人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2015年3月5日、車塚
◆丸1日。北区はほっとき、全員、東拡張区に投入し、埴輪列の決着をつけさせる。東辺を完了し、
出ていないものもあった南辺も片づける。隅位置の1本がはっきりしない。
写真(右)は、造出南基部からみた埴輪列のコーナー部。
◆午後から1/20図の作成に2人、埴輪列は決着したので、東拡張区の埴輪外縁の造出上面の仕上げに2人。作業員さん1人は北区の黄色粘質土の除去。見ていると、洪水層底面は波打ち、盛土面の間に溝状にやや深くなった帯が平行しており、そこに黄色粘質土が堆積している。畑かな。
◆わたしは1人、途中でほっぽっていた南区の埴輪出し。最初に手をつけたところで、おそるおそるやっており、黄色土中の礫を基本的に残させて土をほじくり出してもらっていたが、作業途中で北区に展開して止めていたもの。現時点の状況からすればやや高い。礫敷状に見え(礫敷なのだが)るが、洪水で埴輪列の頭より浮いた形で黄色粘質土中に含まれているものを残している格好。全体としては、埴輪にあわせて残してきたものを上からはずし、より下位の埴輪まわりのレベルの礫を残して仕上げる必要がある。埴輪は新たに4個体くらい出した。写真(左)が西側コーナーから東向きに撮影した南辺のもの。左に見えるのが西辺で、ここでも角位置の埴輪で立っている状態のものは視認できない(写真の手前部)。
◆ようやく格好がついてきたので、全体像を示しておきます
。3週間でよく掘ってきたもんだべ。
◆午後から1/20図の作成に2人、埴輪列は決着したので、東拡張区の埴輪外縁の造出上面の仕上げに2人。作業員さん1人は北区の黄色粘質土の除去。見ていると、洪水層底面は波打ち、盛土面の間に溝状にやや深くなった帯が平行しており、そこに黄色粘質土が堆積している。畑かな。
◆わたしは1人、途中でほっぽっていた南区の埴輪出し。最初に手をつけたところで、おそるおそるやっており、黄色土中の礫を基本的に残させて土をほじくり出してもらっていたが、作業途中で北区に展開して止めていたもの。現時点の状況からすればやや高い。礫敷状に見え(礫敷なのだが)るが、洪水で埴輪列の頭より浮いた形で黄色粘質土中に含まれているものを残している格好。全体としては、埴輪にあわせて残してきたものを上からはずし、より下位の埴輪まわりのレベルの礫を残して仕上げる必要がある。埴輪は新たに4個体くらい出した。写真(左)が西側コーナーから東向きに撮影した南辺のもの。左に見えるのが西辺で、ここでも角位置の埴輪で立っている状態のものは視認できない(写真の手前部)。
◆ようやく格好がついてきたので、全体像を示しておきます
宮崎市埋文センター
◆平成21年に竣工したという埋文センターに行く。なかなか立派な施設である。展示空間を収蔵庫
に食い込ませて設置し、ガラス張りとし、パネルを下げ、展示室側にむけて遺物を展示してある。
◆1市4町が合併し、現在の専門職員は10人とのこと。それと生目の調査15年ということで、2014年に開催されたシンポの資料集もいただいた。M大学におられたY氏が赴任して測量したのが90年代半ば、倭国王墓との対比をやった『宮崎県史研究』の論文は、なかなか原本が出てこないが、ひとつの画期であった。そのY氏曰わく、よくぞここまで調査を続けてきたと。その昔、古墳の大きさからすべて中期にされていたものを前期としながら、確実なことはなにもわからない状態から、現在は、南北2群の複数系列の古墳群で、そのなかの築造順も配列できるようになり、また西都原でもそうであるが、地下式横穴が、それを前方後円墳の埋葬施設とするもののほか、周濠周囲に掘り込
んでいるなど、中身が相当にわかってきたわけだ。そして立派な埋文センターが古墳群脇にでき、史跡整備が進行中である。
◆で、夏に県の考古博物館で、生目・西都原・祇園原?だったか、90年代から調査を継続している3つの古墳群を取り上げる企画展をやるらしく、その期間中の講演会?シンポ?で話をせよとのこと。そういうことなら、喜んでやらしてもらいます。中期の動向がどのように考えられているか勉強しないといけないが、6世紀以降のムカデ塚もあるし、鬼の窟もあるし、7世紀前葉くらいまで、ほぼ古墳時代全体のなかで、地域の盛衰をどのように捉えるか、勉強するいい機会になるだろう。本決まりとなれば、自分なりの歴史像をつかんでみたいものである(8月1日)。
