人を幸せにする人になろう

高輪築堤と旧門司駅の遺構

◆日歴協のHPで、いろいろ知らないことを知る。旧門司駅の問題は、新聞報道もあったのに、まるで無関心でした。市長は保存はせず、一部移築とし、新年度予算案に盛り込んで、4月にかかる予定であったが、議員が反対し、この移築予算が通らなかった、とのこと。文化複合施設を予定通り建てる、遺跡は壊す、という北九州市の議員が大勢を占めたよう。
◆門司港レトロを売り出しつつ、それは門司港で十分、門司駅の遺構はいらん、というわけです。写真の範囲なのか、貨物の方なのか、調査区の位置がわからないが、有用な観光資源になりうるのに・・・。日本考古学協会から要望書が出ている。
◆また高輪築堤の続きのところでも、いろいろ新たなことがわかってきているようです。

『歴史科学』最新号

◆大阪歴史科学協議会の例会で陵墓問題を取り上げたものが活字になった。例会の日は、先約があって出ることができなかった。Tさんの文章の文末を掲げておきます。重いですね。プラス面があることは事実で、考古の側はそういう立場が多いように思う。とくに古墳をやっている者は、世界に認められた!、といった気持も否定できないでしょう。が、純然たるハカリに掛ければ、その通りだと思う。名称の問題はきわめて重大。
◆いま16学協会では、ワーキングを作り、人によって異なる古墳名を、学会側として統一案を出そうとしているとのこと。やれることをやる、これを主導するTさん、頑張っています。
◆この論考で驚いたのは、イコモスの評価書には、祭祀が続けられていることも日本の文化として重要だ、といった書き方をしていたこと、これに対し日本側は、それは本質ではないと反論していた、ということ。知らずに恥ずかしい限りである。

2024年3月10日、富田林

◆翌日、カミサンを整形外科に連れて行く。ギブスが取れ、もういいのだそうである。昼には戻り、息子夫婦は帰っていき、娘は大分県佐伯の友人のところに行く予定を組んでおり、OCAT2130頃発の深夜バスとのこと。なので、3人ででかけることにする。
◆尼崎に行こうかと思ったが、富田林にする(なかなか尼崎の博物館に行けませんね)。で、びっくり。大勢の観光客でごったがえしている。なにかフェアをやっていて、いろいろ回って回答して何か当たる、といったことのようだが(延長しますとの書き込みもあった)、各家の雛飾りとも重なり、人が集まっていることに驚いたわけです。何度か来ているが、最初は7年くらい前だったか。5年位前には交流館ができた頃だったような気がする。その頃に比べると、お店もでき、飲食できるところも明らかに増えている。寺内町のデンケンで、これくらい観光客を集めているところは他にあるのだろうか、というくらいの賑わいでした。
◆きわめつけは酒蔵を改造した地ビールが飲める店。こんなん、なかったぞ。入口からは想像がつかなかったが、中に入ると酒蔵は広い。客も次から次へと覗いては入って行き、みなさん10種類くらいのなかからビールを頼み、適当なツマミを取って、ほんとに楽しくしゃべっている(わたしはノンアル)。こういうの必要ですよね。
◆驚きの富田林寺内町でした。

2024年3月9日 母の一周忌

◆前日に子らもみな帰ってきてくれ、土曜日の朝、加古川のお寺に行きました。画像は3月11日の夕刊。毎年、母は、イカナゴの釘煮を作って送ってくれていました。が、かなり少なくなっているようです。その後の情報に寄れば、解禁はされたが、この日だけで終わった、とのこと。
◆9日はお寺での一周忌の後、東加古川駅近くの店で食事、そのあと場所を喫茶店に移動し、話をする。国分に戻ると1830。子供らは2泊してくれて日曜日に帰るので、正月よりもゆっくり話ができました。なぜか数学やら化学・物理の話題も出る。

西都原博物館20周年

◆2004年にできたのですね。20周年だそうです。 最上階のレストランで食事をしました。その時に撮ったもの。いまではそう年齢も違わないくらいの、やや上くらいの夫婦が、何組かおりました。西都市への観光客はピークは127万人で、いまは60万人、どのようにもっと来てもらえるか、館長さんが熱心に語ってくれました。

