人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
誉田御廟山の堤に入って
◆昨日02月24日(木)、誉田御廟山に入る。まったく準備をしていなかったが、前日に1時間、当日の午前で準
備する。1500分の1で5枚に分割した拡大図を用意し、各所を計測したり、なによりも、ルートをイメージしながら、チェック箇所を考えた。そういえば、2006年に近つで、誉田御廟山についてしゃべったとき、御廟山の復元をやったな~と思い出し、そのパワポを取り出した。入ってからあとの事後検討会で、いつも「あそこがここが」ということになるので、プロジェクターで測量図を投影しながら議論すればいいのにと思っており、プロジェクターをもっていくことにする(結局使わなかった)。それと、文化庁に確認することの項目を準備していたので、当日の議論の成り行きでは配布しようかとコピーをしたが、あわてていたのか持って出るのを忘れた。
◆でかいので1周するのに3時間かかる。入ってのひとまずの感想を、以下、少し書く。いずれにしても、現場でのメモ、写真(140枚になる)など、翌日には原稿を書き上げるくらいのことをしないと、忘却する。ひとまずデジカメ写真の撮影方向を図に落としたが、原稿はしんどいな~。
◆中期に幅のある周堤が完備されるが、陵墓でも堀の肩の部分から内側が宮内庁管理地になっているものが多く、宅地化が進んで保存されていないものが多い。誉田御廟山は堤の外まで宮内庁の管理地となり、これまでよく保存されてきたので、中期古墳の周堤について、本来の姿を確認することができた。しかも幅35歩48m、裾部で約60mの、我が国最大のものである(大仙の上面約30m)。また陵墓図には埴輪列の位置が実は記入されており、埴輪列の幅もわかっている。いまでも樹立状況のわかる埴輪を2カ所で見ることができたし、養生のために土を入れた箇所1カ所を教えてもらった。
◆大仙や誉田御廟山は周堤を取り込んでいるために、墳丘そのものは遠望するしかなかったが、今回、堤のヘリから墳丘本体を望むことができた。崩壊箇所を除くと、測量図にある通り、非常に保存状態がよい姿がうか
がえたが、樹木や周濠底の水草などで、よく観察できたわけではない。水位は30㎝程度上下するくらいであるという。で、裾部がやや傷んでいる箇所や、葺石がならぶ姿を遠望したが、あんまり傷みはそれほどではない。
◆御廟山の下段はほぼ露出している。いまの汀と本来の基底部はほぼ近いと思っている。周濠は浅く、下段斜面がさらに下方にあまりのびるようには思わない。それと、今日の話でも、けっこう浚渫して堀を造り出しているような話だった。明治の修陵前の状況と、明治13年、明治21年~24年の浚渫などを、きちんと整理しなければならないが、市野山・仲津山と同様にほぼ空堀状態であったものを、むしろ周濠底部をさらに掘削して水堀になるようにしているのではないか、と思う。
◆二ツ塚古墳も見ることができたし、誉田丸山古墳もたぶん帆立貝なんだろう。
◆でかいので1周するのに3時間かかる。入ってのひとまずの感想を、以下、少し書く。いずれにしても、現場でのメモ、写真(140枚になる)など、翌日には原稿を書き上げるくらいのことをしないと、忘却する。ひとまずデジカメ写真の撮影方向を図に落としたが、原稿はしんどいな~。
◆中期に幅のある周堤が完備されるが、陵墓でも堀の肩の部分から内側が宮内庁管理地になっているものが多く、宅地化が進んで保存されていないものが多い。誉田御廟山は堤の外まで宮内庁の管理地となり、これまでよく保存されてきたので、中期古墳の周堤について、本来の姿を確認することができた。しかも幅35歩48m、裾部で約60mの、我が国最大のものである(大仙の上面約30m)。また陵墓図には埴輪列の位置が実は記入されており、埴輪列の幅もわかっている。いまでも樹立状況のわかる埴輪を2カ所で見ることができたし、養生のために土を入れた箇所1カ所を教えてもらった。
◆大仙や誉田御廟山は周堤を取り込んでいるために、墳丘そのものは遠望するしかなかったが、今回、堤のヘリから墳丘本体を望むことができた。崩壊箇所を除くと、測量図にある通り、非常に保存状態がよい姿がうか
