人を幸せにする人になろう

なんでかというと

◆1985年。岡大の楯築の現場で、当時山形大のI見君と知り合う。運転免許を取ろうとしたのが、翌年3月。4月から4回生となる春休みのこと。生協にならぶ合宿免許のチラシを見て、山形を選んだわけです。普通免許と自動二輪をこの時に取った。で、I見君に連絡を入れたところ、東北大のA田さんが調査を請け負い?、確認調査のトレンチを入れたが、図面のところで滞っている状態で、山形大のI見君が頼まれ、そこにちょうど1人山形に来るというので、手伝うことになった。

2026年8月11日(火・祝)山形の盆地

◆村山地域は1日ではまわれないわけだが、行きたいところを少し調べる。 7:30には出て、河北町の紅花の資料館にまず行くことは決めていた。が、少し時間が早い。そこで菅沢2号墳に行く。いまから40年前、合宿免許で山形に来て、合宿中、空いている時間にトレンチ内の埴輪の出土状況の図を書いたことがある。その後、F澤さんがあと始末をされたと聞いている。報告書に周溝部の埴輪片の出土状況図があるとすると、その一部を書いたわけである。
◆市教委のE川さんが車に迎えに来て、現場に行っていた。何日かは行ったのだろうが、正確な記憶はもはや無理(ノートを調べればわかるような気もする)。
◆調べると、盆地の西の丘陵にある。山形市の公社が宅地開発をして、丘陵の上が団地になっている。そこを上がってみたが、ない。車を降りて見下ろすと、それらしいものがあった。それが写真。道もありそうなので、高台の団地から下り農道を入って行く。近傍まで車で行ける。

山形泊

◆山形駅西のホテルに入り、東口側の飲み屋に向かう。このスマホ画像が18:16。何という店で、どのへんだったかも定かではない。

月山

◆鶴岡から山形市内へ。来たときは新庄から 酒田に入ったのだが、戻りの鶴岡から山形は別ルート。天気悪く月山は見えなかったのだが、月山湖PAから月山・湯殿山を遠望することができた。写真には3つのピークが写っているが、いちばん右が月山である。湯殿山は左端。残念ながら、鳥海山は最後まで上部は雲に覆われて見えなかった。
◆到道博物館の最後の写真が15:49。月山湖PAが17:04。山形市内が17:44である。

最後は民具の蔵

◆薬・蝋・提灯・桶・刃物・鋸など、諸産業の展示が面白い。
◆鶴ヶ岡城にも足を伸ばしたいところであるが、外周をめぐったので、行ったことにして、山形のホテルにむかう。到道博物館の名前は、到道館?という藩校に由来するもので、建物も残っているようだ。到道博物館というのは、移築した豪雪地帯の民家を含め、7つくらいの展示施設からなる全体の名称である。
◆鶴岡市といえば「東北エプソンアクアリウムかもすい(鶴岡市立加茂水族館)」がクラゲ水族館として著名で、見に行く候補になっていた。が、激込みのようで、駐車場に車を入れること自体に待ち時間が発生しているので、山形空港到着時点でやめになった。

重要有形民俗文化財収蔵庫

◆なかなか見ごたえがある。昭和30年代 まで使われていた船が3艘ほどならぶ。

これは美術展覧会場だったか

◆この軍旗、戊辰戦争時の、庄内藩の軍旗だそうです。撮影画像の順番 からすると、美術展覧会場という、新しい展示施設として作られたもののなかにあったような気がする。

それから

◆次に、酒井の殿さんの隠居屋敷に入る。 なかは、ちゃんとした博物館施設で、歴史資料も多くならべてある。
◆上杉→最上→酒井という領主の変遷を学ぶことができる。最上は改易され、酒井家は善政を敷いたようで、越後長岡への転封に対し反対運動が生じ、実現せず、幕末まで行く。
◆磯釣りを奨励したらしい。釣竿が一面に配列されている。

到道博物館

◆鶴岡に入る。到道博物館に行く。
◆いろんな施設の集合体である。財団法人。1000円。まず旧西田川郡役所。2階が考古資料展示室になっている。頁岩製のきれいな石器が多い。古墳はほぼないのでが、菱津古墳というのがあるらしい。箱式石棺。
◆庄内平野のこの菱津古墳の被葬者は、どこから来たのだろう。在地の人としても、古墳を作るという文化は越後からかな?。

庄内藩

◆鶴岡へ。庄内藩の本拠が鶴岡なわけです。以下、AI

庄内藩は、江戸時代に出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地とし、現在の庄内地方を統治した譜代大名の名門・酒井氏の藩です。徳川四天王の筆頭である酒井忠次の嫡流が代々藩主を務め、幕末の戊辰戦争では「幕末最強の藩」の一つとして新政府軍を圧倒したことで知られています。鶴ヶ岡城、酒井家(13万8千石〜17万石)。米どころとしての稲作、養蚕業の振興財政の支え:日本一の地主と称された豪商・本間家(酒田市)の多大な経済的支援(切れてます)。特徴1. 領民に深く慕われた善政と「天保の三方領知替え」庄内藩酒井家は領民を大切にする善政を行ったため、篤く慕われていました。1840年(天保11年)、幕府が庄内藩を越後長岡へ転封(国替え)しようとした際、領民たちが猛反発して数万人規模の「天保の義民」と呼ばれる直訴・反対運動を起こし、最終的に幕府の命令を撤回させました。2. 独自の藩校教育「徂徠学」1805年に創設された藩校「致道館」では、幕府が正学とした朱子学ではなく、実学を重んじる荻生徂徠の「徂徠学(古茂派)」を教育方針として採用しました。自学自習や個性を伸ばす独自の教育が行われ、現在も東北地方で唯一の藩校建築として建物が残っています。3. 幕末最強の軍隊と戊辰戦争幕末、庄内藩は江戸の治安維持を担う「新徴組」を管轄し、薩摩藩邸焼き討ちを行うなど旧幕府側の最前線に立ちました。戊辰戦争では「奥羽越列藩同盟」に加わり、本間家からの資金提供で得たガトリング砲やスナイドル銃などの最新兵器を配備。指揮官の優秀さもあり、新政府軍を相手に連戦連勝を重ね、一度も自領内への侵入を許しませんでした。4. 西郷隆盛との深い絆 周囲の藩が降伏したため庄内藩も最後は謝罪・降伏しましたが、戦後、新政府軍の西郷隆盛の指示により、会津藩などに比べて非常に寛大な処分(5万石の減封のみ)で済みました。これに深く感銘を受けた旧庄内藩士たちは西郷を慕い、後に彼らの教えをまとめた書物『南洲翁遺訓』を編纂しました。現在でも鶴岡市と西郷の故郷・鹿児島市は兄弟都市として深い交流が続いています。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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