人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
大阪府の教育長
◆どう思いますか。大阪市長の同級生の「国際弁護士」だったというじゃないですか。なにが「国際」かは知らないが、府知事時代に和泉高校の校長に抜擢し、教員が君が代を歌っているかどうか口をチェックしてたかと思ったら、今度は教育長だって。国際弁護士として活躍してるなら、こんな仕事につかんわな。これって就職の斡旋とちゃうんですか。まさにコネ採用。教育長としての資質があるんならいいですよ、が、経験も見識もないんだろう。
◆こういうのって任命して終わり?。議会の承認とかはいらないのか。仕組みはよく知らないが。こんな人事がマカリ通る大阪だ。府立高等学校の校長代表10人とかの前でプレゼンをやらしたらどうなん?。大学教員にはそういうことを押しつけながら、教育長なる重要ポストは、厳しい審査などなく、好き勝手にやれるわけですね。
◆こういうのって任命して終わり?。議会の承認とかはいらないのか。仕組みはよく知らないが。こんな人事がマカリ通る大阪だ。府立高等学校の校長代表10人とかの前でプレゼンをやらしたらどうなん?。大学教員にはそういうことを押しつけながら、教育長なる重要ポストは、厳しい審査などなく、好き勝手にやれるわけですね。
3月29日、2012年度も暮れる
◆31日、日曜日もあるわけですが、職場としては2012年度はこれで終わり、ということになり、来週月曜日は4月1日である。本日、旧栄原研究室に新任の古代史教員の荷物が運び入れられ、少しずつ段ボールを空けて棚に本を配架している。塚田先生がめんどうをみていて、一段落したらお茶を飲みに行こうと誘われる。
◆本日、オレは、『市大日本史』の編集に着手し、Hさんの講演原稿、S論文・O論文までを調整の上で入稿。HD論文もひととおりインデで組んで基本作業は終わった。朝10時から夜22:30までで、こんだけである。とくに古代史のS論文と、近世史のHD論文に手間取る。
◆インデでやっているが、別にそれで入稿するわけでなく、結局は印刷屋が作業するのだが、ほとんど仕上がりと同じくらいに作り、それを見本にしてもらうことで、あとあとメンドウが起こらないようにしている。むろん表や図の割り付けをやるためでもある。あとはフォント調整。それとめんどくさいのが史料は行間を詰めているので、本文のものと組み合わせていく。註番号、註の参考文献などの表記とか、やりだすと切りないが、こういうのは機械的な作業でもあるので、時間をかければ着々と片付いていく。
◆明日、HD論文を1頁縮める作業をやり、HZ論文もやれば、いま手持ちの大物は片がつく。もう1本の論文と合同調査報告を入れてしまえば、大方は軌道に乗る。
◆昨日、印刷屋に電話し、今年もよろしくお願いしますと挨拶をし、明日から(今日)入れていきますと言ったところ「今年は早いですね」と言われ、返す言葉がない。まあ、3月末にかなり入れとけば、今年は順調か、な。
◆本日、オレは、『市大日本史』の編集に着手し、Hさんの講演原稿、S論文・O論文までを調整の上で入稿。HD論文もひととおりインデで組んで基本作業は終わった。朝10時から夜22:30までで、こんだけである。とくに古代史のS論文と、近世史のHD論文に手間取る。
◆インデでやっているが、別にそれで入稿するわけでなく、結局は印刷屋が作業するのだが、ほとんど仕上がりと同じくらいに作り、それを見本にしてもらうことで、あとあとメンドウが起こらないようにしている。むろん表や図の割り付けをやるためでもある。あとはフォント調整。それとめんどくさいのが史料は行間を詰めているので、本文のものと組み合わせていく。註番号、註の参考文献などの表記とか、やりだすと切りないが、こういうのは機械的な作業でもあるので、時間をかければ着々と片付いていく。
