人を幸せにする人になろう

ピース集会の案内

日時:2014年11月24日(月・振替休日)午後1時30分~4時30分(開場は午後1時から)
会場:エルおおさか709号室(地下鉄谷町線、京阪電鉄「天満橋駅」下車、西へ300m
資料代:500円
基調提案:上杉聡さん(事務局)
講演:「戦争犠牲者達を怒らせてはなりません!(仮)」
        ―――歴史・教育学者が点検するピースの新展示案―――
        講師安川寿之輔さん(名古屋大学名誉教授)
  各界からの発表(予定):大阪空襲体験者、重慶空襲訴訟関係者、大阪各地の追悼集会関係者、教員、平和のNPO、歴史研究者など
                               連絡先:15年戦争研究会

でもね

◆24日にはピースの集会があり、29日には教科書問題の集会があり、29は行けないので、誰かに行ってもらわないといけないのですが、24は行くつもり。事務局からは講演のあと、各団体からの意見表明というのがあり、歴史学界として大歴のオレにやれと。ええ!、そりゃ近現代史の人でしょ、なんでオレやねんという気持ちはぬぐえず。1週間を切り、ちょっと対処を考えないといけません。
◆シンポ実行委員会のみなさんのMLを通して知ることのできる運動を見ていると、頭が下がります。感銘を受けます。ピースから加害展示が撤去されるが、だからといって放置せず、よりよくなるように学習会を開き、館に働きかけ、議員に働きかけ、ねばり強くやっている。わたしなんぞは、その情報をえて、ヒストリア誌を通して発信するくらいのことしかできません。そこは2頁でもなんとか続けている。6月号、8月号、今度出る10月号と。24日の集会をふまえ、できれば12月号にも、と思ってはいます。
◆考古学とか近現代史とか、そんなことは関係ありません。現代の問題は一人一人の問題だし、歴史学に携わるものとして、専門とか関係なく勉強だと思っている。戦争遺跡にも関心があり、大阪府の詳細なリストがあることを知り、ヒストリアで連載できないかということを考えています。
◆なんとなく話がそれています。実行委員会のみなさんの活動の方がわたしには訴えるわけです、一所懸命なものを応援したいと。近現代史の人間のなかには、そんな加害を抜くピースの展示に協力なんぞ、マトモな学者なら関わらないといった意識があるんです。人それぞれだから、個人がどう考えるかは自由だが、わたしとしては、そういう姿勢よりも、実行委員会の人たちの活動に全面的に共感を覚えるわけです。

ちなみに

◆ヒストリア10月号は1ヶ月おくれです。もうすぐ納品です。去年も実は10月号は・・・。これ現地見学検討会の原稿の問題。とくにオヒトカタでしたが。この特集は、いつもオレが担当しているので、4月の実施から8月末に原稿をもらうまでのあり方や、その後の催促のあり方などで、たぶん改善されるんでしょうね。なかなか、そればっかりやってられないのですが、そこは企画委員のなかで、若い委員に仕事を振るなどした方がいいかもしれません。
◆今回は、こちらの対応の問題でなく、原因は執筆者にあるのは明確なのですが、それに至るプロセスを考えると、委員長が背負い込むのがよくないんだろうな~、と思います。

歴研の声明

◆梅田に行ったのは大歴の委員会があるからで、山根の手紙の文字起こしもなかなか時間のかかるもの。で、本日の議論のなかで感銘をうけたのは、歴史学研究会の従軍慰安婦に関する声明である。朝日新聞社の記事撤回が、あたかもそんな問題なかったかのような首相の物言いや、週刊誌等の誹謗に対し、明確な反対を唱えたものである。
◆こんなデマがあたかも本当のようにキャンペーンのように喧伝され、なにも知らない人はなかったんだと信じてしまうのが、いまの世の中である。これだけでも教育は破綻しているといえる。いや、そう捨てたものではないのかもしれないが、限られた範囲かと思われる。誰もちゃんとした本などを読むことはなく、そんな話おかしいと思わないのだろう。声の大きい人の言うこと、みんなが言っていることを、そのまま鵜呑みにするのだろう。そうじゃなく、みながほんとはどうなんだろうと、少し時間と調べる労力をかけ、それにもとづいて考え判断する、そういう市民を育てるのが教育なんだろうと思う。そういう人々が40%、60%、80%、と増えれば、でたらめな国会議員など選出されないに違いない。が、18歳人口の60%が大学に進学する時代ではあるが、むしろマトモに自分で考える人間は、そんな「高等教育」を受けているいないにかかわらず、戦後、ある程度まで比重を占めていたものが、いまは後退しているのだと思う。
◆で、大歴である。声明をという話もあったが、それはそれで結構なんだけれども、そんなん出しても何の効果もない、ヘでもないと。既に歴史学研究会が力の入った声明を出しているので、それをベースに、日本の主要な歴史学界が一致して文章を練り上げ、連名で全国紙1頁大の声明を発表すべし、と発言した。それくらいやらないと何のインパクトもないと。これ、そこそこ本気です。事務局長も動いてくれそうです。どうなりますやら。でも、きっとマトモな学会はみな賛成しますよ。

