人を幸せにする人になろう

司馬遼太郎を読んだことはまったくないが

◆戦後の人物を取り上げるNHKの番組、気がついたら録画しているのですが、本チャンでも見た司馬遼太郎の回を見直しました。当人のインタビュー回顧の発言など、ほぼ共感できる。ただし、番組で上田正昭も指摘したように、日露戦争までの明るい明治、間違った昭和という理解はペケ。坂の上の雲に東学農民一揆のことがどう描かれているかは知らないが、江華島以来の侵略主義にふれず、力をあわせて日露戦争に勝ったことはよかったことだという捉え方は、ぜんぜんだめ。が、松山にある坂の上の雲ミュージアムが映像で流れたが、説明した館長は(古代史M氏)、最後が大事だという展示の末尾は「あとがき」のことで、司馬の上記したような捉え方の話。残り続ける小説、そしてこのミュージアム、ず~と問題ある影響力が残っていくことになる。
◆それとノモンハン事件を取材しつつ、ついに小説にできなかったことが取り上げられているが、無謀な戦略に反対していた唯一の隊長に取材をし、その人もいままで取り上げられることのなかった言いたいことが言えたと司馬を歓迎するも、文藝春秋で瀬島龍三と対談している記事を見て、裏切られたと、自分のインタビューに基づいた記述の削除と不使用を求めた、というのは有名な話らしいが、面白かった。そりゃそうでしょうね。参謀本部中枢のヤツとにこやかに、そして同意したりする受け答えを見れば。しょせん、もの書きは体制派。勝ち取った影響力を、誤ったと理解している昭和の問題に切り込み、そこを断罪することに用いることはなかった、というべきか。いい人だったがペケ、ということだろう。
◆で、共同通信社の瀬島の文庫本を取りだしてきて少し読む。関東軍時代にノモンハンで失敗した服部・辻が、責任を問われることなく開戦前に陸軍参謀本部の作戦課長およびその配下という中枢の位置を占め、南方に進出すれば対米戦争を招くという反対論などおかまいなく、対米開戦につながると危惧する南進を進め、そうなったこと。兵士を使い捨てのように、自分のあほな戦略のコマとして投入し、あかんかったかと。多くの兵士を死なせた張本人は、ごく一部の戦争屋ともいえるし、それも含めて徹底した議論を避け、黙認した参謀本部全体だということが、よくわかる。+この2人とも生き残り、戦犯として裁かれることもなく、戦後、なお暗躍したり、国会議員になり、地元に銅像まで建てられるなど、無反省日本の象徴のような人物ですね。

えびの地下式横穴の現説資料

◆大阪でも小さいが新聞記事になったもの。前々から、情報はいろいろもらっていました。現地説明会の資料、PDFで見れるのはありがたい。とても便利になりましたね。

http://www.city.ebino.lg.jp/display.php?cont=150120095059

市民とともにつくる博物館

◆レポートを読み終えた。とても面白かった。なんとかハートは伝わり、自分なりに考えて、本やネットで調べもしながら、思い思いのことが書いてあり、博物館の人に見てもらえばヒントになるようなことも書いてある。全コピーをして、協力してもらっている大阪市の博物館協会に届けるのもよいかと思った。紙でなくファイルでもらうようにすれば、ネットに載せることも容易ですね。
◆読んでいる側もいろんなことを考えたが、いくつか。例えばある企画展をやったとしよう。どれだけ面白かったか、こういう工夫もしてほしいなど、満足度にかかわる意見募集をすると。家帰ってからネットでファイル送付でよい。一般的な書き込みアンケートもあってよいが、そうでなく。意見を寄せてもらった人全員に常設無料券をお礼として返信するとともに、もっとも館としてためになる意見を選び、記念品と1年間(期間は自由)フリーパスを渡す。同じく企画展を通して、そのテーマにかかわる研究論文を募集し、学術的にも十分なものについては優秀賞とし、紀要に掲載する。初めて訪れた人を対象として、印象をやはり募集する。撮影フリーを前提に、館内風景や展示物の写真コンテスト。中学生・高校生による展示。小学生の連れてこられた見学でなく、中学生・高校生くらいが、展示物から学んだこと、それを同世代に伝えることを目的とする。難しいことでなく、基礎的なことが伝わっているか、ということにもかかわる。学童保育の場としての開放。100円カフェ。子供の人気が高い科学館で、火とか、石を割るとか、土器の発明とか、鉄とか、まさに科学なわけで、考古、歴史、自然史、いろんな分野の初歩的な展示も散りばめられるのでは。ミュージアムへの入り口として、科学博物館と連携する。
◆学生の書いてきたことは、列挙しているときりがないのでやめる。整理しておきたいところではある。自分でアイデアを考えるということを通じて、タメになったと書いてくれているのはうれしい。まあネットでちょこちょこ拾って構成した安直なものも混じっているに違いないが、それを詮索しているヒマはない。多くは、授業をふまえつつ、一定の調べをしつつ、自分で考えて書いてくれていることは伝わった。たぶん、教養の考古学の授業より、意識ある集団が集まっているのだと思う。いろんなところで市民参画が進んでいる事例を知ることもできたし。1人、考古学志望の1回生がいることも把握できた。
◆さて修論にむかおう。

