人を幸せにする人になろう

1989雪野山

◆M2の夏、滋賀県竜王町の雪野寺跡の研究室発掘のあと、京都へ戻ると、NBK埋文センター長のt氏から電話が入り、雪野山6380e101.jpg8d5309af.jpg古墳へ。大阪大学があとを引き受けることになり、そのまま参加。
◆この時は、あんまり自分で写真を撮ってる余裕はなかった。

同じ年、若狭で古い5世紀の横穴式石室墳を掘った

◆鬼神谷を終了し、若狭向山古墳の発掘に梯子。ちょうど、主体部が床近くまで掘り進んだaa13e545.jpgところに合流し、そのまま石室の調査をやった。
◆短甲2領、鏡2、金製垂飾付耳飾などを掘った。だが未報告、これは責任がある。そのときの記念写真。

1988但馬・鬼神谷窯跡

◆M1の夏、竹野町の95d3cc4a.jpgTK23の地方窯を掘った。そのときの写真。

もうひとつ、いま宮内庁のa君

◆奈文研にいたとき、所内科研とやらがあり、応募して10万円ほどもらい(もっとすくなかったかな)、姫路市壇場山古墳の測量を一部やった。トータルステーションでの測量の実験的試み。d7e19e8d.jpg
◆この時、奈文研にアルバイトに来ていた、橘のnさんとnさんにお願いし、別に、立命のy君にお願いして、2~3人ほど人を出してくれないかと頼み、やってきたのがa君だった。
◆わたし、すっかり忘れていて、宮内庁に行ったa君に言われるまで気づかなかった。ごめんなさい。姫路市内の宿でのワンカット。
【書類出てきました。諸謝金5万円、旅費3万円、でした。】

土曜日に京都で

◆奈文研人会があるのですが、その案内よりも早く、京大考古学研究室にいらした藤澤さんの会35efceb5.jpgがあり、なんにもしてないが世話人のため、京都にいく。
◆で、映写する機会があるかどうかわからないが、わたしが在籍していた時の写真を配列したパワポを作成した。昨日の晩と、今日の午後でだいたいできた。こんなことにまた一所懸命になっている。で家のアルバムを見て、適当に抜いてスキャンをしたが、途中、いろいろと思い出深い写真があったのでついでに。
◆文化庁時代に尾瀬に行ったときの写真、。小林さんがいるので、たぶん1997。

倭名抄の耕地面積

◆山城国、田8961町、大和国、田1万7905町、河内国、田1万1338町、和泉国、田4569町、摂津国、田1万2578町、計5万5351町。
◆伊勢国、田1万8130町、尾張国、田6820町、三河国、田6820町、美濃国、田1万4823町、計4万6593町。
◆備前国、田1万3185町、備中国、田1万0227町、備後国、田9301町、計3万2713町。
◆筑前国、田1万8500町
◆筑後国、田1万2800町
◆肥前国、田1万3900町
◆肥後国、田1万3500町
◆むろん、倭王権成立後の畿内の開発の進展度合いは考えなければならない。が、そこそこ第1次生産としては、2世紀においてもあったに違いない。で第Ⅴ様式土器圏を形成する。東海もけっこうなものである。尾張は意外に少なく、伊勢・美濃が大きい。吉備は、上東式の範囲は知らないけれどのちの備前・備中・備後すべてとして、そこそこはある。
◆で北部九州だ。それぞれすごいわな。筑前一国で大和国をやや越える。農耕をいち早く始めた筑前地域の開発は相当に進んでいたに違いない。そして、筑後も、肥前も、肥後も、1万町を越える。問題は2世紀段階における地域圏である。土器様式からすると、筑前は筑前だろう。筑後と肥前はどうなんだろう。吉野ヶ里が弥生後期まで存続していることからすると、生産力はトータルでは大きいが、大きな地域圏を形成していたといえるのだろうか。いずれあわせても2万6700町だ。肥後はまた別文化圏だろう。
◆むろん第1次産業が地域の力のすべてではないだろう。だが、現在のサービス産業が発達した時代ではない、第1次生産が地域力のベースであるには違いない。畿内圏は、やっぱりけっこうなものだったと思うのだが。そして、その鉄需要は大きい。安定的に鉄を手に入れることは重要であり、それをコントロールし、他地域とわたりあう権力が生まれたとすると、そこそこのもんだったんではないか。