◆明日、HD論文を1頁縮める作業をやり、HZ論文もやれば、いま手持ちの大物は片がつく。もう1本の論文と合同調査報告を入れてしまえば、大方は軌道に乗る。
◆昨日、印刷屋に電話し、今年もよろしくお願いしますと挨拶をし、明日から(今日)入れていきますと言ったところ「今年は早いですね」と言われ、返す言葉がない。まあ、3月末にかなり入れとけば、今年は順調か、な。
3月28日、沖縄物語
◆もうひとつ気になっていることもあるのだが、ひとつ布石をうち、なんだか懸案が片付いた気になっているところへ、卒業生で
明日、喜界島に出発する学生から食事のお誘いが来て、昨日は18:30で仕事を切り上げ、我孫子の沖縄物語へ。藤井君と白井君が既に呑んでいる。今日は呑むわけにはいかないが、楽しくおいしく食べましょうと。そこへ大阪市立大学職員のS君がやってきて、なんだか泡盛をぐいぐいやってると思ったら、トイレに立ち、あれっ足がしびれてんのかなと最初は思ったのだが、要するに千鳥足。そのままトイレから出てこなくなる。おいおい。
◆卒業生はもう下宿も引き払い、今日はホテルで、明日(今日だが)、伊丹から奄美に飛ぶのだとか。彼女には『発掘調査の手引き』を餞別として渡した。藤井君も長くうちの研究室を支えてくれたが、京都府の教員をめざすという。
◆そんなんで、不思議な5人の集まりとなり、なんとか復帰したS君ともども、記念写真を撮る。
◆そのあと、新大阪に、最終新幹線で帰るカミさんを迎えに行く。いつものロッテリアで、季刊考古学の原稿を少し。
◆卒業生はもう下宿も引き払い、今日はホテルで、明日(今日だが)、伊丹から奄美に飛ぶのだとか。彼女には『発掘調査の手引き』を餞別として渡した。藤井君も長くうちの研究室を支えてくれたが、京都府の教員をめざすという。
◆そんなんで、不思議な5人の集まりとなり、なんとか復帰したS君ともども、記念写真を撮る。
◆そのあと、新大阪に、最終新幹線で帰るカミさんを迎えに行く。いつものロッテリアで、季刊考古学の原稿を少し。
あああ
◆ようやっと科研の残額処理を終える。研究支援課さま、すいません。2月末でほぼ処理を終えていたが、萌芽分担金が数百円の残、自分の直接が残金が確定していなかったので寝かしていたら今になり1.3万、やっと処理した。公費もほぼ使い終えており、残額はこっちの場合はほっとけば文学部で処理される。
◆実は博物館実習費を付けてもらった予算、ほぼ主要な機器や机・椅子等々は執行したものの、残りの細かいものを見繕う余裕なく、そこそこの額が未執行にとなっており、これは怒られるわな~、という状態になっている。それと図書費用も。ちょっと忙しすぎます!。
◆怒られるのは仕方がない。まあ、これで年度の始末はついた。
◆実は博物館実習費を付けてもらった予算、ほぼ主要な機器や机・椅子等々は執行したものの、残りの細かいものを見繕う余裕なく、そこそこの額が未執行にとなっており、これは怒られるわな~、という状態になっている。それと図書費用も。ちょっと忙しすぎます!。
◆怒られるのは仕方がない。まあ、これで年度の始末はついた。
やっぱり岩屋山式の年代観にとどめを
◆カミさん情報によると、科研の採択内定結果は4月1日には出るらしい。横穴式石室で申請しているオレの科研はどうなるかな。
◆覚えのように改めてのべれば、白石さんの議論では、石舞台式=TK209の須恵器出土のものがいくつかある+茅原狐塚が飛鳥Ⅰ。岩屋山式、葉室石塚のみ(ほぼ実物なし)飛鳥Ⅱ、岩屋山亜式、西宮のみ、飛鳥Ⅱ新、だそうである。が、狐塚のヤツは飛鳥Ⅰでいいのだろうか、この1959年報告の須恵器はいまどこにあるんか知らないが、再実測が必要ですね。そして西宮の杯蓋はほんとうに飛鳥Ⅱ新になるのでしょうか、怪しいと思っています。
◆まあ、しばらくはこの話は沈黙しよう。蓄積・蓄積!