トヨタ

◆円安もあり至上最高益を更新。でも本社でも、いったいどんな割合の非正規雇用者がいるのだろうか。かなりの割合だろう。社長初め正規職員のボーナスはすごいんでしょう、ウハウハなんでしょう。一方で、下請けの部品会社には、単価を下げろという要求を引っ込めたくらいなんだって。なんの恩恵もないという。これぞピケティですやん。資本の論理。やねだんなら、その収益を分配するだろう。いやそのまえに、身にあった程度しか仕事を広げないだろう。いくら利益があっても、限られた人間の収入増しか図らず、やれ将来への施設建設やら、取っておく分がいるだの、いまはそうでもと、利益は自分ら以外には分配しない論理。政府はしかし法人税を下げるという。
◆別の話だが、経済学者って何してるんですかね。なんで『21世紀の資本』が書けないんでしょうか。たぶん、政府みたいな経済発展路線の研究と、不公平・格差拡張、それに対する対応策みたいな研究をする人と、きれ~に分かれるんでしょうね。そして後者は日の目を見ない。で、前者のようなものを志向する者が増えているんでしょう。
◆そう思うと、国債が暴落して日本経済がめちゃくちゃになるのもいいのではないかと思ってしまう。それでも、変わりなく列島各地に人は住み続け、米を作り食って生きていく。そんなんがあっても影響を受けない社会は、別にどおってことなく続いていくだろう(農業県は強かろう)。戦争よりはよほどましである。インフラもなくなるわけでなく、人材もなくなるわけでない。敦賀市など、原子力の補助金に頼っているところは、たちどころに廃墟になればいい。しかし、そこでも人はたくましく生き続けるだろう。身にあった形で。
◆さて博物館概論のレポートを読もう。

葛西臨海水族園はどうなった

◆魚がどんどん死ぬと。背骨が折れていると、こわ~い話。これの原因究明はどうなってるんですかね。まだわからんのでしょうか。わかったが、理由が公表できないのでしょうか。

東海道中膝栗毛

◆こないだの2月1日に始めてハルカスに行った。カミサンが本屋に行きたいというので。オレは歴史のコーナーを見て、そこそこはあるな~、と。昼飯を食べ、外を見ると、かなり晴れてきてよく見えるので、展望台に行こうと12階だかのレストラン階から16階に行くも、当日券は2階の売り場でと書いてある。あほかいな。直通と百貨店からの経路を分けないといけないのはそうだろうが、なんで16階に券売機を置いてないねん。もうわんさか並ぶ時期は済んでるやろ。整理せなあかんくらい人が押し寄せてないやろ。で、まあ腹立ってやめた。
◆それと、旧の百貨店、それと新しい方でも2棟あり、経路がぐちゃぐちゃ。カミサン曰く「大阪名物わかりにくい」と。もうひとつ、それでええねん、人に聞くという文化で補われているから、と。東京の人はあんまり見ず知らずの人に声をかけることはないらしいし、声をかけられたらぎょっとするんだろう。ところが大阪は、おっさんおばはんが、ちょっとにーちゃん、ここいくのどういったらエエン?と、なんのセーブもなく尋ねる文化がある。まあ、それでええんちゃう、と。そういうことにしときましょう。地下鉄を含めた鉄道の乗り換えがすっきりでなくとも。
◆本題。で学生用の専門書を買い込んでましたが、こないだ亀山宿など東海道を歩いたもんだから、子供用アレンジじゃなくホンモノをというので、岩波文庫の東海道中膝栗毛2巻をついでに買って、いま読んでいるんだそうです。お下劣なのは、まあまあ、として、昨日言うには、桑名まで来たが、江戸時代の宿場町の豊かさがよくわかると。いろんな職種があって雇用があり、場所場所に名産品があってと。そういう感想をもらしておりました。

