人を幸せにする人になろう

2012年5月6日、松岳山

◆曇り。10:30くらいから雨。しばらくやっていたが雨脚が速くなり、一旦撤収とする。11:00過ぎに車の中で早い昼とす6bf1c675.jpgる。雷も鳴り始める。車の中で昼寝。12:30過ぎか、だいたい雨が上がったので再開する。しばらくすると快晴の青空が広がる。
◆後円部北チーム【岸本・安達】昨日打設したP60に立て、測れなかった西端部を上から順番に埋めて行き、崩落部にあって尾根状に張り出していて測量可能な部分について標高58.5mまで記入する。あと2本新たに杭を打っていたが、やはり崩落部を測量する意味はないし危険なので、これで完了とする。
◆後円部東北チーム【道上・藤林】P52からの続き(?)、これも紙の端部の測りきれていない部分について、 標高62m以下について埋めていく。が、下部はどうしても難しいので、さらにP56を打ち、そこからの測量に切り替える。
◆後円部北チームが完了し、後円部東北チームに手伝いにゆく。崩落部の崖ラインを入れて、これについても完了とする。
◆天気が回復したので、前方部に転じる。B2の紙。前方部北側面の上段裾部までしか測量できていない。新たに杭を打ってもよかったのだが、見通しはよいので、P11から可能と判断し、マシンをP11に据える。標高57m以下について、前方部北側面を測量する。52.5mまで落としたところで18時となり終了する。東半分については崖面にかかるが、西半分はまだしばらく測量が可能であり、また出撃が必要だ。あと1日の作業量だろう。
◆それが終了すると、ほぼ山は完了となるので、境内地、東側の住宅道路、前方部南側面裾部の参道を入れていけば、すべて完了となる。これらにあと2日。計3日、というところか。あいた土日で通えば、めでたく測量終了となりそうだ。

しゃーない、携帯を新しくした

◆どこからかポッと出てくるかも知れないが、なくては困るので、現場終了後、河内国分のAUに行き、携帯を新しくする。いちばん安いヤツ、っても高いもんやね~。スマートフォンにする方が安いよう。

2012年5月5日、松岳山

◆後円部東北チーム【山田暁・道上】2人に任せる。昨日打設した新規杭にマシンを立て、周囲の伐採をやりながら、東のフェンスを入れ、北へのばせるだけのばす。標高65mまで。崖が迫る。紙の西端部分が新規杭でも測量できず、もう1本、杭を打ってやれば、おおむね完了だ。北側の崩落部について、入れる必要があるのかどうだか。
◆後円部北チーム【岸本・尾方】昨日に引き続きP24に据え、昨日の続き。最初は、昨日の測量の修正。最終的に
標高63m~60mまで下がる。ほぼ、崖肩まで到達。あと、どうするか。ただし、一部、西端部は測量できない範囲が残っている。崖下をどこまで測量するかどうかは現時点で未定だが、それも含めて、必要と思われる杭を3本打設する。

2012年5月4日、松岳山

◆今日から後円部北側に移る。
◆後円部東北チーム(D1紙)【照屋・烏野・山田章】後円部東側のP19に据え、紙の端67.5mから北側行けるところまでの範囲で、順番に等高線を下ろしてゆく(標高63mまでくらいか)。標高〓mまで下げる。クレーターの北端も記入。
◆起動に乗ったことを見届け、後円部北チーム始動(C1紙)【岸本・西館・松原】P24に据え、標高70mから63mあたりまで下ろしていく。かなりかせぎました。この間、松原君に枝等の伐採を頼む。おかげで、ずいぶんと見晴らしよく、同じマシン位置でかなりがせぐことができた。感謝。
◆山田君が15:30、照屋が16:00に現場を離れる。そこで、【烏野・西館・松原】に後円部北側をまかせ、岸本は後円部東北で、次の展開のため新規にP52を打つ(-573.772/-487.596/63.313)。水準は、レベルでなく、トータルステーションによる。

