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人を幸せにする人になろう

大阪城サウンディング調査

◆本日から。昨日あわただしく計画線を確認し、どういう手順になるんだろうとイメージを考え、 まあなんとかなると現地へ。計画線に沿ってラインを設定し、起点を決めて1mごとに予定位置の印をつけていく。南北線がかなり振ってしまったが。
◆そんなんで始まりました。径2㎝程度のもので、陸軍時代のものとか表層近くでガラに当たってしまえばしゃーないわけだが、多少の礫程度なら捩り出して抜けていく。一定の深度でのN値が高くなった硬い層の解釈は難しいながらも遺構面かもしれない。機械がガラにあたって震えたり、変な音がしたり、入りにくくなるとハンマーで叩くのだが、その音がいかにも高く「硬!」と悲鳴を上げたり、なかなか反応を見ているのも楽しいもので ある。
◆5日これで拘束されるのは、車塚があるので避けたいのだが、今日の様子を見ていると、水曜日には終わるのではないかと思われる。
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クントゥルワシ通信2

◆本人に了解をもらいました。是非にとのことですので、どしどしいきましょう。

 今日は博物館で必要な物資(インクなど)を買いにカハマルカまで来ています。車で2時間かからないくらいです。
カハマルカではお金も下ろせるし、ネットも通じます。ご飯食べるところもたくさんあり、なんとスタバまであります笑
 村はネットのない生活ですが、本読んだり日記書いたりできて、楽しく過ごしています。良い環境だと思います。ただ、博物館の広報のためには、ネット環境の整 備が欠かせず、村の人はネットが来ることをのぞんでいます。お隣、サンパブロの町にはインターネット屋さんがありますが、よく子供がネットゲームをして遊 んでいます。難しいですね。この村も、ネットが通じると子供たちがこういうことになってしまいそうで嫌です。

久津川車塚9月7日~11日の週

◆大阪城の調査、紀要編集委員会、教授会もあり、この週はほとんど行けそうにない。課題を整理しておき、原田君とミッチーに任せることにしよう。金曜日には記者発表資料と現地説明会資料も完了しておかないといけない。ちときついが。そして写真撮影の予定を設定すること。3次元計測もやりたいところ・・・。
◆ともかく、水色が手つかず、ないし、地山検出がまだ甘く、だめ押しが必要なところ。こ れがⅠ。Ⅱ、次は前年度調査区の埴輪列の仕上げ。前年度は樹立埴輪のまわりに埴輪片が散っている状態にとどめ封をしたが、これをきっちり出さないといけない。まあ、基本的にはここまででよいと思う。Ⅲ、埋葬施設について。縦断畦を設定し、4分法で黄色粘質土を掘り上げ、畦沿いに割りを入れて墓坑の下降を確認する、という、そこまでをやってもいい。Ⅳ、それと北辺は今回の最初にはなかった範囲だが、造り出しが北に伸びることが確実となって拡張し、基部がきちんと検出されたわけだ。が、撹乱溝があって、そこの上がり位置で機械掘削をやめた。とはいえ、埴輪列が明らかになり正確に図化してみると、隅部は溝の外に残っている可能性がある。本来なら、撹乱溝はあっても、それを越えるところまで掘り(掩体壕があるので控えている)、どこからかは残存する北辺埴輪列を検出すべき。が、ここに至れば大きく広げることは無理。写真が終わり、図化にかかる段階で、屈曲部をめざし作業員さんにちょこっと掘ってもらうことに留めよう。
◆大阪城。測量器財は積んで帰ってきたが、作業内容がわかっておらず、エスロンテープとピンポールを積んで帰ってくるべきだった。さてどうするか。朝、車塚に寄ってもいいのだが、まあなんとかなるかね~。縄があればいいかも。業者がメジャーをもっていることに期待するか・・・。

