人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2013年3月19日、岸和田市保護審
◆議題は岸和田城の保存管理計画。大阪府の史跡なのだが、現状変更の取り扱いを決めるというものらしい。そういえば、こないだ朝日新聞に記事が出ていた(ネットで調べたが出てこず・・・)。
◆新聞記事の内容は、国の補助金+大阪府の補助金?で、岸和田城の二の丸の整備をやった(前に聞いたことがある)。で交流センターというのを作ったのだが、役に立ってないやン、ということだったような。また、カーネーションの盛り上がりもあり、岸和田城をめぐり議会で質問が出るらしい。これに対し、史跡地として取り扱い基準がこれまでなかったので、保存管理計画を作っておく、ということになったようだ。
◆いいことだ。が、府の史跡地だけの問題ではない。岸和田城は大きい、史跡地の外には三の丸が広がり、さらに周囲におよぶ。そして、千光寺の岡部家墓所とともに国史跡になっておかしくないもの。今後、岸和田城跡を、どういう覚悟で保存をはかっていくか、という問題。現状変更のための基準作りはひとまず必要としても、あまり大きな問題にはならない。府指定の拡大や国史跡も視野に入れて、50年100年のスパンで、どう対処するのかというマスタープランを作るべき。そこまでやってくれと要望しておいた。
◆2年で保存管理計画を作るとのこと、どっかで聞いたような話である。WGみたいなものを作り、そこで練るらしいが、審議会にかけて合意形成を図ってくれと頼んでおいた。
【追記】貝吹山の報告書が出るらしい。
◆新聞記事の内容は、国の補助金+大阪府の補助金?で、岸和田城の二の丸の整備をやった(前に聞いたことがある)。で交流センターというのを作ったのだが、役に立ってないやン、ということだったような。また、カーネーションの盛り上がりもあり、岸和田城をめぐり議会で質問が出るらしい。これに対し、史跡地として取り扱い基準がこれまでなかったので、保存管理計画を作っておく、ということになったようだ。
◆いいことだ。が、府の史跡地だけの問題ではない。岸和田城は大きい、史跡地の外には三の丸が広がり、さらに周囲におよぶ。そして、千光寺の岡部家墓所とともに国史跡になっておかしくないもの。今後、岸和田城跡を、どういう覚悟で保存をはかっていくか、という問題。現状変更のための基準作りはひとまず必要としても、あまり大きな問題にはならない。府指定の拡大や国史跡も視野に入れて、50年100年のスパンで、どう対処するのかというマスタープランを作るべき。そこまでやってくれと要望しておいた。
◆2年で保存管理計画を作るとのこと、どっかで聞いたような話である。WGみたいなものを作り、そこで練るらしいが、審議会にかけて合意形成を図ってくれと頼んでおいた。
【追記】貝吹山の報告書が出るらしい。
高松塚壁画修復の見学と意見交換会
◆大歴の委員会で、文化庁から、高松塚の壁画修復が5年経過し、学会側に公開と意見交換を求める場を設けるらしく、いくつかの学会に対し2名ほど集まってほしいとの連絡を受けたと、事務局の報告があった。依頼のファックスを受けとっており、隠すことでもないので、まあ書いてもいいだろう。
◆さてと、高松塚か、久しぶりなので、行ってみるか。そういえば、キトラの朱線のニュースがあった。カミさんがテレビのニュースで、玉田さんのあのヒゲは何だ、と言っていた。新聞記事を見ると、若杉が担当しているよう。こっちはこっちで公開施設を近傍に造る、といった話がくっついていた。
◆さてと、高松塚か、久しぶりなので、行ってみるか。そういえば、キトラの朱線のニュースがあった。カミさんがテレビのニュースで、玉田さんのあのヒゲは何だ、と言っていた。新聞記事を見ると、若杉が担当しているよう。こっちはこっちで公開施設を近傍に造る、といった話がくっついていた。
2013年3月18日、芝が原の委員会
◆朝、近つの集荷というので、作業してもらう部屋にブツを搬入し待つも来やしない。どうなってんねんと電話すると、来月ですわ、とのこと。4月18日のことでっか、チャンチャン。それはそれとして夕方の大歴の委員会の資料を準備してから、城陽に出かける。
