人を幸せにする人になろう

2012年5月20日、松岳山

◆【岸本・道上・小西】まず、北くびれ部のP18に据え、急斜面部を加えるが、ほとんど入らず。次、新規でHHという杭を前d5febf6d.jpg方部西北隅角に近い地点に打つ。板石の葺石材で石垣が高く積まれている箇所の下。そこから、B2・A2の紙の残る範囲を測量する。石垣を入れて、等高線をズウット下げていく。ほぼ伐採した竹が堆く積まれている崖肩部まで入れ終わる。
◆次に境内に転じる。GPSの基準点3箇所のうち、1箇所しかわからず。砂利を5月3日に補充して敷きならべられて埋もれたのと、境内地の東部のものは、なぜかわからないが見つからなかった。仕方がないので、墳丘の杭から逆に振りだして、KD1を設け、さらに西部の参道沿いを測量するために、既存のキャップを被ったペグがあったので、それをKD2として座標を出しておく。
◆KD1に据えて、ほぼC4の紙の範囲について、参道および、南に落ちていく斜面肩部を入れる。ただし、松岳山に上がる階段のすぐ両側は実は測量できていない。ほんと1年前のし残しだが、今度行くときに最初に片付けよう。
 

5月19日、第15回市大日本史学会

◆講演はハーバード大のデヴィッド=ハウエル氏の幕末の農兵の話。研究報告は、下鶴さん、大村さん、羽田さん。どれも充実した報告で、時間が短いのが申し訳ない。下鶴さんの古事記の話は、なかなか面白かった・・・、ように思うのだが、反芻してみたい。
◆懇親会のあと、イワシで2次会。この日、大歴の西宮神社の現地見学検討会。金曜日までバタバタと追加史料を刷って、夜、天理まで拡声器とともに企画委員に預けたり、ばたばたした。そっちは任せるしかない。それもまたよかろう。市大日本史は、雑誌ができたので、自分にとっては月曜日には終わっている。

岩屋山式つづき

◆で、岩屋山。その年代観があるからこそ、岩屋山が第3四半期で元斉明陵、牽牛子はさらにずいぶんあとで改葬後の斉明陵、という結論になる。とはいえ、直接は関係なくて、横口式石槨はそっちで一定の結論を導き、一方、岩屋山式は、その類例と出土遺物から年代観を導いている。どっちかに寄っ かかっている議論ではない。
◆で、岩屋山式。こちらの方がやはり手強い。本格的な反論には、こっちも須恵器を実測したりする準備が必要。飛鳥Ⅱと いう根拠は、いくつかの須恵器。ただ、白石先生も挙げている、叡福寺と塚穴についてのコメントも必要ではないのか。それと、現・推古陵への改葬時期は不明 だが、東石室は切石ですよ。30年もたってから改葬するんかね。7世紀前半のうちには山田高塚は造っているんでしょうに。630年代では。+カナヅカ。
◆岩屋山式の年代を須恵器で求められるなら、それに越したことはない。が、葉室石塚の長頸壺1点、それに対し、被葬者の堅い事例が4つそろっている。もはや叡福寺古墳のみを例外と片づけることは不可能なのだが・・・。
◆考古学的に!と非難されている。が、須恵器1点、岩屋山亜式は西宮古墳の須恵器数点、それを考古学的にちゃんと検討しろというのもわかる。が、それだけしかないのである。西宮古墳の須恵器が飛鳥Ⅱ末というのも大丈夫なのか疑問。岩屋山式は基本は飛鳥Ⅰ、なかには埋葬年代が飛鳥Ⅱに下るものもあった、というのが事実ではないだろうか。
◆石舞台の年代は恣意的だと。そう受けとられても構わない。ミソは、生前造墓を考えるべしというところにあり、馬子の墓と合意されても、石舞台がいつ造られたかはそれだけでは決まらない。むろん、没後2年たっての馬子墓造営の記事は、没後造墓とする根拠として強いだろう。しかしこれ1点。没後造墓と考えることによる矛盾の大きさ、生前造墓と考えることによる整合性から、最終的にこの記事を評価すればよい。