◆御廟山の下段はほぼ露出している。いまの汀と本来の基底部はほぼ近いと思っている。周濠は浅く、下段斜面がさらに下方にあまりのびるようには思わない。それと、今日の話でも、けっこう浚渫して堀を造り出しているような話だった。明治の修陵前の状況と、明治13年、明治21年~24年の浚渫などを、きちんと整理しなければならないが、市野山・仲津山と同様にほぼ空堀状態であったものを、むしろ周濠底部をさらに掘削して水堀になるようにしているのではないか、と思う。
◆二ツ塚古墳も見ることができたし、誉田丸山古墳もたぶん帆立貝なんだろう。
感想
◆やっと採点が終わる。共通教育科目の考古学入門と、専門科目第2部の考古学通論の、後期の定期試験。最近では、問題をあらかじめ出して、まとめる準備をさせている。
◆1部の共通科目、これ今期は200名とか300名といった受講者でなく、だいたい100名だろう。途中で半分はいなくなる。間に小レポート2つを課しているが、試験で及第点をとるのは1/3強というところか。レポート点があるので、50名近くが合格になった。半分落としていると言うよりも、登録のみで試験に出てこなかったものも多い。で、答案を見ていると、むろんできるヤツはできている、きちんとしている。が、ハナからなめているヤツが多い。できが悪いものは、縄文時代やら弥生時代やら古墳時代やら、高校までの知識と、既に知っていること、直前にネットを見るなどして、適当に書けると思っているような答案が多い。むろん、ぜんぜん授業に出ていないな、ということはすぐにわかるが、そうであってもきっちり書けてれば問題ないが、上記の通りである。いい加減な知っていることを脈絡なく並べるだけ(たとえば縄文時代の石器は磨製石器であるとか)。
◆それに比べ、通論では6世紀の話を、すこし専門的かな~と思いつつ、趣味的に授業をやったが、こちらの場合、登録者は60人ほどだが、ほぼ50人くらいはきちんと出てくる。そして、小さな教室で顔もよく見える近さというのもあるのだろうが、熱心に授業を聞いてくれている。で、答案を見ると、なかなかよくできているわけだ。中にはやはり出てないなと思うのもあるが、数枚くらいだった。あとは授業でしゃべったこと、レジュメなどをもとに、自分でちゃんと答案を準備している。かつ、まとめるのみならず、自分なりの評価のような文を最後に書いてある。当たっているかどうか、というよりも、答案を準備する中で、自分で6世紀ってこういうのとちゃうか、ということを考えているということだ。
◆第2部の学生の方がおしなべて熱心である。この2部、既に廃止が決まっており、たしかにシンドイことなのだが、授業をする側にとっては、このように熱心に聞いてくれるという意味ではヤリガイがあった。第1部の学生の方が、むろん入学時の学力はあるのだろう。そして熱心な子らもむろんいる。が、半分くらいは適当にやっているとしか思えない。まあ授業に出てこなくてもいいのだが、やるときはやる、試験前くらいちょっとは勉強して、なるべくちゃんと答案を書こうというのならいいのだが、少し悲観的である。読み手のことなどなにも考えていない、汚い字による乱暴な殴り書きを見ていると・・・。
◆1部の共通科目、これ今期は200名とか300名といった受講者でなく、だいたい100名だろう。途中で半分はいなくなる。間に小レポート2つを課しているが、試験で及第点をとるのは1/3強というところか。レポート点があるので、50名近くが合格になった。半分落としていると言うよりも、登録のみで試験に出てこなかったものも多い。で、答案を見ていると、むろんできるヤツはできている、きちんとしている。が、ハナからなめているヤツが多い。できが悪いものは、縄文時代やら弥生時代やら古墳時代やら、高校までの知識と、既に知っていること、直前にネットを見るなどして、適当に書けると思っているような答案が多い。むろん、ぜんぜん授業に出ていないな、ということはすぐにわかるが、そうであってもきっちり書けてれば問題ないが、上記の通りである。いい加減な知っていることを脈絡なく並べるだけ(たとえば縄文時代の石器は磨製石器であるとか)。