402年しか定点がないというが

◆奈勿王第3子の未斯欣が倭国に人質として送られたのは、『三国史記』新羅本紀および列伝では実聖王元年402、『三国遺事』では奈勿王36年391?390?、だそうだ。
◆で、『日本書紀』神功即位前紀というのだろうか、そこに、上に対応する人質が送られた記事がある。この人物、のちに倭をだまして新羅に帰還し、また没年も記されている。まあしかし、402年が正しいとみられているらしい。坂本義種を読まなければならない。
◆で、『日本書紀』と『三国史記』にともに記録されたことであることは重要だろう。だが、それをもって、神功紀を5世紀初頭以降にあてることは妥当なのか。普通は、正確に伝わっていなかったこの人質の記事を、神功による新羅侵攻にひっかけて採録した、と考えられているんだろうと思う。
◆百済関係記事の方が多く、そっちもそっちで共通性が確認できるんだろう。神功紀は4世紀後半として配列されていることは、普通は事実とみなされているに違いない。
◆詳しいことはわからんが、未斯欣の記事のみをもって、『日本書紀』神功紀なんてもっと後のことだよ、なんて、普通は困難なのではないか。少なくとも、百済関係記事はいかように説明できるのか表明される必要があろうし、402年でもって全体に下げて、これこれ整合的に説明できる、ということが述べられねばなるまい。これはたいへんなことなのではなかろうか。

応神陵と仁徳陵

◆『延喜式』で、応神陵の兆域が5町×5町で、古市古墳群のなかで誉田御廟山古墳にあてられていることは確かであろう。まったく同じく、仁徳陵の兆域が8町×8町で、百舌鳥古墳群のなかで大仙古墳にあてられていることは確かであろう。『日本書紀』編纂段階には、そうなっていた、そこまでは確かだろう。築造されてから250年は経っているが、歴代の王名に附属して、いわゆる帝記的記載事項は伝えられていったと思っているので、基本的には、実在が怪しまれている人物とか、安康など古墳かどうかわからんようなものを除いて、一定の信用を置いている。尊重すべきであると。
◆だが、白石さんも、百舌鳥・古市のなかでの調整で、割り振り直しができないという。つまり、百舌鳥か古市かについても必ずしも確かとは言えない、と。もっとも、倭国王墓は常に同時代最大規模墳か、という考え方にたってのことで、反正は反正陵みたいなもんでもイイ、ということになれば別だが。
◆いずれにしても、自分は、誉田御廟山が反正墓で、大仙は允恭墓という意見を表明してしまっており、『日本書紀』や『延喜式』の記述との関係をどう説明するのか、考える必要はある。仮に、王墓が正しく伝わらず、7世紀段階で比定作業をしなければならなかったとみるにせよ、そのときに、そうでないという立場に立つわたしが、御廟山を応神墓にあて、大仙を仁徳墓にあてることになった合理的な説明ができるかといわれると難しい。また、当時にあって、わからなくなっていたとしても、幕末のことではないし、まだ伝承や記憶やあるいは記録などもあったかもしれず、ある程度妥当な考証がなされたはずだ、とみるのも妥当だろうと思う。
◆まあ平行線だが。ただし、倭国最大の前方後円墳と第2位の前方後円墳を、どの王にあてるかという時には、一定の作為が働くことはないとはいえないような気がする。河内政権の王権簒奪は自明であって、7世紀の王統としても、崇神や垂仁というのではなく、直接的にはホムダワケを始祖とするといった意識などがあり、ホムダワケそしてオオササギの墓を、もっとも重視するといった配慮である。

