人を幸せにする人になろう

2024年3月17日 旧清水町

◆本日、彼岸の入り。和歌山の墓参りに行くことにする。そのあと、職場に行くか、そのままどこかへ行くか、それは成り行き。泉福寺のお墓に行くと、和歌山名物、餅撒きの準備が行われていました。初午だそうです。初午って、何?、わかってませんが。
◆そのあと家に行き、仏壇の花を新しくする。この家、義弟の名義となり、売る話になっているようだが、どうなったのかな。

2024年3月16日 公大日本史第27号編集開始

◆去年は3月2日に半分弱くらいの原稿を入れている!。今年は集まりは悪いし、入稿もこれからだ・・・。今日から4月いっぱい、またこの仕事ですね。

足尾と田中正三

◆雑誌にまとめられた講演録の末尾です。

2024年3月16日 関隆志のこころ

◆さきほどトイレに行くと、むこうに4人の人影。用を足して出てくると、声をかけられた。西洋史院生だったK君とその奥さんと子供2人。いま同志社高校で教員をやっているそうだ。しばらく立ち話をする。奥さんは、発掘で1日通いで来てくれ、土嚢づくりをやらしたらしい。いや~なつかしいね。
◆そう、今日は2002年3月に退職された古典考古学専門の関先生が昨年亡くなられ、ちょうど一年後の追悼の集まりが田中記念館で午後に開催される。それに来てくれたとのこと。わたしが赴任して2年だけだが、同僚として過ごさせていただいた。わたしの研究室には、関先生から預けられたスライドのプロジェクタと、ギリシア関係のスライド3箱分がある。
【出席してきました】なかなか味のある会でした。先生は市大のあと宝塚造形芸術大学に移られたが、2004年のNHKのBS番組でパルテノンを取り上げた時、声優の女性と現地を訪れ解説する番組に出演し、その25分程度のダイジェスト版がまず放映され、そのあと関係者の言葉、そのあと歌と、長女の方の踊り(ダンサーで神戸大・准教授)が披露された。

嫁を大事に

◆こないだの一周忌に息子夫婦が、還暦の祝いをもってきてくれた。いろんなことを考え、記念になるようなものを用意してくれる。最初にもらった名刺入れは大事に使っている。今回のものは、少し先にまた報告します。昨年だったか、2回ほど相模原に行った記事を書きました。息子が、仕事上でいろいろあったようで休職していて、それに対応していました。おかげで、すっかり回復して仕事をしています。支えてくれているヨメに感謝です。
◆次は娘ですね。D3ですが、今年度博論が書きあがらず、半年後をいま目指しています。この人も調子がよくなかったりして、このブログにも書いたように函館までカミさんと話をしに行ったわけです。さいわい、こっちもいまは研究に取り組めているようです。9月修了なら6月には提出しないといけないと思うが、そこは見守りたい。北海道の水産関係の募集があると、カミサンのジャムステックの知り合いから教えてもらい、受けてみたら、と言っているが、どうなるかな。仲の良かった1学年の上の友達は、D3で博論を書き、大分県佐伯市にある国立の研究所で養殖の仕事に就き、このあいだ、一周忌のあと、その人に会いに行ったわけです。娘もええ年で、自分の人生だから、親がとやかく言うことではないが、とにかく次のステップへと進んでほしいもの。

網野銚子山

◆今度、年度末に出る報告書に10頁書いた。その出だしに、最初は、銚子山古墳とのかかわりを長く書いていたが、途中でぜんぶ削った。旧網野町時代に整備基本構想?の策定の委員会にかかわる。それから京丹後市になり、史跡整備の委員になり、発掘調査の最初から関わった。どうなんだろう、資料を調べてないのだが、これだけでも15年くらいはやっているのかな。最初の網野町時代、京丹後市になってからの、調査、整備の基本設計、整備事業、発掘調査報告書と、最初から最後まで一連の工程にぜんぶ関わってきた。そう多くはない委員として史跡整備等に係る案件の中で、ひととおりのプロセス全体にかかわったことになる。
◆で、この会議はなかなか楽しいしタメになる。とくにこの2年くらいか、活用にむかって委員を増やし、なかなか議論が楽しい。地元の方々が6人くらいいるのかな、あとは観光公社や地域振興の側の女性委員が4人入り、なかなか、それぞれの立場からいろいろ考えて発言され、バランスが全体としてと取れてるなあ、と。地元側は年寄りの男ばかりで、どっちかというと市側への要求姿勢が強いというありがちな面はあるが、福祉施設の活動にかかわっている人とか、保護審の人とか、アイデアを出したり、現実的な厳しめな発言をする人もおられる。
◆いよいよ来年のオープニング式典の話になってきた。物販とか飲食とか、屋台を並べた祭りにしてほしいなあ、と思う。それにしても、都道府県は、文化庁の言うことを仲介して紹介するのだが、文化庁の言うことがすべて正しいとは、こっちは思っていない。都道府県はそれが仕事ということはあるし、聞かなしゃーないという面があるのは理解する。が、ちゃうな、と思うことはいなしてほしいもの。

