人を幸せにする人になろう

三角縁神獣鏡の鋳型

◆カシコーケンの方のヒビからみた鋳型の使い回し論を知る。外型にマネを貼って再利用するのでしょうか。自分の目で、指摘されている亀裂痕の一致性をまずは確認しなければならないが、とても面白い話である。全体として舶載と倭製の連続性がさらに確認されてきているよう。舶載も同笵ということのようですし。
◆蝋原型論は、同一鋳型で連続的に鋳造は難しいと指摘されていることを踏まえ、だとすればどう考えるべきか、という議論だった。むろん、その段階でも倭製鏡は同笵ということを前提にしていて、矛盾している面もあったが。この辺は実験的なことをやっている人の感覚と、そうでない者の差が生まれうるようにも思うし、一方で、再現実験でも昔の技法が明らかにできるか分からない面もある。いずれにしても、鋳上がって、2枚笵として、それをパカっと開けたとき、文様面の鋳型が、なんらかの滑らかに分離するための表面加工をしているとしても、きれいにはがせるものなのか、という疑念はず~とある。
◆で、舶載鏡と倭製鏡の連続性を考慮すると、鏡工人が渡来してきたというのが論理的な結論となった(非三角縁の倭製鏡工人も外来かと思うが)。むろん舶載は舶載で、倭製は倭製というのを前提として。それが、亀裂痕から、舶載鏡と倭製鏡で同じ鋳型(外型)を使っているとすると、同じ場所じゃないのか、ということになってくる。倭製三角縁神獣鏡の浮きぶりからすると、むろんぜんぶ中国製とした方がすっきりする。が、そうなると、倭製鏡までを含めて三角縁神獣鏡を日本向けに作っていたということになり、短期という話にもなってくる。が古墳側から見ると、そう短くもないだろうと。鋳型を持ってきててもいいじゃないか、とも主張したくなる。
◆けっこう面白いことになってきた、というのが印象。福永さんと感覚はほとんど変わりないと思う。倭製はやっぱりちょっとちゃうで、と。だが、そのちゃうでの中身を再度、点検しないといけないんでしょうね。だけど4世紀前半までとみている倭製鏡にかけての製作年代幅を、そう短くすることもできない、というのも、こっちとしては譲れないところである。研究は進むものですね。

山里丸サウンディング

◆今年度の大阪城山里丸下層調査の、9月実施のサウンディング結果の検討会が梅田であり、業者か ら送られてきた柱状図をもとに、比較的硬い層、軟らかい層の、横のつながりを考えて色をつけていく。およそ上段と下段をとらえており、その間に石垣かもしれない下に通らない硬いものがあるというのは把握できており、絵図面から考えられる豊臣の山里丸を区切る石垣位置とも整合的であることは、調査段階で認識していた。が、土の硬さを考慮すると、例えば豊臣期の遺構面を覆う、徳川期の盛土なども、比較的軟らかい層として、なんとなく見える。5mまでとしたが、ところどころでさらに下部を追及し、地山と思われる層を確認すべきであったと反省。しかしそこは、第2弾でやれば、一層、これら柱状図の意義も増すだろう。山里丸西側は大阪層群の段丘礫層で硬く、今回も地山が高いのだろうと思われる地点では、マイナス5mまでのところで、それらしきものが当たっている地点もある。
◆地山を追いかけられれば、その上に整地・盛土した柔い層、遺構面と思われる硬い層、またその上の盛り土、その上の遺構面、といった連続も捉えられる。で、豊臣期上段と思われる東寄りでも、その下は地山ではなく盛り土で、マイナス4mくらいでなにか横に通る遺構面があり、これなんじゃろか、と思っていたが、検討会でI氏がひとこと。「本願寺」・・・。おお。そうかもよ。
【お断り】この図は東西ラインだが、西側では浅い位置でガラにあたり、下に入ってないので、このラインだけでは、ほんまかいなというところだが、その南北で平行してやった成果とも総合しての判断です。

2015年12月大垣など(6)

◆あとは流しましょう。大垣にもどり、赤坂宿、垂井宿、タルイピア、前に行けなかった関ヶ原の 歴史民俗資料館、不破関資料館により、戻ってきました。

2015年12月大垣など(5)

