忍者ブログ

人を幸せにする人になろう

2018年5月27日、東高野街道現地見学検討会

◆9:30に恩智駅。10:00スタート。教興寺、以前に訪れたことがあるが、古代寺院だったんですね。 郡川、高安郡衙がどこかにあるんでしょう。高麗寺(郡川廃寺)、信貴線を越えて八尾市レキミンへ。展示を見て昼飯。
◆13時から検討会。東大阪市、八尾市、柏原市の古代寺院の報告、その瓦の報告、文献史から見た東高野街道の話、少し討論。
◆まず東高野街道という名前がよくないですね。高野山への参詣が定着して以降の話で、本題のこの官道の設置時期はもっとさかのぼるわけで、文献に名前が出てこないとすれば、学術的な名称を付けた方がいいように思う。古代生駒西麓道、とか。設置時期は7世紀前半とみられる。
◆討論の最後で、少し発言しようかと手を挙げかけたが、終了と相成った。7世紀後半に古代寺院ができていく。それはこの地にも条里地割が施工され、評界が決められ、 1条・2条と南から条里大区画の通し番号が降られ、それを基準に五十戸の行政界も設定される。おそらく五十戸を単位として寺院が建立されていくのだろう。7世紀前半の官道設置と7世紀前半の古代寺院は国家政策的なものであるのに対し、7世紀後半の寺院造営は地域ごとに行われていく。河内 の瓦が広がっていくことがそれを示す。
◆『条里制・古代都市研究』に出した図の元図を出しておきます。そのベースには、大学院演習で河内の郷復元をやったときの資料があった。河内平野の内部はなかなかしんどそうだが、生駒西麓については、ひとまず五十戸界を描けるように思うが(実証的とはいかないが)、やらんといけませんね。たぶん高安郡では意見の違いがあって、事例として出せなかったので、東大阪あたりでやったのだと思う。それに寺跡を書き込んでおきました。
PR

ちとわかりにくいですが

◆先週来、研究させよと、やることをさぼり、石室をいじってきました。尺度論を確定させなけれ ばと。いまのところ、岩屋山式でも小谷は高麗尺(叡福寺がわかればいいんですけど)、文殊院西も高麗尺(玄室天井が岩屋山より低くなっているのがスムーズでない)、で岩屋山が唐尺、西宮も唐尺、というのが結論です。艸墓は高麗尺かな・・・(岩屋山亜式と一括できないように思う)。
◆メッシュをかけると見にくくなる。青が高麗尺、緑が唐尺です(ちなみに赤は南朝尺でやっています)。
◆舒明期の632年に遣唐使が戻り、唐尺への正式転換が始まるとする。624年には登場してくる安倍倉橋麻呂墓の文殊院西は高麗尺、628年に倭国王となった舒明が自分の墓である岩屋山を本格的に作り始め、それは唐尺。639年に始まる百済大寺の柱間寸法は、わかる僧房で唐尺。641年に始まる山田寺金堂も唐尺、だいたいこんなんでいいのでは、と。
◆それとレーザーの陰影図は、とくに平面の場合、点群データを取り扱う時に、一定の高さで切る。岩屋山の場合、切る位置が高いので、玄室平面が本来の基部よりも小さくなっている。人間の手測りでは、平面はジベタで測るわけですが。その辺は、業者にできるだけ下で、あるいは例えば羨道に土が入って同じ高さだと土になってしまう場合も、高さを変えてでも、できるだけ基部に近い平面図になるよう、頼まないといけない。そうか、途中で切っての見上げでなく、地べたを切り抜いて見上げ図を作れば、そのフレームが平面図になる!。

巨勢山の石槨

◆石槨もやってみました。
◆奥行7尺、幅3尺、高さ3尺というのか2.5尺というのか。

2018年5月26日、近鉄文化サロン阿倍野

◆お勤め。今朝、鉢伏山のパワポを上本町で組み込み、天王寺に向かう。調子悪く、あっという間 に時間が経過し、尻切れトンボ。でもまあ、言いたいことの中心部はしゃべれたか。
◆巨勢山の分析を加えようとしたができなかった。帰ってきてからやっている。これ9尋とはいかないので、そうすえると7尋になる。石槨奥壁を中心とすると背面までは3.5尋(歩)でちょうどよいが、折り返すと現開口部に食い込む。これはしんどいのか、ありうるのか。左右も3.5尋ずつの7尋とすると、やや太い縦線部に来る。これはこれで可能性があるかもしれません。墳丘の左右はどこまでトレンチが入っているのか、確認しないといけません。

こうじ

◆昨日、ミネルバ書房の究(きわめる)をパラパラ。そこにあった記事です。

岸和田に博物館はなぜない

◆高石市5.6万人、文化財専門職は3人必要。博物館・資料館なし。泉大津市7.5万人、文化財専門職は4人必要。市立織編館には行ったことがないが、歴史系ではない。和泉市18.5万人、文化財専門職は9人必要。和泉市のいずみの国歴史館。小さい、だがある。
岸和田市19.1万人、文化財専門職は10人必要ですね。岸和田市立郷土資料館が復元天守にあるという。前からこの名前でしたっけ。さびしいお城の展示だった記憶があるが、考古資料も常設展示とある。ふ~ん、もいちど行く必要がある。でも限定的なものでしょう。
◆貝塚市8.7万人、文化財専門職は4人必要。貝塚市歴史展示館というのがあるが(前から行ってみたいのだがまだ)、元ユニチカ株式会社旧貝塚工場事務所で、基本は繊維産業のもの。泉佐野市10万人、文化財専門職は5人必要。歴史館いずみさの(大阪文化財センターが指定管理者!)。未確認だが、Hさんは泉佐野市をやめたのかな。泉南市6.1万人、文化財専門職は3人必要。海会寺の横の埋文センターに展示室がある。
◆柏原市6.9万人、文化財専門職は3.5人必要。柏原市立歴史資料館がある。春・秋に企画展をやっている。これ立派ですね。

