人を幸せにする人になろう

大念仏寺

◆以下、ウィキ。9af8fdf2.JPG

 融通念仏比叡山の天台宗の僧の良忍が、大治2年(1127年)鳥羽上皇の勅願により開創した。
 摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の領主の平野殿坂上広野の私邸内に建立した融通念仏の道場の菩提所・修楽寺の別院が前身。
 その後、寺勢は振るわなかった。永享元年(1321年)に第7世・法明が中興して寺域を拡大して、伽藍を整備したが、度重なる兵火に遭い荒廃した。
 第43世・舜空が大堂を建立した。元禄年間(江戸時代前期)には、第46世・大通が諸堂を再建するとともに、法儀の用具を完備して、融通念仏宗の本山として現在に至っている。
 境内地は24000m²(約7300坪)、30余りの諸堂がある。
 本堂は、大阪府下最大の木造建築である。
 開祖である良忍上人が京都の大原で修行中、唱える念仏が美しすぎるため近くの滝の轟音がかき消されてしまうといったエピソードがある。 現在でもその滝は“音無の滝”として広く知られる。


◆だそうである。うちの院生がかつてやっていたのは、たぶんここのことだろう。
 

環濠都市 平野

◆そう、平野は堺とならぶ環濠都市、八尾と久宝寺は寺内町。環19df7989.JPG濠のほとんどは失われてeb87f15d.JPGいるが、写真のように、杭全神社の背後部と、東南の赤留ヒメ神社のところに残る。
◆町会館のようなものがあり、そこの壁に、平野郷の歴史をまとめたパネルがある。

2ea5d048.JPG

杭全神社

◆以下、ウィキ40dce021.JPG。まずクマタ神社と、知らない人は読めまい。最初、大阪で、この2文字を見たとき、なんて読むんだろうと思ったもの。

 貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが最初と伝えられている。
 以降、建久元年(1190年)に熊野證誠権現(伊弉諾尊)、元亨元年(1321年)には熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請合祀し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の勅額を賜り、熊野権現社の総社とされた。
 明治になって現在の社名に改まった。日本で唯一連歌所が残っており、連歌会は明治以降廃れていたが、1987年に復活させ、現在、毎月定期的に平野法楽連歌会が催されている。1999年からはインターネット連歌が始まった。初代の連歌所は室町時代に建てられたが、大坂冬の陣で焼かれた。現存するのは1708年(宝永5年)に再建されたもので、大阪市指定文化財に指定されている。
 夏祭り(平野だんじり祭)が毎年7月11-14日に行なわれ、付近の国道25号の走行が規制される。


◆平野そのものが、田村麻呂の二男の廣野によるという。前に、1回生の授業で学生が平野の発表をやって、あらあら概要を聞いていたのを思い出すが、9世紀の記録はあるんだろうか?。
◆おみくじを引くと凶。あかんことをやっているらしく改めなければ転落するのだそうだ・・・。何、悪い行いをやっているというのだ!。昨年、厳島神社で引いたときも凶。
 

6月10日、平野郷はオモロイ

◆日曜日、午後は仕事に行くとして、午前はどっかへ出かけようということに。大東市の堂山古墳の展示を見に行こうかとfd9e9262.JPGしたが、出たとたん、杭全神社に変更。結局、平野郷の散策となる。
◆杭全神社→環濠の跡→大念仏寺→商店街(全興寺)→赤留比メ命神社(環濠跡地)など。
◆地元がNPOなのかな?を立ち上げて町づくりに取り組んでいる。写真は、入ったコーヒー豆屋さん(喫茶もあり)。