ようやっと車塚の造り出し局地座標

◆日曜日の19:30、ようやっと雑用を片づけた。車塚と大阪城の仕事はこれから。柏原の講演準備な ど、できるはずもなく・・・。
◆車塚の局地座標を設定しました。東辺埴輪列の角度を参考とした前方部側線でもある造り出し東辺の角度が21.1度。西辺肩部が20.3度、この間でも平行ではありません。南側隅部における造り出し裾線の角度からすると22度でもよいのだが、全体のバランスから21度に決める。それと、座標値については、3箇所の葺石のみなら、それぞれ別に勝手に設定してもらってもいい。が、上面の埴輪列等の実測も、平面のみなら国土座標でいいのだが、埴輪の立面図を考えると、やはり局地座標でやる方がおそらくよいだろう。なので全域をカバーする座標系を設定する。そこで、ほぼセンター位置を設定し、その国土座標を図面から算出しておき、XY値とも+値になるよう、このポイントがX30/Y20になるように換算してもらうことにしよう。
◆葺石図はそこまでだが、上面の実測のため、座標変換の計算をしておかないといけない。こうやって眺めると、台形ですね・・・。さて、次は大阪城(21:18)。
◆大阪城のサウンディングボーリングの図面作成。大阪市I君の作成した図を自分なりにいじって確認したくらいだが、終了。配水管のみ注意し、計画線設定は、まあ適当でよさそうである。帰ろ(22:10)。

クントゥルワシ通信

◆ペルーから頼りが届きました。本人の了解は取っていませんが、内容的に問題ないと思いますので、紹介します。むろん了解を取ります(あかんかったら削除します)。風景写真もいろいろ送ってくれました。本人には、定期的に、感じたことや、やっていることを、ちょこっと知らせてもらい、この通信を継続したいと伝えたいと思います。ペルーの風土や、遺跡のこと、博物館の仕事など、とくだん問題のない話題であれば、どしどし紹介したいと思うので。 
 ご無沙汰しております!。出発前は本当にありがとうございました!。ペルーに来て約2ヶ月、クントゥルワシに来て3週間が経ちました。元気です。
  クントゥルワシは本当に小さな村で、人口は約500人(警察いわく…実際はもっと少ないのではと思うのですが…)、しかしクントゥルワシの前はプエブロ・ヌエボ(新しい村)と呼ばれていただけあって、今の村のおじいさんの代くらいから人が住み始めた比較的歴史の浅い村なのだそうです。牛とロバとニワトリと犬のたくさんいる、静かで景色の良い素敵な村です。インターネットが通じないので、隣町のサンパブロまで来てメールなどを確認しています。他は、電気もガスもお湯も問題なく出ます。
 クントゥルワシにいる人は、顔の感じからしてもスペインとの混血の人が多く、先住民きの人は見かけません。割ときれいなスペイン語を話して、訛りとかあったらスペイン語も全然わからないんじゃないかと思ってましたが、なんとかなりそうです(´∀`*)。
 気候は海岸側(コスタ)にあるリマはまだ冬ですが、こちらのような山側(シエラ)に来るとからりと晴れ、いつも青空です☼(´▽`)☼。今は乾期で、雨期は1月から3月くらいまで。雨季になると、クントゥルワシの辺は霧が濃くなって何にも見えない、そして寒いらしいです。海岸地帯(コスタ)、山岳地帯(シエラ)、密林地帯(セルバ)で、気候も食べ物も音楽も踊りも全然違うらしいので面白いですね(^ v^)。
 仕事はまだまだです。。。言葉や、歴史、遺物を少しずつ覚えていっています。昨日、日本語ガイドデビュー致しました!。編み物も習っています(笑)。村の女性はみんな小さなころから編み物ができるのだそうです。

久津川の須恵器

◆西区で相互に接合する3片が出土しており、図面ができあがってきました。類例を教えてくださ い。ほかにも1、2片、昨年度もちょこっとあったが、器形がわかるようなものはありません。

久津川車塚9月4日(金曜日)