2024年3月8日、西都原の委員会 記事№6200

◆文化庁のふるさと歴史の広場事業が、平成元年スタートだったと記憶する。そのあと、より大型の事業メニューが用意されるのが1990年代半ば。その頃のイケイケ時代にわたしは役所に在籍していたわけだ。で、西都原は、大規模遺跡等総合整備事業、そのあとの地方拠点史跡等整備事業と、1995年からいまに続く整備事業がスタートする。
◆その採択にあたって作成した基本計画からだいぶ経過する。そこで、今日では、保存活用計画を作りましょうという指導を受けているようである。5か年計画Ⅴ期が今年度までで、来年度からの次の第Ⅵ期のなかで、保存活用計画(ホカツとよびならわされているようである。ホカツ・ホカツ・・・)を作るメニューを組み込む県の意向が示された。これについて主に議論する。話題に出たことは、まあもっともなところです。西都市は国府も国分寺・国分尼寺もかかえ、西都原古墳群の調査や整備は宮崎県がやっている。分担しながら、県と市がともに両者を一体としていかにこの地域の文化財のパワーを盛り立てていくか、同じ方向を向いて力をあわせる今後の体制をいかに作っていくかが課題であるということが確認された。
◆鬼の窟古墳の石室に入る。昼間は、13号墳の埋葬施設とともに、開錠され、石室内に入れるようになっていることはうれしい限りですね。ただし、石室のハラミも指摘され、モニタリング用の計測点マーカーが奥壁を中心に貼ってあった。

土持氏

◆このあたりの中世史にとって、縣土持氏と財部土持氏抜きには語れないようである(ウィキを見てください)。というわけで、宮崎駅前11時出発だと、このくらいしかまわれませんでした。また次は日向市あたりから南下しようか。
◆レンタカーの返却は少し遅れたが、無事戻ってきました。チューハイを調達しに行こう。

高鍋の資料館

◆時間もなくなってきて、日向市の古墳も調べていたのだが、それは次回として、高鍋町の資料館へ行く。2000年から2001年だったか、持田古墳群の委員を頼まれ、数度、高鍋には行った記憶がある。今回、資料館があったので、行ってみることにしたが、できたのはずいぶん古いようである。
◆なんとお城があるではないか。ぜんぜん知りませんでした。無知です。財部という地名を高鍋にしたのだそうです。近世は秋月氏3万石という。歴史総合資料館は、お城の手前のところにある。1986年の開館らしい。2階は民俗資料。1階は歴史展示だが、考古資料は限られている。鏡が4面あった。全国に持田古墳群の資料は散在しているんでしょうね。そういうのを戻せば、なかなかの古墳時代の展示が構成できるのですが。

延岡城・内藤記念博物館

◆スマホで、表題の博物館が出てきたが、カーナビにはない!。お城なんだろうと適当に入れて、向かっていると、ちょうど看板が出てきて、お城より手前だった。真新しい。2022年9月の開館だそうである。撮影禁止…。こっそり1枚だけ。
◆延岡城の下層で弥生後期から庄内くらいの土器が出ているらしい。パット見て、これ岡山か?、とか、阿波・讃岐あたりの脚付精製小壺か?、と思われるようなものもある。
◆古代・中世…。近世は領主がけっこう変わったようですね。で、18世紀に内藤氏が入り、幕末まで続き、明治に東京に行くも、戻ったらしい。画像の左端に写っているのは石棺。
◆近代。火薬製造工場があって、徹底的に空襲されたらしい。若山牧水は、南の日向市生まれで、延岡の学校で学んだらしい。

南方10号墳

◆向かいの10号墳は約80mとある。写真の道路わきのごみ置き場になっているところに車をとめればよい。10号墳へは歩いてください。10号墳に登って撮った写真もあるが、全体を示すには、向かいの1号墳から見た写真のほうがわかりやすいので、それを。
◆宮崎県の古墳は、ほとんど国史跡になっているというオソロシイ県なのである。で、大木を伐採しているところでした。写真でも、側面がよく見えますよね。大きいけれど、墳丘の傷みは大きい。が、こちらの方が、川を見下ろすいい場所にあり、1号墳より平野部に近い。なので1号墳より古いのでしょうか。けっこう前方部頂が長い。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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