人を幸せにする人になろう

立体式駐車場

◆今度のマンションは、駅前で駐車場は立体だ。立体駐車場ははじめてだ。なんとも無機的。まあしかし考えられたものだ。2列で、地下含めて3層構造、つまり5台が止められる。立体駐車場のしくみを初めて知った。パズルのコマを動かすのと一緒だ。
◆で、31日、はじめて駐車しようとして、またこすっちまった。あまりにも狭い!両側15㎝くらいしかない。感覚的には10㎝しかないように感じる。そこに1回で入れるのは、前のスペースがないこともあって無理。しかし当日はそれ以前の問題。引越で疲れ、緊張感?、あるいは高揚感?、やっぱり寝てないので頭がはたらかんかったのかな。片側ばっかり気になって、反対側がまさかそんな狭いとは思わず、知らんうちにガツンと。
◆あの車、前も後も、角は傷だらけやね。まあ、「車=命」という人間ではまったくないので、しゃーない。バンパーの範囲内なので、交換すればよいが、まあ、このままでも・・・。というのはけっしてウソでなく本心なんですが、でも、ぶつけたら、やっぱりショックなのだ。

松戸

◆松戸で千葉大園芸学部の女子大生が殺害された。当初は成績優秀、将来は教師になりたいといった話、加古川出身でもあり、親類が出てきて憤りの声が収録されていた。だが、上野のキャバ嬢なんだってね。週刊誌は見てないが、そんな話だ。加古川にある県立農業高校(われわれ「ケンノウ」と呼んでいた)の恩師もテレビカメラに応えていたが・・・。
◆まあよい。ここで書きたいのは、なつかしさ、である。1996年、わたし32歳、文化庁勤務を命ぜられ、1年目、松戸の公務員宿舎に1年いた。最寄り駅は松戸駅、通勤に千葉大園芸学部の構内を通っていた。ルートが頭に描けるか、といわれれば無理だが、駅からはそこそこ距離があり、遅れそうになって駅までしょちゅう走っていた。帰りは、タクシー乗り場が人だかり。おれも疲れ果ててた時は、時々利用した。松戸駅の南口に出て、吉野家で牛丼を食って、宿舎にかえっていた。がらんと広い3LDKに1人、さびしい単身赴任だった。
◆JR松戸駅は常磐線、ホームのならびに新京成線も通っている。常磐線と地下鉄千代田線は乗り入れていて、乗り換えなしだったかな。東京にむかうと、すぐに江戸川?、矢切の渡しがある。各停?快速?、たぶん快速かなんかで、北千住から各停になっていた、とか、そんなんだった。
◆松戸暮らし、休日はどうしていたのかな。毎週、京都に帰るわけにもいかなかったし、土日は基本的に出勤しないし・・・。まったく覚えていない。休日を利用して、関東の遺跡や博物館をめぐるということも、まったくしなかった。休日に松戸の町をうろうろした覚えもまったくない。赴任当時、あんまりさみしいので、ミニコンポを買いに行ったことを覚えている。西武百貨店だったような気がする。
◆ひとつ思い出した。関東の黒ボク、畑作地帯だ。土はぱさぱさ。なので、風が吹くと、土埃がすごいのだ。玄関先やベランダがうっすらと畑の土をかぶる。関東や!、と思った記憶がある。これは関西にはないぞ。
◆スペアキーをどっかの裏側に貼り付けておくとか、なんの智恵も働かせなかったので、鍵をわすれて玄関で寝ていたことが数回ある。これ昔の話でなく、数ヶ月前にもあった。夜中に返ってきて、あら鍵がない、ピンポン鳴らしても子どもは起きてこず、玄関で寝ていた。反省しないのである。カミさんが一言。携帯に鍵をつけとけ、と。ナルホド。
◆千葉大園芸学部、けっこういろんなものが植わっていた。殺された同郷の彼女が住んでいて火をつけられたところも、通勤経路におそらく近いところだろう。
◆だらだらすいません。時々、夜中にお腹がすいてラーメンを食べに行った。駅とは反対側の方で、市川方向だったかな。そこで初めてパーコーラーメンというのを食った。パーコーって、あれなんだろう、豚肉?を揚げて細く切ったの?だったか。パーコーラーメン、関西では聞いたことがありませんでした。