久しぶりに岸和田

◆会議に出かける。いくつか発言。国指定名勝の景石劣化の把握の測量について、活用計画におけ る岸和田城との一体的方法(展示)、岸和田城かいわいについて、これまでも観光+公園サイドと一緒にやってきたという、活用にむけての体制のところで、これからどういう体制で進めるのがいいのか、と。
◆さて、旧道を通った。そのなかで、高石市に入り、道路の東側に要塞が出現する。これか・・・。っ前から和泉市史で地図をいじっていると、この海浜砂丘の沿岸沿い高台が高石市の中心なわけだが、地図に四角い、たとえば一見すると城郭か?と思われるような堀で囲まれた方形館があるのを認識していた。お寺なんかな~、と思っていた。グーグルで確かめればすぐわかるんでしょうが、やってこなかったわけです。ほんみち、本部・・・。

ウィキ ほんみちは、1913年に大西愛治郎によって創始された、大阪府高石市に本部を置く新宗教。天理教からの分派。信徒数は約31万8千人。

◆だそうです。それと王子川河口部を通る。ここか!。砂丘の内側は後背湿地、そこに川が流れ込み、高石市の海から入った大阪湾に沿う平野は低湿地。そこへ信太山丘陵中の惣ケ池から流れ込む王子川もまた流れ込み、かつてどこを通って海に流れていたのだろう。推測は北。しかしいまは王寺川は、この高石の条里に沿って一直線に人為的に南(西南)に流れ、それが西に折れ、砂丘を切って大阪湾にそそぐ。確か等高線をなぞり続けて、これ本来は北行きだよな~、と。この辺は不確かながら、現王子川の人工的なあり方から、低湿地を解消するために人工的に流れを変え、新たに南で海へ抜く工事をやったのだろうと考えてきた(『和泉市史テーマ編』でとこまで書いたかは不明)。大園遺跡の出現とも無関係ではない。大園の台地を横切る水路は結局は低湿地に流れ込み、その先の水の処理とも一帯であろうから。5世紀後葉着手、6世紀に本格的にやられたか。むろん条里地割に沿った整備は7世紀後半だろうが。
◆ということで、これが王子川か、と感慨深く通過した。

ちょっと笑ってしまった

◆おわかりかと思いますが、韓流ドラマ、広開土太王を見続けています。ついに400年、高句 麗軍5 万で、新羅の金城を囲む倭軍をたたき、そのまま金官国に進撃したという時点に到達しました。
◆倭の将軍がいかにもという描かれ方をするのは仕方ない。まず慶州が出てきませんでした。それと伽耶も描かれなかった。慶州付近のあたりで倭は敗れ、船で逃げ帰ったことになっている。しかも、高句麗王は軍をふたつに分け、一方を倭に行かせ、自分はソウルを占拠しそのあと倭に向かったとする。日本列島に高句麗軍が侵攻したというストーリー。そして、倭国王は認めない。解説で、その頃の倭は200くらいの小国に分立していたとする。いちおう、倭のトップが出てくるのだが、「首長」という表現にしてある。百済王アシン、新羅王奈勿はいても、倭王はいないわけだ。
◆笑えるのは、倭の本拠地らしい遠景描写で、むこうに富士山らしいものを置いていること。このシーンがまず出てきた。そしてその次に、高句麗王が倭に入っていくところ、倭の本拠に近世城郭(姫路城?)が建っている(画像)。これ、いちばん笑えました。解説の最後には、半島を西から南に回り、百済まで進撃し、そのあと、島根県あたりにのびる矢印が図示されていた。
◆太王四神紀のフィクションとは異なり、基本は史実を踏まえた作りにはなっているが、日本にかかわるところはそうはいかないことも理解できる。

2018年5月20日、佐用(3)

◆最後、佐用の町を歩いてもいいのだが、西播磨天文台に行く。現在は兵庫県立大学の研究機関に なっているらしい。
◆この日の3か所をドットしておく。

2018年5月20日、佐用(2)

◆そこから三日月に。高校生の時に「三日月藩」という言葉は聞いた。地 理歴史考古学部の先輩に 城好きが多く、大名や城の話が飛び交っていた。あとはあれ、黒田官兵衛の大河でやっていたかすかな記憶。
◆三日月藩森家の陣屋「城下町」なわけです。乃井野陣屋というそうだが、明治以降、建物はほかに転用されたりして更地になっていたが、発掘調査をして御殿の表門にあたる物見櫓を復元し、内部は展示ゾーンとする。そのあと、南に下って家臣の屋敷地あとなどを歩くが、表門というのが新たに復元されていた。陣屋に至るメイン道路の門で、現在も道路であるため、発掘調査をふまえ、やや東にずらした位置に建設されている。国史跡ではないようであるが、地元で少しずつ、かつての陣屋「城下町」の歴史を顕在化させようと頑張っている。
◆ルピナス?というのを植えて、ちょっと有名になっているようで(その数日後に夕刊で取り上げられていました)、その写真も撮る。

プラグイン

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
8 9 10 11 12 13 14
15 17 18 19 20 21
23 24 25 26 27 28
29 30

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索