山根徳太郎の手紙2

先生
 このたび学長の改選期にあたりまして、法学部其他よりの推薦を御辞退あそばし、後〓に道を開いて御勇退相成りましたこと、最近拝承、誠に感慨に堪えないことに存じます。叶月曜に杉本町校舎にまいり、新学長選出の諸掲示を見て、いよいよ萬感胸に迫る思いがいたしました。定めし先生には、こし方を御回想いろいろの感慨に御思いわびあそばされおるる事ならんかと、御推察申し上げおることでございます。

 敗戦の創痍しみじみと身に迫る思いに前途暗澹として行く末も定かならぬ日、大学の屋台骨と御一身にお背負いあそばされ、世情をそのまま学内にも思想の対立甚しく、ともすればそれがいろいろの形で事々に争いの種となり、毎日、先生の御心をおなやまし申したことの多かったことを思い、よくまあよろづ御耐えしのび、適宜御さばき相成りましたこと、思えば先生なればこそ、今日まで大船をやぶることなく荒海をお乗り切りいただきましたこと、感謝に堪えないことに存じます。私共乗〓の雑兵一向にお役に立たず、時には何かとし御心配のみおかけ申すこと多かりしだけ、顧って、おわびの言葉もない次第でございます。
 六年前大学の奉職を辞しまして後は、たまたま取りかかりました難波宮地の研究、せめてこの一條について、御在職中に成績をあげ、その面よりなにほどかについて、大学の名誉を添えて御鴻恩の一端でも報ずるよういたしたくと念じ、昼夜心をはげましましたが、それも思うようには進みませず、今以って中途半端の状態、徒らにこれも御心なやますことのみ多く、申しわけないことに存じます。

 それにしても事台聞に達しまして、最近三笠宮様わざわざ御視察にお見えいただき、具に御見学下さいましたこと、そして先生にもその場に御臨み下さいましたこと、せめてものよき思い出の一つでございました。このたびのこの御見学は実に目に見えぬ大きな影響を人々の心に与えているのでございまして、あのことのありましてより、私共の作業に対して諸人の心遣い、もの言い、態度など、目に見えて変ってまいりました。また若い感激性の強い学生たちは、今更ながらに、その仕事の意義がのみ込めたらしく、毎日の作業に、以前とはちがった意気込みを示すようになりました。この間、九月廿九日の日曜日も、雨の中を出勤待機してくれ、三十日の日など終日大雨にびしょぬれになって夕方の六時まで、泥まみれになって働いてくれました。誠に驚くべきことがらかと存じます。
  私共の仕事も成人の間ではいろいろ蔭口をされ、割込運動をされ、それが容れられぬとなると、最近では何か邪魔立てをする様子で、いやなことを耳にする次第でございますが、若い人々は以上の如く誠心誠意事に当ってくれますこととて、まづはこれ等の若人の協力で、必ず歩一歩と所期の目的を達成する方に向うものかと考えております。
 
  又、商大卒業生中の有志は他意なく募財にも応じてくれます様子で、最近卒業生の一人、坪田二郎と申す人は、毎月壱万円づ々寄付下さる旨の申出でをして来てくれました。無論異例中の異例でありましょうが、ありがたいことにおぼえております。ここに同君よりの十月一日附書面を同封、お目にかけます。御一覧の上は下迄御返送下さいますようお願い申し上げます。
 
