人を幸せにする人になろう

12月24日マチュピチュ続々

◆遺跡をあとにし、バスで山を下り、例の橋を渡る手前で降り、近くの博物館に入る。職員2人はビ デオを見ていて受付に人はおらず、入っていくと出てきた。なんでも昔は近くに駅があり、マチュピチュの遺物をならべたこの博物館が2005年に作られたが、駅が廃止されてしまったらしい。いまでは訪れる人もほとんどいなさそう。これはもったいない話である。
◆次いで蝶園も訪ねる(~15:12)。

12月24日マチュピチュ続

◆天気は良く、雨季でカッパをもってくるように言われていたが、全体としても雨に降られること はなかった。マチュピチュでも日が高くなると暑くなり、写真の影がきつくなってきた。
◆途中、昼飯を食べに入り口に戻り、11時開店のレストランに入る。12:20くらいまでゆっくりし、再入場する。やや曇ってきて、遠くの山々には雨雲がかかり、一度、雷鳴も。13時過ぎには引き上げることとする。

◆いまは下の谷からバス道が通され遺跡に到達するも、インカ時代は山の斜面を縫って、クスコに至るインカ道が通っていた。オリャンタイタンボから82キロ、ガイド付き1日500人まで、3泊4日のトレッキングコースがあるという。標高4200mを含む3つの峠を越えるもので、遺跡が点在し、山岳風景や高山植物の見ながら、マチュピチュに入るらしい。

12月24日いよいよマチュピチュへ

◆バスで谷底から400m上の遺跡入り口まで行く。このバスは5時から動いているとのこと。マチュ ピチュ山やワイナピチュ山登山を含めると1日がかり、また帰りの汽車時刻から、みな早朝から城攻めをするらしい。5時半にフロントに降り、軽く朝食を取り、いよいよバスに乗り込む(5:50)。が、村から少しのところの橋が危なくてバスでは通れなくなったらしく、そこで降りて橋を渡り、対岸でバスを乗り換え、25分くらいで遺跡の入り口に着く(上)。
◆マチュピチュは見どころがたくさんありすぎて、いちいち書いてはおれません。なにより屋根はワラ(草)葺きでなくなっているが、石積みの切妻の壁が上までそのまま残っている姿がとにかくいい(中右)。こそっと、そのままに、人々がいなくなった時のままに残されているところに最大の価値がある。インカの遺跡のほとんどは上部が破壊されている。首都クスコでは、石垣はそのまま利用しつつス ペイン時代以降の建物に置き換わってしまっているし、現在の都市や町・村になっていない遺跡でも、やはり上部は壊されている。
◆人口500人~750人くらいと推定されているらしい。なぜに両側が切り立った高い場所を居住地とするんですかね(下左)。たしかに谷は深く日照量は山の上の方がいいのかもしれないが。
◆花崗岩の岩場で、露頭している巨石も多く、それらを利用しながら石積みをしている。また石切り場とよばれる地区があり、露岩多数が横たわっている。その石を見ていると矢穴をいくつか見ることができる(下右)。居住地の中央は広場のようになっていて両側の高いところに家屋などを設けてい る。そして斜面は見事な段々畑。きれいな切石がよく知られている が、そこはすべてがそうではなく、段々畑の石垣はそんなことはないし、その間にもいろんな積み方がある。

12月23日マチュピチュ村に着く

◆途中、トウモロコシ畑の広がる谷間もあったが、下っていくと渓谷風になり、マチュピチュ駅に 着きました。谷間に張り付くように両側に、飲食店、みやげもの屋、そしてホテルがある。橋が2つあり、行き来するようになっている。まずホテルに入って、と訪ねていくが(インカハウス)、ドアは閉まり中は暗い。向かいのホテルの人に尋ねると2週間は見ていない、と。仕方がないので、向かいのホテルに切り替える。雨季に入って観光客はそれほど多くはないようです。
◆それから出かけ、まず明日のマチュピチュに上がるバスのチケットを買い(中左)、次いで文化庁の出先 に出向きマチュピチュ入場券を買う(中右)。予約はしてあったが、ここでチケットを受け取るようです。62ドルというから安くはない。
◆そこから食事。ここまで日本から駆け足でここまで来たが、ようやくほっこりと。レストランというより飲み屋に近いか。ジャガイモ、キヌア(下右)、そしてピスコサワーなるお酒。ピスコというブドウを使った蒸留酒で、卵白を泡立てたものを浮かべる。そこそこのアルコール度数のようである。コカ葉入りのものをおかわり
(下左)。明日は5:30に出発することとし、引き上げる。