◆覚えのように改めてのべれば、白石さんの議論では、石舞台式=TK209の須恵器出土のものがいくつかある+茅原狐塚が飛鳥Ⅰ。岩屋山式、葉室石塚のみ(ほぼ実物なし)飛鳥Ⅱ、岩屋山亜式、西宮のみ、飛鳥Ⅱ新、だそうである。が、狐塚のヤツは飛鳥Ⅰでいいのだろうか、この1959年報告の須恵器はいまどこにあるんか知らないが、再実測が必要ですね。そして西宮の杯蓋はほんとうに飛鳥Ⅱ新になるのでしょうか、怪しいと思っています。
◆まあ、しばらくはこの話は沈黙しよう。蓄積・蓄積!
横口式石槨と大化薄葬令
◆塚口先生が明らかにしたとおり。横口式石槨のほとんどは薄葬令を遵守している。そのデータをなにも考えず、つまりはイチ
イチ原本にあたることなく数字だけ扱い、グラフ化して見える形にしてみた。
◆石槨は河内が早く大和がおそいので、河内の7世紀前半のものは薄葬令にあわないものもあるのだろう、おそらく。大半が7世紀後半にあたるであろうこれらの古墳は、ほとんど守ってる、ということだ。薄葬令はばっちり効いている。問題は大化にさかのぼるかどうかであって、これらのなかで例えば650年代と確定できるようなモノがひとつでもあればいいのだが、それはいまのわたしにはできません。が、たぶんいける。
◆先の石槨の話も、薄葬令を契機に、大和を含めて導入が進む、といった理解でいいのではないだろうか。つまりは、極論すれば、横穴式石室は薄葬令でなくなる、と。群集墳は知りませんけど。鬼の雪隠タイプが7世紀第3四半期、が667の牽牛子塚古墳を起点に?(益田磐船からすればそれでいいのでは)凝灰岩が導入され、そっちになっていくと、こんなんでどうでしょうか。
◆白石先生には近つ館報で、そんなに岩屋山式を上げて、640年~690年頃の支配者層の墓室はどんなんか、なにもなくなってしまうやないか、との問いをいただいているが、これがひとつの答えです。
◆石槨は河内が早く大和がおそいので、河内の7世紀前半のものは薄葬令にあわないものもあるのだろう、おそらく。大半が7世紀後半にあたるであろうこれらの古墳は、ほとんど守ってる、ということだ。薄葬令はばっちり効いている。問題は大化にさかのぼるかどうかであって、これらのなかで例えば650年代と確定できるようなモノがひとつでもあればいいのだが、それはいまのわたしにはできません。が、たぶんいける。
◆先の石槨の話も、薄葬令を契機に、大和を含めて導入が進む、といった理解でいいのではないだろうか。つまりは、極論すれば、横穴式石室は薄葬令でなくなる、と。群集墳は知りませんけど。鬼の雪隠タイプが7世紀第3四半期、が667の牽牛子塚古墳を起点に?(益田磐船からすればそれでいいのでは)凝灰岩が導入され、そっちになっていくと、こんなんでどうでしょうか。
◆白石先生には近つ館報で、そんなに岩屋山式を上げて、640年~690年頃の支配者層の墓室はどんなんか、なにもなくなってしまうやないか、との問いをいただいているが、これがひとつの答えです。
酒を飲みながらサッカーワールドカップ予選を見る
◆缶チューハイ500ml、2本目。日本-ヨルダン戦を見ている。関本さん、図録の仕事、一段落したのかな・・・。
◆香川、1点入れた。そして内田がPKをとった。なんで遠藤なんや。長谷部やろ!。よっしゃーコーナー。
◆あかん負けてしまった。風呂に入ろう。
◆香川、1点入れた。そして内田がPKをとった。なんで遠藤なんや。長谷部やろ!。よっしゃーコーナー。
◆あかん負けてしまった。風呂に入ろう。
牽牛子塚
◆斉明は661没、娘の間人は665没、一旦埋葬されたあと、667年に牽牛子塚古墳に葬られ(667前とも考えられているらしい)、また越塚御門古墳に孫の太田皇女が葬られた。
