人を幸せにする人になろう

で本論

◆とはいえ立ち入ってはいないのだが、事後検討会でのみなさんの発言から、すこしまとめを。
◆(1)陵墓図で見える後円部3段・前方部3段は認められる。裾部のところが、もう1段あって4段になるのかどうか議論があったが、なかなか積極的にはいえない。(2)後円部のテラスと前方部のテラスをスロープでつないでいるかどうかは、下の面については認めてもいいのではないか、との意見。ただし比較的残っている北側面でも、この部分の墳丘斜面は崩れていて、みながそう見えたというのではなさそう。が、まあいいんでは、というところ。しかし上の面は、これは改変で原形がないので不明といわざるをえない。(3)前方部の頂部には土塁がめぐることは陵墓図から読み取れるが、そこにはけっこう石が顕著に見えるらしい。城郭といえるかどうかは専門家の意見を聞かないとわからないが、いらわれていることは確実である。(4)後円部南側のくびれ部寄りのところにある張り出しは、みなさん造り出しとは考えにくい、とのことでした。外からの観察でも、昨年の渋谷のような整った土壇にはならないことは明らかである。(5)前方部南側面は墳丘を崩し耕作地として利用していたようで、修陵前の絵図では3重?の石垣列が描かれているが、それは修陵時に撤去したようだ。(6)埴輪はほとんど見えなかった。
◆まあこんなところでしょうか。宮内庁のみなさん、たいへんお世話になりました。参加者のみなさん、お疲れ様でした。その後「反省会」。明日は大学入試です。

櫛山古墳

◆櫛山。天理市が測量していると聞いたことがあるが、できたのかな。新しい図をみたことはな い。昔、測量を考えたことがある。いまなら地上レーザーかな。いまの時期なら墳丘表面はすっきりしたもので、簡単だろう。難しいのは水際の樹木が比較的繁茂している箇所の始末か。
◆双方中円ともいわれるが、讃岐の猫塚とはまあ違う。後円部背後の方形壇をどう理解するか、というところか。それと本体の墳丘構造も、ちょっと一筋縄ではいかないが。行燈山と櫛山の時間的関係をどうみるか。あんまり埴輪の復習をしておらず、楕円が目立つこと、鰭からすると積極的に時間差を見いだしにくいように思う。櫛山にはしかし最古の器財埴輪がある。前に考えたときには、行燈山で家形が登場してくるのだろうと推測し、行燈山を古くしたように思う。行燈山では渋谷のように墳頂で形象埴輪が採集されておらず、そこのところの比較はできない。行燈山4世紀第1四半期、櫛山第2四半期くらいで考えたいところである。
◆で方形壇というのか、造り出しというのか・・・。あそこは調査されていて、お白洲であって、埋葬施設は確認されていない。う~ん、わからん。最古の造り出しは、どれなんだろう?。渋谷?。まあ、石塚山や五社神よりは古いというのでよいだろう。で、後円部に取り付ける。まあそう考えておこうか。そうすると、渋谷よりは確実に古い櫛山のアレは、なんだかわからんが別のもの、とみておくのが無難か。

2017年2月24日、行燈山

◆そう、陵墓の立入りでした。今回も世話役をやっておりました。これも何年やってるんでしょう かね。飽きません、けど。大歴では担当が代わり、I君が参加できるとのことだったので、彼に入ってもらい、外回り役になる。2回目の、佐紀陵山と伏見城のダブルの時の伏見城をのぞき、これまでぜんぶ入ってきたが、はじめて外回りとなる。
◆きっと時間がないからと、1月に少し文献はコピーして準備はしていた。その時のメモで、宮内庁の展示会の『埴輪Ⅲ』が見つからず、これ探さないと、と思っていたが、直前では見つからず。22日は、修論の審査要旨と、1年間の教員評価の調書作りで終わってしまい。資料作りができず。23日の教授会終了後に、途中まで大学史ニュースの原稿を書いていたが、もう資料を作らないと、と取りかかる。陵墓図のイラレのトレース図を取り出し、宮内庁の調査区を入れた方がいいよな、とやっていると終わらず。埴輪のトレース図があったはずとファイルを探し、など。結局は木曜日中に終わらなかった。
◆で、当日、朝、8:30に大学に行き、残りの作業を続けて10:30頃に終了、PDFに出してコピー。11:00完了。現地に向かう。終了後飲みたいので、電車でぜったいに行くと考えていたが、そんなこんなで車。西名阪で、12:00には現地に着く。そこから集合時間まで、櫛山古墳の探索に行く。

室津でカキを

◆姫路城をあとにして、一路、室津へ。カキを食べに。いや~、道の駅をはじめ、民間のカキを食 わせる店、だいたいが満杯でした。入ったところも、列をなしてならんでいて、だいぶ待たされました。
◆今回は焼いてもらったのが出てくるわけですが、前に行ったときは、カキとかホタテとかを買い、自分らで炭火で焼くものでした。白ワインで(自分は運転手で飲めませんでした・・・)。