12月23日ペルーレイルでマチュピチュにむかう

◆15:37発。いくつか種類があるらしいがまんなかクラスのビスタドームというやつ。軽食も出る。 17時に着くまでの1時間半の汽車の旅である。先頭車両の右手の席だったが、左手にウルバンバ川が流れ、そっちの方が景色はよい。いちばんの席は運転席(右)の逆(左)側の席で、ガラス張りで前面の景色が丸見えである。
◆4人のボックス席に3人が乗り、残る1席にやってきたのは日本人女性観光客でした。オリンパスのカメラをもち、車内からパシャパシャ写真を撮っています。そうこうするうちに軽食が来て、エンパナーダとクスケーナの缶ビール(4種類あり)。一息ついたところで、その女性とも話をする。けっこう中米・南米を旅しているようです。ほぼ同じ日程で、22日にリマに入ったようですが、アメリカを経由したくないの でメキシコ経由で入ったとのこと。正月明けまで滞在するようで、10日あまりの一人旅のようです。

12月23日オリャンタイタンボ遺跡14:40着

◆オリャンタイが「大きい」、タンボが「宿」の意味らしい(インカ道が通され一定距離ごとに置かれていたよう)。ここでクスコから乗ってきたタク  シーを降る。途中、行先をめぐるやりとりもあったが、オリャンタイタンボに無事たどり着く(上左)。昼を食べる時間を取っていたが余裕なく、荷物を預け遺跡に向かう。
◆300段あるという階段は息が切れるが、休み休み。振り返ると、オリャンタイタンボの村と谷間の景色。向かいには特徴的なとんがり山があり(上右)、そこにもインカ時代の建物が残る。
オリャンタイタンボ遺跡はなかなかの迫力があり、鉄道の駅があることもあって、かなり観光客が多かった。なかなか隅々まで歩く時間的余裕がなく、一番上にある大きな6枚岩の壁(下)を見て(15:00)、すぐ降りてきました。大阪城の残念石みたいに、落下して元位置がわからない石材が展示物風に置いてある。6枚岩の写真の向こうに見える城壁風の立石は興味深いですね。
◆時間が迫り、遺跡を降り、駅に向かおうとするも、そこそこ距離があるのでタクシーで乗り付け る。ここからペルーレイルに乗る。駅で、昼飯としてエンパナーダ(調理パン)を買ってきてもらう。

12月23日ウルバンバ14:05着

◆学校は3月に始まり12月終わり、とのこと。12月15日で学年が終わり、いまは夏休みに入っている 時期にあたる。小学校6年、中学校5年が義務教育で無償。そのうえが専門学校か大学、ということだったか。専門学校というのは、教員養成を含めた基本的な職種の職業学校のようです。あとでいう500人のクンツゥルワシ村には小学校はあるが、中学校・専門学校はサンパブロに行かないとない。モライ遺跡からの帰途、学校は終わっているはずだが学校で集まりがあったのか、家に帰って行く子供たちを見た(上右)。それと雨期に入り、畑に、これなんでしょうねジャガイモ?を植え、水をやる人たち(上左)。盆地には水路があるようだが、普通の斜面地の畑地には水路はなさそうにも見える。この水は、畑地脇に水溜によるものか、村の水道水なのか、ようわからん。
◆とにかく斜面がきついし、谷は深い。やがてだいぶ降りてきて、谷地の町が見えてきた。そこま で降りていき、そこから先は、谷間を下流側に下っていく。クスコは標高3400mあり、マチュピチュは1000m引くのだったか。この谷間の町がウルバンバ、流れる川はウルバンバ川、これアマゾン川の上流にあたるのだそうである。