◆翌日、足をのばして愛知県一宮市の博物館に行く。八王子遺跡や西上免があるところ。西へ岐阜 市まで行き、南下する。木曽川がやはりでかい。これを越える橋はやはり 限られたところにしかないのだろう。ナナメに横切っていく方法もあったかもしれないが、カーナビの指示通りに行く。まあ、木曽川が尾張と美濃の境になっているわけです。
◆一宮市をカーナビに入れようとすると、ヨーロッパのような放射状の市街のようで、これ戦後復興時の都市計画かなと思うが、未確認。尾張一宮のなんとか神社というのと、でっかいお寺があり、門前町があったようで、博物館はその寺の横にある。ボリュームはありました。考古資料を、いろんなセクションで配置して活かそうという努力もよくわかりました。一宮門前の市がかなり賑わっていたこと、いろんな交通路が交わっていた ようです。繊維産業が発達し、工場がいっぱいあって、しかし戦災でやられたという。戦後の都市計画の話はわあkりませんでしたが。
◆写真を撮っていいかというと、申請書を書き、研究用といって許可をもらい、コマ数を報告するシステムでした。ネットに勝手に上げてはいけないので、個別資料はやめておきますが、展示風景くらいは1つくらいいいでしょう・・・。
◆展覧会を開きませんか、という広告がよかった。紅葉がきれいでした。

2015年12月大垣など(4)

◆町屋もほとんどないのかもしれません。松尾芭蕉の、終焉の土地だそうで、それもまた大垣の歴 史ではあるけれど、大垣にはもっともっと歴史の深みがあり、文化財がある。国分寺のところに資料館があり、昼飯大塚の整備もできてきてはいるが、郷土館とか、もっとちゃんとした博物館にしてほしいものです。西濃の中心である大垣、むろんいまでも大都市なのですが、旧市街をもっと歴史が感じられるものにできるのではないかと思います。
◆ホテルに入り、駅前に呑みに行く。どこもいっぱい。1軒なんとかあって、楽しく呑みました。支払いも終わって出ようとすると、席のところで、どてーんと倒れました。
【写真】翌日朝、ホテルから見た関ヶ原方面。

2015年12月大垣など(3)

◆揖斐川というより養老山地を見ながら北上して大垣に向かう。多度大社という大きな神社があっ た。ふつうなら立ち寄るが、これもパス。大垣市内へ。お城があって、横 に郷土館というのがある。市営駐車場に止めて、郷土館に行く。撮影禁止。こことお城でセット150円のチケット。
◆大垣藩主は戸田だそうです。尼崎から戸田氏鉄が入部。城下を美濃路が通過する。ここを歩きたいものだが、郷土館、そしてお城で、本日は終了。お城は4層で上まで階段で上がって、また階段で下りて、なかなかしんどい。
◆大垣は惣構の堀は残っているようです。が、お城本体はすっかり市街化しています。本名と御殿 のある2の丸、それを取り囲む内堀くらいが残っていればいいのですが、 往事の景観はほとんどありません。
◆関ヶ原の時に、石田三成はここに入ったのですね。恥ずかしながら、そんなことはトンと知らず、徳川が赤坂に着いて、西軍は関ヶ原に引いたという。東軍が遠路到着し、そこを叩けという進言などもあったようですが。
◆天守は戦災で焼けたんだそうです。

2015年12月大垣など(2)

◆亀山はパスし、四日市もパスし、今日は桑名へ焼きハマグリを、と桑名に向かう。まず博物館で 桑名を学び・・・と行ってみるが、資料整理のため閉館だと・・・。なぬ。城下町桑名だが、なんにも学べませんでした。城跡へ行く。大きな銅像、誰かいなと思ったら本多忠勝だって。桑名は本多らしい。が城跡はこれはがっくりな現代の城跡公園なのです。なにも知識はないが、すっかり取り壊したんでしょうね。それをある時に復元したと。元の石垣はありません。すべて今の石垣です。入り口のところの一画に、安山岩?の黒い石を積んでいるところがあり、これが元の石材なんだろうな、と勝手に想像する。江戸期や幕末・明治初頭の絵図や写真があれば、す こしずつ調査をして、遺構に即して復元していくということもやってほし いと思うが・・・。桑名市にとって桑名の城はこんなもんでいいんですかね。
◆東海道の七里の渡しというのがすぐ北にあり、揖斐川に面している。そこいらに高級そうな料理屋がならんでいるが、海産物を焼いて食べさせてくれるような出店はない。夏場はやってるんでしょうか。少し北にいったところに「六華苑」という観光地があるが、パス。焼き肉屋は大繁盛していましたが、その横のお城は残念でした。

