人を幸せにする人になろう

いい図を作ることは生き甲斐

◆イラストレーターをさわりだして1年半か2年、抜群の師匠のおかげで、わたしの図面作成能力もあがった。むかし、『玉手山古墳群の研究』 で前方後円墳の復元図などを出すとき、日常的にロットリングを使うことがなくなっており、復元線の太い線をマジックインキで引いていた。下垣いわく「岸本 マジック!」。いやはや。
◆で、最近よく思うのだ。いい図を作るのはもちろん自分の主張を理解して貰うために必要なのだが、自分のでなくとも、研究は進んでいるんだれどもよくわかる図がないので理解して貰いにくいような成果を示す、一般にもわかりやすいものを出していくこと、その図とともに研究の現状を紹介することが、けっこうオレに向いているのではないか、と。
◆人の論文を読んだとき、こういう図を作ればいいのにと思うことがある。最近では、学生にさかんに、今日の発表を図示せよと支持する。釜山大の論文集では4~5世紀の日韓関係を図示したが、そうした割りに大きな枠組みを一覧できるような図は案外なく、結局は自分で作るしかない。で、こういう図作りは、単にきれいな図を作るというだけでない意味もあるように思う。1)論文を咀嚼しなければならず自分の勉強になる、2)その論文の理解のみならず、より広い知識や枠組みを考えることになる、結局自分の研究の基礎となり、総合力となり、また発展の基礎となる、3)自分のみならず、学界にとって、研究を進展させる上でも、ひとつの図面がみなに共有されることで共通理解を作りだすことになり、さらなる進展の基礎となる、4)一般の人々に理解して貰うために不可欠、といった意義があるように思う。
◆先端的研究のみならず、成果をわかりやすく一般市民に伝える努力をするのも研究者の役割で、1人が両方やるにせよ分業するにせよ必要で大事だと思うが、こうした作業は、結局は自分にとってプラスになると思うのだ。

久しぶりに韓国に行きます

◆例の歴博の共同研究の研究会として韓国に10月末に行く。久しぶりだ。毎年行きたいのだが、ほっといても行かない。で、共同行動が終了後、科研でつなぎ、11月3日に帰国する。
◆歴博は新石器時代の遺跡の発掘現場だそうで、これに博物館との組み合わせ。春川泊なのがうれしい。新石器時代の遺跡はパスして、チュンサンの家に行こうか。冬のソナタからずいぶんたったが、少し調べてロケ地をまわろう。マジです。
◆個人行動は、まずソウルで中央博、公州で武寧王陵、これ前に在外研修で行ったとき、博物館が修理中で、確かレプリカは見たが、モノのホンモノは見ていないのだ。それからはずっと釜山大学。とはいえ、土日は金海と福泉洞などを尋ね、月・火は釜山大学の博物館で机を借りて、お勉強の予定。目的は、釜山大論文集で4世紀を纏めたとき、むこうの陶質土器編年は申先生のものを使ったが、こうした時期区分についてむこうの土器を見てわかるようになること、それと大成洞王墓の変遷を頭に入れるためだ。むこうの論文で(当然、日本語です)書かれた結論をなぞっても頭に入らない。自分で土器を並べるくらいのことをやらないとダメ。そうはいかないが、イラストレーターで、大成洞王墓の遺構図と陶質土器を配列した図を作りたいと思っている。

カミさんはプラハに

◆学会でプラハに行った。「いやだ、行きたくない」といいながら出て行った。まあ発表せなあかんけど、ええやんか、と思うが。多いときは2~3度ほど海外に出かけてゆく。
◆海外の航空宇宙関連の学会(たぶん)にもいろいろあるのだろうが、この学会は、毎年この時期で、あちこち有名どころで開催され、学者の物見遊山を兼ねているらしい。一緒に行こうとさそわれたが・・・。
◆まあしかし、1年に一度、海外旅行をカミさんとするのもよいかも。そもそも一緒に海外旅行などしたことはない。で、来年はケープタウンで、その次がナポリ、ナポリには行く、と返事はしてある。金を貯めなあかん。ケープタウンもよいな~と思う。来年から行ってみようか。ただ、大学は夏休みだから行けなくないのだが、昨年来、日本史研究室の合宿調査がこの時期で、今年も28~30日に行くのだが、完全に重なる。
◆プラハと聞いても、それどこ?という感じである。チェコだそうな。カレル橋というのがある。広瀬隆の『カレル橋の1ユーロ』という小説があるのを読んだことがある。まったく覚えちゃいない。
ヴルタヴァ川(モルダウ)に架かる橋。ヨーロッパに現存する最古の石橋。神聖ローマ皇帝カール4世の治世下1357年に建設が始まり1400年に完成した。1841年までプラハ旧市街とその周囲をつなぐ唯一の橋であった。また、西欧と東欧の交易ルートとしてプラハが重要な地位を占めるようになった。最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていたが1870年よりカレル橋と呼ばれるようになった。橋の長さは516mで幅は10m。16連のアーチから構成されている。また橋を守るために3つの塔が建てられておりとくに旧市街側の塔はゴシック様式の建築として名高い。橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいる。その多くはバロック様式である。カトリックの聖人ヤン・ネポムツキー像の基部にあるネポムツキーのレリーフに触れると幸運が訪れるといわれ多くの人に触られたためつるつるになっている。【ウィキ】
◆モルダウ、って有名な曲ですよね。出てこないが好きだ。これ川の名前なのですね。

