人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2024年1月24日 実習展の設営
◆毎年のことながら、今期は、こちらでテーマを決めた。府立大阪博物場である。昨年からクラス が2つになり13人とちょうどいい人数。なんとか要所で割り当て、筋を決め、分担分について調べてもらい、パネルの文案を作り、関係資料の画像等を集め、進んできた。年明けからいよいよこちらも稼働し、パネルをインデザで作り、展示設計(パネルの配置)をやり、ごぎつけた。
◆結局はみな、今日、授業時間内にパネルを切る(お膳立てをやりすぎかも)。こっちは大学史で展示ケースの準備、パネルボードの倉庫からの取り出し、杉本図書館の博物場関係の資料の貸し出しをやり、1645の5限開始時に設営場所で「待ち」。おいおいパネルがやってきて、ボードの配置、パネルの貼り付け、展示ケース2個への資料の配置。まあ、だいたい授業時間内のなかで完結。解散後、少し残務をやって、20時。
◆ささやかなものだが、学生が週1の1コマの15回でとなると、こんなところだな。まあまあ、うまく回った年になったかな。もう仕事をする気もなく、帰るかな。次は2月2日のイベントだ。
◆結局はみな、今日、授業時間内にパネルを切る(お膳立てをやりすぎかも)。こっちは大学史で展示ケースの準備、パネルボードの倉庫からの取り出し、杉本図書館の博物場関係の資料の貸し出しをやり、1645の5限開始時に設営場所で「待ち」。おいおいパネルがやってきて、ボードの配置、パネルの貼り付け、展示ケース2個への資料の配置。まあ、だいたい授業時間内のなかで完結。解散後、少し残務をやって、20時。
◆ささやかなものだが、学生が週1の1コマの15回でとなると、こんなところだな。まあまあ、うまく回った年になったかな。もう仕事をする気もなく、帰るかな。次は2月2日のイベントだ。
21日(日)の城陽市のシンポ
◆北海道からの帰り、21日の資料をまずどうしようかと。近鉄文化サロンの時のものを取り込んでいたので、その4頁分と、車塚の最新の復元図を加え、午前中のうちには送信したのだったか。そのあと、2022年の考古学研究会関西例会の時のパワポに、近鉄文化サロン時の資料の内容にかかわるパワポをくっつけると、150枚くらいになる。これをどう減らすかやっていたが、あまり進捗しなかった。
◆大阪に戻り、夜頑張れず寝て、朝の3時頃に起き、ごそごそやって、再び寝る。朝起きて8時過ぎに職場に行き、3時間程度、最後のオチのところをやる。
◆上石津が左右非対称、誉田が前方部の開きが確実にわからない(210歩と220歩で揺れている)。茨木市で太田茶臼山の話をした時も、王寺町で室宮山を取り上げた時も、モデルが上石津か誉田なのかあれこれやって、両方とも誉田となる。春成論文集に書いた最新の設計寸法を記入した2基の画像をならべたスライドを最初は用意したが、わかりにくい。それをやめてシルエットのみを左右にならべ、ながめてみる。後円部に対する前方部トップの高さの差は、上石津が3m低く、誉田が2mだったか、そう差はない。前方部幅は誉田が不確実。が、前方部上段の発達は明らかに誉田の方が高くなっている。誉田は誉田で後円部下段の設計がむつかしく、墳丘長もN先生のいうように300歩で造ろうとしたが、最終的には305歩になったと考えられ、縮尺比率も難しい。が、300:125でシルエットを重ねたものを作り、これを結論とした。
◆城陽市に到着してから、スライド枚数を削り、なんとか124枚とする。あとはしゃべり。もち時間の40分より5分はオーバーしたのかな、無事、終了。KT市のUさんとか、Y市のYさんとか、K町のK君とかが参加してくれていて、立命のK君とともに、終了後、話ができたのもよかった。
◆文化パルク城陽の駐車場に行くと、前輪右がずいぶん低くなり、ガソリンスタンドで空気入れさせてと頼むと、パンクしてますといわれ、応急処置。なんとか帰り着き、何をする気にもならず眠る。
◆大阪に戻り、夜頑張れず寝て、朝の3時頃に起き、ごそごそやって、再び寝る。朝起きて8時過ぎに職場に行き、3時間程度、最後のオチのところをやる。
◆上石津が左右非対称、誉田が前方部の開きが確実にわからない(210歩と220歩で揺れている)。茨木市で太田茶臼山の話をした時も、王寺町で室宮山を取り上げた時も、モデルが上石津か誉田なのかあれこれやって、両方とも誉田となる。春成論文集に書いた最新の設計寸法を記入した2基の画像をならべたスライドを最初は用意したが、わかりにくい。それをやめてシルエットのみを左右にならべ、ながめてみる。後円部に対する前方部トップの高さの差は、上石津が3m低く、誉田が2mだったか、そう差はない。前方部幅は誉田が不確実。が、前方部上段の発達は明らかに誉田の方が高くなっている。誉田は誉田で後円部下段の設計がむつかしく、墳丘長もN先生のいうように300歩で造ろうとしたが、最終的には305歩になったと考えられ、縮尺比率も難しい。が、300:125でシルエットを重ねたものを作り、これを結論とした。
◆城陽市に到着してから、スライド枚数を削り、なんとか124枚とする。あとはしゃべり。もち時間の40分より5分はオーバーしたのかな、無事、終了。KT市のUさんとか、Y市のYさんとか、K町のK君とかが参加してくれていて、立命のK君とともに、終了後、話ができたのもよかった。
◆文化パルク城陽の駐車場に行くと、前輪右がずいぶん低くなり、ガソリンスタンドで空気入れさせてと頼むと、パンクしてますといわれ、応急処置。なんとか帰り着き、何をする気にもならず眠る。
用明末年は588年か