6月9日、ピースおおさか

◆昨年、大坂城の調査の関係で何度も前を通りながら、これまで行ったことがなかった。おおむねHPで展示内容は64375f38.JPG確認できるが、この日、実際に行ってみた。
◆まずエントランスを入って大阪空襲の展示。それから下に下がって、15年戦争の展示、上にあがって3階の戦後のパネルとなるが、ちょっと動線は問題ありか。大阪空襲のところの映像、戦跡の映像もじっくりと見る。八尾空港のエンタイ壕というのも、行ったことはないが視認する。15年戦争のところは、壁に沿って奧まで行って、反対側を戻ってくる動線となっている。奧のところで定期的に投影される15年戦争のフラッシュもわかりやすかった。あんまりひどい画像はやはり避けるべきだろうが、しかし戦争の悲惨さを知るためには一定程度は必要。パネルに使っていた写真が間違っていたことは問題だが、それはそんな大きな問題ではあるまいに。「朝鮮人強制連行」と書くと叩かれるのかもしれないが、解説は強制だったと明言してはいない。
◆マンガ『嫌韓流』というのがあって、それはそれで正しい面もあるのだろうが、不勉強で正面から反論できないが・・・。書いている範囲に誤りはないとしても、それですべてではあるまいし、実態をつかまえていない面もあろうし、ふれている点についても、実質のところでどうだったかを掘り下げないとだめだろう。例えば農地の問題とか。やはり進出した日本企業を優遇し土地が取得できるようにしたと思うし、それによって農地を失い、日本に行く、あるいは満州に行かざるをえなくなった、といったことまで。もうやめておこう。
◆赤紙が来て、町内で送り出される際の映像は悲しい。1人だけかと思ったら、何人も観覧者はいて、また学校見学の団体もやってきた。が、若者たちは、ふとパネルの前に立ち衝撃を受けることもあまりない様子。学校見学で連れて行かれる他の施設となんら変わりなく、キャッキャといいながら、足早に通り過ぎていく。もうちょっと、じっくり見せるよう引率者が注意してくれればいいのだが。
◆この手の施設が「暗い」のは当たり前だろう。明るく語れるものではない。ことさら暗くする必要もなく、自ずから厳粛な気持ちになる、そんなものだろう。外へ出れば、日は明るく、ジョギングの人々、大坂城に遊びに来た人たち。それが日常でむろんそれでよい。が、大阪も焦土となって、そこから復興してきたんだ、ということを学んでくれればよいのだ。
 

6月9日 五木ひろし

◆なんじゃそりゃ?。新歌舞伎座で五木ひろしショーをやっていて、カミさんの発案で、われわれの両親を招待することに3e245bee.JPGなる。こないだ、田植えに行った時に決まる。この日、早朝から和歌山に迎えに行き、加古川のオレの父母は、阪神なんば線経由で上本町に来て貰う。公演は11時スタート、途中、昼飯タイムをはさんで14:20まで。だいたい10時には上本町。で、弁当を買い、10:15に開場となり送り出す。
◆そのあと、カミさんは三者面談に大学へ。オレはピースに行く。で、14時過ぎに再び上本町に集まり、出てくるのを迎え、近鉄百貨店のなかの喫茶店でお茶をして解散。そのあと、国分に戻り、娘を乗せて、5人で車に乗り送り届ける。帰る途中で食事。18:30には家に着き、こないだ植えた田んぼを見に行く。そのあと、蛍を見に行くが見えず。このところ何匹か出てきているとのことだが、まだ早いよう。家の前の貴志川に沿った、向かいの山斜面にうじゃうじゃ出るそうだが、オレは見たことがないように思う。
 

6月に入り 府市統合本部の議論

◆6月4日の月曜日からの週。睡眠が不規則で調子悪し。大阪府・大阪市の件、堺市の件で来客もあり。リバティ・ピースの件での声明文の原案を書かなければならないができず、ようやく木曜日、朝、神戸大学でも市沢さんと少し話をし、この日から書きはじめ、金曜日にひととおりできる。木曜の夜はワールドカップ最終予選だったが、そんなんで大学で文章をずうっと書いていた。この間も、頭がなかなかすっきりせず。
◆府市統合本部の議論はユーチューブで公開されており、大阪府と大阪市の博物館の問題、大学の問題、それとリバティおよびピースそして近現代史博物館新設の件、この3件があるので、聞いてみた。とにかく、こうして完全公開というのはやっぱりいいことですね。
◆そのなかで上山慶応大学教授という特別顧問がけっこうキーパーソンとなっている様子。大学のことも、合理化というよりも、府市統合でいい効果が見込まれる案件と発言している。ただし、市大はまだまだ古めかしい大学自治でやってきたことで改善の余地は大きいとも。
◆8日の学舎整備の委員会に代理で出席したが、博物館実習室のことが話し合われる。来年度、2コマ分の実習室の確保にむけて動いていただいている。さらなる希望もあるが、あんまり押し出すのは控える。与えられた2コマ分のスペースでなんとかやっていこう。