しんどなってきた

◆まあそんなことを、いろいろ考えておりました。
◆結局のところ、誉田が反正陵で、大仙が允恭陵ということについて、なんとか裏を取れないかな、と考えています。これ考古学的にもイケルと思うし、文献史側の対立論からしても、この組み合わしか考えられないと思うのですが。大仙、すなわちON46形式は、430くらいまでほんとに上がるのでしょうか。
◆朝、730に出て、1030には丹後大宮に到着。まずオートバックスに行き、エンジオイルを交換。次に眼鏡市場に行く。12月にフレームを変えたが、こないだまた踏んで折れちまった。レンズにも傷が入っており、イチから作ろうと。だが、前のレンズは特注のようで、取り寄せに1週間かかるとのこと。普通の老眼鏡レンズにするも、選んだフレームにわずかに幅が短いレンズしかなく、サイズの大きいものをこれも取り寄せとのこと。しかしこっちは3日あれば来て、月曜発送、火曜日に着くとのことで発注する。そこから網野まで行き、散髪屋を探す。なんとか見つけて、1時間強、ぎりぎり1330の会議にすべりこむ。

雄略即位年

◆缶チューハイ350缶を新たに買い、書き続けます。どこまで書いたのか。そうそう、雄略については、没年は古事記の489。日本書紀の在位年数が正しいとすると、即位は467になるのかな。457でなく467となると、允恭没454のあとのイメージがだいぶ変わってくる。
◆允恭没の後、安康が3年、マヨワ王に殺され、雄略がマヨワ王を殺し、イチノベを殺し即位する。それは允恭没後の数年後に過ぎない。それが10年後ろになると、ずいぶんと変わる。要するに、雄略登場の前に、キナシとイチノベの並立期間が長く続いたということになる。これが須恵器のTK208。イチノベは30年間執政王であったということになる(437~467)。
◆それと安康の問題。安康はイチノベを表しているとみている。キナシカルの在位は、允恭紀年の後半に吸収されてしまい、在位しなかったという処理がなされている。イチノベも在位したことにはなっていないが、これが安康だろう、と。安康は穴穂天皇というが、穴穂は実名でなく王宮名。なので、よく考えれば名前が不明な王なのである。実名がイチノベ、石上の穴穂宮はイチノベの王宮なんだろう。マヨワ王に殺されたとされるのは、現役の執政王イチノベがワカタケルに殺されたことを示すものとみている。菅原伏見陵などない。市野山古墳なんだから。

さらに

◆古事記からすれば、394没の応神の後は仁徳没427で、33年の在位になるのかな。古墳もそんなところで、津堂城山と仲津山・上石津との間はそれくらい空いているのでは、と思っている。
◆さてもうひとつ。これはなんとかさんの新書『倭の五王』を読んだ時に考えたこと。帰りの車のなかでそういえば、なんか考えたな、と。すぐに文章化しておかないと、そういう思考をしたことすら、まったく記憶から飛んでしまいますね。
◆倭の五王でいえば、反正没437と、珍の438の問題。つまり珍が献使したのは438年なのだが、古事記崩年干支では437年に死んでいるから矛盾する。437に使いを送り、中国皇帝と使者が相対したのが438年になった、という苦しいことになってしまう。これは牧尾さんの主張でいけば、反正没は実際には438だから、問題がやや解消するのかもしれません。
◆ついでながら倭国王の場合、王位継承のあと、ただちに献使しているわけではないですね。
◆新書『倭の五王』を読んで考えた1番の問題は、世子興の462のこと。これをもって世間では、その前の済すなわち允恭の没年は古事記では454とされるが、ほんとは461くらいまで在位していたと考える向きが少なくない。山尾先生がそうでした。これがどういうことか考えていた。
◆允恭在位中、437に反正が没し誉田御廟山古墳へ葬られる。そのあとイチノベオシハワケが執政王を継承する。454に允恭が死ぬ。神聖王はキナシカルが立つ。が、イチノベの方が年長であり、執政王系が巻き返そうとするわな、と。イチノベの執政王墓である市野山は230mに押さえ込まれているが、允恭が死んじまったら、イチノベやら葛城氏は当然巻き返そうとするだろうと(キナシは土師ニサンザイ300mと優位を確保してはいるが)。
◆つまりは允恭=済の2回目の献使のあと、神聖王キナシ・執政王イチノベの、どっちが中国に使いを送るか、2王並立の立場からすると、ワシやワシやという争いがあっておかしくない。そういうことが反映していると説明できないかと考えたわけです。結論は、世子興はキナシと考えるが、済(允恭)の後継者=世子とは名乗るが、倭国王とは名乗れなかった、といった事情を考えたわけです。

網野は写真

◆が、執政王は、ホムダワケ→イザホワケ→ミズハワケ→イチノベオシハワケ、とワケが付く系列とみているわけで、履中イザホワケのあと允恭オアサヅマでは困るわけです。オオササギ→オアサヅマでないと困る。なので、古事記では、仁徳のほんとの没年は(履中の)432、履中のほんとの没年は(仁徳の)427なのだが、仁徳を427、履中を432に入れ替えたと。
◆神聖王仁徳の即位は、応神没後の執政王である履中即位より早い。だから王統譜は応神→仁徳→履中。だけど、実際には履中は427に没した。要するに神聖王仁徳の在位期間中のなかに履中の在位がすべて含みこまれてしまう。仁徳の崩年干支をそのまま432とすると、履中の在位はなかったことになってしまう。仁徳即位後に執政王となった履中没の427をそのまま記すと、1系論では矛盾するわけです。なので没年を入れ替える操作をした。こんな風に考えているわけです。あかんかな。
◆あたりまえだけど、本人はまじめに考えているんですけどね。世間はそんなアホな、でしょうね。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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