◆それに比べ、通論では6世紀の話を、すこし専門的かな~と思いつつ、趣味的に授業をやったが、こちらの場合、登録者は60人ほどだが、ほぼ50人くらいはきちんと出てくる。そして、小さな教室で顔もよく見える近さというのもあるのだろうが、熱心に授業を聞いてくれている。で、答案を見ると、なかなかよくできているわけだ。中にはやはり出てないなと思うのもあるが、数枚くらいだった。あとは授業でしゃべったこと、レジュメなどをもとに、自分でちゃんと答案を準備している。かつ、まとめるのみならず、自分なりの評価のような文を最後に書いてある。当たっているかどうか、というよりも、答案を準備する中で、自分で6世紀ってこういうのとちゃうか、ということを考えているということだ。
◆第2部の学生の方がおしなべて熱心である。この2部、既に廃止が決まっており、たしかにシンドイことなのだが、授業をする側にとっては、このように熱心に聞いてくれるという意味ではヤリガイがあった。第1部の学生の方が、むろん入学時の学力はあるのだろう。そして熱心な子らもむろんいる。が、半分くらいは適当にやっているとしか思えない。まあ授業に出てこなくてもいいのだが、やるときはやる、試験前くらいちょっとは勉強して、なるべくちゃんと答案を書こうというのならいいのだが、少し悲観的である。読み手のことなどなにも考えていない、汚い字による乱暴な殴り書きを見ていると・・・。
ナウシカとラピュタを英語で
◆娘がもうすぐアメリカに行くが、なんにもやっていない。で、ナウシカやラピュタはすべての台詞を覚えているくらい見倒しているようなので、それを英語で聞いたら、ちょっとは勉強になるんちゃう、という話になった。
◆早速その日の夜、ラピュタを見る。字幕を英語にすることもできるが、音声と必ずしも同じではない。どれだけ効果ががあるかはわからんが、直前とはいえ、ちょっとは意味があるのでは?
◆でナウシカのDVDに変えると、これが英語が入っていないのだ。それで、ネットでカミさんが調べると、別に英語習得用のDVDがあるようで注文する。それがやってきて見てみると、これは英語学習用であるからか、吹き替えている話し言葉が文字でも出るようになっている。だけど、これほんとにジブリなのか、バッタもんちゃうか、あやしいで、ということだそうだ。
◆映画とかで英語を身につける人はいますよね。高校時代、木村君というのが映画が好きで、映画で英語を学習していた。
◆英語教育に反対みたいなことを書いているのに、娘をアメリカに行かせるのは矛盾しているのでは、と指摘をうけそうなのでひとこと。別にアホみたいに小学校から英語をやらせることはないのである。それよりも日本語を。娘は推理小説を山ほど読み、自分でなんか小説を書いているようだ。文系ちゃうんかとも思うが、生き物が好きなので、来年高2だが理系を選択している。で、中学から英語を学び、苦手だが、普通に勉強している。ちゃんと英語が読めるにこしたことはなく、+コミュニケーションもとれればそれはよい。順序が逆なんだ。カミさんの弟は一流商社で英語とスペイン語を操っているが、これほぼ就職してからです。必要になれば身につくのであって、20代くらいなら十分。そんなにハヨから英語をシャベル必要はない。
◆アメリカに行くのは、高校生くらいで放り込んで、やむなく英語をしゃべらなあかん環境におかれたら、たどたどしくも単語を配列し、それで伝わるもんだ、という感覚を身につけるためには有意義だろうから。オレは、そういうのがなくて30代になり、40代になり、英語でしゃべりかけることができないわけだ。もはや単語も出てこないし、ポツポツとでもしゃべろうという勇気はどこからも出てこない。だが、10代でコミュニケーションをとろうとした経験をもっていると、多少は違うんだろうと思う。
◆ま、矛盾がすべて解消される説明かといわれると、?・・・かな~。そこは鳥飼さんの著作を読んでみたい。だけど、「アメリカの植民地か」みたいな英語教育には絶対反対だ。
◆早速その日の夜、ラピュタを見る。字幕を英語にすることもできるが、音声と必ずしも同じではない。どれだけ効果ががあるかはわからんが、直前とはいえ、ちょっとは意味があるのでは?
