人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2026年3月13日(金)梶原台場を見る
◆午前中に見せてもらいました。石垣が屈曲し、堀があり、橋があり、門があり、見ごたえがあった。そして規模感を実感する。発掘区は梶原台場のほんの一画であり、全体となるときわめて広大であることが、現地に立つと実感できる。
2026年3月12日(木)
◆いろんなことが重なりヘコたれている。研究面もしかり。論文は1本も書いていない。まあマネージメント業務です。それも大事。だけども、そこんところでコケている。
水野勝成と大坂夏の陣
◆以下、ウィキ。
夏の陣では大和口方面(大和方面軍)の一番手総大将に指名されるが、勝成の性格を知る家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じている。京都を発った勝成は山城国長池から奈良に進み大野治房の奈良焼討ちを阻止した(郡山城の戦い)。
奈良に着いた勝成は法隆寺から河内国府に軍を進め、本多忠政・松平忠明・伊達政宗・松平忠輝らと合流する。東軍の大和口の諸将は、4月28日以後はいずれも奈良およびその付近にあった。5月4日、勝成は秀忠に呼ばれ伏見に行き、敵に奈良を焼かせなかった功として、黄金50枚の賞を受けたが、そのまま夜を徹して南に帰り、5日には、堀直寄・松倉重政・別所孫次郎・奥田忠次・丹羽氏信、および中山照守・村瀬重治らと出発して、午後4時には国分に付いて宿営した。兵数約3,800である。
6日、河内国志紀郡道明寺村付近においてかつての同僚、後藤基次と交戦する(道明寺の戦い)。前夜のうちに単騎で小松山を登り、地形を確認。ここに敵を誘いこんで撃破する作戦を行い、図に当たる。ここで勝成は家康の命を無視し軍の大将にもかかわらず一番槍をあげ、基次の部隊を壊滅させた。さらに誉田村に兵を進め、渡辺糺と戦端を開き、糺に深手を負わせた。そのまま追撃戦になり、薄田兼相は勝成の家臣・河村重長に討ち取られた。そこに大坂方の後衛の真田信繁、毛利勝永、明石全登、大野治長らの軍が進軍してきたためこれと対峙。ここで勝成は、敵を討ち取りたいため戦端を開きたい旨を、隣に陣を構える伊達政宗に両三度申し入れたが、弾薬不足や死傷者の多さを理由に2度拒絶され、3度目には政宗が直接勝成の許を訪れ同じ理由で拒絶した。そのため大坂方と徳川方は睨み合いの状態となり、のち豊臣方が撤退したため、戦いは終結した。
翌日、大和方面軍は家康の命により住吉に向かった。天王寺口において、真田信繁隊が家康の旗本へ攻め込んで、家康をあわやの目に合わせたとき、水野隊は天王寺へ駆けつけ、越前松平隊とともに戦って茶臼山を落とし、後方を遮断。勢いを失った真田信繁は、松平忠直と本多忠政、松平忠明に足止めされていた。そこに勝成は勝愛院の西の方から600人許りで真田隊に攻め寄せた。三方から敵を受けた真田隊はついに壊滅した。信繁麾下の大谷吉治は、勝成の隊に討たれたとの情報もある。その後、越前松平隊は明石全登に崩されて、勝成の軍に逃げ込んでくるが、勝成はこれを叱責。槍を手に自ら先陣に立ってこれを押しとどめ、全登の部隊を撃退した。このとき勝成は自ら2つの首級をあげ、明石全登は勝成家臣・汀三右衛門が討ち取った。大坂城桜門に一番旗を立てる。
夏の陣では大和口方面(大和方面軍)の一番手総大将に指名されるが、勝成の性格を知る家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じている。京都を発った勝成は山城国長池から奈良に進み大野治房の奈良焼討ちを阻止した(郡山城の戦い)。