◆天気予報の通り雨になり、傘をさしながら現地。現状をご確認下さい。手前の16角形の台座が、2013年度に立体模型を置くことになる場所。会議後、城陽での宿泊場所と車塚の基準点を聞く。そう、松岳山のあと、候補を3箇所ほど考えているなかで、小泉さんと約束した久津川車塚を選択。GWに測量にかかろうかと・・・。さて、どうなりますやら。
◆そのあと、大歴の委員会のある梅田に車でむかうも、途中の第二京阪で雨はもっともピークとなり、ドヒャドヒャと降っている。
◆天気予報の通り雨になり、傘をさしながら現地。現状をご確認下さい。手前の16角形の台座が、2013年度に立体模型を置くことになる場所。会議後、城陽での宿泊場所と車塚の基準点を聞く。そう、松岳山のあと、候補を3箇所ほど考えているなかで、小泉さんと約束した久津川車塚を選択。GWに測量にかかろうかと・・・。さて、どうなりますやら。
◆そのあと、大歴の委員会のある梅田に車でむかうも、途中の第二京阪で雨はもっともピークとなり、ドヒャドヒャと降っている。
2013年3月17日、近つ
◆この日、出勤はやめ、カミさんと近つへ。案の定、水野先生の講演とまたまたぶつかる。駐車場は満杯である。大阪府下の速報展も3年目をむかえて、すっかり定着した観がある。大阪にいるとはいえ、世間でどんな発掘調査が行われているのか、ほとんど知らないので、こうした機会はありがたいものである。枚方の禁野火薬庫の発掘をしている、なんてこともまったく知らなかった。
◆そして、古市・百舌鳥のレーザー測量による、等高線図や赤色立体図のパネル展示。まあ、堪能しました。それとともに、パネルを見ていて、百舌鳥御廟山がちと気になった。ちょっと考えなければならないことが出てきた。この図面、とくにクレジットもないので、少なくとも等高線図は、今後、この図録から使えばいいのだろう。赤色立体図もとくになにもないので・・・、図面なのか写真に準じるものかよくわからんが、まあ使ってもいいのかな。
◆それと何度も書いてますが、フラッシュや三脚を使わなければ撮影OKというのもありがたい。がぜん、いい写真撮ったる!という気持ちになる。で、いくつか写真を撮る。そのなかから1点。鰹木の文様って何を表しているんですかね。
◆そして、古市・百舌鳥のレーザー測量による、等高線図や赤色立体図のパネル展示。まあ、堪能しました。それとともに、パネルを見ていて、百舌鳥御廟山がちと気になった。ちょっと考えなければならないことが出てきた。この図面、とくにクレジットもないので、少なくとも等高線図は、今後、この図録から使えばいいのだろう。赤色立体図もとくになにもないので・・・、図面なのか写真に準じるものかよくわからんが、まあ使ってもいいのかな。
◆それと何度も書いてますが、フラッシュや三脚を使わなければ撮影OKというのもありがたい。がぜん、いい写真撮ったる!という気持ちになる。で、いくつか写真を撮る。そのなかから1点。鰹木の文様って何を表しているんですかね。
伏見城2013年3月15日
◆東南隅の民地境界のあたりから舟入に降りる。Y字に分かれ、二方向に掘り込みがなされている。現在、その底面は砂で埋まっている。JRが走っているため、なかなか外からの観察が難しい箇所である。竹藪でうっそうとしている。
◆午後は、その西側の尾根の張り出しから始める。なんでも比蘇寺の塔をここに移築し、また廃城時には三井寺に再び移築したという。尾根先端の東よりの高まりが塔跡ではないかと思われるが、礎石は見られない。そこから舟入西側面に降り、南側をぐるりとをまわって尾根の西側に入る。水路や段差地形が認められるが、城の時期か後世の耕作地か?。そこから道路南側の丘陵地に入る。陵墓図では自然地形状ではあるが、段差が認められ、家臣の屋敷地かもしれない。南側の凹部は京都橘高校となっている(高校サッカーで決勝までいったところ)。
◆乃木神社のところまで来て休憩。ちょっと筋肉痛気味だし、なにやら眠く、松尾さんが全員に飲み物を買ってくれる(乃木神社内の自動販売機)。なんとか、もう1時間ということで、西へ。指月段階の舟入りということだったか、ここにも谷地形の凹部があり、まず南側の民地に出て、西側まで行ってから陵墓地内の肩部のかなり急峻なところを東に進む。舟入りの東北部には深く谷が入り込み(ある程度人為的か?)、そこを見たあと、参道北側に入る。