◆でナウシカのDVDに変えると、これが英語が入っていないのだ。それで、ネットでカミさんが調べると、別に英語習得用のDVDがあるようで注文する。それがやってきて見てみると、これは英語学習用であるからか、吹き替えている話し言葉が文字でも出るようになっている。だけど、これほんとにジブリなのか、バッタもんちゃうか、あやしいで、ということだそうだ。
◆映画とかで英語を身につける人はいますよね。高校時代、木村君というのが映画が好きで、映画で英語を学習していた。
◆英語教育に反対みたいなことを書いているのに、娘をアメリカに行かせるのは矛盾しているのでは、と指摘をうけそうなのでひとこと。別にアホみたいに小学校から英語をやらせることはないのである。それよりも日本語を。娘は推理小説を山ほど読み、自分でなんか小説を書いているようだ。文系ちゃうんかとも思うが、生き物が好きなので、来年高2だが理系を選択している。で、中学から英語を学び、苦手だが、普通に勉強している。ちゃんと英語が読めるにこしたことはなく、+コミュニケーションもとれればそれはよい。順序が逆なんだ。カミさんの弟は一流商社で英語とスペイン語を操っているが、これほぼ就職してからです。必要になれば身につくのであって、20代くらいなら十分。そんなにハヨから英語をシャベル必要はない。
◆アメリカに行くのは、高校生くらいで放り込んで、やむなく英語をしゃべらなあかん環境におかれたら、たどたどしくも単語を配列し、それで伝わるもんだ、という感覚を身につけるためには有意義だろうから。オレは、そういうのがなくて30代になり、40代になり、英語でしゃべりかけることができないわけだ。もはや単語も出てこないし、ポツポツとでもしゃべろうという勇気はどこからも出てこない。だが、10代でコミュニケーションをとろうとした経験をもっていると、多少は違うんだろうと思う。
◆ま、矛盾がすべて解消される説明かといわれると、?・・・かな~。そこは鳥飼さんの著作を読んでみたい。だけど、「アメリカの植民地か」みたいな英語教育には絶対反対だ。
今年度中にはホームページを
◆いちおう、文学部のサーバ管理者にHP用の枠を取ってもらうように連絡済。業者を決めて、初期の立ち上げを
依頼した。2月中にはトップページだけは決定し、3月中にはなんとかなるかな?
◆ブログみたいに、簡単に新しい情報をアップできるようにすることを希望する場合は、なんとかという30万円のソフトを導入することを勧めているんだとか。それは高い!。3万円くらいであれば、それでブログ風に簡単にやれるならと思うが、30万円は高いぜよ。とはいえ、そうしない場合に、ホームページビルダーを操れるか、といわれると難しいんだろう。
◆どうなることやら、といったところだが、ともかくも今年度予算で、ひとまず最初の立ち上げはやることになる。お楽しみに。
◆ブログみたいに、簡単に新しい情報をアップできるようにすることを希望する場合は、なんとかという30万円のソフトを導入することを勧めているんだとか。それは高い!。3万円くらいであれば、それでブログ風に簡単にやれるならと思うが、30万円は高いぜよ。とはいえ、そうしない場合に、ホームページビルダーを操れるか、といわれると難しいんだろう。
◆どうなることやら、といったところだが、ともかくも今年度予算で、ひとまず最初の立ち上げはやることになる。お楽しみに。
自転車で京都へ
◆結局、答案の採点は間にあっていない。ブログなんぞやってないで採点をすべきなのだが・・・。
◆下宿を始めるとき、たぶん家から持っていったのは、机と椅子、布団、食器類くらい。炊飯器やら整理ダンスなどは、生協で買った。で自転車。
◆実は、京都まで自転車で行ったのである。若いというのはすばらしいね。そんなこと普通はやりませんよね。なんでそんなことしようと思ったんだろうか。ほとんど覚えていないが、主たる理由ではないけれど、下宿するには金がかかる、できるだけ節約せなあかん、みたいな気持ちがどこかにあったと思う。そんなもの、いまから考えればたいしたことはない訳だが、子供心に、そんなことも考えて、自転車でいきたいんだ、と親に表明したように思う。
◆ささいなことではあるが、ちょっとした冒険ですよ。高校の頃から国土地理院の2万5000分の1地形図を集めてたが、この時も京都までの地図を買い、折りたたみ、ルートを記入し、1時間ごとの通過ポイントを書き込んだ記憶がある。
