それをコピーして、ロットリングで古墳を書き込んで行った?、いや直接?、忘却の彼方です。どっかに原版があるかもしれません。まあよくトーンを切ったもんですわ。えんえんと。
◆等高線では絶対に切りません。地形で切ります。山裾を追うわけです。段丘とかありますが、大局的な地勢図なので、それでよい。とにかく地図にまず古墳の位置を落とす。大学1年の時に向日丘陵の古墳とか、オオヤマトの古墳を2万5000に落としていったが、あれと同じです。その手作業によって古墳の名前や位置を覚えていくもんです。
◆で、播磨の図、それを兵庫県の太子町で講演するとなったときに、イラレでなぞったるかと。
◆吉備も作りたい・・・、ところですが、これめっちゃ時間がかかりますよ。イラレは実に便利だし、ペンタブは使いませんが便利だし、手より早いとは思いますが(手トレやトーン切りも極めると差はないかもしれませんが)、基本やってることは同じ。
造山蘇生会でやったこと
◆とにかく吉備の大きい古墳、最新の測量図に更新されたものもある、そうしたものをちゃんと王墓と 比べてみる、ということをやったわけです。ここにもイラレの偉大さが。しばらく前に、23㎝、25㎝、30㎝、35㎝の各メッシュレイヤーができ、墳丘や石室にあてはめるようになった。今回、浦間茶臼山から始まり、そこに箸墓型レイヤー、西殿塚レイヤー、まあ復元シルエットでもコンタでもなんでもできますが、自ずからそういうものができあがっていき、土師ニサンザイのレイヤーまでいく。これ便利です。判定ソフトみたいなもの、ですね。むろん個々にスケール調整が必要ですが。これはエクセルを作っていて、○mなら、23㎝尺で何歩というのが出て、そこから5歩刻みで推測する。一方で比較する王墓の欄が下にあり、何歩で縮尺が何分の1だと。で、それをあわせるには、各古墳の大きさに合わせるなら王墓は○%、王墓にあわせるなら各古墳を○%という計算式を作ってあります。
◆画像は宿寺山のものだが、右のレイヤーにある通り。王墓の墳丘のシルエットもカラーとグレーを用意し、また等高線のものなども用意しておけば、今後、とても有用だろう。
◆画像は宿寺山のものだが、右のレイヤーにある通り。王墓の墳丘のシルエットもカラーとグレーを用意し、また等高線のものなども用意しておけば、今後、とても有用だろう。
太田茶臼山古墳
◆月曜日はクタクタだが大歴の委員会があり、そのほかもあり、火曜日、3つ授業があって、もうヘロヘロ。講義はひとつで、継体朝の話をしており、5限の博物館実習後、休みがてら本を読んでいました。継体朝について、なかなか最先端の理解ができているかといわれればそうでもないと思うのですが、なんといっても河内政権からの権力委譲がどのようであったか、記紀の王統断絶による継体擁立という筋書きを認めるかどうかが、ひとつの分かれ目。そこは仁賢陵=ボケ山と思っていますが、峯ヶ塚、あるいは白髪山含め、末期の前方後円墳があるなかで基本的には継体は並行して擁立されている、というのが考古学の見方の基本と思っています。
◆むろん断絶し、継体が擁立されるも、残存勢力がなお前方後円墳を築いたっていいですけど、仁賢陵はボケ山でいいと思っており(丹比郡)、Wっていることは間違いないと思っている。で、隅田八幡の鏡の理解もそれと深くかかわるわけです。そしてこれは2王並立論で解けると。
◆でもまあ高槻市のシンポの記録本を見ていても、文献の人も、はっきりいわないまでも考古の人も、記紀の筋書きを認めているように見える。
◆で考えていたことの中心は太田茶臼山であり、新池の埴輪窯。継体の系譜の上に被葬者が考えられているわけですが(またか、といわれそうです)、しかし三島にあれだけのものができ、基本的に断絶してしまうようなあり方をどう理解したらいいのかなと。おしさかの大仲津媛(字が違いますね)が允恭のキサキになるわけですが、そうならそれで大仙型の前方後円墳が現れてよさそうなもんなんですが、近江のもの含めて、継体の系譜とそこにあらわれる人名の墓を考えるとしたら、どうみるのが整合性があるのか、ということを考えていたのですが、難問です。