やねだん

◆堺市のあなごの話の新聞記事を見た。で、報道ステーションで鹿児島の「やねだん」が取り上げられていて、感動。いつものように23時前に家に帰ってきて、同じ頃に帰ってくるカミさんと、めしを食いながら、報道ステーション→ニュース23をだいたい0時くらいまで見るのが、ほぼ平日の日課(金曜日は探偵ナイトスクープに移行する)。
◆ちらちら見ている状態で、あまりちゃんとは見ていなかったが、それでも、各地の自治体職員が集まってきて2泊3日で研修を受け、代表が熱く語り、終了時に自ら帰って実践する決意を表明している姿を覚えている。自主財源、補助金に頼らない、博物館実習でも補助金に頼らないという話を紹介したが、いもを作り、とうがらしを作り、と、これが地域社会というものだというのを実感する。リーダーも必要なんだろうが、300人の集落として、力をあわせるということ。どんどん人が減って、ムラが存立しなくなり、消滅していくのを待つ、それでもいいというのもありではあるが、ここで生きていくとなれば束になって取り組む、これいろんな組織に言えるのでは。
◆自分のところの組織を考えても、なんとか教室は、誰それと誰それが仲が悪いとか、何やってんねん、と。カミサンの大学でなく、知り合いのどこそこ大学のどこそこ学科も、嫌われているらしいが、内部がね~、と。博物館概論でも、少ない学芸員、事務職、少ない事業費、そこで力を発揮するには、みなが共通の使命感をもって力をあわす以外にない、と語っている。なのに、なのに、某博物館では、やめざるをえない人間関係、何やってんねん。某博物館の学芸員とのやりとりでも、大きな博物館で20人くらい学芸員がいるのかな、みな個人営業だと。個人が店を開いている、と。何やってんねん。

ぴーす関係

◆以下のもの、PDFをもらい、OCRで読んで文字を起こし、書き直し始めたのはいつだったか。9月か、10月か。学会としては、ただちに修正案を出す、という対応が必要だったのだと思うが、できなかったのは反省点。自分で直し始めたが、正確に書くには時間を要し、途中で挫折。文字起こしまでして、専門の近現代史の人に投げるというのが、正当な手続きだったであろう。いまは一定の修正が進んでいると期待はしているが、自存自衛のためにやむをえず太平洋戦争に突入した、みたいな書き方は、なかなか直らないのかも知れません。ナレーションの問題点は新聞記事にも出ていたかもしれませんが、実際どういう文案になっているのか、あまり表になっていないと思うので、掲げておきます。