◆でどう行ったと思いますか。加古川をさかのぼり、篠山に出て、丹波から京都に入ったのです。園部にぬけたんだっけか、亀岡を通り、老ノ坂を越えました。たぶん千代原口を通ったんでしょうね。市街地はどう抜けたかはまったく覚えていない。ともかくも早朝に出て、夕方には着いたと思う。たぶん約100㎞、ようやるわ。
◆中学校から乗っている愛車は、こうして京都で活躍することになるのだが、半年あまりで、キャンパスの中で鍵をかけないで止めていて盗られました。
◆下宿を始めるとき、たぶん家から持っていったのは、机と椅子、布団、食器類くらい。炊飯器やら整理ダンスなどは、生協で買った。で自転車。
◆実は、京都まで自転車で行ったのである。若いというのはすばらしいね。そんなこと普通はやりませんよね。なんでそんなことしようと思ったんだろうか。ほとんど覚えていないが、主たる理由ではないけれど、下宿するには金がかかる、できるだけ節約せなあかん、みたいな気持ちがどこかにあったと思う。そんなもの、いまから考えればたいしたことはない訳だが、子供心に、そんなことも考えて、自転車でいきたいんだ、と親に表明したように思う。
◆ささいなことではあるが、ちょっとした冒険ですよ。高校の頃から国土地理院の2万5000分の1地形図を集めてたが、この時も京都までの地図を買い、折りたたみ、ルートを記入し、1時間ごとの通過ポイントを書き込んだ記憶がある。
◆でどう行ったと思いますか。加古川をさかのぼり、篠山に出て、丹波から京都に入ったのです。園部にぬけたんだっけか、亀岡を通り、老ノ坂を越えました。たぶん千代原口を通ったんでしょうね。市街地はどう抜けたかはまったく覚えていない。ともかくも早朝に出て、夕方には着いたと思う。たぶん約100㎞、ようやるわ。
◆中学校から乗っている愛車は、こうして京都で活躍することになるのだが、半年あまりで、キャンパスの中で鍵をかけないで止めていて盗られました。
『いつか来た道』
◆これ、別に色のついた言葉ではないが、例えば、軍国主義的な政策が進められるとき、戦前と同じ道をた
どっているんではないか、といった意味で用いられることがありますよね。
◆さてと、これ実は、1983年3月から1991年に奈文研に入った当初くらいまで、オレが書きつづった手記のタイトルなのである。大学ノートで約20冊ある。ほぼ8年間の京都時代の記録である。このタイトルは、たぶん三田寛子主演のNHKのドラマから取ったものだと思う。モデルとなった実在の女性の名前は失念した。夫婦とも京都の文化人で、旦那が太平洋戦争に反対し、なんか白い目で見られながらも、思想を貫いた、みたいな話であったのではないかと記憶する。戦後は奥さんの方が著明になったはず。
◆このノート、家族に見せられるものでないので、研究室に保管してある。だが、けっこう面白い青春の記録だとは思う。日本語の作文技術の話をしたが、これを書くことが自分の文章修行になったのではないかとも思う。日記ではないが、けっこう書いており、このブログはその延長とも言いうる。
◆入力して私家版の冊子にしたら、とも思ったりもするが、そんなことやってられない。が、試しに1冊、娘にアルバイトで入力してもらうことになった。金になる!というので、娘はメチャ乗り気である。この人、ブラインドタッチでものすごく入力が早い。
◆だがしかし、そこは、娘には見せられない記述も当然でてくるはずだ。で、1冊目について、ざっと点検したところ、とくに隠すべき事項はないので発注した。1冊目は、大学受験を終えて合格発表を待っているときから書きはじめている。合格して下宿生活を始めるわけだが、バタバタしている時期の記録はあまりない。で、4月になり、大学生活が始まったあたりでは、授業に出ての感想などが書かれている。上横手先生の話など。
◆カミさんは前から読ませろと言っていて、拒んできたわけだが、今回、初めて見せた。読んで笑っていました。人間かわらんね~、と。内容は一口では言えないが、まあ、すこぶるマジメ人間である。で、ものごとの本質をとらえなければならない、とか、だが自分は表面的な理解しかないだの、さぼっているとか、本を読まなあかんとか・・・。そうそう、初めて酒を飲んだときの記述もあった。じっくり読み返してはいない。読んじゃいられないような気恥ずかしさがある。数冊のあいだはいいのだろうが、3回生の後半から4回生にかけて、大学院浪人をやっていた時期は暗かったね・・・。低空飛行を続けていた。たぶん読めないようなことが書いてある・・・。