横穴式石室の論文を書きました

◆今日といっても昨日だが、横穴式石室の論文を書き上げました。サイゼリヤで読み返してみるとアラが多いので、手を入れなければならないが。いい論文だとは思う。だが、達成感がない。
◆そう、こんなことをやっている場合ではないにもかかわらず、何かから逃げのために書いている感じなのだ。そもそも明確な目標があったわけではない。新納さんの論文に対するコメントを書こう、と思ったのがきっかけだが、最初は自分のメモとして、ようよう考古学研究に投稿しようと気になってきたが、腰が据わらんままダラダラ。ここんところで、アレとアレをせなあかんのにということを避け、横穴式石室について書くことで仕事をした気になるようにし、最後はこれが終わったら、たまっている雑事を片づけようと、いつもの先延ばし。
◆だが、論文そのものはいいと思うのだが・・・。当たっているかどうかはともかく、こういう表現はゴマカシですね、当たっているに違いないと思うから書いているのだ。だが、人間だから誤りもある。だけど、横穴式石室研究者に投じてみたいのは、生前造墓と考えましょうよ、そうすると石室の示す年代は被葬者の活躍期であって、没年で考えるからおかしいのんとちゃう、というものだ。
◆五条野丸山の石室が古いとする白石説に賛同する。昨年、『遺跡学研究』で触れたときもそう書いたが、あの時点では確信があったわけではないが、今回、丸山(『書陵部紀要』の写真が少なすぎる!)と石舞台の比較をするなかで、やっぱりぜんぜん違うと思った。
◆それと須恵器、こないだテルチャンと話してまったく同意見だったのは、なんで新納さんは菱田さんの隼上がり編年をいまだ使うのか、ということと、佐藤隆さんはいちばんモノを見ているのかもしれないが、わかりにくいということだった。これ前にも書いたかな・・・。西弘海さんの、あんな明解な図がとても求められているだ。
◆それは便利だから、素人でもわかりやすいからというのもあるが、考古学のモノの把握というのは、ああいうもんではないかと思っている。むろん、窯跡資料などをきっちり知っている方がいいに決まっている。だが、弥生土器や庄内式でもそうなのだが、一括資料が重要なのはわかるのだが、編年表にいっぱい資料が載っているのを見ても、こっちはわからん。様相などという。それより唐古の小林行雄の図がいい。これはしかし研究の初期と現在では違うのではあろう。だがしかし、例えば須恵器の杯Hの口径が同時期の床面資料でもこんなに幅があると、それを全部示すことは把握ではない。佐藤さんもMT15やTK10あたりでやっているように、度数分布を作成し、ピークをつかまえる。そうした幅をもちながら、全体に径を縮小させていくという場合、やっぱりある時期はある径で代表させてスッキリ並べて欲しい。須恵器素人はそれでいいし、論文としてもそういう図にまとめてこそ理解がえられるだろうし、そもそもバックデータをもちながら何をするかという場合に、偏差の幅の表示が工夫できれば井いのだが、いずれにしても、全体として縮小化していることを示すことにならなければ資料を把握したことにならないだろうに・・・
◆佐藤さん、ごめんなさい。土器は難しいんだろうと思います。


いま9月27日の2時半、朝までブログ!