■8月27日公表のナレーション案
○日本は明治維新以降、欧米列強や清の脅威に対抗し独立を維持するため、近代国民国家の建設を目指した。
○日本は、ロシアの脅威に対抗するため、朝鮮半島を重要視し、朝鮮の北部国境までを防衛すべき地域と位置付けた。朝鮮の宗主国・清からの独立を巡って日清戦争が勃発した。日本は勝利し、賠償金と台湾、遼東半島を得るが、ロシア等の干渉により、遼東半島を清に返還した。
○満州、さらに朝鮮へと勢力を及ぼすロシアに対し撤兵を求める交渉と並行して日英同盟を結び、開戦に備えた。日本は日露戦争に勝利し、朝鮮からロシアの影響力を取り去り、ロシア支配下にあった遼東半島と南満州鉄道の経営権を清から新たに租借するが、賠償金は獲得できず、国内で不満が高まった。独自に満州経営を始めた日本に対し、アメリカ・イギリスは不信感を抱いた。
○日本の朝鮮統治に対する抵抗運動が広がる中、支配を確立するため、日本は朝鮮を植民地化した。
○第一次世界大戦において日本は日英同盟に基づき連合国の一員として参戦し、ドイツ支配下の青島を占領した時点で「21か条の要求」を行った。その結果、中国では反日運動が高まり、欧米列強は日本の強固な中国進出を警戒し始めた。他方、日本は連合国の勝利に貢献した。
○シベリア出兵では、ソ連共産主義の脅威から満州を防衛するため独自に兵を留めたことから、特にアメリカの批判が高まった。
○日本は国際連盟常任理事国となり、ワシントン会議で確認された国際協調の新たな秩序 (四か国条約・海軍軍縮条約・九か国条約)を守ろうとした。
○新たな国際秩序を背景に、中国では排外運動が高まる中、列国からの国権回復と国内統一を目指す蒋介石政権による北伐が始まった。北伐軍が南京の日本公使館を襲撃した(1927年南京事件)のを契機に、日本は以後、特に満州権益が危機に陥った際には自軍により守る方針を打ち出した。北伐軍は山東半島で日本軍と衝突した(済南事件)。一方、満州軍閥・張作霖が日本との対立を強めたため、現地の日本軍(関東軍)の一部の軍人により爆殺された。
○世界大恐慌の波に日本も飲み込まれた。イギリス・フランスはブロック経済政策、アメリカはニューディール政策で対応した。ヒトラー、ムッソリーニが独裁体制を築いた。経済安定の上に機能した国際協調は足元から崩れ出した。
○ロンドン軍縮条約の締結に対し、一部の軍人や国粋主義者は天皇の権限侵害として政府への不満を高めた。政党政治は行き詰まり、軍部が力を持ち始めた。
○国民政府が中国の統一を進める中で、日本の満州権益が危機に陥った。関東軍は満州事変を起こして満州全土を占領し、多くの国民は軍の行動を支持した。中国の提訴を受けた国際連盟は清朝最後の皇帝を元首に関東軍が建国した「満州国」を承認せず、日本は連盟を脱退した。
○二・二六事件を契機に軍部主導の総動員体制が整えられるようになった。
○日本軍の華北進出により、排日・抗日運動は中国全土に波及した。盧溝橋で日中両軍が衝突した。中国軍は日本の軍人・居留民を殺害し(遠州事件)、戦火は上海に広がり、宣戦布告なしの全面的な日中戦争が始まった。日本軍が占領した首都南京では、捕虜のほか女性や子どもを含む多数の住民が殺害された(1937年南京事件) 。臨時首都重慶では空爆により多数の住民が犠牲となった。
○中国の半分近くが日本軍の占領下に置かれ、その門戸は閉ざされたままであった。アメリカ・イギリス等は中国を支援する一方、日本には経済的な締付けをしようとした。ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、フランス・オランダはドイツに敗れた。日本は、日中戦争早期終結のため、アメリカ・イギリス等の中国援助を断ち切るべくインドシナ北部に侵攻した。さらに、ドイツ・イタリアと三国同盟を締結してアメリカ・イギリス等を抑え、ソ連と中立条約を結んで北方の脅威を除いた上で、インドシナ南部に進軍し、東南アジア一帯の資源を確保できる態勢をとった。アメリカは対日石油輸出を禁止し、インドシナ・中国からの撤退を要求した。日米交渉は決裂し、日本は「自存自衛のため」、武力による資源確保の道を求めて開戦を決意した。
○日本軍は、オランダ領インドネシアの石油を求め、まずイギリス領マレー半島に上陸すると同時に、ハワイのアメリカ海軍基地を奇襲した。ここに日中戦争とヨーロッパの戦争とがつながり、全世界的な戦いとなった。日本は大東亜共栄圏を唱え、半年で東南アジアのほとんどを占領した。しかし、厳しい資源の取立てや住民の徴用等のため、後に抗日運動も行われた。
○日本軍はミッドウェー海戦で惨敗し、ガダルカナルから撤退した。制海圏・制空圏の喪失は以後の戦局の悪化を招き、国内では物資が不足するようになった。文科系大学生は徴兵され(学徒出陣)、兵役についていない男性は徴用され、中学生や苦い女性は勤労動員された。朝鮮・中国からも動員された。
○サイパン島で日本軍は全滅し、テニアン・グアム島もアメリカ軍に占領され、戦略爆撃機 B29の基地が造られた。総力戦の下、戦意を喪失させ早期終結を図る意図も加わり、アメリカ軍は無差別都市空爆を開始した。東京、大阪など主要都市のほとんどが焼け野原となった。この頃、装備の質・量ともに劣勢となった日本軍は、特別攻撃隊によりアメリカ軍に抵抗を図った。
○硫黄島、沖縄本島が占領され、多くの軍人・民間人が悲惨な最後を遂げた。この戦闘でアメリカ軍は初めて予想を遥かに上回る損耗を強いられたため、大きな犠牲を伴う本土上陸作戦を取り止めた。
○アメリカは日本を早期降伏に誘導する戦略に切り替え、原爆を投下した。政府が終戦の斡旋を期待したソ連は、日本との中立条約を破って対日参戦し、満州や朝鮮、南樺太、千島に侵攻した。
○政府はポツダム宣言受諾を決定し、昭和天皇は降伏を国民に伝えた。