◆自分、木建、土井、木下・安藤、(長友)、天理大学ほか7名、城陽市担当者
◆水替え、レーダー探査ができるよう上面部をすべて開ける。天気予報のようには晴れず、時折雨、それでも日中はまあまあもち、午後にはアイスが欲しい暑さにもなるが、夕方、また雨となる。10時前後からレーダーチームが加わり、われわれは南区の石出しにかかる。これ月・火で完了するはずだったものが、雨がちでなかなか土が乾かずきれいに仕上げられないので、上面作業をやり、残していたもの。来週の月曜日にオルソー画像作成の写真撮影があるので、それにむけて葺石3方を仕上げないといけないのだが、人数おらず、南区に集中。前方部との隅部の上部、見直せば転落とみて除去すべき石もまだあり、石の清掃だけで済まない作業もやや残っている。
◆一方、既に図面を示したが、調査区の正確な略図を1/100で測量する。レーダーチームも第3Qには終了し引き揚げ、残った者で南区の石清掃を継続するも、16時前からけっこうな雨となり、シートもせずに待避。途中、雨がかなり降り、遺構面の心配もしたが、雨が通り過ぎて戻ると大丈夫であった。16時もまわっており、上面全面を開けていたシートを丁寧にかけるにも時間がかかるので、もうやめて現場を閉じる。
◆上面全面を開けたので、排土山から全景を撮ったので、それを示しておく。写真の奥の南区で、清掃する人影も見えている。さてと角度出しをやっとくか。

久津川車塚9月3日(木曜日)

◆自分、道上、大澤・木下・安藤、城陽市担当者
◆レーダー探査は天候のため明日との連絡が入る。もう記憶が定かでないが、小雨でもできる、除去すべき土の多い、造り出し西辺の埴輪列外側の肩部に残る黄色粘質土を削る作業にかかる。昨日までやっていた北寄りはだいたいできており、埴輪列内側の上面精査を東へ進めたが、西区深掘り部の肩のあたりは、旧調査区に対し今回新たに開けた範囲の黄色粘質土除去ができていなかった。土は明瞭なので遠慮なく削り、短時間でかなり除去は進むも、11時前には降雨のためやってられない状況となり、シートをかけて待機する。
◆本日午後の天気予報や雨雲レーダー画像から、午後もよくならないと判断し、本日の現場作業を切り上げる。なお、現地説明会にむけて出土埴輪のピックアップしているが、洗えてなかったので、現場テントで埴輪洗いをやってもらうことにする。昨年度調査分にもいい破片はあるだろう が、今回の出土資料で概略を示すのに十分なので、雨の機械に埴輪の把握をしてもらうことに。11:30前、大学院入試のため現場を引き揚げる。学生等は15時過ぎまで洗ってくれたとのこと。

難波宮研究会がありまして

◆土曜日は難波宮研究会。唐大尺があり、難波宮では29.2㎝だと、で難波京は900尺方格とされており、孝徳朝では262.8m(900尺方格はないとされるが)、天武朝では29.5㎝だと、900尺は265.5mだと(これで考えられている)。が藤原宮でも29.5までいかないということになっているらしい。だとすると、265.5mで想定すること自体が妥当かどうかが再検証がいる。一方でそもそも唐尺の1.2倍で、唐尺の実寸が変われば、度地尺としての大尺も変わるという発想の問題があり、ちゃうといっても、なかなか受け入れられない。
◆高麗尺の問題。35.5㎝の尺度があることそのものがまず確定されねばならないが、それは横穴式 石室の1尺刻みの玄室長の階層で確実である。一方、それは石室のみの尺度と理解しており、度地尺としての高麗尺の導入は寺院造営だろうと見通している。飛鳥寺がポイントだが、百済大寺や山田寺はいけそうと見通している。で、難波宮の29.2㎝が導入期の唐尺として、35.5:29.2は約6:5。高麗尺の実寸を変えず正確に1.2:1にしようとすると、29.58㎝となる。唐尺導入、それは高麗尺の約5/6だったが、それを5/6とすべく唐尺の実寸をわずかに大きくしたとみる。
◆まあしかし、それより大事なのは、土地の計量の高麗尺は唐尺以前に、田積の代にも適用されるなど定着しており、建物設計や部材の寸法に唐尺が用いられても、大きな割り付けには高麗尺を使うことは変わりなく継続している、ということ。唐尺の実寸*1.2で変化するものでないのである。で、実際に難波宮京の割り付けも説明できる、というのが、ここしばらく言い続けてきたことである。
◆今年のシンポⅢは、これでいきたいものである。

雨が多く

◆先週は雨がち、思うようには進まなかった。9月6日(日)の10時。明日から大阪城の豊臣山里丸石垣ねらいのボーリング調査、そのための準備をしながら、久津川の9月の段取りを考えつつ、来週の柏原おいなーれの講演準備もやらないといけない。ぜんぶがぜんぶできないだろうが、優先順位を考えながら、ひとつひとつこなしてみよう。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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