◆けっこう広大な平坦面が段差をともなって区切られている。森島さんの西側の発掘遺構から復元される城下町の町割りを延長させてみると、これがけっこう合うのではないか、ということになる。
◆以上、今年度のDEF地区について、見て回れていないポイントもあるが、ほぼ予定していた区域の踏査と観察をひととおり実施することができた。次年度は最終年度なので、この2年の成果を持ち寄り、課題やチェック箇所を整理していかなければならない。
◆午後は、その西側の尾根の張り出しから始める。なんでも比蘇寺の塔をここに移築し、また廃城時には三井寺に再び移築したという。尾根先端の東よりの高まりが塔跡ではないかと思われるが、礎石は見られない。そこから舟入西側面に降り、南側をぐるりとをまわって尾根の西側に入る。水路や段差地形が認められるが、城の時期か後世の耕作地か?。そこから道路南側の丘陵地に入る。陵墓図では自然地形状ではあるが、段差が認められ、家臣の屋敷地かもしれない。南側の凹部は京都橘高校となっている(高校サッカーで決勝までいったところ)。
◆乃木神社のところまで来て休憩。ちょっと筋肉痛気味だし、なにやら眠く、松尾さんが全員に飲み物を買ってくれる(乃木神社内の自動販売機)。なんとか、もう1時間ということで、西へ。指月段階の舟入りということだったか、ここにも谷地形の凹部があり、まず南側の民地に出て、西側まで行ってから陵墓地内の肩部のかなり急峻なところを東に進む。舟入りの東北部には深く谷が入り込み(ある程度人為的か?)、そこを見たあと、参道北側に入る。
◆けっこう広大な平坦面が段差をともなって区切られている。森島さんの西側の発掘遺構から復元される城下町の町割りを延長させてみると、これがけっこう合うのではないか、ということになる。
◆以上、今年度のDEF地区について、見て回れていないポイントもあるが、ほぼ予定していた区域の踏査と観察をひととおり実施することができた。次年度は最終年度なので、この2年の成果を持ち寄り、課題やチェック箇所を整理していかなければならない。
伏見城2013年3月14日
◆いよいよ今年度のDEF地区の踏査。まずD地区。D地区は東北隅から東辺の地区。昨日、清掃した石垣から空堀に入る。空堀を北に向かい旧キャッスルランドのところで上に上がり、これまで入ったことのない松の丸の郭へと向かう。陵墓図の通り、肩部には小さな段差があり、その内側にどうも石がならぶ。東北隅まで行き、下に降り、東辺途中の平坦面を南下したところで昼。
◆午後は、松の丸の上面。空堀の北側を通り、ぐるりとまわって一段下りる。午前の到達点まで行き、そこからさらに下り、巡回路となっている下の平坦面を東北隅まで行って引き返す。途中、紅雪堀の隅のところに石が見えたので、堀の水面まで降りたりしながら、次に皇后陵裏側の郭を南下する。
◆そこから東へ降り、馬場といわれているあたりを観察する。このあたりは陵墓地境界の外とは一続きになっていて、城郭としての防御施設は陵墓図からはわからないが、この東側しばらくのところに自然地形である大きな谷が入る。その南辺では8mくらいドカーンと落ちており、そこを下るのはやめて、西に回り込み、一段下に降りる。
◆東大手のところを観察した後、さっきの段差のところまで北上し、西側のまた一段下の平坦面に沿って東大手に戻り、南から入り込む谷(堀でもある)を観察し、太鼓櫓南側の郭上面をまわって、この日は終了となる。
◆午後は、松の丸の上面。空堀の北側を通り、ぐるりとまわって一段下りる。午前の到達点まで行き、そこからさらに下り、巡回路となっている下の平坦面を東北隅まで行って引き返す。途中、紅雪堀の隅のところに石が見えたので、堀の水面まで降りたりしながら、次に皇后陵裏側の郭を南下する。
◆そこから東へ降り、馬場といわれているあたりを観察する。このあたりは陵墓地境界の外とは一続きになっていて、城郭としての防御施設は陵墓図からはわからないが、この東側しばらくのところに自然地形である大きな谷が入る。その南辺では8mくらいドカーンと落ちており、そこを下るのはやめて、西に回り込み、一段下に降りる。