奈良に着いた勝成は法隆寺から河内国府に軍を進め、本多忠政・松平忠明・伊達政宗・松平忠輝らと合流する。東軍の大和口の諸将は、4月28日以後はいずれも奈良およびその付近にあった。5月4日、勝成は秀忠に呼ばれ伏見に行き、敵に奈良を焼かせなかった功として、黄金50枚の賞を受けたが、そのまま夜を徹して南に帰り、5日には、堀直寄・松倉重政・別所孫次郎・奥田忠次・丹羽氏信、および中山照守・村瀬重治らと出発して、午後4時には国分に付いて宿営した。兵数約3,800である。
6日、河内国志紀郡道明寺村付近においてかつての同僚、後藤基次と交戦する(道明寺の戦い)。前夜のうちに単騎で小松山を登り、地形を確認。ここに敵を誘いこんで撃破する作戦を行い、図に当たる。ここで勝成は家康の命を無視し軍の大将にもかかわらず一番槍をあげ、基次の部隊を壊滅させた。さらに誉田村に兵を進め、渡辺糺と戦端を開き、糺に深手を負わせた。そのまま追撃戦になり、薄田兼相は勝成の家臣・河村重長に討ち取られた。そこに大坂方の後衛の真田信繁、毛利勝永、明石全登、大野治長らの軍が進軍してきたためこれと対峙。ここで勝成は、敵を討ち取りたいため戦端を開きたい旨を、隣に陣を構える伊達政宗に両三度申し入れたが、弾薬不足や死傷者の多さを理由に2度拒絶され、3度目には政宗が直接勝成の許を訪れ同じ理由で拒絶した。そのため大坂方と徳川方は睨み合いの状態となり、のち豊臣方が撤退したため、戦いは終結した。
翌日、大和方面軍は家康の命により住吉に向かった。天王寺口において、真田信繁隊が家康の旗本へ攻め込んで、家康をあわやの目に合わせたとき、水野隊は天王寺へ駆けつけ、越前松平隊とともに戦って茶臼山を落とし、後方を遮断。勢いを失った真田信繁は、松平忠直と本多忠政、松平忠明に足止めされていた。そこに勝成は勝愛院の西の方から600人許りで真田隊に攻め寄せた。三方から敵を受けた真田隊はついに壊滅した。信繁麾下の大谷吉治は、勝成の隊に討たれたとの情報もある。その後、越前松平隊は明石全登に崩されて、勝成の軍に逃げ込んでくるが、勝成はこれを叱責。槍を手に自ら先陣に立ってこれを押しとどめ、全登の部隊を撃退した。このとき勝成は自ら2つの首級をあげ、明石全登は勝成家臣・汀三右衛門が討ち取った。大坂城桜門に一番旗を立てる。
神辺城
◆以下、ウィキ。
現在の位置(黄葉山)にあるものは、室町時代の1443年(嘉吉3年)に山名氏によって築かれたのが始まりと思われる。
黄葉山の神辺城は度重なる改修を受け、江戸時代になると福島氏により近世城郭として整備されるが、福島氏に替わり入封した水野勝成は新たな城(福山城)を築いて神辺城を廃城とした。このとき、建物や石垣の殆どが福山城に転用されるなどしたため、神辺城跡には山頂や尾根を削った曲輪や掘割などが現存するのみとなっている。
なお、神辺城(黄葉山)の城名は廃城後(16世紀末以降)に付けたれたものであり、歴史上は「村尾城」が正確な呼称である。
現在の位置(黄葉山)にあるものは、室町時代の1443年(嘉吉3年)に山名氏によって築かれたのが始まりと思われる。
黄葉山の神辺城は度重なる改修を受け、江戸時代になると福島氏により近世城郭として整備されるが、福島氏に替わり入封した水野勝成は新たな城(福山城)を築いて神辺城を廃城とした。このとき、建物や石垣の殆どが福山城に転用されるなどしたため、神辺城跡には山頂や尾根を削った曲輪や掘割などが現存するのみとなっている。
なお、神辺城(黄葉山)の城名は廃城後(16世紀末以降)に付けたれたものであり、歴史上は「村尾城」が正確な呼称である。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。