普天間はどうなる

◆このところ普天間問題がさわがしい。しかし寺島さんが言うとおりだと思う。普天間を予定通り辺野古にもっていくのか、嘉手納に統合するか、沖縄以外にもっていくか、といった決着をはかるのでなく、もうすこし大きな枠組みで再検討すべきというもの。これからの東アジアの安全保障はどうあるべきか、日米安保にいきつかざるをえないが、日本の国内に外国軍が駐留しているという異常をどう考えるのか、戦後から冷戦下での特殊事態から、そろそろ脱却すべきではないのか、そうした点に立ち返って交渉のテーブルに着くべきだ、という指摘は重い。
◆日米安保は廃止すべきと思っているが、現実的に直ちに廃止することはできないし、廃止を強硬に主張するのではまったくない。安全保障上の同盟国であるという現行の枠組みのなかでの話だ。日米同盟(きらいな言葉)の枠組みにおいても、現実の危機は冷戦下に比べてはるかに後退したのであって、それに見合う整理・縮小をしていくのは当たり前だ、ということだ。沖縄に、あるいは厚木やそこここの在日米軍の現在の規模が果たして必要なのか。民主党は、予算の点検と同じく、ヤンバダムと同じく、凍結し、再検証するという姿勢に立って、アメリカと対峙して欲しい。今までがそうだったから、これからもそうでなければならないということはないのだ。
◆どのような脅威があるのか、どれくらいの危険性があるのか、したがってどれくらいの兵力を配置しておくべきなのか、それは同盟国ならば、アメリカが一方的に決めるのでなく、協議によるべきであろう。
◆協議してまとまったことを反故にすることが責められるのはしかたがないが、しかし、たいした問題ではない。日本が米軍に守られていることも確かだが、アメリカの世界戦略のなかで在日米軍が利用されていることも確かだろう。同盟関係、また実際に基地を提供しているのは日本であって、もちつもたれつなのだ。一方的に責められる問題ではない。
◆おれは相模原に3年住んでいたから、ジェット戦闘機の衝撃波を知っている。厚木基地を離陸した2機の戦闘機は、まっすぐ北上し、公務員宿舎の上空を(そんな高いところでない)、ものすごい衝撃波を轟かせながら通り過ぎる。最初はないごとか、と思った。嘉手納はじめ、沖縄の現実はもっとすごいものだ。
◆ほんとは沖縄は独立すべきと思っている。でも、日本国憲法には、独立する手続きは書いてないわな。想定されていないもんな。沖縄が独立し、米軍基地を返還させ、日米安保にもとづき、代替基地は本州に作ればよいのだ。ものすごい反対運動がおきるだろう。その時、日本政府は、いかに沖縄県を犠牲にしてきたかを初めて知ることになるのだ。