◆東大手のところを観察した後、さっきの段差のところまで北上し、西側のまた一段下の平坦面に沿って東大手に戻り、南から入り込む谷(堀でもある)を観察し、太鼓櫓南側の郭上面をまわって、この日は終了となる。
伏見城2013年3月13日
◆9時半集合。まず特別参拝。本日の予定は、太鼓櫓と、本丸―松の丸間の西面石垣の清掃。以下同じだが、縄張り図作成チームは別で動いている。
◆横田冬彦先生が参加されているので、まず増田郭南面石垣を見てもらう。そのあと、昨年、一部有志に案内いただいたが、わたしは見ていない船入部の残存石垣を見せていただく。竹の間に石が写っている写真。これは隅角にあたり、いちばん上の大きい石の小口面(写真の写っていない側)に京極家の刻印がある。そのあと船入り部の谷を北に上がり、太鼓櫓に向かう。午前中、清掃を続けるも完了せず、昼となる。
◆午後は、太鼓櫓の清掃を完了させる。けっこうな大きさで全景のいい写真が撮れていないな~。頂部、そして南面・西面・北面と清掃する。落ちていく東側は立木もけっこうある。北東側裾部に張り出しがあり、栗石が多数露出する。東側をよく望むことができ、ここに櫓があるのは有効ではないか、といった話が出る。
◆それから石垣に向かう。増田郭南面石垣に続いて、石垣がよく残る箇所である。かぶり土のあるものを、少々清掃し、石の輪郭等がよく見える程度に露出させる。天気予報通り、途中から雨。あまり気にならずに作業を続けたが、雨音を聞いている限り、けっこう降っている。少し気になる箇所もまだあったが、おおよそ何時頃だったろうか、15:30までには今日はここまでとして、山を下りた。
◆横田冬彦先生が参加されているので、まず増田郭南面石垣を見てもらう。そのあと、昨年、一部有志に案内いただいたが、わたしは見ていない船入部の残存石垣を見せていただく。竹の間に石が写っている写真。これは隅角にあたり、いちばん上の大きい石の小口面(写真の写っていない側)に京極家の刻印がある。そのあと船入り部の谷を北に上がり、太鼓櫓に向かう。午前中、清掃を続けるも完了せず、昼となる。
◆午後は、太鼓櫓の清掃を完了させる。けっこうな大きさで全景のいい写真が撮れていないな~。頂部、そして南面・西面・北面と清掃する。落ちていく東側は立木もけっこうある。北東側裾部に張り出しがあり、栗石が多数露出する。東側をよく望むことができ、ここに櫓があるのは有効ではないか、といった話が出る。
◆それから石垣に向かう。増田郭南面石垣に続いて、石垣がよく残る箇所である。かぶり土のあるものを、少々清掃し、石の輪郭等がよく見える程度に露出させる。天気予報通り、途中から雨。あまり気にならずに作業を続けたが、雨音を聞いている限り、けっこう降っている。少し気になる箇所もまだあったが、おおよそ何時頃だったろうか、15:30までには今日はここまでとして、山を下りた。
2013年3月16日、古代を偲ぶ会
◆昨日のうちに資料を刷り、ホッチキスで留める。今朝、9時過ぎから12時頃までかかってパワポを準備する。要するに松岳山古墳の話。14時開始で、場所は天満橋のエル大阪。30分前に到着しパソコンをセットするも、天井低く、スクリーンは小さく、おまけに部屋はかなり縦長で、うしろの人は見えにくかったに違いない。
◆1時間50分くらい話をしたか。大半は松岳山古墳の調査研究史、最後に最新の測量図を元に墳丘復元案を示し、玉手山古墳群との関係を含めた評価の話をすこし。まあ、あんなもんかね。
◆エルおおさかに歩いていきがてら、南を見ると石垣が・・・。これは何?。とにかく、大川に面したところがガクンと下がっていることがよくわかる。
◆1時間50分くらい話をしたか。大半は松岳山古墳の調査研究史、最後に最新の測量図を元に墳丘復元案を示し、玉手山古墳群との関係を含めた評価の話をすこし。まあ、あんなもんかね。
◆エルおおさかに歩いていきがてら、南を見ると石垣が・・・。これは何?。とにかく、大川に面したところがガクンと下がっていることがよくわかる。
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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。