『市大日本史』15号が、でけた

◆今年も間に合ってしまった・・・4e9df970.JPG

白石先生に叩かれて

◆最近書いたモノを3本、お送りいただいた。ありがたいことである。が、中身を見ると、1本は、全史協の講演会記録のようで、2王並立は認められない!、もう1本は、近つの館報で、生前造墓論はダメだ、被葬者論に拠って立っていて、岩屋山式石室について、考古学的に少ないながら須恵器をもとに考えて年代観を示し、そういう構築物としての白石論に対して、「またぞろ」アホなことを言う、といった調子で叩かれている。
◆べつにヘコミはしない。さすがである、という部分はある。全面的な反論はいまただちにはやれないが、まあ、やりますよ。で、要するに、牽牛子塚古墳は700年前後になるんだから、文武の時に修造されたものであって、当初の越智岡へ埋葬した墓が岩屋山古墳ということで、論文の主旨は牽牛子塚についての、発掘フィーバーに対する反論。
◆牽牛子塚の石槨が、先生のいう第3類型で、同じ段階じ位置づけられるのが中尾山=文武なので、700年前後、という点に対して、横口式石槨の編年と年代観について、まず反論しなければならない。石室風の長い羨道から、それが短くなり、羨道がなくなり、という省略過程にもとづく編年はおおむね妥当なんだろうか。だが、羨道がないといえども、羨道の先に石槨部の入り口があって、開口部が作り出してあるのと、開口部というものがなく、南小口は底石・両側石・天井石の端部が見えていて、それを封鎖するキトラなどとは違う。時間差でなく系統差も考えないといけないが、キトラと同じような時期におくのはいかがなものか。第2段階の年代の根拠が大分・古宮古墳の被葬者というだけなのもね~。
◆第1類には土器の資料が知られるモノがあって7世紀中頃というが(ほんまか?)、そのあとの配列と年代についての根拠は薄弱ですね。

仁藤先生も

◆こないだの歴博の共同研究、仁藤敦先生も入っている。以前に、うちに集中講義にきていただいたことがあり、その時に初めて顔をあわせて飲食した。仁藤さんがこの共同研究で何をするかという話を少しするときに、最近書いた論文のコピーを2本いただいたが、それを今週、読んだ。
◆いまの古代史研究者の中で、古墳時代のことに積極的に発言している方だ。で、書いていることは前からのことだろうが、要するに箸墓は台与の墓という。卑弥呼墓であることを認めない。なぜなんだ!、といいたい。なんで、そう判断できるのかが納得できない。要するに、卑弥呼没後、男王が立ったが、みな従わず、台与が第2代倭国王になって収まる、というところのよう。卑弥呼は初代倭国王としてエラかったかもしれないが、それは死没と共に混乱が生じるように、不安定で、継承もうまくいかない、そういう段階だ。そういう時期にあれだけの王墓が造られるのはふさわしくない。そうした混乱を経て、作りあげた体制を維持するために、前方後円墳共有システムが起動する。だから、箸墓は卑弥呼没後の産物だ、そういう理屈のようだ。
◆だが、福永先生やオレが言っている、三角縁神獣鏡の議論は無視ということですよね。卑弥呼没後の混乱は混乱として評価すればいいが、箸墓の年代は絞り込まれ、また歴博のC14でも裏付けられているんでしょ。箸墓が3世紀中頃というのがなぜダメなのか。箸墓が3世紀後半に下がるということを明示しない以上、ダメでしょう。

テレサテン

◆結局、日曜日中には終わらず、月曜日・・・。いま3時。ようやっと、一通り終わったか、あとは直しの点検のみ、というところにこぎ着けた。昨日は、だれかさんの自宅まで校正を受け取りに行ったりもした。「やってられね~」と思いつつ、そこはテレサテンをながし、心を癒す。
◆歴博の研究会でカラオケに行くと、イチャンヒさんが歌っていたのだが、それがテレサテンの「別れの予感」であることを知る。これはいい。でも、なんで韓国の人がテレサテンを歌うんでしょうね。
◆はよ寝よ・・・。まだ完了したわけではない。また明日、いや本日、最終点検、目次のチェックなどなどが待っている。
◆イサン、いよいよホングギョンの妹が側室となり、権力の亡者になる走りが表現された回であった。チャンテウというのが登場してくることはネットの筋書きで知っていたが、出てきたと思ったら、これチュモンでも見た扶余の重臣のオッサンではないか。ま、これまで見たような俳優・女優がぞろぞろいるわけだが。

井上浩一杯第2回歴史学ソフトボール大会

◆ではあったが、こっちは無理。『市大日本史』の論文一本の校正が遅れていて、執筆者の自宅まで取りに行く。で、返っcf5965fd.jpgてきてPDFにして印刷屋へ。佐賀さんから電話がかかってきて1打席だけも・・・と。で、グランドへ行って、キャッチャーをやり、7回裏、サヨナラのチャンスで打席が回り、サードゴロ、サード取れずに抜け、ランナーが帰ってサヨナラとなる。グランド滞在時間は15分くらいか。参加メンバーは懇親会に行った。おれは軍資金を渡し、「今日は無理」と・・・。
◆平行して、来週の市大日本史の大会とかぶってしまった、大歴の西宮神社の現地見学検討会の、午前見学会部分の資料を作成していた。ま、できました。もう19時か、20時までしかいられないが、印刷屋からのメールに待機しつつ、19日のメモを作成しよう。
◆さてと『市大日本史』の校了はいつか、本日未明?、明日に持ち越し?。いずれ、今週も月曜日からくたびれていることだろう。今日の昼間に完了し、パッと飲みに行きたかったんですけど・・・
 

プラグイン

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索