◆さてと、これ実は、1983年3月から1991年に奈文研に入った当初くらいまで、オレが書きつづった手記のタイトルなのである。大学ノートで約20冊ある。ほぼ8年間の京都時代の記録である。このタイトルは、たぶん三田寛子主演のNHKのドラマから取ったものだと思う。モデルとなった実在の女性の名前は失念した。夫婦とも京都の文化人で、旦那が太平洋戦争に反対し、なんか白い目で見られながらも、思想を貫いた、みたいな話であったのではないかと記憶する。戦後は奥さんの方が著明になったはず。
◆このノート、家族に見せられるものでないので、研究室に保管してある。だが、けっこう面白い青春の記録だとは思う。日本語の作文技術の話をしたが、これを書くことが自分の文章修行になったのではないかとも思う。日記ではないが、けっこう書いており、このブログはその延長とも言いうる。
◆入力して私家版の冊子にしたら、とも思ったりもするが、そんなことやってられない。が、試しに1冊、娘にアルバイトで入力してもらうことになった。金になる!というので、娘はメチャ乗り気である。この人、ブラインドタッチでものすごく入力が早い。
◆だがしかし、そこは、娘には見せられない記述も当然でてくるはずだ。で、1冊目について、ざっと点検したところ、とくに隠すべき事項はないので発注した。1冊目は、大学受験を終えて合格発表を待っているときから書きはじめている。合格して下宿生活を始めるわけだが、バタバタしている時期の記録はあまりない。で、4月になり、大学生活が始まったあたりでは、授業に出ての感想などが書かれている。上横手先生の話など。
◆カミさんは前から読ませろと言っていて、拒んできたわけだが、今回、初めて見せた。読んで笑っていました。人間かわらんね~、と。内容は一口では言えないが、まあ、すこぶるマジメ人間である。で、ものごとの本質をとらえなければならない、とか、だが自分は表面的な理解しかないだの、さぼっているとか、本を読まなあかんとか・・・。そうそう、初めて酒を飲んだときの記述もあった。じっくり読み返してはいない。読んじゃいられないような気恥ずかしさがある。数冊のあいだはいいのだろうが、3回生の後半から4回生にかけて、大学院浪人をやっていた時期は暗かったね・・・。低空飛行を続けていた。たぶん読めないようなことが書いてある・・・。
蔵王そして仙台
◆別に樹氷のことを書くわけではない。実は前にも書いたのではないかという気がするのだが、チェックするのもメンドウ。年寄りみたいに、同じ話を繰り返しているのかも。
◆蔵王というと1回だけ通過したことがある。1986年3月のことだ。前年に岡山大学の楯築の調査に行き、いちばん下っ端だったのが、法政大学4年の澤田秀実さん、京都大学3回生のオレ、山形大学3回生の石見君、島根大学3回生の大谷君だった。オレも石見君も浪人しているので、澤田さんを含めた3人が同じ年齢だった。で、大谷君は1学年下で、ほんとうに最年少だった。
◆で、1986年3月、車の免許を取ろうと金を貯めていて、春休みに合宿免許に行くことにしたのだが、生協でいくつかの候補地があった中で、仲良くなった石見君がいるので、山形中央自動車学校を選択したわけだ。自動二輪と普通免許。校長の山形弁の授業はなかなか理解できなかった。自動二輪の卒検の日、雪が降り、停止線で止まれず数日延長となる。宿舎は山寺、仙山線沿線である。同宿者のなかには、空いた時間に蔵王にスキーに行く者もいた。
◆実は、石見君が菅沢2号墳の後始末をやらされていて、何日か手伝いで図面を書きに行った。山形市教委の方に教習所まで迎えに来てもらい現場に行ったこともあった(やっぱり前に書いたことがあったかな?)。
◆終了後、仙山線に乗って初めて仙台に出る。この時に蔵王を通過したわけだ。
◆この時、仙台は乗り継ぎだけだった。延長していたし、仙台に1泊する余裕はなかったんだろう。仙台には、その後、文化庁にいる時に2回ほど足を踏み入れているが、ゆっくりまわったことはない。1回目は文化庁での最初の出張で、多賀城の委員会だった。現地は仙台市でないわけで、夜の宴会がたぶん仙台だったはず。翌日、宮城県教育委員会の方に、遠見塚や雷神山、飯野坂古墳群などを案内いただいた。2回目は、岩手の徳丹城の委員会の時だが、これも通過のみ。
