人を幸せにする人になろう

南方古墳群

◆1988年にバイクで九州を一周した時、参考にしたのは保育社の森浩一監修の都道府県シリーズ。で、南方古墳群も調べていたと思う。とはいえ、菅原神社古墳のあと、南方古墳群に行くも、記憶が思い起こされることはなかった。来てないのかな。それに比べ、いまは情報がネットに上がっていて、それをカーナビに入れれば行けますね。ぜんぜん変わりました。また、フィルムカメラの時代は、ばんばん写真を撮れたわけではない。フィルム代、現像・焼き付けと、お金がかかる。持田や西都原の写真がわずかにある程度。
◆1号墳と10号墳の2つの前方後円墳を見に行く。このあたりのものは、鳥居龍三がかなり発掘しているらしい。2つの前方後円墳の間は、やや丘陵が低かったのでしょうか、道路が通されて、両者は分離してしまっている。まず1号墳は道路の南脇。70mだそうです。まあきれいな絵鏡形なんでしょう。横の2号墳は方墳で石室とあるが、よくわかりません。
◆延岡でも、こっちは西の端。で、こっちがオオヤマト段階のより古い2基なのかな、と。で、佐紀の段階に菅原神社古墳が、とみておきたい。

延岡・菅原神社古墳

◆延岡まで東九州道で北上し、菅原神社古墳に行く。入口に公民館があるのだが、今日は利用がないので駐車場に鎖が張ってあり止められないが、寄せて駐車する。ちょこっと写っていますね。
◆古墳は、まあ悲惨なことになっている。それは前から知っていたことだが、想像以上に墳丘が削り込まれている。そして参道が前方部を縦に抜いている。しかし周囲に堤状の、というか周溝の掘り込みの輪郭がめぐる。墳丘は約110mとある。80歩ですね。部分的に調査してるのでしょうか。
◆佐紀陵山型ではないかと勝手に推測したような気がする。だったら埴輪がありそうなものだが、まったく見当たらなかった。
◆傾斜量図を載せておきます。延岡でも北端部。

今井町について

◆ヤマダさんが、今井町の資料を送ってくださった。今井町の古文書には、森本さんが第一人者。森本さんの書いたガイドブックを読み、理解した今井町の歴史をまとめている。まだまだ頭に入らないが。
◆で、天文期の浄欽、その後裔と思われる今井兵部と、天正11年に登場する今井兵部、これはつながらないんだそうです。これは定説になっているよう(古い理解では一度今井を離れて戻ってきたと考えられてきた)。あとの今井兵部は、近江出身の河瀬氏で、それが名跡を継いだのだろう、とのこと。
◆で、大阪の住吉郡五箇庄の話。文禄2年だかに、前年に今井宗久が死に、子の宗薫が継ぐが1000石に減らされた。が、翌年の文禄3年に、奈良・今井の今井兵部に代官職を与えられたという。その文書が称念寺にはある。【着陸するので、またあとで】
◆だが、慶長3年の関が原で今井宗薫は東軍に協力し、300石加増されて1300石の知行地を与えられる。いまの堺市北花田と大豆塚は、幕末まで今井領なのです。これ、こないだの杉本村山野家文書でも確かめられた。今井宗久以来の五箇庄の領地は、こうして幕末まで、旗本となった宗久の家筋の領地だった。堺の今井宗久は信長に優遇され、秀吉になると奈良・今井の今井兵部、で再び徳川の時代になると今井宗薫が取り戻す、というのが大筋の流れのようである。
◆で、前から常々わからないのは、今井宗久が奈良・今井町と関係があるのかないのか、ということ。近世の家譜によると、今井宗久は近江国高島郡の出で、なんたらの3男ということになっているらしい。で、本願寺衆徒であったようで、奈良・今井にやってきて、そこから堺の納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鴎に茶を学ぶ、といったことが推測されている。先の住吉郡五箇庄の領地や代官職のことを考慮すると、今井宗久は今井町とやはり無関係でないように思うが…。今井宗久と今井町を結びつける根拠を調べないといけません。
【画像追加】依網(羅)郷土史からコピーしていたものがあったのを思い出した。

2024年3月7日 宮崎へ

◆いま伊丹発宮崎行き便のなかです(10:15頃)。眼下に見えるのは高知県かな。しばらくすると高知県の南西角まで来た(画像)。この間、岩松は見えないものかと眺めていた。
◆西都原の委員会に出席するため。毎年、現地を見て会議をやり、1日仕事なので、前泊。このところは、1日目は丸1日近く職場で仕事をして、夕方便で宮崎に入っていた。
◆今回、せっかくなので早い便にしてもらった。車で古墳を見て回ろうと思う。1988年に主だったものをまわり、基本はそれをなぞうろうと思っていたが、2016年だったかに西都原博物館で講演したときに、延岡市の菅原神社古墳を知ったのを思い出した。延岡まで足をのばそうとと考えている。
【追記】この記事、飛行機の中から衛星経由でブログをアップした第1号ですね。

2024年3月4・5日 杉本村山野家文書整理

◆今回は、日本史研究室の行事でなく、有志による。あわせてガイドプラス講座の「古文書読解」の履修者(履修済み+今年度の履修者)が10人も参加してくれている。この科目、絶対に需要はあると科目の新設を主導したので、こうして実践の場に参加している履修生のみなさんの姿を見ると、とてもうれしい。
◆ガイドプラス講座履修者の会も、次は5月の日程が決まり、軌道に乗ろうとしている。