ごぶさたです

◆長らくブログとは遠ざかっていた。なにかと余裕なく。ひとつは引越。これはなんとか10月31日にを完了した。金曜の朝から36時間ねていない。そう、徹夜で荷物をまとめていた。新居は快適。前の家からは数100m移動しただけだが。もうひうつは、なにかと不義理が重なっており、その後始末。この回復に時間を要した。全部はまだフォローできていないが、少し解消したので、やや落ち着きを取り戻した。
◆『ヒストリア』第217号が刊行された。ほっと一息。『遺跡学研究』の原稿もなんとか出したが、読み返してみると、推敲ができておらず、硬直した文章で恥ずかしい限り。だが、時間的には校正はないのかも。真っ青だ。
◆卒論中間発表会を終え、考古は今年3人だが、石棺をやっている1人に発表を頼んだ。誰を立てるか最後まで決まらず、迷惑をかけたが、無事、立派に発表したと思う。イイ線いっていると思うが、もうすこし詰める必要がある。
◆玉1、すべてインデザインで入稿になり、見積もりは、やっぱりというか、予想以上に安かった。誰かさんの考察原稿が届き、誰かさんの図も届き、やっとこさ、原稿がそろってきた。一方で、インデザイン入稿の準備を、いちおう着々と進めている。不備な箇所を詰めていき、ひとつひとつツブシていく。未着原稿が届き、最後の最後は、やっぱり自分の原稿が残るのだろう。墳丘の復元、調査成果のまとめ、渋谷向山(これはどこまで書けるかわからんが)。12月24日刊行をめざしていたが、その頃に完全入稿となるかも。ただし、インデザインで編集しているので、入稿とは校正は済んだ完全原稿であり、念校1回、あとは印刷。1月刊行が現実的か。
◆昨日は、卒論中間報告のあと、課程博の準備報告1本もあった。彼女は「小さな巨人」。卒論でいきなり頭角を現し、修士課程の間に学術誌に論文を出し、DC、そして最短に近く課程博論文を出そうというもの。すでにPD採択も決まっている。昨日の発表もさすがだった。摩湯山の測量に手伝いに来てもらったのが学部2回だったか、3回だったか。若い者の成長の恐ろしさを知る。そこまでの成長を遂げられるのだ。昨日、報告を聞いていて、つくづく感じた。「小さな巨人」、根性がある。うちの近世は、次世代も優秀で、彼女が長女、次女はまた天才なのだ。あっけらかんと、なんの苦もなく学び取っていく恐ろしいまでの吸収力。次女の修論は、博士論文一歩手前といった、すごいものだった。
◆久しぶりなので、だらだら書いてます。自転車通勤をしていたんですが、このところは、寒かったこともあってサボっている。おおむねルートは確定した。やっぱり長尾街道を行ってます。1時間ペダルをこいでいると、到着したときは、汗がじわり、で足がだるい。週に3日往復すると筋肉痛・・・。これを続けて、筋肉痛がおこらなくなるまで、脚の筋力を鍛えることができればとは思うが。
◆科研、出しました。どうせ当たらんのだろうが。夏に発掘しないし、入念に構想をはぐくみ、練った申請書を書き上げてゲットだ、と思っていたが、やっぱり直前のバタバタだった。
◆近藤先生が4月に亡くなられていた。半年伏せていたようだ。朝日の記事しかみていないが、半年前だからというのもあろう、あんまり大きな取り上げ方ではなかった。それも先生らしいか。かなり弱っておられたので、来る日が来ていたのだ、という感慨。先生の学恩に応えるには、前方後円墳の研究に精進することだと思っている。
◆明日から研究室旅行。横浜・小田原だ。現地集合、明日は、どこに何時集合なんだろうか。
◆子どもの学校に頼まれて、前方後円墳の話と、宮川先生がやっておられるような、運動場に前方後円墳の割り付けをする実演、を引き受けてしまった。が、なんの経験もないし、時間がない。研究室旅行からかえって、水・木・金、3日の勝負やね。

やっと台場がおわった

◆11月24日土曜日、同志社へ出張しなければならないが、このままでは引越ができそうに98df5757.jpgないので、申し訳ないがパスすることにした。
◆今週、ヒストリアの仕上げで終わった。先週の〓曜日、〓をすっぽかして(いや、やむをえなかったのです・・・、いちおう断ってから出た)、〓に行き必要書類を整えたのち、兵庫県まで行ったものだから、西宮台場と堺台場へ足をのばした。
◆堺台場はすごいわ。それからまた、台場のある大浜公園が大観光地として、阪堺電車も通っていて、にぎわっていたということを知った。いまも公園で、野球場とかテニスコートとか、そういう利用がなされていることは仕方がない。いまや15ea40f5.jpg近畿の一大観光地から、地元民の公園に転じ、その機能をはたしているから。でも、そこに、台場なんですよという顕彰、明治以降、大観光地だったんですよという顕彰、もうちょっとその部分がアピールされてもいいのではないかと思った次第。
◆それと台場、堺市は国史跡にすべきやね。現状変更がややこしくなるから、既に公園で保存の心配はないから、というのでなく、これって、品川台場に匹敵するモノとして、その価値に即して指定すべきや、と思う。発掘もすべきや。よく残っている土塁はともかく、削られたところを調査し、なにか植栽とか園路などで、台場の輪郭を表示すべきや。11c0f3f3.jpg
◆ついでに兵庫県〓市の学芸員から電話があり、「堺奉行所の文書がまとまって出てきて、堺市博でもっているものより古い絵図もある。〓市として文化財指定しようかとも考えているが、どれくらいの価値付けがあるのか、堺奉行所関係文書の全体像がわからんから問い合わせたけど、ナシのつぶてや。詳しい人おらんか?」との問い合わせ。うちの近世の人間に聞いたら、堺奉行所って研究が遅れているらしい。なんでやの?
【追記】12月06日に記事になりました。あと、うちの近世史の先生と大学院生がかなり興味を示しています。
◆このへんは、どこともそうなんだろうけど、考古屋と文献屋のバランスや連携が悪いんだろうな。堺の町の調査はやっている、一方で文献史としても、日本を代表する自治都市として、研究所を置いてもいいくらいの研究テーマであろう。そこは部署としては博物館なんだろうけど、そんなことはどうでもよい。個人を非難したいのではない。堺市として中世堺、それと連続する近世堺、これはほかにはない、かつ全国区の遺跡であり日本史の研究課題であって、それに堺市がどうとりくむかという問題だ。なんか弱いと聞くと(その見方が妥当かどうかは知らん)、悲しいのだ。