◆なので、仙台をぜんぜん知らない。2011年度、東北学院大学の辻さんのところで集中講義を頼まれて後期に行くので、青葉城とか、少しまわってみよう。
◆蔵王というと1回だけ通過したことがある。1986年3月のことだ。前年に岡山大学の楯築の調査に行き、いちばん下っ端だったのが、法政大学4年の澤田秀実さん、京都大学3回生のオレ、山形大学3回生の石見君、島根大学3回生の大谷君だった。オレも石見君も浪人しているので、澤田さんを含めた3人が同じ年齢だった。で、大谷君は1学年下で、ほんとうに最年少だった。
◆で、1986年3月、車の免許を取ろうと金を貯めていて、春休みに合宿免許に行くことにしたのだが、生協でいくつかの候補地があった中で、仲良くなった石見君がいるので、山形中央自動車学校を選択したわけだ。自動二輪と普通免許。校長の山形弁の授業はなかなか理解できなかった。自動二輪の卒検の日、雪が降り、停止線で止まれず数日延長となる。宿舎は山寺、仙山線沿線である。同宿者のなかには、空いた時間に蔵王にスキーに行く者もいた。
◆実は、石見君が菅沢2号墳の後始末をやらされていて、何日か手伝いで図面を書きに行った。山形市教委の方に教習所まで迎えに来てもらい現場に行ったこともあった(やっぱり前に書いたことがあったかな?)。
◆終了後、仙山線に乗って初めて仙台に出る。この時に蔵王を通過したわけだ。
◆この時、仙台は乗り継ぎだけだった。延長していたし、仙台に1泊する余裕はなかったんだろう。仙台には、その後、文化庁にいる時に2回ほど足を踏み入れているが、ゆっくりまわったことはない。1回目は文化庁での最初の出張で、多賀城の委員会だった。現地は仙台市でないわけで、夜の宴会がたぶん仙台だったはず。翌日、宮城県教育委員会の方に、遠見塚や雷神山、飯野坂古墳群などを案内いただいた。2回目は、岩手の徳丹城の委員会の時だが、これも通過のみ。
◆なので、仙台をぜんぜん知らない。2011年度、東北学院大学の辻さんのところで集中講義を頼まれて後期に行くので、青葉城とか、少しまわってみよう。
蔵王の樹氷
◆テレビで蔵王の樹氷が紹介されていた。世界でも日本の東北地方の限られた場所でしか見られないという。というのもエゾマツしかだめなんだと。へえ~。同じような樹氷の話、1週間くらい前のテレビでもやっていたような。過冷却の水分がエゾマツの葉に氷結し、風上方向に成長をとげるのだとか。
◆雪の結晶って六角形のきれいな形をしているので有名ですよね。みなさん見たことありますか。オレは1回だけだ。小学校の頃、家の近くの加古川市民病院のエントランスの車寄せがあり、円弧状に台上の縁取りがあり、コンクリートか石材か、もうわからんが上面幅50㎝くらいのものだった。ふと見ると、そこに雪の結晶がぴたぴたと貼り付いていたのである。あとにも先にも、あれしか見たことはない。
◆ちなみに、加古川市民病院は遊び場のひとつだった。中庭の樹には、夏になると蝉がうじゃうじゃいる。夏休み、ほぼ毎日チェックしているので、どの樹にどれだけいるか、だいたいわかっており、たくさん蝉をつかまえた。蝉取りの名人だと自負していたが、いま蝉を手で取ろうとしても逃げられてしまう・・・。夕方にも行き、幼虫が上がってくるのをそろっと捕まえて、家の網戸に捕まらせ、羽化するのを見ていたものだ。
◆もうひとつ、近所の水路に食用蛙がいてウルサイ。食用蛙のことを、われわれショッカンとよんでいた。でかいボスみたいなヤツがいる場所がある。その水路に流れ込む細い溝が切ってある特定の場所にいつもいるわけだ。なので、網で背後から近づき、ばっと前をふさぐと、ものの見事に網に飛び込んだが、次の瞬間、逃げられたものである。
◆書き始めは、こういうことを書こうと思っていたわけではない。長くなるので改める。
◆雪の結晶って六角形のきれいな形をしているので有名ですよね。みなさん見たことありますか。オレは1回だけだ。小学校の頃、家の近くの加古川市民病院のエントランスの車寄せがあり、円弧状に台上の縁取りがあり、コンクリートか石材か、もうわからんが上面幅50㎝くらいのものだった。ふと見ると、そこに雪の結晶がぴたぴたと貼り付いていたのである。あとにも先にも、あれしか見たことはない。