◆で27日の水曜日。午前中、ピースに行ってきました。すこし回復したので、まず散らかった部屋を片づけつつ、ヒストリアの仕事にかかろうと思います。それにしても、雑用が多すぎて、処理しきれません。
◆むろん断絶し、継体が擁立されるも、残存勢力がなお前方後円墳を築いたっていいですけど、仁賢陵はボケ山でいいと思っており(丹比郡)、Wっていることは間違いないと思っている。で、隅田八幡の鏡の理解もそれと深くかかわるわけです。そしてこれは2王並立論で解けると。
◆でもまあ高槻市のシンポの記録本を見ていても、文献の人も、はっきりいわないまでも考古の人も、記紀の筋書きを認めているように見える。
◆で考えていたことの中心は太田茶臼山であり、新池の埴輪窯。継体の系譜の上に被葬者が考えられているわけですが(またか、といわれそうです)、しかし三島にあれだけのものができ、基本的に断絶してしまうようなあり方をどう理解したらいいのかなと。おしさかの大仲津媛(字が違いますね)が允恭のキサキになるわけですが、そうならそれで大仙型の前方後円墳が現れてよさそうなもんなんですが、近江のもの含めて、継体の系譜とそこにあらわれる人名の墓を考えるとしたら、どうみるのが整合性があるのか、ということを考えていたのですが、難問です。
◆で27日の水曜日。午前中、ピースに行ってきました。すこし回復したので、まず散らかった部屋を片づけつつ、ヒストリアの仕事にかかろうと思います。それにしても、雑用が多すぎて、処理しきれません。
3日間の岡山
◆土曜日に造山蘇生会というところに招かれ講演をしたのですが、前日に入って夜の懇親会付き。 岡山市から連絡あり、総社で茶臼嶽古墳という前方後方墳を掘っているので早めに来て見に行きませんか、と。それで、金曜日は11時岡山駅待ち合わせで総社に行き、また岡山駅に送ってもらい、ホテルに入る。その前に隣の岡山市博を見学。翌日の土曜日は、話をするのは午後なのですが、午前中適当に遺跡見学ということになっていたのですが、そこは案内いただくのも申し訳ないし、なによりパワポができていないので、1人で会場に行きますからということにする。
◆前日、懇親会でお酒をしっかり呑み、全日空ホテルという、ふつうは泊まらないようなええところに泊まるが、21時にはベッドに倒れてそのまま寝る。4時半頃目が覚め、そこからパワポを造り、朝方には完了。で11時半頃に吉備線備中高松に行くには時間がある。4月の考古学研究会の時、ホテルで鍵を忘れてきたので(そのままにしてました)、電話したらあるというので、タクシーに乗って取りに行き、そのまま後楽園まで行き、30年ぶりに県博に行きました。帰りはバスで岡山駅に行き、吉備線で高松駅に降り立ち、公民館はどこやねん、と人にききつつ辿り着く。前に千足の調査指導で来たところでした。
◆午後、無事に終了し、岡大が造山を測っていたときに3年ほど手伝いに行きましたが、その時にお会いした彫刻家の方も蘇生会のメンバーで懇親会も一緒だったんですが、岡山駅まで送っていただきました。
◆そこからです。実はカミサンと津山に行く計画を立てていたのです。むこうは東京出張から岡山へ。列車は17:10。日曜日は朝8時から15時まで津山を歩き回りました。15:30の高速バスで大阪駅まで帰り着き、2泊3日のぎゅ~と詰まった行事は終了した。ブログのネタが50くらいあるけれど、これを書いているヒマはないので、またいずれ。
◆学問的にも、いくつも大きな収穫がありましたが、これもまたいずれ。次は土曜日の弥生博の準備に入ります。
◆前日、懇親会でお酒をしっかり呑み、全日空ホテルという、ふつうは泊まらないようなええところに泊まるが、21時にはベッドに倒れてそのまま寝る。4時半頃目が覚め、そこからパワポを造り、朝方には完了。で11時半頃に吉備線備中高松に行くには時間がある。4月の考古学研究会の時、ホテルで鍵を忘れてきたので(そのままにしてました)、電話したらあるというので、タクシーに乗って取りに行き、そのまま後楽園まで行き、30年ぶりに県博に行きました。帰りはバスで岡山駅に行き、吉備線で高松駅に降り立ち、公民館はどこやねん、と人にききつつ辿り着く。前に千足の調査指導で来たところでした。