2012年5月3日、松岳山

◆【岸本・高島・藤林・小川】天気良くない。メンツを見て後円部に行こうかと思ったが、前方部の取りこぼしを埋めるこcb8f6ba2.jpgとにする。
◆まず1日に打設したP51にて、南側面で竹などで測れなかった等高線を上から埋めていく。およそ下の子供山車小屋の裏側まで到達。そこから先は参道の測量時に加えることとする。
◆次にクレーター東南のP46に移り、C4の紙を用意し、隅部のわずかな範囲だが参道までを埋める。
◆次に、前方部北稜線に移り、P35にマシンを据え、西北方面に標高46mまでの等高線を入れる。見通しの良い範囲はいいのだが、土地境界に伐採した竹がうずたかく積まれ、測量不能範囲が両側にある。北側面について、スタッフとチビミラーを併用し、積んだ竹の上に上がり、竹の間にスタッフをねじ込み地面をさがし、放射状に等高線を下げていき、可能な範囲は点をとった。しかしまあ、ここまで。16:30頃、雨が降ってきて、もう限界まで行き着いたので、終了することにする。
◆明日は後円部に展開するため、機材を後円部頂の石棺の横にもってあがる。そして、後円部北側のP24のレベルが出ていなかったので、P13から水準を移動し、明日にそなえる下準備をした上で、片付けて撤収した。ほぼ17時頃。
◆西の空は雲が切れ、夕日が差し込んでいる。明日は晴だろう。6人2チームで後円部をかせぐとしよう。
 

人権侵害への無頓着

◆大阪市職員3万人余に対し、入れ墨の調査をするらしい。どうせやったら、茶髪の調査や、ネイルアートの調査やら、ピアスの調査やら、カラーコンタクトの調査やら、整形の調査やら、白髪染めをやっているかどうかの調査やら、やってみたらいいのに。
◆入れ墨を入れたらあかんのか。悪いことやったヤツがいたと、その悪事と入れ墨を入れていることとの相関がないことはないだろう。が、こんな調査は憲法違反でしょ。それがなにか?。仕事は仕事、入れ墨とは切り離すべきであり、不祥事は引き起こしたことで罰を受けるのである。それを越えてはいけない。

規制緩和

◆バスの規制緩和を調べてみたが、パッとは出てこない。みなさん経験あるだろうか。歴史学の秋の実習旅行。最初の頃は、ガイドさんがいたり、運転手にもサブがいた。それがいなくなった。これ規制緩和のはず。いまは1人である。
◆派遣法、これも規制緩和。業界の圧力に屈し、特定業種に限定していたのが、製造業にも開放され、雇用するのではなく、派遣会社から必要な人数、その都度、派遣してもらう便宜を整えた。その結果、どういうことが起こったのか。どうしようもな派遣会社はつぶれたりしたが、それよりもなによりも、派遣会社に登録される形でしかない若者が激増した。雇用形態が大きく変わったのだ。臨時的、便宜的、都合良く雇っては切り捨てる時代をもたらしたのは、1990年代末の自民党政権である。
◆社会のために一定のルールを定めておく、それが国とか官の許認可権限をもたらし、融通がきかんというのもあったには違いない。しかしそうした、一定の制約を課して行きすぎでいびつなものを制限するという機能は果たしてきたわけだ。が、それが業界には足かせに写る。バブル後の不況を打破するために、どんどん規制緩和が叫ばれ、それまで許されなかったことが、どしどしルールのない競争へ突き進み、安全性など無視することになる。
◆派遣法の改正、民主党政権下、見直すと言いつつ何も進んでいない。派遣会社への登録、いいように使われるそんな社会を改善しようという気はないらしい。