◆そう、鬱に近い。なんかダメモードで、これからブログを書いてウサをはらそう。
◆なぜこんなんか、8月はじめまに青木の原稿を2本仕上げた時まではよかったが、それからは鳴かず飛ばず。原因はわかっている。まず横綱は博士論文、それとモロモロ雑事を怠っていること。やればいいのだ。とはいえ、そううまくいかないのが人間である。あんたがなんで落ち込むンかわからん、あんたほど幸せな人はいないで、とはカミサンの弁。そうだろう。いろいろ調子を上げる工夫をするが、いまひとつ。躁になりたいもんだ。とはいえ、躁鬱もかなりマシになり、平均的に仕事をするようになったとは思う。
◆まず、夏休みがよくない。発掘してれば充実感はえられるが、発掘のない夏をうまく使って仕事をした、という実感がこれまでもない。1人、研究室に籠もっているのがよくないのだろう。もっと外に出て行き、人と会う機会があったほうがいい。そういう気分転換も下手なわけだ。まあ、1人で邪魔なく仕事をしたい時もある。調子のいいときはそれでよし。
◆ああ、書いていることも、実に中身がない・・・。

谷首そして岩屋山

◆で、岩崎君に谷首古墳に行きたいのだけど、と言って、場所を教えてもらい行く。メスリ山の測量の時、いつも通った6e59ae36.jpg道ながら、実は谷首を見ていなかった。石舞台 のレーザースキャンがやれないなら、石舞台式の次の標式は谷首古墳である(推古朝の四大夫の一人である阿倍内鳥の墓である)。実によかった。羨道は、石舞台よりも加工の程度は甘いながら、上辺をそろえ1石 をならべるあり方は、まさに石舞台式である。
◆そのあと、阿部山田道を飛鳥へ。飛鳥駅前でコーヒーを飲み、そして岩屋山古墳に行く。3年ぶりか。カミサンは、こないだ牧野を見て、そして谷首、岩屋山、白 石編年の天王山式→石舞台式→岩屋山式、をひととおり見たわけである。石材が整っていく過程がわかると・・・。岩屋山で天井が低くなることも、谷首のあ とだと実によくわかる。で、前に行った文殊院西が後続する。
◆でケンゴシヅカ。先週の現地説明会に行くべきであったが、岩屋山まで来たので足をのばす。レンタサイクルでのお客さんも7~8人いた、みなケンゴシヅカ をめざして上っていく。だが、完全封b8d9df19.jpg鎖。写真が6枚程度貼ってあったが・・・。自分が見たかったというのもあるが、埋め戻し途中とはいえ、絶好の行楽シーズンの 3連休、飛鳥に人はわんさか来ており、ガードを固めて、1人配置して、見学できるようにしておけばいいのに、と思う。
◆まだ完全に埋め戻していないようなので、見ることもできそうだが、まあいい。明日香村はここまでやったんだから、おそらく史跡整備に進むんだろう。八角墳を目の当たりに見ることのできる貴重な史跡になるだろう。

箸墓の側面にテラスはある!

◆岩屋のあと食事をして、箸墓を見に行く。5月に桜井線で通過したとき、裾部の木が切られ草が刈られ、内部の墳丘斜面がよく見える状態になっていて、いまのうちに観察しなければ、と思っていたが果たせず、今日行くと案の定、草がのびて観察しにくくなっていた。箸墓の墳丘復元案を最終的に決めにかかっているため、観察したかったのだ。
◆その結果、前方部の南側面を1分だけ見ただけだったが、側面にテラスがあることを確信した。これ前から相似墳のあり方、例えば西求女や備前車塚のあり方から、モデルである箸墓でも最下段は一週めぐるに違いないとにらんでいたのだが、確信をもった。幅のあるテラス面が残存するわけではないが、側面の斜面の傾斜は一様ではなく、途中に稜が入る、これが下段の肩だろう。横にのびる稜線の上(内側)にテラス面があるはずだ。
◆桜井市埋文センター、岩崎君がまた対応してくれた。「奈文研のサッカー、3対0で藤原が勝ったんやってな」と話を振ると、えんえんとサッカーの話を相変わらずしてくる。昨年の建物群の発見を承けての手作りパネルもよかった。ウレタンパネルを買ってきて、表面に色紙を貼り、パネル上辺にダブルクリップをはさみ、それにテグスを通しパネルを取り付けている。むろん、ここは桜井市で遺跡がいい、というのは確かだが、毎年掘っている成果にもとづいて、そうした最新の成果も簡単であれ、金がなくても自前の材料で掲示していく努力を見る。
◆で、纒向の桃の種がいっぱい出たという現地説明会について聞くと、2000人来た、と。