◆1市4町が合併し、現在の専門職員は10人とのこと。それと生目の調査15年ということで、2014年に開催されたシンポの資料集もいただいた。M大学におられたY氏が赴任して測量したのが90年代半ば、倭国王墓との対比をやった『宮崎県史研究』の論文は、なかなか原本が出てこないが、ひとつの画期であった。そのY氏曰わく、よくぞここまで調査を続けてきたと。その昔、古墳の大きさからすべて中期にされていたものを前期としながら、確実なことはなにもわからない状態から、現在は、南北2群の複数系列の古墳群で、そのなかの築造順も配列できるようになり、また西都原でもそうであるが、地下式横穴が、それを前方後円墳の埋葬施設とするもののほか、周濠周囲に掘り込
◆で、夏に県の考古博物館で、生目・西都原・祇園原?だったか、90年代から調査を継続している3つの古墳群を取り上げる企画展をやるらしく、その期間中の講演会?シンポ?で話をせよとのこと。そういうことなら、喜んでやらしてもらいます。中期の動向がどのように考えられているか勉強しないといけないが、6世紀以降のムカデ塚もあるし、鬼の窟もあるし、7世紀前葉くらいまで、ほぼ古墳時代全体のなかで、地域の盛衰をどのように捉えるか、勉強するいい機会になるだろう。本決まりとなれば、自分なりの歴史像をつかんでみたいものである(8月1日)。
生目1号の葺石
◆昨年の調査でも後円部の葺石がほぼ上端まで残っていることが話題になっていたらしいが、今年
度の調査でさらにばっちり出てきて、天端の縁石さえ残っていることが判明し、テラス面のきっちりした敷石とともに、すごいことになっていることを伝え聞いており、現説資料のコピーも城陽市の職員からもらっていた。そこで、生目の現場が見たいとお願いし、西都原のあと、見学させてもらう。生目の史跡整備の調査は90年代末に始まり、確か文化庁時代に行った記憶がある。その前にも、大学院生時代に行ったのかもしれないが、憶えていない。1号墳の北側、平野に面する側が土取りされ崖になっている景観は憶えている。
◆まあ、葺石はすごいもんでした。かなりキチキチに積んでいて、それが崩落しない根本要因なのだろう。とくに上段のケスタ的小斜面を重ねているあり方は、興味深い。それと、背面側の前方部の中段以下の葺石がないことも、なかなかに面白い。北側で後円部側を葺き、前方部側が上に乗るあり方からからも、まず後円部側に石を葺くのであろう。が、背面側はそこで葺石施工が止まっているわけである。
◆前方部の墳頂平坦面には敷石はないが、斜道部にはある。肩部の石列は頂部まで通しており、その上で、後円部の斜面にあたる範囲は石を葺いている。そして、くびれ部谷線を、その境のあたりに取り付けている。谷線を後円部墳頂まで通し、隆起斜道とするのではない。
◆まあ、葺石はすごいもんでした。かなりキチキチに積んでいて、それが崩落しない根本要因なのだろう。とくに上段のケスタ的小斜面を重ねているあり方は、興味深い。それと、背面側の前方部の中段以下の葺石がないことも、なかなかに面白い。北側で後円部側を葺き、前方部側が上に乗るあり方からからも、まず後円部側に石を葺くのであろう。が、背面側はそこで葺石施工が止まっているわけである。
◆前方部の墳頂平坦面には敷石はないが、斜道部にはある。肩部の石列は頂部まで通しており、その上で、後円部の斜面にあたる範囲は石を葺いている。そして、くびれ部谷線を、その境のあたりに取り付けている。谷線を後円部墳頂まで通し、隆起斜道とするのではない。
西都原古墳群の現場を見る
◆西都原の調査指導。卒論演習が後から入ってきて、飛行機の時間を遅くしてもらう。中華料理屋
で関係者の呑み会がずいぶん進行したなかに、あとから遅れて合流。毎年、M大学におられたY先生の熱弁を聞き、宮崎県下の古墳のこと全般、地下式横穴やら、韓国の話やら、とても勉強になる。終了後、S大学S氏とうどんを食べに行き、ホテルに入る。日が変わる頃だったか。そこから先のブログを書いていました。
◆翌朝、西都原へ。手前の台地の下側にある前方後円墳3基を見てから考古博物館へ。いまやっている企画展、西都原発掘100年を見る。鳥居龍造のスケッチ図が見物である。