◆まあ、それにしても、近現代史のやつらは、もうちょっと動いてくれないもんだろうか。

ヒストリア2月号も離脱し

◆前にも書いたかも知れませんが・・・。まあ、こんな調子です。『ヒストリア』は20日刊行、校了は10日、めんどうをみている企画関係の原稿は、だいたい月が変わってから入稿し、10日までに終わらせる。今回で言えば、裏表紙、陵墓(6頁)、ぴーす(5頁)、昨日入れ、今日校正をPDFでもらい、1回直して返し、念校が来て終わり。という調子です。陵墓ですが、西小山古墳を落とした図にさしかえました。Hさんありがとうございました。即、入りました。
◆通常の学会誌では考えられないことでしょうが、そこはもうそういうもんだと諦めさせている。企画委員がやっているいろんな社会的活動について、基本的に分担している院生とかに、できるだけタイムリーに、つまりあるイベントに参加したら、こういう集まりだったということを『ヒストリア』誌に短くとも出すことが有意義と考えれば、できるだけ直後の最新号に記事を書いてもらうようにしている。会誌の内容のバリエーション。そういう実績と、印刷所とのこれまでの関係のなかで、委員会的にも許してもらっているわけだ。陵墓だってそう、12月の見学会は2月号、2月の立入りは4月号、7月の陵墓懇談会は8月号(守れないときもある)、と決めてやっている。どこよりも早いですよ。へたすりゃ1年以上経過してから出ることも他ではある。むろん年6号出していることの、そこは強みもある。
◆いま事務局は関学の1年目で、2年交替で次は市大。なので、たぶん事務局長になるだろう。この時点で、12年間やってきた企画委員長も交代ということになる。が、後任がね~。それと、事務局長が終わった時、どうなるか。一度、足を洗ってもいいかとは思うのだが、3年先に考えるとしよう。ほんとは編集委員で残りたいんですけどね。

かと思えば京大コウコケン

◆R大学W氏から、同窓会をHQ氏がやりたいと言っている、という話はこないだから聞いていた。で電話がかかってきて、来週、打ち合わせがあるのだという。修論試問の前でアチァーと思いつつ、「行きます!」と快く返事した(あかん歯医者の予約を変更せな)。HQ氏は1960年入学で都出先生と同期、市大では長山さんが同期になる。で、当時の宇治の教養キャンパスで、考古学研究会は産声を上げたわけである。4期下の昭和39年1964年入学が亡くなった鎌田元一氏である。
◆HQ氏、そして1983年に入学した時、OBで世話を焼いてくれていたのがT大学のI氏。甲陽学院閥みたいなもんがあり、高井悌三郎先生門下で、兵庫県下の寺院の発掘調査にサークルで参加することが多くなる。自分が入ったときは、もう終わっていて(前年が加西市の繁昌廃寺)、三ツ塚廃寺の窯跡の現状調査には行ったが発掘はなかった。われわれの時代は、1974年度からだったかに始まった、岩倉の窯跡の分布調査の時代であった。1回生の時に、皆越2号窯だったかを見つけ、脇のお宅の方から声がかかり、山道で切られた崖面に露出する灰原から採集されていた多量の須恵器片がどっさりやってきて、いまT大学のK氏が岩倉須恵器の編年案をその年の『トレンチ』第35号にまとめる。われわれが主力となる2回生(サークルは専門に上がる前の2回生まで)の時は、もう資料は十分で、現地測量を始めた。いまから考えれば国有地を含めて勝手にやってました・・・。『トレンチ』第36号はそれが中心。それでもって、前にも書いたかもしれないが、遺物を採集してきたOBら張本人は、われわれに『嵯峨野の古墳時代』に続く正式報告書を出せと。えらそうに・・・。まあ、それをやったわけですね。奈文研に入った年まで刊行はずれ込みましたが。
◆あかん、思い出話を書いている余裕はないはず。そんなんで、HQ氏を知っているくらいの範囲の中で(その下限がオレということか)、OB会をやることになりそうですね。

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HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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