台場つづき

◆台場関係の写真など、出版物を転載しても提供を受けても、掲載許可の事務手続きもある。手続きさえすればb1df5ab5.jpg使えるんだからそうしてもいいのだが、いまは仮にどっかから取ってきたものを当ててはいるが、オレの趣味としては、自分で写真を撮りたい。なによりも現地を見たいと思う。淡路由良の高崎台場、岩屋の松帆台場、舞子、和田岬、西宮、堺、岬町谷川、こんだけ、見て回りたい。いつ行こうか。
◆堺台場はいい。よく残っている。大阪府埋蔵文化財保護協会?が発掘もしているらしいが、報告書は見ていない。明治12年という早い時期に大浜公園ができたため、土塁がかなり残っている(公園になった関係での改変もあるとはいえ)。これ未指定のようなのだ。これ国史跡だろう。堺だったら近いし、すぐに行ける。大阪市大に赴任して、最初、上野芝に住んだとき、カミさんにつきあってもらって、堺で買い物をした。そのとき、いま思えば大浜公園にもっとも近づいた時だった。ジャスコかヨーカドーか、なにかあって、そこへ行った。海辺に海浜公園がある、となぜか印象づけられた。あそこに台場があったのだ。

台場特集号

◆毎度毎度、ヒストリアの特集で、疲弊する。なんでこんなに一所懸命やってるんだろう。馬鹿みたい。論文1本書くくらいの労力は十分にかかっている。前号に続いて、特集のイントロダクションの文章を書いている。全体のボリュームがかさばって迷惑をかけているのでコンパクトを心がけたが、切り縮める気力がないし、思い切ってバッサリやるにはもったいない。何を書いているかというと、現地見学検討会の記録、18世紀後葉からの外国船来航と海防政策のおおよその流れ、プチャーチンの天保山来航以後の大坂湾岸の防備、そして文久期以降の摂海防禦が重要視されていくまでを概観する文章。
◆もうひとつは、これを機会に大坂湾岸の台場をまとめようと企画委員のメンバーで分担して、10数カ所の短い紹介記事。冒頭に分布図と一覧表を付ける。原稿は委員のメンバーが分担したが、地図や図面や写真やらは、全部、オレがやっている。分布図も・・・。こういうのが疲弊する。やりだすと面白くて仕方がないのだが、疲弊する。ああそれと、全体の原稿の調整。なるだけ各人の原稿を活かしてとは思うが、全体として短くするためもあって、けっこう手を入れる。かつ、小見出しをつけて解説をつけるのだが、遺構そのものを記述する項目立てがなく(本日、気がついた)、「構造」という小見出しを新設し、なにも書いてないヤツは、調べて書き足している。委員はみな文献史の大学院生で、経緯のところは一所懸命書いているが、台場の構造物についてはあまり触れていない。
◆まあ、調整しても、各人各様、徹底して統一的な記述にすることはあきらめよう。ああ、掲載許可の事務手続きもやらなあかんな~。たいへんや。もう一息のところまでは来た。

国分西1丁目に引っ越し

◆10月31日に引っ越します。手付けを打っていた物件が9月末で空いたので、部屋を見に行った。面積は少し広くなるくらいだが、1996年築、そうこれ、おれの京都のマンションと一緒なんだ・・・。なので、いまの古いヤツと違って、設備はよい。いまのところはLDKというにはおこがましい、真ん中のスペースが狭い、風呂が狭い、断熱材がほとんど入っていないのか、夏は暑く、冬は寒い。電力容量も少なく、時折、電気が落ちる。それに比べると、なによりLDKらしい広さがあり、相模原の大きなテーブルも置けるし、風呂も追い炊きができる。家賃はちょっと上乗せだが、まあまあ。引っ越し一時金をどうやってまかなうか、それが問題だが、なんとかなろう。