  〓に進行中の第七次発掘はこの廿日ごろまで継続するつもりでございます。いづれその成果は〓便で又申し上げたいと存じております。
 
  谷山茂氏の話によりますると、このたび御勇退に際しまして、この後の宮址研究会のあり方について、いろいろ御心なやましいただき、大阪市との交渉方を岸本氏に御依頼下さいました由、まことに終生忘れがたい感謝でございます。粉骨、御高恩に報い〓ますよう、渾身の努力をつづける覚悟でございます。
 
  先は御挨拶まで一筆相認め申しました。御勇退、真情少しは御心身共に御くつろぎを〓されます御事かと存じます。折角、この〓御静養専心にあそばされ、更に御研学に、世の指導に、一〓て御力入りのほど、お願い申し上げます。大学を御離職になりましても、世の、先生に御期待申し上げおることの多いことと覚えます。どうぞ切に御健康に御留意下さいますよう。

 一九五七年十月八日
                                山根徳太郎 花押
   
    恒藤恭先生

山根徳太郎の手紙1

◆16時で終了し梅田に向かい、喫茶店で、山根徳太郎が1957年に恒藤恭にあてた手紙の文字起こしをしていた。古文書とはいえず、そう崩れた字ではないが、毛筆で5~6枚になる手紙である。山根の資料は、大方が大阪歴博に入っていて、市大には残っていない。ちゃんと探してはいないが、どうやってどこを探せばいいのかもわからない。が、昨年度の実習展で、文学部の設置に関わる文部省への届出書類が倉庫にあるというので、1号館の地下倉庫に入って、おおよそ永年保存されている過去の書類の簿冊を見ることがあったが、難波宮の発掘にかかわるようなものは見たことがないので。
◆そのなかで、大学史資料室に初代学長である恒藤恭の資料が寄贈され、そのなかに山根が恒藤にあてた手紙ひとつが含まれているのである。これはしばらく前に、大学史からコピーをもらっていた。それを初めて読んだ。以下、紹介してみましょうか。怒られるのかな。

17日の月曜日、長山さんインタビュー

◆博物館実習の山根徳太郎展で、学生が山根イズムを継承する人々、だったか、長山さんへのインタビューをしたいというので、1ヶ月以上前だったか、長山さんに話をすると、快く引き受けていただき、本日、大阪歴史博物館でインタビューとなる。引率というか、こっちも聞きたいことはあり、進行は学生に任せ、うしろの方に座っていたが、途中、いくつかは口を出した。
◆一所懸命メモを取ったが、これも早く文章にしておかねば忘れるんでしょうね。展示そのものは学生に任せるが、こっちはこっちで難波宮の初期の頃に興味があり、いつかはまとめてみたい取材メモとしてストックしておきたいところである。まあ、長山さんが大学に入り、難波宮の調査にかかわる1960年は、藤原光輝さんが調査から退き、澤村仁(この10月没?)さんに指揮官が変わり、初期の難波宮なんかどうかわからなかった段階から、内裏回廊に続き大極殿が当たり、難波宮の存在が確定していく時期にあたる。今日の話では、大学1年の年の明けた1961年冬の調査で大極殿があたったのだとか。いや2年の時という話もあり、少しあやふやなのだが、これはこれで確かめればよい。
◆第2合同庁舎建設の計画が明らかになるのが1962年、最初の保存問題となる。

娘は馬術部で楽しそう、でも寒そう

◆北大の娘は馬術部に入っています。朝起きられないヤツが、4時に起きて馬の世話をするのだと か。人間、気持ちですよね。馬がらみのバイトの話とか、そのほかのことも話をしてくれたりします。札幌では先日12㎝の積雪で、寒そうですね。正月は正月で、そこは生き物なので、前半目の担当と後半目の担当を決めて、冬期休暇を振り分けるのだとか。また、自転車に乗っているのだが、冬はやめとけ、ということだそうです。地下鉄かな。
◆クラブのブログがあって、見ていると写っています。拝借。