弥生の青銅武器および祭器

◆銅剣・銅矛・銅戈のことを授業で取り上げるため、手元にあるモノを調べてまとめようとするも、なかなか容易ならず。適当な概説ってあるんだろうか。
◆わからんこことも多いのだろうが、少なくとも系統・編年・年代観などが、できれば銅鐸も含めて1枚の図に表したものがほしい。よくわからんのが銅剣、細形銅剣と中細形銅剣は併存しているのか?、と読める。どうやら銅矛・銅戈とは異なるようだ。それは何なんか。実用武器の主流で広範に広がり地域差をやがて生み出していくらしい。
◆細形と中細形とが併存するなら、そうと明記し、併存していることを示す図が欲しい。銅矛の変化はよりシンプルにとらえられるようだが、銅剣がそんな単純に一系列でならぶものでないなら、そういうことを示して欲しい。
◆事実関係のことそのものがシンプルに伝わらないのである。吉田君、なんとかして~な。
◆銅鐸の群も、たくさんあり、その流派の関係をわかりやすく図示したものは見あたらない。
◆銅鐸は近畿が早くに採用して、広がったと、とらえていいのですよね。なぜか、という回答は容易ではないが、しかし武器・武器型祭器に対して、早くにまったく別種のものを採用し独自の青銅器を作り出した意義は少なくなかろう。北部九州での鋳型なり鋳造関係遺物の量は圧倒的かもしれないが、これに次ぐのは近畿である。単純に高度な技術を保持しているという意味だけでも、弥生中期段階でも、けっこう近畿はやるではないか、と思う。北部九州が先進地として、それより東は横並び、あるいは九州に近いほど先進地など、とはいえまい。
◆銅鐸が周辺に広がっていくことに、どこまでの意味を見いだしていいのかは議論が分かれるにしても、震源地は畿内だし、工人も畿内がかかえていたもので、それが一定の影響を周囲に与えていることは事実だろう。
◆十分に文献を読み込めていない。そんなに時間をかけたわけではないが、少しかじって、弥生の青銅器の認識を新たにできたので有益でした。青銅器、弥生社会のなかでどれほどのものか意見は分かれようが、日本に実用利器として普及しなかったという意味で青銅器時代はなかったのだろう。しかし青銅器時代の中国でも、祭器が著しく発達した。より希少であればこそ、祭器としてより発達し、そうした青銅祭器を主体的に造り出しうることは、やはり弥生社会の中で上位にあったと思うのである。そしてたかが青銅器かもしれないが、やっぱり青銅器は重要だと思った次第。
◆そして・・・。やっぱり青銅器研究って浮いているようにも思う。岩永さんが書いていたが、青銅器そのものの基礎的な編年等はもはや固まっているんでしょ(議論が分かれているのは数人の専門家の間の認識)。だったら、やっぱりその先へ、青銅器研究の成果を弥生社会研究のなかにガッツリ組み込んで考えてほしいものである。実際には青銅器の意味やら儀礼の具体の姿などがわからんので、集落の調査から復元される弥生時代像に、なかなか組み込めないのだろう。どうしても独立的な扱いになるのかも。そこから先は人によって違うんだろうが、えてして独立的になってしまうとすれば、意識的に(強制的に)組み込んで考える必要があるのではないか。そうでなければ、青銅器研究は何のためにやっているのかわからなくなる。岩永さんと春成さんの中間で、やれることはあるんでは?

6月2日そのあと、科学博物館はひとだかり

◆大正まで行って、大阪ドームの近くでラーメン。それからてくてくと東へ歩き出すが、商店街にさそわれて折れる。西へ925e6f36.jpg行っているのだった。また、実は昨年、歴史学のハイキングで通った九条の商店街だったわけだが、気づかず。安治川の底を抜けるトンネルまで到達して思い出す。それから西九条の駅から、旧道に沿って東に向かう。
◆中之島西端。ここも昨年、川口居留地に行って、すぐ近くに来ていたのであった。中之島、科学博物館。人多数。大学生も(理系だろうが)いる。カップルもいる。もちろん子供連れの家族が多い。まあ、自分でさわったり動かしたりできるからだが、繁昌しており、歴史博物館に思いを馳せる。むろん、性質が違うから同じではないのだが、ヒントになることはあるのではないかと。
◆むろん国立現代美術館はパスして(ここも人だかり)、市役所を超えて、図書館・公会堂を抜けて、バラ園。満潮で水位のあがってくる川をながめながらビール。

6月2日、大阪人権博物館

◆2日、久しぶりに空き。○○の原稿があるが、まあ・・・。カミさんと出かける。博物館巡りにつきあってもらう。市長の発言でae8b0c55.JPG問題になっている、リバティとピース。まずリバティ。
◆芦原橋から歩く。なかなかよかった。同和だけではない。導入は、障がいであったり、男女差別であったり、エイズであったり。沖縄や北海道、在日、日本の社会福祉の歴史も。充実している。なかなか良い博物館です。もっとじっくりコメントした方がいいのでしょうが。足を止めて耳を傾けたのは、ビデオでアイヌのおばあさんがアイヌ語を話しているもの。音声で聞くのは初めてだったので。
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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