◆午後、無事に終了し、岡大が造山を測っていたときに3年ほど手伝いに行きましたが、その時にお会いした彫刻家の方も蘇生会のメンバーで懇親会も一緒だったんですが、岡山駅まで送っていただきました。
◆そこからです。実はカミサンと津山に行く計画を立てていたのです。むこうは東京出張から岡山へ。列車は17:10。日曜日は朝8時から15時まで津山を歩き回りました。15:30の高速バスで大阪駅まで帰り着き、2泊3日のぎゅ~と詰まった行事は終了した。ブログのネタが50くらいあるけれど、これを書いているヒマはないので、またいずれ。
◆学問的にも、いくつも大きな収穫がありましたが、これもまたいずれ。次は土曜日の弥生博の準備に入ります。
ふじのき
◆10月に生駒で話をしないといけないのですが、竹林寺古墳について調べなあかんな~とは思っているのですが、より広く平群も入れ、土地勘はないが富雄丸山も考えてと・・・。
◆で藤木なんですけど、新泉社のシリーズ本があったのでぱらぱらと。最初は、これが穴穂部とかなんとか言ったところで、ぜんぜん斑鳩地域の歴史になってないやん、ということを書こうとしておりました。被葬者論だけではダメですよね。なぜそこかという必然性にも合致しないと。上宮王家以前の斑鳩はどうなっとんのか、ぜんぜん知らないけれど。まずなにより藤木はいつやねん。560年くらいでもおかしくないとのN先生の大刀の話がありました。MT85くらいでTK43よりは前でもおかしくないだろう。丸山が571没の欽明墓なので、藤木の石室が550年代でも問題ない。
◆で、ぱらぱらやっていると、表の一番上、箭田大兄ちゃうか、と。552没です。+石前皇女?(これはいつまで生存が確認できるか調べないといけません)。
◆まあ、被葬者論だけではあかんと自分で言っているのに、結局それかと笑ってください。でも、こないだ葛城に行きましたが、飯いまの香芝は敏達の所領とか聞いたことがあり、馬見丘陵周辺は敏達系の所領として、長屋王までいきますよね。尼寺廃寺もある。このへんなんかも、もっと明確な歴史像が描けそうなもんである。そして対岸に斑鳩があり、王寺があり、平群がありと、いろんなことを結びつけ構築できるような気もするのですが。シヅミも前から気になっているわけです。市辺の子がなんで美嚢郡の志染に逃げなあかんねん、と。保護するとすれば葛城残存勢力ですよね。北部。そこにシヅミがある。ほんまはしづみちゃうんか、と前から思っているわけです。欽明段階に王権は大きく伸張した。箭田が早くに死んでしまい、のちの敏達がその地位を継ぐが、彦人や茅渟王といった敏達の子らの本拠地が馬見丘陵周辺にあり、それが元は欽明段階に敏達に与えられたと考えられている根拠なのかもしれませんが、それは元は箭田の利権だったっていいと思うわけです。あるいは兄弟で、斑鳩から香芝のあたりを占めていたのかもしれません。そんなんで、藤木の被葬者が箭田である必然性が示せたとは思いませんが、まあ少なくとも、香芝あたりの葛城北部あたりについては、いろいろ古墳はあるけど、まったく歴史的展開の像はピントしていないわけである。
◆で藤木なんですけど、新泉社のシリーズ本があったのでぱらぱらと。最初は、これが穴穂部とかなんとか言ったところで、ぜんぜん斑鳩地域の歴史になってないやん、ということを書こうとしておりました。被葬者論だけではダメですよね。なぜそこかという必然性にも合致しないと。上宮王家以前の斑鳩はどうなっとんのか、ぜんぜん知らないけれど。まずなにより藤木はいつやねん。560年くらいでもおかしくないとのN先生の大刀の話がありました。MT85くらいでTK43よりは前でもおかしくないだろう。丸山が571没の欽明墓なので、藤木の石室が550年代でも問題ない。
◆で、ぱらぱらやっていると、表の一番上、箭田大兄ちゃうか、と。552没です。+石前皇女?(これはいつまで生存が確認できるか調べないといけません)。