ぶつぶつぶつぶつ

◆5月2日、松岳山、やろうと思えばできていたかもしれないが、天気予報の通り朝は雨がふっており、あまり良くなるともe344ea08.jpg思えず中止とする。で、大学に来た。9時前に来て、いま19時、なにをやっていたか、『市大日本史』の仕事でほぼ終わる。定例行事ではあるが、2005年の第8号から編集を引き継いだので8年目。毎年4月からGWにかけては、この編集業務に追われる。昨年に引き続き、松岳山と平行(前は神明山と平行)。43本メール打ちましたよ・・・
◆昨年、絶対、大会に間に合わないと思ったが、間に合うものだから、一向に反省せずスルズル。とはいえ、編集がさぼっているのではなく、みな原稿が遅いのだ。今年度、一段と受け渡しをスピーディにしてなんとかリーソクツモでやっているが、果たして間に合うでしょうか。結果は、見てのお楽しみ。今年は大会が19日なので、12日校了をめざしているが、どうなるやら。ま、状況を見ていただきましょうか。
◆携帯電話がない。現場か?。駐車場の鍵もない。現場か?。耄碌して、落とし物が多くなっている。命を落とさないようにしよう。明日現場に行って、学生に携帯を鳴らしてもらっても、山の中じゃ見つからんでしょうな。ふだんの運動不足で、斜面をうろうろして軽い筋肉痛。年寄りにとってはいい運動である。
 

高橋テルちゃんつづき、記事№1200

◆例の大化薄葬令の論文について、阿武山のように薄葬令に合致するものがある一方で、そのあとも規定に反する大きな石室があるので、薄葬令はあったし実行されてはいるものの、全面的な影響にはおよんでいないとテルちゃんはみる。その例にあがっているのが、西宮古墳と文殊院西古墳である。だが、西宮神社が山城大兄王とすると643没、文殊院西はテルちゃんも649年に没した倉橋麻呂とみているが、わたしの持論からすれば、阿部氏の氏上になって造営に着手しているのであり、薄葬令以前にはできているのだろう。
◆そう、例としてあげられた2例は、薄葬令を遵守しないものとして適当ではない。これについてメールで聞いたが、西宮についてのみ、烏土塚などもあり平群氏ちゃうかと。このあたりは、7世紀代の平群氏などもよく知らないし、上宮王家の土地が平群谷にあったとする意見なども、きちんと知り、改めて考える必要がある。文殊院西については回答がなかった。卒論生には、テルちゃんが薄葬令について一歩進めたけれど、跛行的な行きつ戻りつ論は、ほんとにそうなのか、年代を詰めて、改めて議論する必要がある、やれと言っておいた。
◆オレはオレで、谷首のデータが上がってきたら、リーフレットで、飛鳥期の方墳をならべてやろう。そういえば谷首の測量図のある桜井市の報告書はどこいったんかな。清水さんにもらった記憶があるが、図書館へ入れたか。そろそろ準備はしておこう。

藤原不比等墓

◆高橋照彦さんの「阿武山古墳小考」を読む。卒論生が終末期古墳をやろうとしており、一緒に勉強していて楽しい。高橋さんの『日本史研究』の論文に続いて、この阿武山関係の論文を読む。まあ明快や。鎌足ではないんだろう。テルちゃんにさっそくにメールすると、抜き刷りも送ったんですけど、ぜんぜん取り上げてもくれない、と嘆いておりました。無視したらアカンわな。鎌足墓とみたいのはわかるし、そういう論拠を一方で積み上げようとしているのもわかるが、テルちゃんのそうではないという有力な見方もあるわけで、どっちが妥当なのかちゃんとジャッジしなければならない。
◆要するに、安威山に葬ったという記事は多武峰側の記録に唯一でてくるようだが、それを史料批判すると、いくつかの系統がある中で、ひとつにしか出てこず、そのなかで他の記事から見て信憑性が低い、ということのようだ。前半では、考古学から、須恵器と没年の問題からもダメというのも説得的。
◆ま、この問題は決着か。で、前から関心があった不比等墓について言及があった。『公卿補任』には「葬佐保山椎岡、従残教也」とあるらしい。喜田貞吉が大昔に論じているらしく、他の史料にも佐保山椎岡は確認され、そのような認識があったことは確かなよう。そうか、佐保山、ナラ岡(ナラヤマ)か・・・。候補はあるんかね?また現地を尋ねよう。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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