3連休、調査もせず

◆前は3連休があると、なにか調査を入れようとしていたが、なにもない。土日、出勤し、モロモロ雑用を片づけて終287fd9ab.jpg2a293f92.jpgわる。まあ研究室もややすっきりし、雑然としていた書類は少し片付いたか。で、祝日の20日月曜日、またカミサンとでかける。朝、子らは寝ている。われわれ起きてきて「どっかいこか」、「どこいく?」、というので、前からやりたかった天理岩屋から桜峠越え。
◆これ、大和から東国へのルートのひとつだ。東大寺山古墳や赤土山古墳がここにあるのも、そのためだろう。いつも西名阪で車で抜けてしまうが、まっすぐ伊賀の高原へと抜ける谷筋のルート。登り切ったとd2210b88.jpg44240e5c.jpgころが桜峠である。
◆西名阪に乗るつもりが、ぼんやりしていたら南阪奈に載ってしまい、橿原から田原本を通り天理へ。天理東インター近くの白川湖の駐車場に車を置き、谷をさかのぼる。旧道沿いに岩屋集落が続く。実に雰囲気のよい景観である。谷間にはタワワに稔った稲。稲刈り風景もチラホラ、だが全体にはまだ稲刈りはこれからというところ。よく見ると、斜面地の1枚が小面積の田圃は耕作していないが。高瀬川が開析した谷筋。花崗岩の基盤の山塊、花崗岩質の露頭があり、さらさら崩れマサ土が裾にたまっている。傾斜地にある集落の家屋はみな大きいが、花崗岩の石垣が目立つ。
◆桜峠では、西名阪道が旧道と完全に重なり、自動車道脇の遊歩道に出るが、暗峠のように峠の茶屋があるわけではなく、なにか達成感がえられない。登り切って東方の視界が開けるわけでもない。カミさんは来た道を帰るのがイヤだというので、遊歩道を北に行くと、登りの谷筋より北にある米谷の集落を通り、途中、また岩屋へ降りていくことになる。車も少なく、緩やかな下りで快適である。
◆3時間半ほど、けっこういい運動であった。そして、柿や栗などもあり、実り豊かな秋を感じる。いまはまだ、かなり営農が続けられているが、こないだの新聞発表によると、農業人口は5年で20%減だとか。この国の農業の先行きが不安である。一方で、福井かどこかの会社の紹介も興味深かった。農家の3男の社長で、営農を断念し、放棄された田圃を借りて農業経営をやっている。10数人の社員で平均年齢が33歳だとか。サラリーを支払い、一戸建てが建てられる給料をはらっているのだとか。儲かっているというより、営農を続ける義務感で一所懸命だとか。生産だけでなく、流通、そして生産物を使ったレストランと、維持するために頑張っている姿。いま日本の各地で、こういう取り組みがどこでも求められているんだろうと思った。先祖から受け継いできた農地、自分が食べるものくらい、というのでなお田圃をやっているが、できれば人にやってもらいたい、いつまで続くかわからない、というのが本格的にやっている人以外の実情であろう。

桜井茶臼山古墳の鏡の拓本と断面図

◆むかし、いつだったか、奈文研にいたときだろう。桜井茶臼山古墳の鏡の破片をぜんぶ見せてもらったことがある。もしかすると、雪野山の報告書を書いていた頃かもしれない。対応いただいたのは吉村和明氏。
◆この原図の類が見つからないのである。桜井茶臼山古墳の測量調査報告を作っていたとき、もし出てくれば採録したかった。橿考研の鏡の写真図録は出ていたので、それがいちばんなのだが、拓本と断面図を全点添えたものはなかったので。
◆茶臼山を奈良県が発掘していたころ、吉村さんに会うことがあり「拓本が出てこない」と言ったら、この春に、昔の資料調査を終えた時に、ひととおりコピーちょうだいということで複写したものがあり、それを送っていただいた。というわけで15年ぶりくらいに、むかしの拓影などを見た。うまい!。そう、当時、梅原末治よりも拓本はうまいと思っていた(アハハ)。いまはもう・・・。だがもはやこれらの拓本などを世に出す意味はなくなった。復元すると100面以上に達する膨大な鏡片が出て、もはや茶臼山の鏡群の一端を示す残存破片という意義はふっとんだ。かつ文様も3次元計測の時代に入った。


財団法人

◆世間に疎い。2013年までに、財団法人は、公益財団法人か一般財団法人にならなければならんそうである。あまたの財団法人のうち、ほんとに税制で優遇しなければならない公益性のあるものを特定する、ということのようだ。これって、埋文業界にも影響必至ではないか。やっている発掘調査は公益性があるものではあるが、財団を民間として捉え事業を受託してやっているにすぎないと判断する大阪府的な見方からすると、一般財団法人になりかねない。あくまで都道府県がすべきところ、それに代わってやってるんだという説明で、公益財団法人に位置づけられることが不可欠だ。
◆とにかく、調べてみる必要がある。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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