越前和紙4

◆紙漉きのおねえさん曰く、飾り物などもいいのだが、書く用紙として和紙をもっと使ってほしい、と。和紙のダイアリーはないのかと質問。作ったと出してきたのは予定帳。いろいろアイデアを出す商品開発者が入れば、きっと製品化できるものもあるのではないか。確かに、書くのに使ってもらうのが本筋。
◆それと工芸館の2回の展示を見る。おそらく貸しギャラリー。こういうのもいいと思う。古民家の空き家を、いろんな作品を作っているプロやセミプロ、アマチュアが、展示会をやったり個展を開いたり、そういうのをどんどんプロデュースするような人が必要ですね。写真、暗いですが・・・。
◆最後、パピルス館で、和紙のメモパッドと名刺を購入。このところ、わたしの名刺は、津山の和紙(こないだすべてハケル)、安来の和紙です。
◆ここで帰途に就く。次は美濃和紙。それと東京王子製紙の洋紙の博物館に行きたい。

越前和紙3

◆われわれが向かった谷奥が、マチナミとしてはもっともよく残るところのよう。ここ今立では、まだまだ和紙作りが産業として成り立っているようだ。
◆引き返し、卯立の民藝館に行く。移築したもので、そこで紙漉きの実演をしている。博物館、行かなかったが隣の美術館、この工芸館、それと和紙製品の物販所であるパピルス館というのが、一画にまとまってある。民間でなく町が作ったのだろう。
◆蕎麦屋で昼を食べ、工芸館に入ると、紙漉きの実演をやっている。実際を見るのが一番ですね。見ながらあれこれ質問し、それに答えてくれる。今年度の4月からやっているという、若い女性でした。その横では、雁皮なのか、水の中で不純物を取り除く、地道ながら重要な作業をやっている、一定の年配の女性が手を動かし続けている。紙漉きのところには、若いニイチャンが1人。
◆で、菊版1枚が仕上がると(いまやっているのは0.18ミリ厚のものという)、若い女性が手を止めて、置いてある道具とか、紙漉きの説明をいろいろしてくれる。すっかり仲良くなり、月に1度は来ているというニイチャンとともに、和紙の話で盛り上がる。名刺を交換。

越前和紙2

◆町歩きで、川沿いに谷の奥へむかう。空き家になったが保存され一定の修理がなされたらしい建物があり、卯立の説明があった。が、どうも一般的な卯立ではない。説明文を読み、裏にまわったりしていると、向かいの家で庭のフキノトウを取っていたオバチャンから声がかかる。
◆卯立がわかるか、立派だろう、といったのが口火だったか。どこから?、大阪から、入って来いと、その家の門をくぐる。有名なアキちゃん(玉村秋子)という人で、紙漉き歌を歌える唯一の人物で、テレビに出て歌ったこともあるとか、映画に出たとか(「つむぐもの」というやつ)。で、歌っていただきました。確かにうまい!。なんとか紙漉きでまだ働いている82歳(だったか)。会社のHPには、オバチャンの歌う動画が上がっています。
◆おみやげもいただき、神社はあっちだと教えてもらう。大滝神社・岡太(もと)神社(紙祖神である川上御前が祭神)をお参りする。

2024年3月3日越前今立

◆翌日、尼崎の博物館に行くつもりで近畿道を北上。天気のよさに遠出することに切り替え、越前今立郡に向かう。和紙シリーズです。
◆武生ICで下りて真東に向かうと、今立郡岡本村(昔の行政村)につきあたります。五箇という地区で、5つの村からなります。まず博物館。越前和紙の体系的な展示がある、というわけではなく、それは映像。展示としては、現在のものを含む和紙のいろんな種類がぶらさげてある、そういう実物の展示でした。企画展としてガリ版で草花を描いた作家さんの作品がならぶ。著名な挿し絵作家のようであるが、簡易で表現力豊かなガリ版絵をず~と描き続けていた方のようです。そのあと、卯立の工芸館に行く前に、町歩きをしようと、谷の奥へ進む。大滝という、五箇のなかでも最も奥まった地区です。
◆写真は、博物館にあった、このあたりの伝統工芸の展示パネル。付近に、漆・刃物などの施設が集まっている。なお、行かなかったが、合併前は今立町だったんでしょうか、近代の中心地は東西道路の北側のようで、そちらには足を運ぶことなく終わってしまいました。

2024年3月2日森之宮講演会

◆この日は条里制・古代都市研究会の1日目(とてもおもしろそう)、また前日に高地性集落シンポもあるということを知るが、会社の関係の森之宮講演会にでかける。朝から夕刻まで、なかなかハードであったが、とても勉強になりました。
◆ひとつ最初の地質の報告で、投影され、わかりやすかった図を資料集から。基盤層の上が第4紀大阪層群ということでしょう。下半分は基本的に水成層で海が入ることなく、陸地の盆地状地形だった時代で、湖になっている時と陸地化した時が繰り返されているのだろうと思うが、それがひとつに表されている。そして上半分は、灰色の海成層がMA-1から始まり、繰り返し海になったり陸になったりを繰り返している縞々で現れている。そしてそれが、上町と生駒の2つの逆断層によって基盤層から割れ、それにより大阪盆地の水平であった堆積層がぐにゃりと変形している様子がよくわかる。
◆生駒の断層によって西側が沈降しつつ、生駒山地の隆起で堆積層がひきずり上げられている。上町断層の西は、水平な堆積を保持した形で沈降し、東側がせりあがっている。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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