◆ちなみに、加古川市民病院は遊び場のひとつだった。中庭の樹には、夏になると蝉がうじゃうじゃいる。夏休み、ほぼ毎日チェックしているので、どの樹にどれだけいるか、だいたいわかっており、たくさん蝉をつかまえた。蝉取りの名人だと自負していたが、いま蝉を手で取ろうとしても逃げられてしまう・・・。夕方にも行き、幼虫が上がってくるのをそろっと捕まえて、家の網戸に捕まらせ、羽化するのを見ていたものだ。
◆もうひとつ、近所の水路に食用蛙がいてウルサイ。食用蛙のことを、われわれショッカンとよんでいた。でかいボスみたいなヤツがいる場所がある。その水路に流れ込む細い溝が切ってある特定の場所にいつもいるわけだ。なので、網で背後から近づき、ばっと前をふさぐと、ものの見事に網に飛び込んだが、次の瞬間、逃げられたものである。
◆書き始めは、こういうことを書こうと思っていたわけではない。長くなるので改める。
南北市テキ―長崎県埋蔵文化財センター情報誌
◆2月発行の創刊号が送られてきた。たぶん個人宛だったと思う。文化庁にいるとき、原の辻の史跡指定にかか
わったからだろうか。岡村道雄主任からあんたやれと言われ、原の辻に何度か行き、文化財保護審議会の書類を作った。むろん、いちばんたいへんだったのは長崎県の担当の方だ。広大な面積、関係する土地所有者は膨大、登記簿上、名義変更されていなければ、子孫の全員に権利があるものだから、全員から同意をとってもらう。申請書も分厚く、ひとつひとつ一緒に点検した。
◆ほ場整備で丘陵裾部で環濠が検出されたことをきっかけに、範囲確認調査をして指定範囲を定める調査が続けられた。オレがかかわったのはほんの終盤だろう。板付空港からプロペラ機で壱岐に飛ぶ。2回だったか、3回だったか。船付き場の調査を見ることができた。その後、調査は壱岐の古墳に転じていて、6世紀の大型古墳が次々に発掘され、そうした調査も見せていただいた。
◆この創刊号に、安楽さんがコラムを書いている。原の辻にナベヅルが飛来するのだそうだ。それに添えてあ
る写真を見て、復元された建物がならぶ遺跡の現在を知る。パッと見では、吉野ヶ里と区別がつかないような気もするが・・・。ともかくも、博物館もオープンしたというし、再訪してみたいものである。
◆ほ場整備で丘陵裾部で環濠が検出されたことをきっかけに、範囲確認調査をして指定範囲を定める調査が続けられた。オレがかかわったのはほんの終盤だろう。板付空港からプロペラ機で壱岐に飛ぶ。2回だったか、3回だったか。船付き場の調査を見ることができた。その後、調査は壱岐の古墳に転じていて、6世紀の大型古墳が次々に発掘され、そうした調査も見せていただいた。
◆この創刊号に、安楽さんがコラムを書いている。原の辻にナベヅルが飛来するのだそうだ。それに添えてあ
誉田御廟山に入ります
◆02月24日、誉田御廟山古墳に入ります。堤の上だけですが。大阪歴史学会から、これまでずっとオレが入って
おり、少し申し訳ないところで、いずれほかの人に入ってもらう必要がある。が、日取りが正式に決まるのが遅いので、なかなか頼みにくい面もある。こっちも大学行事とバッティングしたらアウト(当然、休暇をとっている)。
◆まあどうなんでしょうか。堤の幅広さを体感することと、本体を堤から眺めることくらいだろうか。それと断層が走っていて、段差になっているところがあるという。それは見たい。内濠の状況も。本体を眺めるのは、確かにふだん見ることができない世界なので、楽しみではある。どれくらい墳丘斜面が見通せるのか、デカくて距離があることもあり、なかなか雰囲気は予想できない。双眼鏡がいるかもね。そうか、濠底の深さにびっくりするかもしれないな。仲津山でもけっこうなものだが、さらに深いのだろう。それだけ掘削したのか、という感動が味わえるかもしれない。
◆まあどうなんでしょうか。堤の幅広さを体感することと、本体を堤から眺めることくらいだろうか。それと断層が走っていて、段差になっているところがあるという。それは見たい。内濠の状況も。本体を眺めるのは、確かにふだん見ることができない世界なので、楽しみではある。どれくらい墳丘斜面が見通せるのか、デカくて距離があることもあり、なかなか雰囲気は予想できない。双眼鏡がいるかもね。そうか、濠底の深さにびっくりするかもしれないな。仲津山でもけっこうなものだが、さらに深いのだろう。それだけ掘削したのか、という感動が味わえるかもしれない。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。