2017年2月18日は姫路城

◆実家に帰り、翌日、姫路城に出かける。これまで2回くらいしか記憶がない。お城のこともだいぶ 勉強し、久しぶりに行ってみようかと。姫路市街が子供の頃に比べ、駅、駅前、それと姫路城の前もずいぶんと変わった。みゆき通りを歩いて、3軒の本屋をのぞくのが高校の頃の習いでしたが、あれらの本屋はいまでもあるんでしょうか。
◆お城は、さすが世界遺産ですね。天守ばかりでなく城の建物がこんなにも残っているのは、なかなかほかにないのだろう。そして西の丸というのかな、本丸とは別に西側の曲輪もあって、全体のボリューム感もある(西の丸には時間の関係で行かなかったが)。平山城で本丸が高く、下からの見上げ観もなかなかのものですね。
◆親は何度も来ているのでしょう、外で待っているというので、カミさんと1時間かそこらで出てきたが、ざっとという感じで、じっくり入念にではない。改めて半日くらいかけて見てみたい。
◆さきほどの話。大阪城だとやはり城跡、しろアトなのである。だだっぴろい空閑地。そして石垣のへりがあり、そこから堀にむかって落ち込む。それに対し構造物がちゃんとあり、複雑な構造を取り、それをたどり中心部へむかって入城していくという体感ができる。
◆そして、建物ももちろんいいのだが、ついつい石垣に目が行く。黒田カンベエの作った石垣というのがあり(ほんとかどうかは知りません)、やっぱりそっちへ足を伸ばす。確かに稜角もぴしっとしておらず、石の様子も古そうである。そういえば、石垣石の採取地の話を教えてもらったことがある。竜山石と同系統の流紋岩質凝灰岩なんだろうかな、と。
◆昔から、お菊井戸については「いちま~い、にま~い・・・」という話を親から聞かされた。今回、その解説文を読むと、それこそカンベエの頃の小寺時代の話であるそうである。

211には211

◆ここ3年ほど行けていなかったが、久しぶりに211集会に行く。しばらく前は300人を越えて満席状 態だったが、やや少なくなったな、と感じる。
◆講演は、日本国憲法制定の話だった。何度 も同じ話をするのはいやかもしれないが、ひととおり話をしてほしかった。それと、押しつけ憲法論に対してどう対処すればいいのか、そういう話。まあ、4月に改訂される本を買ってよんでみましょうか。

2017年2月17日以降

◆カミさんの母の退院のため、和歌山の日赤病院に行き、紀美野町へ行き、そこから加古川へむかう。海南市の旧道をあえて通ったが、海南には県立医大の大きな病院がある。病院が現在の門前町だ、と感じる。まあ人が集まってくるのは病院である。移動するのに、京奈和を使ってみる。いつも五條北から、かつらぎまでなのだが、西へと工事がだいぶ進んでいるので、乗ってみました。岩出まで通っていて、そこで下りる。一乗閣も見える。水野先生のことを思い出していた。新たに削ったのか、紀伊山地の褶曲がものすごくよく観察できる壁面ができあがっていた。
◆最近はちょこちょこ紀美野町長谷宮に行く。途中、笑福亭というところで和歌山ラーメンを食べている。
◆自分の親元にも帰らないといけないのだが、行けていなかったので、加古川に行ったわけです。

鉢伏山南峰

◆これ立派ですわ。蓋の内法幅70㎝なので、高麗尺2尺かなと。7世紀前半決定。西峰が大化のあ と。このへんは、ヒストリアに書いたはずが、すべて忘れてしまった。要するに、高麗尺と唐尺で新古があるという話。ちゃんと論文にしないといけません。【追記】見直したところ、唐尺にしてますね。高麗尺はオーコー8と観音塚西。このへんも、正確な図にもとづき再検討します。
◆南峰。雨水がたまり、たいへんでした。水をくみ出し、腐葉土の範囲で、石を出してきれいにして。石材がかなりもろいのも要注意。計測用に掃除し、そのあと写真を撮ったが、ちょっとまだ残る水や葉っぱなど、もっときれいにすべきところですが・・・。
◆西峰もやってます。6基やったら、けっこうすごいぞ、と。過去の図面がいつ作られて、どこに公表されたものか、ちゃんと調べないといけませんが、山の上だし、わりあいと簡易な図化だろうと思う。それに比べ、今年度の3次元計測で、飛躍的に精度の高い緻密な図ができあがると思う。

観音塚上

◆この古墳、どこからどう上がるのが、いちばん行きやすいのでしょうか。今回は北から降りてい きました。これ、なかなか見つかりませんよ。2年後に誰かを案内したとして、たどりつけるかどうか。でも、ちゃんとあります。
◆雨水が石槨部にたまっている。測量業者さんの機械養生のタオルケットで、水を浸し、何回絞ったかな。まあ、なんとか。

観音塚西

◆葡萄畑のハウスのなか。最初に、「おや、もうちょっと上のはず」と思いながらも、地元のみな さんにここですと案内されたのは、6世紀第3四半期くらいかと思われる立派な横穴式石室の玄室奥半分が残るものでした。「いや、これではありません」と。前にヒストリアに鉢伏山西峰の紹介文を書いたときに作った分布図があり(モトネタは何だったっけか)、それからするとかなり上。ハウスの外に出て、上の方に行くと、それらしきものあり。
◆いや、これ、地元の承諾をいただいているからできるが、普段は入れませんね。羨道部がかなり堆積土があり、なかなかたいへんでしたが、まあ、なんとか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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