人を幸せにする人になろう

太田茶臼山古墳

◆月曜日はクタクタだが大歴の委員会があり、そのほかもあり、火曜日、3つ授業があって、もうヘロヘロ。講義はひとつで、継体朝の話をしており、5限の博物館実習後、休みがてら本を読んでいました。継体朝について、なかなか最先端の理解ができているかといわれればそうでもないと思うのですが、なんといっても河内政権からの権力委譲がどのようであったか、記紀の王統断絶による継体擁立という筋書きを認めるかどうかが、ひとつの分かれ目。そこは仁賢陵=ボケ山と思っていますが、峯ヶ塚、あるいは白髪山含め、末期の前方後円墳があるなかで基本的には継体は並行して擁立されている、というのが考古学の見方の基本と思っています。
◆むろん断絶し、継体が擁立されるも、残存勢力がなお前方後円墳を築いたっていいですけど、仁賢陵はボケ山でいいと思っており(丹比郡)、Wっていることは間違いないと思っている。で、隅田八幡の鏡の理解もそれと深くかかわるわけです。そしてこれは2王並立論で解けると。
◆でもまあ高槻市のシンポの記録本を見ていても、文献の人も、はっきりいわないまでも考古の人も、記紀の筋書きを認めているように見える。
◆で考えていたことの中心は太田茶臼山であり、新池の埴輪窯。継体の系譜の上に被葬者が考えられているわけですが(またか、といわれそうです)、しかし三島にあれだけのものができ、基本的に断絶してしまうようなあり方をどう理解したらいいのかなと。おしさかの大仲津媛(字が違いますね)が允恭のキサキになるわけですが、そうならそれで大仙型の前方後円墳が現れてよさそうなもんなんですが、近江のもの含めて、継体の系譜とそこにあらわれる人名の墓を考えるとしたら、どうみるのが整合性があるのか、ということを考えていたのですが、難問です。
◆で27日の水曜日。午前中、ピースに行ってきました。すこし回復したので、まず散らかった部屋を片づけつつ、ヒストリアの仕事にかかろうと思います。それにしても、雑用が多すぎて、処理しきれません。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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