人を幸せにする人になろう

2019年2月22日、高屋築山立ち入り

◆前日の酒が残り(河内国分駅前の店で前に知り合った人とその母親がおり、楽しく飲んだのでし た)、また疲れていて、午後の開始まで家で体を休めていた。11:40過ぎだったか、そろそろかと出かける。古市まで歩いてみようと南下する。途中スマホで確認すると、橋が適当な場所になく、北か南か迂回しないといけないので、結局は駒ヶ谷駅から近鉄に乗りました。
◆古市駅に降り立ち、国道はやめて東側の旧道でない細い道を南下。高屋丘陵北側の川にたどりつ く。これは付け替えられたものであると前日に読んだ。橋のあるところに迂回し、丘陵に取り付き、築山古墳北側の住宅地を抜けて拝所にむかう。13時集合の5分か10分前でした。
◆見学は13:30から15:00くらいだったか。そこから白鳥神社北の羽曳野市市民会館へ向かう。旧道というのは東高野街道でした(大和川から南は歩いたことがなかった)。途中、東西道との交差点があり、道標が立っている。
◆そして西琳寺に。山田寺古相の軒丸瓦。看板には著名なシビの写真。塔心礎が立ててあり、その横に大きな五輪塔がならぶ。
◆事後検討会後、古市駅前でご苦労さん会をやり、そのあと2次会があって、道明寺駅からよっぱらいオジサンとなり、よろよろ歩いて帰りました。

高屋城と八幡山古墳

◆木曜日の夕方に資料をかきあつめ、図を作っていた。その時に八幡山古墳をはめ込んだ。築山古墳が丘陵北縁に、八幡山古墳が東縁に築造されていることがわかる。ちなみに、安閑の古市高屋丘陵の兆域は東西1町、南北1.5町。春日山田皇女の高屋墓は東西南北2町である。これからすると、高屋丘陵は八幡山古墳、高屋墓は築山古墳にふさわしい。
◆とはいえ、築山古墳からはTK47の須恵器が出ており、時期的には合わない。八幡山古墳なら合うのか、埴輪ではどうなのだろうか。築山古墳は河内王統の誰か(500年前後)、八幡山古墳は春日山田の正妃墓として造営したもので、安閑らが埋葬された可能性が残る、というところか。

高屋築山の復元

◆昨日、立入り観察が行われた。今日中に所見をまとめるのが理想。がそんなことにあてる時間がない・・・。が、 どうしても図だけは作っておかなければと作業する。
◆偏直角とは、剣菱の一辺を延長したものではないか。でも剣菱は作業をしていて最後に思い付いただけのこと。作業の眼目は、後円部心を出し、稜線から前方部の心を出し、それをつないで主軸を求めと、そうした基礎的な作業をちゃんとやってみるというのが趣旨です。

首相秘書官の関与

◆アベノミクスの失敗が明々白々にならんものか。ノンキャリの反乱を期待するしかないのか。

例の学長への説明

◆大学博物館の諮問に対する答申として博物館基本構想をまとめ、18日(月)14:30から、学長・副学長に対し、基本構想の説明をやりました。副学長から少し注文をもらったので、本日20日、追記をしました。あとは、学長が学内での合意を取り付ける番です。
◆そんなんで合宿中の浜寺から昼に抜け、事前準備をしてから説明に向かい、戻りは17時頃だったように記憶する。