2016年12月23日モライ遺跡

◆次はモライ遺跡。塩田で有名なマラカスの村を抜けた先にある。塩田の風景(白い世界)も魅力 的なのだが、雨期に入りシーズンでなくなり、そこまで白くはなく、そこは遺跡を選択。
◆モライ遺跡は、3つの円形の石垣による段がある。一見すると円形劇場風。石垣で画された段による平坦面の幅は広くなく、種子か花粉か栽培植物の痕跡もあり、畑地の区画であるらしい。ただし、普通のものは日当たりを考慮した斜面地にあり、こうした円形は特異であり、実験農場ともいわれている。

いま成田エクスプレスです

◆帰りのヒューストン成田便が、説明によれば空調機械の不具合で、一度、滑走路待機まで行きながら引き返し、修理、書類を書き(そんな説明いるか?)、遅延。時間はちゃんとみていなかったけれど、まわりの声からすると3時間遅れ。
◆成田に着いて、国際線の乗り継ぎは遅延対応の臨時窓口ができていたが、国内線は職員に尋ねると到着ロビーに人がいるからとのことで出るも、いないし。アナの窓口に行くと、もう発券等の窓口は電気を消して閉じる前だったが、あそこの案内カウンターで待てと言われるも、人は来ず。沖縄に飛ぶはずの米国人も同じカウンターに来て、電話するも15分待てと。
◆該当者がどれくらいあったかわからないし、どこかに職員がいてくれたのかもしれないが、ようやく(途中、カウンターの電話で強く抗議)、職員が代替チケットを持って息をきらしてやってきた。で、伊丹便は31日の11時までないと。年末やし、そりゃそやろな。とにかく、大阪へ帰り着くために、こっちも早く判断したかったわけだが、そのへん、人来ず情報来ず、無駄に時間が経過した。結論は、新幹線で帰り着けるので鉄道。1人1万円だけあとで手当してくれるんだって。
◆今日は、子ら2人も大阪に向かっているが、われわれが最終新幹線で、いちばん遅くなってしまうことになる。近鉄はたぶんもうないんでは?、大和路線で31日着となりそうである。

2016年1月23日(金曜日)チンチェーロ遺跡

◆まずチンチェーロ遺跡。少し雨が・・・。いまは雨期。リマはエルニーニョが発生する時以外は、1年を通して雨が降 らないらしい。が、こうした沿岸砂漠地帯をのぞくと、日本でいう夏の雨期に入り、乾ききった山岳部や丘陵にも草が生えてくる。いまは緑が鮮やかになり始めた時期にあたるよう。ちなみに、今回、雨カッパを用意したが、しとしと雨が降るなかの遺跡見学は1回もなく、ほぼ好天でした。
◆チンチェーロは、アルパカ毛の織物や服やらの産地としても有名なところとのこと。まあ観光地となっている遺跡にはおみやげ物屋があり、どこでも売ってはいるのだが、ここはそういうものを買うにはいいところのよう。少しパラパラきてたので、店とは別に、ふだん所狭しとモノをならべているらしい広場の方は、雨もあがった帰り際になってモノをならべ始めていた。
◆どことも、インカ時代の遺跡は、スペイン時代に破壊され(その典型が都であったクスコ市街)、インカ時代の石垣は利用して新たに教会や建物を建てたりする。ここもそうで、坂道沿いに石垣があり、織物の店があり、そこを進んでいった遺跡中心部は教会となっている(上)。
◆それと、たいがい(マチュピチュもそうだが)段々畑がある。立派な石垣。とはいえいわゆるカミソリ1枚入らないという加工がなされた石垣ではなく、やはり使い分けられているわけだが。石垣というと、ついつい日本のお城を考えてしまうし、都市遺跡とも考えてしまうわけだが、そうではない。トウモロコシやイモ・マメの畑が、日当たりを考えて、ものすごい急な斜面を含めて傾斜地に畑が造られているわけだ(下)。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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