自転車通勤

◆重要な会議があったのに、結果的にすっぽかしてしまった。ああ・・・ああ・・・どうしよう。取り返しがつかない。
◆ぽっかり空虚になったが、思い立って、かねてよりの念願の自転車を買いに行く。イーオンのコマーシャルに惹かれたというのもある。29800円のあの自転車はとても魅力的なのだが、引っ越しをかかえている現在、散財はできない。大阪は平坦だし変速はいらないだろうと、14800円のヤツを買った。これが火曜日(9/6)のこと。翌日、さっそくと思いきや、台風が接近し雨。やめとけというカミさんの制止を振り切り、小雨の中、自転車をこぎ出す。途中、雨もすこし強くなり、またなんということか、初日からパンクだ!。パンク修理もあり、1時間25分を要した。しかし、その日の帰りは、さすがに大雨で自転車で帰ることは断念した。
◆翌日、昨日のことだ(9/7)、22:00に大学を出て、大和川の土手を東にむかう。松原インターくらいまで順調だったが、そこから津堂城山を通ってやや南下するつもりが、東除川沿いに行くと、なにかおかしい。月を見ると、進行方向(東)でなく左手にあった。どんどん実は南下していて、ちょっと西に戻り気味だったかもしれない。とにかく近鉄にぶつかり、そこが恵我ノ荘駅、あれれ・・・藤井寺インターをめざしていたのに、かなり西だ。気を取り直し家に向かう、1時間10分くらいを要した。
◆夜、地図をチェック、翌日(9/7)の朝の戦略を練る。いちばん直線的で効率のいい道をさがした。一応、案はできあがった。でも疲れていてプリントする気力がない。だいたい頭に入れて、本日、出発。允恭陵の所から大津道に入る。旧道はよい。旧家があり寺があり、府道沿いでは目立たない田畑がまだまだある。島泉丸山を南に見て、西へ。結局、大津道沿いに近いのだろうが、ところどころ切れているのだ、とくに松原に入ると。大津道は古代の名前か・・・、近世の何街道だっけ。これもきちんと調べて、これをずっと行くということもやってみよう。
◆大和川も東西一直線でなく、北に張り出したり、南へ曲がったり。今日の帰りは大和川沿いを帰った。橋のところの大きな道が横切るところは信号はあるが、あとは基本的にない。東半分では自転車道として整備され車の心配もない。だけど、距離がかならずしも最短でないため、スムーズに帰ったつもりだが1時間5分かかった。
◆だんだん慣れてくるだろう。いまは時々迷いながらだから。でも逆に、2日だけだが、お尻が痛く、また脚もすこしだが筋肉痛となり、初日の行きのように張り切って飛ばすことができない。いずれ1時間程度に落ち着いてくるだろう。そうなると、電車、自動車と変わりはない(もっとも自動車は帰りは早い、だいたい40分くらい)。いい運動だ。
◆自転車って、これ奈文研でサッカーやったときに、滝村さんから勧められたのもきっかけだな・・・。いつまで続くかわからない。だんだん寒くなってくるとツラクもなるだろうが、まず1箇月くらいはやってみよう。

下降線

◆いろんなことから逃げて不義理を重ね、それも一時的でなく長期になり、細かいことモロモロの仕事も果たせず、かなり精神的にきつくなってきて、下降線をたどっていると感じる。10月1日から生活が変わり、カミさんがいる生活。9.5年間の別居のあとだ、慣れるのに少し時間がかかる。弁当は入れてくれるし、洗濯もしてくれるし、言うことはないのだが、自由気ままな生活ではなくなる。いままでがあまりにも好き勝手だったということだろうが、ペースが狂うのだ。で、不眠症気味で、夜、寝られず、今週はずっと睡眠不足で頭がだるい。そして火曜日の重要な会議をすっぽかしってしまった。いくつかのことが重なったが言い訳はできない。
◆これを離脱するには、動くこと、仕事を片付けることだ。というわけで『ヒストリア』特集号の原稿に没頭している。しかしこれもひとつの逃げで、バランスを考えれば、いろんな手を打っておくべき事を片付けてからやるべきなのだが、逃避している。
◆なにも手につかないよりはいいのだが・・・。ようやく原稿はできた。だけど企画委員で取り組んだ、台場跡の紹介記事の全体調整をしている。もうすこしだ。これを脱稿したら、すこしだけだが精神的に楽になるかな。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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