◆それから、いま発掘している姫塚の現場に行く。造出が丸々出ている。石は小振りで、また突き刺したようなモザイク状ではあるが、上段・下段の基底石もほぼ残り、全体として残りはとてもいい。周濠があり、堤がある。一定幅の堤を設けているものは極めて少ないのだとか。アカホヤが上面となっている堤面だろうものがあり、それがある幅で終わり、外方では切れており、2重周濠というのか外周溝というのか、それで画することで堤ができるわけである。なので、外側の溝状遺構を捉える必要があるのだが、マックロでなかなかわかりにくい。明確な外側の上がりがない。黒ボクは微妙な色合い、混じり、堅さで、なんとか識別することになるが、Y先生の指摘のように、ある、ないとおかしいという目で点検する必要がある。トレンチを外に伸ばすことも一部では必要だろう。
◆もどって遺物を見る。須恵器片がぱらぱらあり、TK23~TK47で、5世紀後葉というところで落ち着く。とはいえ、姫塚は、円墳群地帯の一画にあるこの時期の希少な前方後円墳なのだが、大正の発掘では刀剣類と鉄鏃、鏡1面と玉類くらいで、甲冑が出土している同時期の円墳との関係をどのように理解すればいいのか、ということになる。前方後円墳を採用していることと副葬品とのギャップがしっくりこないのである。
◆翌朝、西都原へ。手前の台地の下側にある前方後円墳3基を見てから考古博物館へ。いまやっている企画展、西都原発掘100年を見る。鳥居龍造のスケッチ図が見物である。
◆それから、いま発掘している姫塚の現場に行く。造出が丸々出ている。石は小振りで、また突き刺したようなモザイク状ではあるが、上段・下段の基底石もほぼ残り、全体として残りはとてもいい。周濠があり、堤がある。一定幅の堤を設けているものは極めて少ないのだとか。アカホヤが上面となっている堤面だろうものがあり、それがある幅で終わり、外方では切れており、2重周濠というのか外周溝というのか、それで画することで堤ができるわけである。なので、外側の溝状遺構を捉える必要があるのだが、マックロでなかなかわかりにくい。明確な外側の上がりがない。黒ボクは微妙な色合い、混じり、堅さで、なんとか識別することになるが、Y先生の指摘のように、ある、ないとおかしいという目で点検する必要がある。トレンチを外に伸ばすことも一部では必要だろう。
◆もどって遺物を見る。須恵器片がぱらぱらあり、TK23~TK47で、5世紀後葉というところで落ち着く。とはいえ、姫塚は、円墳群地帯の一画にあるこの時期の希少な前方後円墳なのだが、大正の発掘では刀剣類と鉄鏃、鏡1面と玉類くらいで、甲冑が出土している同時期の円墳との関係をどのように理解すればいいのか、ということになる。前方後円墳を採用していることと副葬品とのギャップがしっくりこないのである。
2015年3月3日、ひなまつり、車塚
◆10時から15:30まで第1回卒論演習、そのあと、近現代史の博論の構想発表。これで18時。19:40分の伊丹発で宮崎に。間に、もうひとつ「事件」が起こるが、まあやめておこう。
◆何時だったか、ミッチーから「出た」とのメール。よっしゃ、これで拡張区はほぼ解決。
◆いま4日の2時前になっているが、ホテルのロビーでヤフーのメールを処理していたが、途中、ミッチーからの3日の報告が入る。それが1時すぎ。いや~、全体を仕切ってもらい、日誌も書いてもらい、この時間になりながらメールで報告をくれる。大変だろうが、ドクターに上がる自分のポジションを理解し、ちゃんとこなしてくれている姿に、感激である。それに応えて、こっちも対応すべし。
以下、ミッチー報告
引き続き東拡張区の調査。(1)南側斜面は、黄色粘質土を除去し、Z2付近で下段斜面と造り
出しの接点に当たる角に至る。斜面にはやはり石がごろごろ。(2)上面の精査。埴輪列を出す作業。結論として、南側東西列はかなりの密度で存在する。東側南北列に当たる埴輪を確認。これで東西列から南北列への屈曲が判明。上面には拳大の石が転がるほか、形象埴輪の破片が円筒埴輪ラインの内側に多く見られた。