◆白石太一郎は、岩屋山古墳を斉明陵と考え、牽牛子塚古墳は699年の修造の際に場所を移して新設したものと考えている。しかしかなり大規模な改修と考えられるものの(凝灰岩?の石が数百出土しているという)、新設して改葬したのではなく、やはり牽牛子塚古墳そのものに手を入れたとみるべきだろう。問題は牽牛子塚古墳の石槨の位置づけにかかっている。
◆まず、牽牛子塚古墳の石槨が前面に羨道部をもたないことは確定していない。688の埋葬までに造営された天武陵である野口王墓は、羨道があり墳丘側面に入口を開いており、キトラ古墳や中尾山古墳のように墳丘に最終的に埋め込む形態は8世紀に下る。越塚御門古墳でも墓道とされるものが検出されているが、石槨に近い部分には抜き取り穴があり羨道があったとみてよい。次に、鬼の雪隠古墳のように花崗岩を刳り抜くものがあり、次に凝灰岩の導入へと進み、より加工しやすい凝灰岩を刳り抜くことが試みられたと考えられる。688年の野口王墓では凝灰岩でも既に切石を組み立てる方式となっている。そして羨道をなくし墳丘に埋め込むキトラ古墳へと推移する変化は容易にたどることができる。
◆凝灰岩導入(刳り抜き)+おそらく羨道→凝灰岩切石(組立式)+羨道→凝灰岩切石(組立式)羨道なし、という推移は自然に理解でき、牽牛子塚古墳の石槨は野口王墓以前であり、699年に新設したと考えることは困難である。
◆全体として並存関係はあるにせよ、鬼の雪隠タイプが古相で(鬼の雪隠古墳そのものも羨道がなかったことが確定しているわけでなく、石宝殿古墳と同じように羨道があった可能性が高いだろう)。牽牛子塚古墳の頃に凝灰岩が導入され、以後、切石組み合わせに進んでいくと考えて問題はない。越塚御門古墳との並存は、鬼の雪隠タイプの1点が667年にあり、また凝灰岩導入がこの時期に位置づけられることを示す。
【追記】当然のことながら、岩屋山式を667とする見方も無理である。
◆白石太一郎は、岩屋山古墳を斉明陵と考え、牽牛子塚古墳は699年の修造の際に場所を移して新設したものと考えている。しかしかなり大規模な改修と考えられるものの(凝灰岩?の石が数百出土しているという)、新設して改葬したのではなく、やはり牽牛子塚古墳そのものに手を入れたとみるべきだろう。問題は牽牛子塚古墳の石槨の位置づけにかかっている。
◆まず、牽牛子塚古墳の石槨が前面に羨道部をもたないことは確定していない。688の埋葬までに造営された天武陵である野口王墓は、羨道があり墳丘側面に入口を開いており、キトラ古墳や中尾山古墳のように墳丘に最終的に埋め込む形態は8世紀に下る。越塚御門古墳でも墓道とされるものが検出されているが、石槨に近い部分には抜き取り穴があり羨道があったとみてよい。次に、鬼の雪隠古墳のように花崗岩を刳り抜くものがあり、次に凝灰岩の導入へと進み、より加工しやすい凝灰岩を刳り抜くことが試みられたと考えられる。688年の野口王墓では凝灰岩でも既に切石を組み立てる方式となっている。そして羨道をなくし墳丘に埋め込むキトラ古墳へと推移する変化は容易にたどることができる。
◆凝灰岩導入(刳り抜き)+おそらく羨道→凝灰岩切石(組立式)+羨道→凝灰岩切石(組立式)羨道なし、という推移は自然に理解でき、牽牛子塚古墳の石槨は野口王墓以前であり、699年に新設したと考えることは困難である。
◆全体として並存関係はあるにせよ、鬼の雪隠タイプが古相で(鬼の雪隠古墳そのものも羨道がなかったことが確定しているわけでなく、石宝殿古墳と同じように羨道があった可能性が高いだろう)。牽牛子塚古墳の頃に凝灰岩が導入され、以後、切石組み合わせに進んでいくと考えて問題はない。越塚御門古墳との並存は、鬼の雪隠タイプの1点が667年にあり、また凝灰岩導入がこの時期に位置づけられることを示す。
【追記】当然のことながら、岩屋山式を667とする見方も無理である。
近つの原稿を出す