久津川合宿

◆院試終了後、大学入試の25日までがぽっかり空くので、久津川の造り出し報告書合宿を予定して いた。期間は決めていて、適当な宿泊施設を探したが見つからず、大澤が探してくれ、羽衣の浜寺公園内のYHで15日(金)から19日(火)の4泊5日の合宿を組んだ。
◆初日は10時に市大に集合し、136でみなで作業。夕方、北花田で夕食を取り、浜寺の宿に入る。わたしは翌16日(土)、加古川へ行かないといけなくなったので、送っていったあと自宅に戻る。で16日、夜に戻るとは言ったものの、結局、土曜日の晩も泊まらず、日曜の朝に合流。
◆1日目(15日)は、自分は上面の礫の写真を合成するので終わった(このトレースは園原が仕上げてくれる)。日 曜日からは、全体図の作成。2014・2015・2016のすべての合成である。最終日の19日(火)でひととおり完了した。これまでも作ってあるものもあったが、正確に、はめ込み、統合する。
◆日曜の昼は、なか卯?。夜は羽衣駅前の中華料理屋。月曜の夜は伽羅橋のうどん屋。土曜の晩と日曜の朝は宿泊客が多いので食事が提供されるが、平日の利用客はわれわれ以外にはほとんどおらず、食事なしで、食べに行かないといけない。
◆最終日の19日(火)、朝、宿を引き払い大学に。夜18時まで作業をして解散する。とにかく図面は9割近くまでできあがった。2015年の時に3回生だった立命3人組、みな3年後のいまM2で就職も決まり、久津川の仕事を終わらせるというのが趣旨。まあ、簡単には終わりませんが。この3人を軸に、何人かが入れ替わりながら参加してくれた。宿は適当なところでした。みながノートPCで図を作っている風景写真を撮影しておくべきだったのですが、ドタバタで何も・・・。

2月15日(金)母親の退院

◆14日、電話がかかってきて、金曜日に一時退院をすると。
◆16日、急遽、加古川に行く。なんとか壁をつたわりながら、自分でトイレには行ける様子。まずは部屋の模様替え。居間にベッドを置き、こたつを配置替えし、ソファを置き。応接間だったところに、2階から父親のベッドを設置する。カミサンと買い物に行き、昼も夜も作ってもらった。わたしはコーヒーをいれたくらい。弱気になっているので励ます。
◆新聞で見た歌のDVDを注文した。来たらもっていき、声を出して歌ってもらおうと。
◆入院中、インフルエンザをもらってしまい、個室に隔離され、姉曰く「痴呆が進んだ」と。それにリハビリもできず、1週間のインフルエンザ隔離の影響は大きい、と。とにかく、仕事は、話をすること。話をして、会話のやりとりをすることが大事だと思う。

この時期は卒論試問に院試にドタバタ

◆12日、試問が終わって歴史学の先生方と、いつものいわし亭で打ち上げ。教室旅行の話などで盛り上がる。徹先生と話をしていると楽しい。
◆翌日13日は院入試1日目の筆記試験。この日ヒストリア2月号校了。成績入力も。
◆翌日14日は口述試験。博士2名、修士7人、そこから合否判定。終了後、これまた恒例の日本史の呑み会。

211集会

◆上本町の喫茶店2軒で卒論を読み続ける。13時前に高津ガーデンに行き、集会の開場後 の誘導担当の仕事をする。こういうの、来ない人は来ないですね。
◆講演はとても勉強になった。恒藤恭の思想にふれていた。そうなんだ、日本人じゃない、人間なんですよね。韓国人は、とか、アメリカ人は、といったナントカ人でなく、その手前で同じ人間なんだということ。個人がそれぞれ違うように、韓国のAさんとBさんも違う、アメリカ人のCさんとDさんも違う。考え方は、AさんとDさんと近かったりする。それをナントカ人とくくってしまうことの間違い。国籍が大事なのではない。恒藤の「世界民」とはそういうこと。望んでないのに、生れ落ちたら日本人だったという。それと、象徴とはいかなるものかということも学ぶ。この講演は京都府立大学の小林啓治氏。もう一度、レジュメを見ながら反芻するとよいのですが。

2月9日は和歌山に

◆9日(土)はひたすら大歴の仕事をしていた。終わらないもんで。北花田でカミさんと待ち合わせ和歌山に。笑福亭でラーメンを食べて・・・。
◆翌日、岳父を訪ね、買い物をし、かじか荘で昼飯を食べて、カミサンを寝屋川の職場に送る。寝屋川のサイゼリヤで卒論を読み続ける。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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