◆このブログも、認識や調査手順の伝達手段となっている。明日、埴輪周りが決着し、ほぼ遺構面まで掘り上がれば、埴輪・礫の清掃はあとまわしでよい。北区の埴輪列北行き、および撹乱坑に向かうべし。撹乱坑について、東西方向の幅20センチくらいの畦を念のため設定し、洪水層と撹乱底面の関係(間層があるかないかなど)を記録してもいいのでは。ほぼ底面すべてに洪水層が入るなら、意味は希薄で、すぐ取っ払えばいいが、撹乱坑と洪水の時間差がどのくらいなのか、間層が入るかどうかが気になっている。いまの時点ではなさそうで、撹乱坑と洪水は近接しているように思えるのだが。まあ、考えてみてください。
◆何時だったか、ミッチーから「出た」とのメール。よっしゃ、これで拡張区はほぼ解決。
◆いま4日の2時前になっているが、ホテルのロビーでヤフーのメールを処理していたが、途中、ミッチーからの3日の報告が入る。それが1時すぎ。いや~、全体を仕切ってもらい、日誌も書いてもらい、この時間になりながらメールで報告をくれる。大変だろうが、ドクターに上がる自分のポジションを理解し、ちゃんとこなしてくれている姿に、感激である。それに応えて、こっちも対応すべし。
以下、ミッチー報告
引き続き東拡張区の調査。(1)南側斜面は、黄色粘質土を除去し、Z2付近で下段斜面と造り
◆このブログも、認識や調査手順の伝達手段となっている。明日、埴輪周りが決着し、ほぼ遺構面まで掘り上がれば、埴輪・礫の清掃はあとまわしでよい。北区の埴輪列北行き、および撹乱坑に向かうべし。撹乱坑について、東西方向の幅20センチくらいの畦を念のため設定し、洪水層と撹乱底面の関係(間層があるかないかなど)を記録してもいいのでは。ほぼ底面すべてに洪水層が入るなら、意味は希薄で、すぐ取っ払えばいいが、撹乱坑と洪水の時間差がどのくらいなのか、間層が入るかどうかが気になっている。いまの時点ではなさそうで、撹乱坑と洪水は近接しているように思えるのだが。まあ、考えてみてください。
2015年3月2日、車塚
◆4日の午前1時半をまわりました。宮崎のホテルの1階PCにむかっています。自分のノートPCがア
カンタレなので、部屋でつないでもヤフーもブログもだめなもんで。PCを新しくしたいが、新調する研究費も自分のポケットマネーもなし(貧しいのです)。まあ、それはともかく、宮崎空港に迎えに来ていただいた方から、発掘してるんですね、ブログ見てます、といわれると、やはりうれしいものである。
◆さてと、2日は初めて丸1日、車塚にいた。全5週の2週が終わり、3週目に入る。土日から、次の1手を考えていたが、東拡張区をやっつけるべしと決意し、全員を投入。埴輪列が直角に折れて三辺目を出すべく全力で望むも、南辺の埴輪を、撹乱から続く連続する3個、少しはなれて1個を確認するにとどまる。調査区東辺では赤土の上面が出ており、埴輪が伸びないことが確信でき、折れるとしたらこの辺という見込みはつくが、そこで日が暮れた。
◆3日は公務で1日現場に出られないが、東拡張区の決着をつけろと指示、東辺埴輪列が検出されたら、ただちに「出た」とメールをくれと頼み、本日はここまでとなる。
◆さてと、2日は初めて丸1日、車塚にいた。全5週の2週が終わり、3週目に入る。土日から、次の1手を考えていたが、東拡張区をやっつけるべしと決意し、全員を投入。埴輪列が直角に折れて三辺目を出すべく全力で望むも、南辺の埴輪を、撹乱から続く連続する3個、少しはなれて1個を確認するにとどまる。調査区東辺では赤土の上面が出ており、埴輪が伸びないことが確信でき、折れるとしたらこの辺という見込みはつくが、そこで日が暮れた。
◆3日は公務で1日現場に出られないが、東拡張区の決着をつけろと指示、東辺埴輪列が検出されたら、ただちに「出た」とメールをくれと頼み、本日はここまでとなる。
あれあれ、急ピッチ
◆市大日本史の仕事をこなし、次はようやっと伏見城と思っていたが、別件で大学のことが降りかかってきた。これから乾坤一擲、意見書をしたためるとするか。3時間くらいはかかるかな。よ~雨降ってますね、明日の現場もぬかるみか。なにが急ピッチなのか、いずれまた書きます。
摩湯山、再起動
◆こないだの打ち合わせで、中国におられるFさんに全面的に協力をお願いし、いろいろと引き受けていただいた。自分の原稿もむろんあるし、編集取りまとめもするが、各パートについて、ふさわしいみなさんにお願いし、無理のない範囲で原稿を書いていただき、ほぼ2015年度中に決着したい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。