人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
大阪城天守閣
◆今日の授業では、提出されたレポートにもとづくディスカッション。メールで送られてきた21人分のレポートを、体裁を整えたフォーマットで編集し、人数分コピーする。で、ディスカッション。なかなかタメになる。これも博学連携(大阪市の博物館施設と大阪市大の包括提携)のひとつにあり方になりうる。市大は金を払って教職員は6館常設は無料で入れるわけだが、そうした関係にとどまらず(むろん博物館の科目で大いにお世話になっている)、博物館を学生らが見学し、さまざまに論評を加えたものを整理し、相手方に手渡す、というのもいいことだ、と。昨年の歴博、自然史、住まいのミュージアムはそこまでできなかった。レポートをそのまま手渡してもいいのだが、そこは、本日のディスカッションもふまえ、一定の整理をしておいた方がいいと思う。そうすると、結局、こっちの仕事と
◆大阪城の石垣調査などで朝からいると、中国人の団体がドバーとやってきてはバスで帰って行く。今回、平日の午後後半ではあったが、それでも中国人と韓国人はきわめて多い。びっくりするくらい。むろん、天守閣の展示の魅力が引きつけるわけでなく、ありがたいことに大阪の観光地として大阪城に来てくれ(あとはどこがあるのか?)、そしたら必然的に天守閣に登るわけではある。それはそれでありがたい話で、入館者数はほっといても数が稼げるわけだ。むろんそういう性格なので、あくまで観光施設としての意味合いが主なのだが(失礼)、そこはしかし大阪や大阪城をアピールする絶好のチャンスでもある。理解しやすく工夫をし、観光に来たけど、なにやら面白く日本の歴史も知ることができたと思ってもらえる努力は必要だろう。修学旅行生などの団体がどばっとやってくるシーズンや時間帯など、どうしようもないところもあろうが、行った時はそうでもなく、みな展示物やパネル前の所要時間はさまざまながら、ひととおりのぞき込んでいる様子がうかがえた。観光施設として入ったとしても、せっかくやしということで、素通りして15分くらいで出るわけでなく、足を止めて見ようとしてくれている。そうした人々に対し、けっこう面白かった、と思ってもらえるパーセンテージを上げる工夫は、施設面の制約はあれ、できることはけっこうあるという学生の意見が大半を占めた。
ファミレスとコンビニはよくできている
◆いや~、ファミレスとコンビニは日本が誇るべき文化ですね。ファミレスは、お茶飲むのでも、もちろん食事をするのも、そして昼間っから飲むのにも対応でき、家族で行くのも、ビジネスでも、勉強するのでも、利用する側としても、あらゆるシチュエーションに対応できる。なかなか良いシステムではないでしょうか。
◆コンビニというのは、アメリカ的なるものかもしれないが、日本のものの品ぞろえ、多機能性、それは由緒はともかく、日本で独自的な進化を遂げたものといえ、また日々進化している。コンビニのコピーも、いまやスキャナー機能付きのものに置き換わっていきましたね。それとコーヒーサーバーも、あっという間にカウンターに乗っかった。むろん、オデンも(買ったことはないですが)。ATMに、チケットに、公共料金の支払いや、アマゾンで注文した本を受けとるとか、まあ、なんというすぐれものなんでしょうか。前に被災地に行ったときも、いち早くコンビニが仮設店舗を設置し、日常品の需要に応えている姿を見た。
ピースおおさか、についての意見交換会
ピースおおさか 展示リニューアル構想」をめぐる意見交換会のご案内
ピースおおさか(大阪国際平和センター。以下「ピース」)は、2013年4月上旬、展示リニューアル構想を公表しました。大阪歴史科学協議会・大阪歴史学会は、この構想をめぐる意見交換会を開きます。
ピースは「大阪府民・市民と国内外の人々との間に相互交流を深めることを通じて、大阪が世界の平和と繁栄に積極的に貢献する」(設置理念)ことを目的として、1991年9月、大阪府・市の共同出資により設立された平和博物館です。しかしピースは設立以来、右翼・保守的政治勢力による攻撃にさらされてきました。さらに2008年以降、府・市の補助金支出が中止され、企画展の開催が不可能となるなど、平和博物館としての役割を十分に果たすことが困難となっています。
そして現在、政権は公然と改憲を政治目標に掲げ、大阪府・市は「近現代史の教育のための施設」構想を検討しています。そのような中でリニューアルが実施されることで、ピースの設置理念や目的に反する施設に生まれ変わってしまうことが危惧されます。今こそ、広範な府民・市民がピースの現状と今後に関心を寄せていくことが必要なのではないでしょうか。そして在阪歴史学会には、この問題を多面的・学問的に検討するための視点を示す責任があると考えます。
このような問題関心に基づき、下記の要領でピースの見学会と意見交換会を開催します。
多数のご参加と活発な議論を期待します。
記
日 時 2013年6月1日(土) 13:00~17:00
集 合 ピースおおさか玄関(北入口)
日 程 13:00~14:30 ピースおおさか見学
15:00~16:30 意見交換会 (会場は17:00まで使用可)