考古学資料室の要求

◆全学の配分予算で、各部局の当初予算にないもので、必要な措置を要求する後期分の募集があ り、前から、研究科長はじめ幹部から、考古資料のちゃんとした展示収蔵スペースを要求してはどうかという話をもらい、〆切が17日だったわけです。条里制研究の原稿に専念できない大きな理由のひとつがこれ。もうひとつの大きな課題とともに、日曜日にやっつけようと出勤するも、サーバーの保守か、ネットがつながらない。書類は書いたが、いざ展示ケースやら収蔵棚を調べ、積算資料を作ろうとするが、これではだめ。仕事にならないので、16日は15時頃に家でやろうと大学を出る。
◆まあいろいろと検索し、だいたいの品物を決めたが、ほかに収蔵スペースの棚や、図面類や写真類の収納のことを考えていて寝てしまう。本日、ほんとの具体的な購入リストは採択後でいいということで、だいたい数字も入れ、出しておいた。文学研究科でほかの対抗馬もあるのかもしれません。研究科ではそれに順位を付けて全学に上げ、全学で判断される。さてどうなりますやら。オレの研究室にはヒバリ山の短甲(直木先生が段ボールのリンゴ箱に入れたままの伝世品)があったりする。
◆もうちょっと系統的に資料があればいいのだが、まあ、もっていたらそれはそれでたいへんである。あんまり熱意はなかったのだが、申請書を書き始めると、贅沢なものではないが、ひとまず各所に分散しているものを集めることに意義があると思えるようになってきた。また、部屋がもし整備できたら、展示といっても、今あるもののケースを新しくするくらいで、持ち物は知れているが、それでもいくらかは他機関の資料を借りたりして、パネルも作り、一定の展示をしようという気持ちにもなってくる。
◆赴任したときは、1部屋確保してある考古学実習室を1階に移して整備するにとどまる。そこから、暗室を倉庫にしたり、機械室に出土品をまとめたりと、便宜的な対処しかできなかった。教員も多く、空き部屋なんぞはないなかで、どうすることもできなかった。が、定員が2割減り、研究室も空いてくるようになり、また博物館実習の学内実習が義務づけられ、さいわい2部屋分、壁を抜いて広い部屋がひとつ確保できた。ここで、博物館実習だけでなく、考古学実習と、埴輪の整理もやっている。今度は上記の資料庫ができるかな。
◆とはいえ、部屋が分散しているのはネックであるが、まあいっぺんにはいきません。まあ、ぐいぐいと考古のアピールをして要求を重ねる「押し」のない者としては、教員1人が在籍している間に、一定の整備をやって、またバトンタッチをしていければいいだろう。
【追記】文学研究科で認められ全学に上げたそうである。写真は考古学実習の風景。

難波宮第1次調査の発掘届など

◆大阪レキハクで展示されていたものが見たくて、写真を撮りたくて、担当に連絡すると、月曜日は無理だが、金曜日はというので、先週の金曜日に見に行く。写真は恥ずかしい結果だったが、まあ、実物を見ることがデキタ。科研費の採択通知は山根徳太郎本人あてに送られている。そんなことはあるんだろうか。研究代表者の銀行に振り込まれたのか?。なぜ市大はかかわらないのか。
◆午前に写真を撮影し、昼、NHKの食堂に行くと、栄原館長の出勤日で、すこし話をする。先生のところには、直木先生からの分厚い手紙があるそうで、いろいろ初期の難波宮の調査をめぐることが書かれているものらしい。なかなか活字になっているものを見ている範囲では真相が見えないのである。なにか書いてみたい気はするのだが、この直木先生の手紙の中身が、いつの日か公開されないと、表面的なことはまとめられるかもしれないが、人間関係についてはわからないのだろう。
◆要するに、市大のなかで難波宮の調査は、あまり位置づけられていないということ。山根の定年退職後ということもあるのだろうが、どうもそれだけでなく、山根先生や難波宮の調査に対し、市大はかなり早く距離を置いたように思われる。もし山根をトップにしながらも、市大の現役教員が深く関わるような体制になっていれば、大阪市主導に転換していくのは必然だろうが、すこし道行きが異なったものになったに違いない。しかしそこは文学部の人事計画もあり、年がら年中でなく、兵隊は学生なので休み期間中になるとはいえ、発掘担当の研究員(藤原さん)を置くのは困難だったのだろう。
◆大阪市による難波宮址顕彰会が発足するのは、1960年、科研の採択が1952年度、第1次調査は科研2年目の1953年度の年開けた1954冬のことであるが、その間の6年くらい、いちばんしんどい時期の調査がよくわからんわけである。
◆これ博物館実習展がらみである。

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雲楽
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1964/03/22
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自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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