2015年12月大垣とか(1)

◆土曜日は1日働いて、日曜日は大垣に出かけようかと。が結局、丸2日、岐阜方面にでかける。な にせ、いい天気だし。西名阪で関宿へ行く。前は寒くみぞれが降り、抜け ただけだったので。
◆北側の駐車場に車を止め、この足だし町並みをぜんぶ歩くのは無理だが、中町のあたりを散策する。酒屋さんでお酒と酒粕を買い、和菓子屋さんで餅を買い、あいづやさんで食事をする。おこわが蒸し上がったところですよ、というので、そばとともに。

天理で呑み

◆見学終了後、天理に移動して検討会。もひとつ。今回の出土埴輪はまだまだ未整理だが、調査時に噴頂部などで採集された形象埴輪が展示されていて、これまでに知られているものからすると、かなりの情報の前身があった。 陵山より古いとはいえないが、しかしまた墳頂部にはけっこうな形象埴輪が配列されているのではないかとも思う。結論は『玉1』段階と変わりない。Ⅱの1でも最古とはいえないが、Ⅱの1に留めておくのが無難かなと。いずれにしても陵山とはほぼ重なり、オオヤマト最後の向山は、佐紀の陵山や宝来山と同時期に築造され、埋葬時点でいえば、やや遅れるかもしれないくらいの位置になる。
◆そのあと飲み屋に移動して、議論が続く。というよりは呑みつつ、あるイベントの内容について話をする。おおよその筋はまとまったか。

今回の渋谷向山

◆再度です。渋谷向山古墳では過去17回、立ち会いも含めて調査されている。また過去に出土し  ている埴輪をひととおり見て、図を描き直し、こうした過去の調査区と出土埴輪を ぜんぶまとめたのは『玉1』の報告書なのです。
◆で今回の成果。下段裾を2箇所で確認、テラス面の埴輪列、そして最下段の葺石の残存が2箇所で確認したようであるが、最下段の裾は未確認。宮内庁の資料では最下段(第1段)の根石列を「検出した」とある。これをめぐって前半組と後半組で説明が食い違っていたらしい。第3トレンチの石列の評価は確かに理解の分かれ目でポイントになりうるだろう。最終判断はどうなるか。遺構的には、第4トレンチより、この第3トレンチの所見判断が重要ですね。
◆第8トレンチの赤土が遠目にもなんだろうと思った。地山かどうか。いずれにせよ、この位置は後円部の下段斜面ないし、陸橋移行部くらいになりそう。なんとなく、この堤は下段に取り付き、最下段は陸橋にぶつかって終わり、となっているのでは。ここより手前の前方部側は最下段に取り付く陸橋だが、後円部の背後近くにまわってきた第8トレンチのところでは、周囲からの掘削も深くなり、陸橋も高く、下段に取り付くものと復元できるのではないか。
◆とはえい、陸橋に関して確実なことを言える所見はえられなかったようだ。そのへんは、自分が土を見ていないのでなんとも。とにかく文久には水田だった周濠を掘削して水堀とし、その土で外側に土塁をめぐらし、陸橋も大きくかさ上げしているので、もともとの姿がイメージしにくい。この時期はまだ外堤は未整備なので、周濠の外の肩は掘り込んで終わりだったろう。だけど、陵山の事例からすると、いまより低い陸橋があったとして、外界との切断に、陸橋上に埴輪を配置していることも考えられる。
◆『玉1』の時に、周濠の外の等高線もなぞり、いまの高い土塁を取っ払ったイメージの等高線を描いた記憶がかすかにあるが、これも現地調査の上で精査し、文久前の姿がイメージできるものにする必要がある。ちょこっとやれば、やれそうではあるが。また次の機会に・・・、かな。
※渡り堤(土手)か陸橋か。ひとまずぜんぶ陸橋とよんだ方が、誤解がないように思う。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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