人を幸せにする人になろう

博物館実習室の整備(4月2日)

◆今年度から実習室になる2コマ分のスペースは、完全にはサラになっておらず、モノが置かれたままではあったが、4月2日IMG_9441.JPGに設営と決め作業にかかる。前年度のものを廊下をはさんだ院生共同研究室に移し、机椅子を配置し、パソコンを4段設置。あわせて考古学実習室の懸案の片付けも行った。パソコンまわりは院生の徳満君に全面的にお願いした。
◆この日、朝10時から夜まで丸1日かかったが、新しい部屋の整備のカタがついた(実際にはパソコンへのソフトのインストールや認証など、翌日までかかったわけだが)。

新学期が始まり

◆定年まであと16年。新学期が始まる。なにかとあるので、ブログの更新も滞っている。明日は大歴の現地見学検討会。これが終われば、一息付ける。この間のいろんなことを日曜日にでも書き込もう。
◆奈良博の当麻寺展で、ほんまもんの曼荼羅が見れるらしい。興福寺の特別拝観もやっているとのこと。来週にむけて、日曜日にやっておくことはあるのだけれど、奈良に行くかもね。
◆はや桜も終わり、日に日に葉がにょきにょきと。科研も落ちたし、軍資金なし。さて、どうするか。

沖縄基地の返還に関する覚え

◆新聞記事が出ていました。自分の覚えとして、記事に付してあった地図をアップする。79832641.JPG

発掘調査の手引き

◆各種遺跡調査編が届いた。執筆者、取りまとめにあたられた方々に敬意を表します。ef8ae8b0.JPG

高松塚の壁画を見る

◆集まったのは10人くらい?。前日が考古の学会で、今日が歴史学会だったらしい。文化庁はじめ、研究所や県や村の職員、実際に修復作業にあたっておられる方々など、迎えていただいた方が多かった?。
◆ご対面~ん。じっくりと各石材をじろじろと観察する。貴重な機会をいただいた。終末期古墳の原稿を書いているが、石材の加工など勉強になる。7末に牽牛子塚を作り直したんなら、これに近い凝灰岩加工に進んでいたに違いない。刳り抜くのもたいへんだろうが・・・。
◆ひたすらカビやシミや、くすんだ部分をきれいにし、ほぼ地の部分はだいたいやることはやってきたという。運び込まれてきた段階の写真と比較するとよくわかる。ただし、壁画の部分はそれぞれの色の成分分析による絵の具の特定がまだできていないものもあるらしく、それをふまえて、これから着手するのだという。
◆いま今後の活用の会議が動いているらしい。キトラは先行しており、脇に展示館を建設し、H28に開館という。見せていただいた高松塚の部屋の隣で、キトラも作業しているらしいが、それは見せていただけなかった。剥がした壁画の修復も進んでいるのだろう。さて高松塚はどうする。10年間の半分が経過したとの紹介があったが、これからの5年間くらいのなかで決定していくのであろう。

3月末日!

◆今日は高松塚の壁画見学会なので、午前は松岳山古墳の写真撮影に行くことにする。途中、雷が鳴りどば~と雨が降ってきた。一度、撤退するも、すぐcda8ddff.JPGやんだので再出撃。そのなかからワンカット。d6626c3c.JPG
◆11:15にはやめて飛鳥に向かう。30分くらいで着く。飛鳥駅前で腹ごしらえをして、少し時間があるので、前から行きたかった都塚古墳に行き、それから高松塚の駐車場へ。
◆いま16時、大学に戻ってきた。あと6時間、仕事!。『市大日本史』の合同調査の原稿も出たので、昨日調整していたが時間切れで途中だったもの。

文学部のHさんのメール

◆大阪市立大学ひとすじ、42年間、勤め上げられた文学部事務のHさんが退職された。29日の20時まで仕事を片付けられ、文学部のメールで離別の辞を述べられた。消すのがもったいないので、そのうちの一部を。

◆世界でいまだ認知されていない、新しい知見を求めて、日々研究の場に立ち向かっておられる多くの先生方の真摯な態度に(理学部に勤務されていた時の話)親しく接することができ、このことが、世の中を斜に構えてしか見ることのできなかったニヒルな少年の目を開き(高卒後の最初の勤務が理学部だったのでしょう)、自らもヒューマンに、かつ自分のできる範囲内であっても、真剣に、社会に貢献して生きていくことの素晴らしさを教えていただいた源泉だと、思っております。
 先生方には、急速に多忙化が進む今日ですが、常に初心を忘れず、学問の神髄に触れんがための諸活動が、時代がどのように変化したとしても、人間の心を射ち、人を成長させていく原点であると私は思いますし、いつまでもそうあってほしいと、心から念願しております。

◆3月の教授会後の懇親会にも出ず、お世話になった謝意を伝えられていないが、ここに記録し、感謝の意を表したい。

1989年のブログ

◆前に1枚目だけを出しことがあるのだが、すべてスキャンして現物は捨てた。9f70b913.JPG345fb4a2.JPG43aaaf8f.JPGda02fc8b.JPGd46f12da.JPG
 

北岡伸一って?

以下、ウィキ

◆奈良県吉野町生まれ。東京大学法学部卒。1976年に博士論文「日本陸軍と大陸政策1906年-1918年」を提出。立教大学法学部専任講師/助教授/教授を経て、1997年に東京大学法学部教授。2012年3月に東京大学を退職し、4月より政策研究大学院大学教授に就任。
◆陸軍研究からスタートしたが、1980年代終わりから盛んに現代政治に関する論評を行う。日本の国際平和への積極的貢献や政権交代などが可能な「普通の国」になれるかを歴史的な視点から問う、過去のタブーや因習にとらわれないスタイルで知られる。近時は日本再浮上のためには再びグローバル・プレイヤーとして国際社会に挑戦することが必要だとして、「21世紀の開国進取」を打ち出している。イラク戦争については「大量破壊兵器」と「北朝鮮対策」を理由として支持する立場を他の多くの知米派政治関係者とともに明らかにした。自衛隊のイラク派遣に際しては、フセイン元大統領の捕捉に伴って政治情勢が安定するという見通しの下に支持した。
◆2004年(平成16年)4月から2006年(平成18年)9月まで外務省へ出向し日本政府国際連合代表部次席大使としてニューヨークに赴任。この他にも政府との関わり合いは強く、長期的な外交戦略検討のために設置された小泉純一郎首相の私的諮問機関「対外関係タスクフォース」委員、「外交政策評価パネル」座長、「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」委員、日本の集団的自衛権保持の可能性について考える安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」有識者委員、福田康夫首相の私的勉強会「外交政策勉強会」委員などを歴任した。政権交代後も、鳩山由紀夫政権下で日米間の密約を調査するための外務省の有識者会議の座長を務め、また「日中歴史共同研究委員会」の日本側座長を務めた。
◆実家は吉野の造り酒屋で大叔父は農商務省官僚・ILO日本政府代表として労働政策を担当し、後に東京帝国大学経済学部教授に転じた國學院大學名誉教授の北岡寿逸(東大政治学科卒)。寿逸の弟・馨(東大化学科卒)は東洋大教授。父の北岡茂(京都帝国大学医学部卒)は元吉野町長。弟の北岡篤(東大寺学園高校卒、東京大学農学部卒)も吉野町長。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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