考古学研究に投稿した

◆あたためてきた論文、ようやっと書き上げて投稿した。批判しているにもかかわらず、新納さん、小澤さんに、そ2996b7ec.jpgれぞれ目を通していただいた。多謝。書いていて虚しいかも、と思ったのは、白石さんの岩屋山式の年代、新納さんの年代を引き上げるべしとの論も、極端で、多くの人はそうじゃないと実は思っていて、自分はそれをなぞっているだけなのかな、ということだ。だが、御大の見解にストレートに反論する人間もいないと、進歩はないだろう。
◆白石先生の羨道幅の指数は、実に重要な視角であると気づく。玄室を割り付け、それに対して羨道をどのくらいの幅に取るかという問題は設計にかかわることで、石材や積み方など、技術上の問題に制約されるものではないからだ。そして畿内型石室の出発点の片袖では羨道幅が狭く、岩屋山式などは袖部の幅は狭く羨道幅を増していくという変化の方向にあることも確実である。1枚図を追加で用意したものをアップしておく。これ、けっこう味わい深い図だと思うのだが。

だから

◆倭人伝に書かれた邪馬台国の所在地問題は既に決着しているのである。いまの日本考古学の課題は、倭国乱をへて、なぜに畿内に王権が生まれるのかというところに焦点が絞られてきている。弥生時代後期の畿内社会の評価が低いからだ。
◆王墓の未発達と鉄器の不在、これは攻められても仕方がない。だが、楯築と石塚はそんなに時期は変わらないのではないだろうか。2世紀後半。鉄器は、いまにざくざく出てくると思っているが、それはまあ、そんなことを言ってもしゃーないわな。だが、弥生時代後期の河内や大和が福岡平野ほど発掘が進んでいないことは確かだと思っている。
◆そして神武東征である。これは突かれると弱い。もともと弥生後期の畿内社会が倭王権の母体となっているなら、なぜに東征という構図を作らなければならないのか、と。王を神の子として正当化する必要があるから、天孫降臨は理解できる。それがなぜに日向で、そっから、カムヤマトイワレヒコは瀬戸内海を通って畿内に行き、一旦撃退されて、熊野にまわって北上する、そういう構図にしなければならないのか、という問題だ。
◆考古学でもまじめに議論されている、倭王権明治新政府論は成立するのか。倭王権の樹立は、なしがしか西方社会から、つまり九州勢力の東遷といった伝統的な考え方、考古学の人間に強い東部瀬戸内勢力の東遷、こうした考え方は根強い。倭王権成立前後での畿内社会のギャップが埋まらない、そして神武東征の構図がそれに結びつき、隠然たる見方を形成しているわけである。
◆金官伽耶は、扶余族の南下で成立したと申先生はおっしゃるし、百済も扶余族が建国したものとみられている。中国支配地に近く早く王権を生みだしていた民族の支配者層が、戦争などで追われ、未開地に流れていき、外から来て王となるといったことが考えられており、そういったことがないとは言えないだろう。百済建国以前の馬韓の状態は知らないが、少なくとも1・2世紀の畿内は、ひとつにまとまり、銅鐸を作って周辺地域に働きかける主体に成長しており、関東とは違う。そういうところに外来者が乗り込んでくるといった想定は可能なのか。
◆まあ、平行線ですな。深入りしても益はない。こっちはこっちで、1世紀2世紀の畿内社会を明らかにすることで、光を見いだしていくことだ。ただまあ、神武東征はネックである。【追記:塚口先生は神武東征とホムダワケのヤマト入りが近似した構図であり、日向出発で、河内日下が舞台になったのは、5世紀前半における日向から皇妃が出て日下宮家があった時期に作られたとみている】


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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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