◆まあ、被葬者論だけではあかんと自分で言っているのに、結局それかと笑ってください。でも、こないだ葛城に行きましたが、飯いまの香芝は敏達の所領とか聞いたことがあり、馬見丘陵周辺は敏達系の所領として、長屋王までいきますよね。尼寺廃寺もある。このへんなんかも、もっと明確な歴史像が描けそうなもんである。そして対岸に斑鳩があり、王寺があり、平群がありと、いろんなことを結びつけ構築できるような気もするのですが。シヅミも前から気になっているわけです。市辺の子がなんで美嚢郡の志染に逃げなあかんねん、と。保護するとすれば葛城残存勢力ですよね。北部。そこにシヅミがある。ほんまはしづみちゃうんか、と前から思っているわけです。欽明段階に王権は大きく伸張した。箭田が早くに死んでしまい、のちの敏達がその地位を継ぐが、彦人や茅渟王といった敏達の子らの本拠地が馬見丘陵周辺にあり、それが元は欽明段階に敏達に与えられたと考えられている根拠なのかもしれませんが、それは元は箭田の利権だったっていいと思うわけです。あるいは兄弟で、斑鳩から香芝のあたりを占めていたのかもしれません。そんなんで、藤木の被葬者が箭田である必然性が示せたとは思いませんが、まあ少なくとも、香芝あたりの葛城北部あたりについては、いろいろ古墳はあるけど、まったく歴史的展開の像はピントしていないわけである。
和泉市史信太編が刊行されました
◆しばらく前にもらう。(1)黄金塚系譜が5世紀後半に池田谷に移配され(時期と須恵器年代との 擦り合わせがもう少し必要)、谷山池で須恵器生産にあたり、万町北遺跡を残し、7世紀には谷の北岸に移動し池田寺遺跡を営み寺院を造営する池田朝臣だ。(2)根使主は府中域の和泉最大勢力で、丸笠山以来の古墳を残した系譜に連なる人物で、5世紀後半に雄略にやられ、本拠地には茅渟県が置かれ、県主の袋かつぎとされ、池田谷の坂本に追いやられ、6世紀に太田井を掘り、推古朝には中央豪族化して坂本寺を築く。(3)両者は4世紀後葉から5世紀前半にかけて、信太と府中域の隣り合う在地勢力で、根使主事件を経て退転するが、復活を遂げ、7世紀に軽寺式軒丸瓦を共有する関係を維持している。
◆これがストーリーです。観光には関係ありません。遺跡や文献資料を総合的に考えて、地域の歴史の動態を、間違っていてもいいから筋道を作っていくことの、ささやかな試みです。こうしたストーリーが地域住民に遺跡を語る上で不可欠と考えている。もちろん学問的裏付けのある話として。
◆また、研究って面白いなと思う。市史編纂という事業あって急速に進んだという面はあるが。長丁場にわたって、合同調査15年、和泉を調査してきました。古代和泉郡研究会で文献史の人の話をいろいろ聞く機会もありました。坂本寺の瓦を調査し、干上がった谷山池で須恵器も拾いました、そんな営みの蓄積によって、古代史のイメージもかなり明確になり、そこに古墳時代史像を重ね、一定の物語を描くことができるようになる。根使主とは何ぞや、ということについても答を見つけました。紀小弓が淡輪に葬られたという記事は重要ですが、それがニサンザイ古墳の造り出し位置の方墳ではないかというオマケももらいました。研究は、やったらやっただけ進みます。
◆これがストーリーです。観光には関係ありません。遺跡や文献資料を総合的に考えて、地域の歴史の動態を、間違っていてもいいから筋道を作っていくことの、ささやかな試みです。こうしたストーリーが地域住民に遺跡を語る上で不可欠と考えている。もちろん学問的裏付けのある話として。
◆また、研究って面白いなと思う。市史編纂という事業あって急速に進んだという面はあるが。長丁場にわたって、合同調査15年、和泉を調査してきました。古代和泉郡研究会で文献史の人の話をいろいろ聞く機会もありました。坂本寺の瓦を調査し、干上がった谷山池で須恵器も拾いました、そんな営みの蓄積によって、古代史のイメージもかなり明確になり、そこに古墳時代史像を重ね、一定の物語を描くことができるようになる。根使主とは何ぞや、ということについても答を見つけました。紀小弓が淡輪に葬られたという記事は重要ですが、それがニサンザイ古墳の造り出し位置の方墳ではないかというオマケももらいました。研究は、やったらやっただけ進みます。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。