◆用明末年である『紀』用明2年は、元年太歳から翌丁未年にあたり、『記』崩年干支と矛盾はない。『紀』は用明没年を丁未587年に位置づけている。
◆没月は4月で、『紀』は「4月癸丑」、『記』は「4月15日」である。
◆587年4月朔は元嘉暦・後漢四分暦とも乙巳(干支の番号41)。なので、『紀』の癸丑は9日であり、『記』の15日と6日のずれである。
◆牧尾一彦氏の主張のように、用明没年を1年あとの戊申年588年とすると、4月朔は元嘉暦・後漢四分暦とも己亥(35)なので、『紀』の癸丑は15日となり、『記』と一致する。
◆よって、用明没年は丁未年587年ではなく戊申年588年4月15日である可能性がある。蘇我VS物部戦争もまた588年ということになろう。崇峻即位も587年(『紀』元年588年)ではなく588年となる。崇峻即位については、『古事記』の「治天下4年」からすると589年であることも考えられる。
◆没月は4月で、『紀』は「4月癸丑」、『記』は「4月15日」である。
◆587年4月朔は元嘉暦・後漢四分暦とも乙巳(干支の番号41)。なので、『紀』の癸丑は9日であり、『記』の15日と6日のずれである。
◆牧尾一彦氏の主張のように、用明没年を1年あとの戊申年588年とすると、4月朔は元嘉暦・後漢四分暦とも己亥(35)なので、『紀』の癸丑は15日となり、『記』と一致する。
◆よって、用明没年は丁未年587年ではなく戊申年588年4月15日である可能性がある。蘇我VS物部戦争もまた588年ということになろう。崇峻即位も587年(『紀』元年588年)ではなく588年となる。崇峻即位については、『古事記』の「治天下4年」からすると589年であることも考えられる。
2024年1月12日 健康診断
◆大学医学部で健康診断。
2023年1月11日 四分暦
◆漢代には、観測にもとづく以下の知識があった。
①1年:太陽のまわりを地球が1周して元の位置に戻る時間
365+1/4日(365.25日) 今日:365.24220日
②1月:地球のまわりを月が1周して元の位置に戻る時間
29+43/81日(29.53086日)今日:29.53059日
③19年で7閏月が入る→19年で235月 これについては、もう少し説明がいるが、いまはこのまま。
◆太初暦以前の秦・前漢前半のセンギョク暦や、前漢武帝が導入する太初暦を経て後漢代に復活する「後漢四分暦」も、1年を365日と1/4とする「四分暦」である。
◆四分暦は、①の(1月が何日かでなく)1年が365.25日であることを出発点とする。19年(=235月)は6939.75日となる。したがって19年が4順した76年で、940月=27759日となり端数がなくなる。その結果から1月の日数を換算すると、27759日÷940月により、29+499/940日、すなわち1月は29.53085日となる。
◆一方の太初暦は、②の(1年が何日かでなく)1月が29+43/81日(≒29.53086日)であることを出発点とする。(19年)235月は6939+61/81日(≒0.753)≒6939.753日となる。したがって、19年が81順した1539年で、19035月=34695日となり端数がなくなる。その結果からとして1年の日数を換算すると、34695日÷1539年により、365+385/1539日、すなわち1年は365.25016日となる。
◆太初暦の方がデキが悪く、後漢代に四分暦に戻る。
◆またセンギョク暦から太初暦への切り替え時に「超辰」がなされ、干支年が1年加わり、ずれる。ある年が辰年だったとして、翌年は未年になるはずだが、それを午年とする。これがいまの干支年である。干支年はこれで定まり、あとは60年で一巡して繰り返すだけ。以後の暦問題は、1年の月の割り方となる。
①1年:太陽のまわりを地球が1周して元の位置に戻る時間
365+1/4日(365.25日) 今日:365.24220日
②1月:地球のまわりを月が1周して元の位置に戻る時間
29+43/81日(29.53086日)今日:29.53059日
③19年で7閏月が入る→19年で235月 これについては、もう少し説明がいるが、いまはこのまま。
◆太初暦以前の秦・前漢前半のセンギョク暦や、前漢武帝が導入する太初暦を経て後漢代に復活する「後漢四分暦」も、1年を365日と1/4とする「四分暦」である。
◆四分暦は、①の(1月が何日かでなく)1年が365.25日であることを出発点とする。19年(=235月)は6939.75日となる。したがって19年が4順した76年で、940月=27759日となり端数がなくなる。その結果から1月の日数を換算すると、27759日÷940月により、29+499/940日、すなわち1月は29.53085日となる。
◆一方の太初暦は、②の(1年が何日かでなく)1月が29+43/81日(≒29.53086日)であることを出発点とする。(19年)235月は6939+61/81日(≒0.753)≒6939.753日となる。したがって、19年が81順した1539年で、19035月=34695日となり端数がなくなる。その結果からとして1年の日数を換算すると、34695日÷1539年により、365+385/1539日、すなわち1年は365.25016日となる。
◆太初暦の方がデキが悪く、後漢代に四分暦に戻る。
◆またセンギョク暦から太初暦への切り替え時に「超辰」がなされ、干支年が1年加わり、ずれる。ある年が辰年だったとして、翌年は未年になるはずだが、それを午年とする。これがいまの干支年である。干支年はこれで定まり、あとは60年で一巡して繰り返すだけ。以後の暦問題は、1年の月の割り方となる。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。