※展示見学終了後、会場のアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)・A棟7号室
へ徒歩で移動します。
主催 大阪歴史科学協議会・大阪歴史学会
松阪商人の館
◆以下WEB。
◆江戸時代の流通経済の分野で、中心的な役割を担い、めざましい活躍をしたのが伊勢商人と近江商人であった。伊勢の国出身の商人は、他国の人から「伊勢商人」と呼ばれ、17世紀初期から江戸、大阪、京都の三大都市へ盛んに進出した。中でも徳川家が幕府を置き、近世最大の都市に発展した江戸へは、他国の 商人に先駆けていち早く出店し、徳川第5代将軍・綱吉のころともなれば「江戸に多きもの伊勢屋・・・」という俗語さえ流行した。また、他国の商人からは「近江泥棒、伊勢乞食」と陰口されるほど、近江商人と共に 際立った存在であった。伊勢商人の営む江戸店の特徴は、その経営組織にある。店を取り仕切っていたのは、支配人や番頭などの幹部従業員で、経営者である主 人は伊勢の本家から江戸店の経営に目を光らせながら、収益を得て、遊芸や文化と趣味の世界を大いに楽しんでいたようだ。江戸店は、本家とは区分された独立 採算の経営体となっており、その利益は毎年本家に上納されていた。このような経営組織を支えたのは、江戸店独特の雇用形態である。支配人から丁稚に至るま で、ほとんどの店員が伊勢の国出身者であり、地縁で結ばれた家族制度的な職場であった。江戸時代に本家が伊勢の国にあり、江戸をはじめとする都市に店を持ち、店員が伊勢出身者である企業体
これが伊勢商人の定義である。
◆伊勢商人の江戸店は、日本橋(東京都中央区)周辺に集中しており、その数は約50店にも達した。この伊勢商人の出身地を地域別に見ると松 阪、相可(多気郡多気町)、津、射和(松阪市)、若松(鈴鹿市)などが挙げられるが、出身地別に分類すると櫛田川流域グループ、松阪グループ、津藩グルー プ、白子港グループの4つにまとめられる。
◆松阪。三井家、小津家、長谷川家など、多くの豪商を輩出した松阪は、伊勢商人の第二のふるさとである。松阪城を築城した蒲生氏 郷は、ふるさと近江日野から商人を呼び寄せ、楽市楽座を設けて商業を保護し、商都・松阪の基礎を築いた。そして、粋好みの江戸庶民に大いにもてはやされた 松阪木綿は衣料革命を巻き起こし、それを扱う松阪商人は隆盛を極めた。特に三井家の創始者・三井高利は、松阪木綿の呉服商「越後屋(後の三越百貨店)」を 営み、三井財閥の基を築いた人物である。現金掛値なしの店頭販売という、当時としては画期的な手法で売り上げを伸ばし、井原西鶴の『日本永代蔵』の中でも 大商人の手本として称賛されている。天正16(1588)年、戦国時代の武将、蒲生氏郷により開かれた松阪の城下は、江戸時代になると商人の町として大いに栄えました。主に松阪木綿を扱う豪商は、江戸時代前期にいちはやく江戸(あるいは京・大阪)に店を構えましたが、その商品は粋好みの江戸っ子たちにもてはやされ、年間五十数万反(当時の江戸の人口の半分)の売り上げを誇ったといわれています。
◆で、松阪商人の館というのがある。以下、これもWEB
江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館として公開しているものです。展示品の中には「千両箱」ならぬ「万両箱」もあり、その広い屋敷はまさに「江戸店持ち伊勢商人」の風格を感じさせます。
◆写真は、上から牛銀(好き焼き屋)、途中で入った茶店、コロッケを買った肉屋。
松阪市歴史民俗資料館と市民病院
◆松阪市立歴史民俗資料館は、古い図書館を利用した資料館で、企画展もやっていた。本居宣長は目玉ではあろうが、そっちは財団法人が運営する記念館があるわけだが、松阪の歴史と文化は別に本居宣長だけではない。そうした市の歴史と文化を語るには、いまの歴史民俗資料館は十分ではない。建物そのものはいいのだが、手狭だし、使い勝手も悪いだろう。望ましいのは、この古い移築した図書館を敷地内で活かしつつ、別に資料館本体ができればいいのだろうが、なかなか土地もなく、古い資料館のままということなのだろう。その一方で、病院はごっつい。
本居宣長旧宅
◆入ってもよかったのですが、入りませんでした。400円だそうです(そんな高くはないですね)。そこそこ城には人が来ているんだけれども、この旧宅に金を払って入る人は少ないように思った。古事記を研究するなど、偉い人なんだろうけれども、明治以来、祭り上げたのだろうが、今の人はどこまで関心があるのか疑問。カミさんは、無料にして寄付金箱を置くのがいいのではないかという。それはともかく、古い町屋でも、むろんいま生活している人がいるなら別だが、そうでないものについて、残すだけではなく、人に入ってもらったり使ってもらうようにした方がいいのだろう。宣長の旧宅は一部を公開しているに留まるという。そんなに大事に大事にして残すことそのものが重要なのだろうか。
◆構造物のない城跡のなかで、移築建物があり、資料を見せる展示施設があるのは、ひとつの材料ではあるが、極論を言えば、条件が許せば、再度、元の場所に戻すのがいいのではないか。