◆大阪市の会議を終えて、13時過ぎに大学に戻り、昨日までで80%まできていた原稿の仕上げにかかる。終わ
った・・・。関本さんにメールしたのが19:50。電話がかかってきて10分以内に送信できるか、とのこと。20時に印刷屋と約束していたのだろう。これがほんとのリミットだったという。10分前、滑り込みセーフというところである。セーフなのかアウトなのかは知らないが、これで原稿落ちは、おそらくないだろう。
◆大きめの仕事がこれでまたひとつ済んだ、ホッ。
◆今回の原稿を書くために、『玉手山古墳群の研究Ⅴ』の諸論考を呼んでいたが、やっぱりこの5年間は実に画期的でしたね。むろん細部や細部でない点も含め意見の不一致はあるが、大局的な動向はおおむね共通理解に結びついたのではないか。安村さんと鐘方さんはほぼ一体、河内さんはちょっとだけ違い、オレはけっこう違うがそれでも大局は違わないと思う。それに比べると下垣さんは、かなり意見が違う、といった距離感になる。
◆書いてみて、1号墳の埴輪が薄いことをどう考えるか、が分かれ目ですね。円筒埴輪の筒部径やタガの高さに7号墳と差はない。水掛け論になるので、あんまり言及はしなかったが、例えば、鐘方さんは、玉手Ⅰで、Ⅰ-4は三角形の千鳥が基本と書いている、これ7号墳にぴったりですやん。Ⅰ-5では長方形の透かしが入ってくると、これ1号墳にぴったりですや
ん。鐘方さんの前期の編年がひとつのスタンダードだろうが、それにしたがえば7→1なんですけどね。前にも書いたが、3号墳の整理を通して、3に7が直続すると言えると見込んでおり、これが意見の相違を埋めるための次の段階になるだろうと思っている。
◆いまの結論の図を挿図として作ったので掲げておく。ひとつ忘れていた。で、松岳山古墳の墳丘はどうなんよ、という点だが、沈黙した。やっぱり五社神にいちばん類似するのだが難問、○○型と言えないまでも、それが難しいという断りをどこかに書いとかなければと思っていたが、忘れてた。まあ、講演会までに、もうちょっと勉強しましょう。ちなみに、松岳、紫金山も太くよく似ている。
◆次は季刊考古学・・・、とはいえ7月号なのでまだ大丈夫だろう。優先順位としては、次は『市大日本史』の編集でんな。
◆大きめの仕事がこれでまたひとつ済んだ、ホッ。
◆今回の原稿を書くために、『玉手山古墳群の研究Ⅴ』の諸論考を呼んでいたが、やっぱりこの5年間は実に画期的でしたね。むろん細部や細部でない点も含め意見の不一致はあるが、大局的な動向はおおむね共通理解に結びついたのではないか。安村さんと鐘方さんはほぼ一体、河内さんはちょっとだけ違い、オレはけっこう違うがそれでも大局は違わないと思う。それに比べると下垣さんは、かなり意見が違う、といった距離感になる。
◆書いてみて、1号墳の埴輪が薄いことをどう考えるか、が分かれ目ですね。円筒埴輪の筒部径やタガの高さに7号墳と差はない。水掛け論になるので、あんまり言及はしなかったが、例えば、鐘方さんは、玉手Ⅰで、Ⅰ-4は三角形の千鳥が基本と書いている、これ7号墳にぴったりですやん。Ⅰ-5では長方形の透かしが入ってくると、これ1号墳にぴったりですや
◆いまの結論の図を挿図として作ったので掲げておく。ひとつ忘れていた。で、松岳山古墳の墳丘はどうなんよ、という点だが、沈黙した。やっぱり五社神にいちばん類似するのだが難問、○○型と言えないまでも、それが難しいという断りをどこかに書いとかなければと思っていたが、忘れてた。まあ、講演会までに、もうちょっと勉強しましょう。ちなみに、松岳、紫金山も太くよく似ている。
◆次は季刊考古学・・・、とはいえ7月号なのでまだ大丈夫だろう。優先順位としては、次は『市大日本史』の編集でんな。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。