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人を幸せにする人になろう

2018年6月10日、考古見学会 生駒西麓

◆9:30学研都市線東寝屋川駅(すこし遅刻)、寝屋川市資料館、石宝殿古墳、高宮廃寺、忍ケ丘古墳、四条畷市資料館、大東市資料館、堂山1号墳、石切神社(法通寺見れず)、参道商店街、枚岡神社、河内寺跡、東大阪市博物館、埋文センター、心合寺山資料館、愛宕塚。
◆1人を河内花園まで送り、次に大和路線志紀駅まで送り、河内国分18:30戻り、でした。いまは余裕なく、行程のみ。
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国土地理院の・・・

◆教えてもらいました。わかりやすいですね。
◆サイトで地図一覧のところ、その左上の情報のところ、起伏を表した図→そのなかに赤色立体図 とともにある、傾斜量図というもの。これ等高線図だが、その粗密(したがって濃淡)で傾斜がわかるというものだろう。右側の機能で3Dにもなる。おそらく全域の空中レーザー測量ができあがっていて、それにより赤色立体図も、この等高線図もできあがっているのだろう。なお、陵墓はぼやかしてあるようだ。

2018年6月9日、土曜日

◆なかなか仕事がはかどりません。が、少しずつ少しずつ・・・。
◆第3の系列について、2013年の6月に歴博共同研究でちょっといじっています。ここにほぼアウトラインはできあがっているわけですが。築山がポイントですね。どのように葛城地域などの細めのものが派生したか、というところについて。

7世紀前半の古代道路

◆昨日、テジョンが狭山池博の紀要に掲載された論文の発表をした(図)。2011年の論文。TK43とか TK209ともみられる道路遺構がかなりわかっていることに驚く(長尾街道沿いのもの含めて10か所)。西除川の東と西にあるようだ。足利先生が推定していたラインでの検出事例を含む。
◆自分のファイルを見直してみると、足利説に学びながら、同じような道路復元をしていました。大阪府の条里というフォルダもあり、河内から作業をして止まっているが、大いにやる気になっていたようです。前も書いたかもしれませんが、こういうの、大阪府教委が狭山池博に委託事業で作成してもらうとか、そういうのをやってくれればいいのですけど 。

奈良は田植えのシーズンです

◆3月、宮崎に行くと田植え。5月はじめ、富山に行った時、車窓から見える滋賀県で田植え。奈良 はちょうど田植えでした。
◆法隆寺。1500円だが、修学旅行生はじめ、観光客は多い。金堂。金網でした。なんとなく昔ながら観があり、また鳥の飼育室みたいで・・・。ガラス張りでは反射するし、やむをえないのかな~、と。とはいえ、ほんとは何もないのがいいのでしょう。が、そうもいかないのでしょうか。違和感を感じた。宝物館。塑像の仏像がとてもきれいでした。常陸の国の調布というのが気になった。長さは?。現中宮寺に行ったのは小学校の時以来。父親が連れて行ってくれたのを記憶する。その時は、天寿国繍帳はホンモノでした。説明を聞いて、そこそこ感激したので、記憶に残っている。いまは奈良博に寄託。40年前という。辻褄は合っている。
◆法輪寺。昭和19年に、避雷針を軍に供出して落雷で焼失。そうでなければ世界遺産になってましたね。旧塔はいつ頃のものだったんでしょう。いや、法隆寺が670年に焼失後に建て替えられたものであるのに対し、法輪寺や法起寺は瓦から7世紀の中ごろにはあったとして、塔が創建以来のものとすれば、こっちがいちばん古いのか、とも。実際には7世紀末とかいわれているようだし、法起寺は706年とわかっているようで、法隆寺の塔がいつ建立されたのか知らないが、まあとんとん、なんでしょうか。
◆史跡中宮寺の史跡整備ができあがってきていて見学。なんでも間人の居宅のようなものは下層では見つからなかったとか。

ついでに長地型

◆奈良盆地の長地型。それとこんだけ見えれば、水路調査も十分できます。和泉市でやってた時、 もっと粗い画像で見てたわけです。

グーグルアースはすごい

◆講演会の時に、その地域の鳥瞰画像をよく使ってきた。が、やり方が甘かった。もっといい画像 がえられることが判明。昨日は、あちこちの画像を眺めて楽しんだ。ふたつだけだしておこう。

筋違え道

◆太子道の研究もどこまですすんでいるんでしょうね。北の横大路という言葉も聞くようになっ た。こないだ、赤土山古墳から降りてきた時に通った道、ワニ下神社前の道、これがず~っと一直線で西にのびる。島の山古墳にも行ったが、その横を筋違え道が北上しているんですね。それと川。屈曲したと考えられる道にしたがって付け替えられたんでしょうね。異常な直線で、それが古道と考えられるラインと重なるわけです。竜田道からくる古道も、実際にはどこを通ったかは不明ながら、条里と無関係にあった旧道(新しい現代斜め道路はだめ)との取りつきはどうなっているんでしょうね。またそこに古代寺院も欲しいところではあるが、そんなうまくはいきません。が、山背へ抜ける奈良盆地北部をめざす古い道路は当然あっただろう。それっぽい斜め道もある。
◆今回、法隆寺の宝物館を訪ねたが、1991年にその事前調査に行った。その時、平城から通った道ですね、大和郡山から斑鳩へ行く道。そこに郡山新木山古墳もある。

斑鳩地域の地割

◆今日も出た地割のはなし。井上さんは106m地割が確実でないと言ったのかな。がまあ、特定地域 に50歩スクエアの地割があっておかしくないわけだ。なので、昔の論文を読んで、その方位に乗る痕跡を、ほんとは追跡せなあかん。それと、なんでこの振れなのか。そうか、筋違え道を設定することで、それを基準にしたわけですね。
◆地割をなぞってみました。そうか、奈良盆地条里復元の図をみりゃいい話だ。

藤ノ木と斑鳩

◆藤ノ木は、いったいいつの古墳なんでしょうか。6世紀後半というほかない?。中頃でもなく、末 でもなく、といったところでしょうか。O大N先生は大刀のなかでいちばん新しいのが560年といったのだったか。えらい古いやん、と思った。が、大刀の製作年代はそのころで、埋葬時期が560年代や570年代というのでおかしくはない(でも早めであるべきでしょうか)。W先生の石棺ではどうなるんだろうか。とはいえ、平坦面の議論も、年代を決めているのは須恵器だろうから、循環論法か。独立して石棺から年代が絞り込めるわけでもない(平坦面指数37。6世紀後半の半ば過ぎくらいにしてます。37は牧野と同じです)。
◆箭田の話はやめときましょう、前にも書いたの。でも、道上氏の研究は重要ですね。5世紀以来、6世紀前半までの居館に対し、6世紀後半以降の居館が新たに現れてくるという話。在地勢力はむろんいるわけだが、新興勢力の「配置」のようなものが行われておかしくないわけだ。それは欽明期の頃なので、535年以降に始まっていく。斑鳩が膳氏の本拠地というのは、どういう根拠があるんでしょうか。重要地域を欽明の王権が押さえていく、そのひとつに斑鳩があってよいと思う。奈良盆地の南北中央部で河内と行き来するに適した地。奈良盆地のどまんなかは河川合流地帯で不安定、だが水上交通上とても重要。そのなかで東の天理でもいいが、大阪寄りの斑鳩は本拠地にふさわしい。
◆奈良盆地の大きさは、南北30キロ、東西15キロです。メモリは5キロ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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