人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
宇宙開発も原子力も
◆その前、日本の宇宙開発を定めた決めごと、そのなかにあった平和利用に限るとの文言を削除するとの記事。どんどん軍事利用のスパイ衛星を上げるというこ と。はやぶさは確かに画期的で、勢いづいて予算が投入されるようだが、軍事利用が促進されることになる。そっちの側は大喜びだろう。
◆そして原子力。原子力基本法というのか、そこに安全保障のために、という文言を入れるという。中曽根の思うつぼだ。核兵器をもちたい、そのための布石をこっそりと打つ。
◆すべては再軍備、押しつけ憲法を廃し軍事力をもち、そこに核兵器を備えるために。
◆そして原子力。原子力基本法というのか、そこに安全保障のために、という文言を入れるという。中曽根の思うつぼだ。核兵器をもちたい、そのための布石をこっそりと打つ。
◆すべては再軍備、押しつけ憲法を廃し軍事力をもち、そこに核兵器を備えるために。
土日も暮れてゆき
◆15日は教授会。府市統合本部にわたりあっていくために、学長は市大側が自分で改革案を出すと、まあ、そういうことになっているらしい。執行部側の会議では試案も出ているようだ。この日、そういったものをもとに意見表明の時間が割かれる。人の意見を聞いていると、我慢ならなくなって発言。国立でない公立として、大阪に立脚した研究分野を強化すべし、という至って当たり前の主張。うちはやっぱり、京大・阪大に続けと「国立大学のコッピー」だったと思う。そうじゃなくて、地方大学に徹するということ。それでいい。大阪でちゃんと研究するということが、自ずから普遍的なものへと発展する。地域地域の歴史こそが真の歴史なのだ。もうひとつの柱もあるが省略。いままで通りとはいかない、見える形の改革をせよという場合、この2本にもとづき考えるのが基本、こう主張。ほかにも多くの意見表明あり。
◆16日土曜日、大阪歴史学会の大会直前の委員会で、午後から大阪商業大学へ。新代表委員は今井修平氏、事務
局は大阪大学に移る。
◆17日の日曜日、歴史学ハイキングで纒向へ(写真はJR「巻向駅」の前の看板)。昼飯後、大神神社、そのあと今井町。こういうやつを担当する学生委員をやっているわけではない。学生委員、それと学生院生の旅行委員で行き先が検討され定まったもの。パンフを作り、学生旅行委員が現地で説明するが、纒向・ホケノ・箸墓の担当はみな欠席らしく、結局、ひととおり説明する。行きの電車の中で要点を少しメモして整理したが、もうちょっとちゃんと整理しておくべきだったかな。桜井市の埋文センターの展示を見る。昼飯はソーメン+柿の葉寿司。
◆16日土曜日、大阪歴史学会の大会直前の委員会で、午後から大阪商業大学へ。新代表委員は今井修平氏、事務
◆17日の日曜日、歴史学ハイキングで纒向へ(写真はJR「巻向駅」の前の看板)。昼飯後、大神神社、そのあと今井町。こういうやつを担当する学生委員をやっているわけではない。学生委員、それと学生院生の旅行委員で行き先が検討され定まったもの。パンフを作り、学生旅行委員が現地で説明するが、纒向・ホケノ・箸墓の担当はみな欠席らしく、結局、ひととおり説明する。行きの電車の中で要点を少しメモして整理したが、もうちょっとちゃんと整理しておくべきだったかな。桜井市の埋文センターの展示を見る。昼飯はソーメン+柿の葉寿司。
難波神社
◆南御堂、難波別院はパスして、難波神社。WEB![b046d4c8.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1339812773?w=150&h=111)
反正天皇が大阪府松原市に柴籬宮を開かれたとき、父帝の仁徳天皇をご祭神として創建されたと伝えられる。
その後、天王寺区上本町に遷り、豊臣秀吉が大阪城を築城したのち天正年間(1583年)現在地に遷座。昭和20年(1945年)第二次世界大戦大阪空襲に より全焼したため、仮宮によっていたものを昭和49年7月(1974年)再建され現在に至る。
◆だそうである。神社に置いてあったチラシでは、頼朝に荘園を与えられたどうのこうの、ということも書いてあった。由緒はあまり古くなさそうだが、かなり有力な神社だったらしい。大坂に来たらまずはお参りするような。ここの場合は菖蒲がきれいであった。
反正天皇が大阪府松原市に柴籬宮を開かれたとき、父帝の仁徳天皇をご祭神として創建されたと伝えられる。
その後、天王寺区上本町に遷り、豊臣秀吉が大阪城を築城したのち天正年間(1583年)現在地に遷座。昭和20年(1945年)第二次世界大戦大阪空襲に より全焼したため、仮宮によっていたものを昭和49年7月(1974年)再建され現在に至る。
◆だそうである。神社に置いてあったチラシでは、頼朝に荘園を与えられたどうのこうの、ということも書いてあった。由緒はあまり古くなさそうだが、かなり有力な神社だったらしい。大坂に来たらまずはお参りするような。ここの場合は菖蒲がきれいであった。
坐摩神社
◆だんだんめんどくさくなってきた。北御堂に行く。いまの名前本願寺津村別院(大阪会館)。空襲で焼け、すっかり都
市的現代風寺院となっている。
◆坐摩神社 WEB
当社の創祀には諸説がありますが、神功皇后が新羅より御帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島のちの渡辺の地(現在の天満橋の西方、石町附近)に奉祀されたのが始まりとされています。
平安時代の「延喜式」には攝津國西成郡の唯一の大社と記され、産土神として今日に至っています。また朱雀天皇の御代、天慶2年(939)以来祈雨11社中に列し、以後たびたび祈雨〔雨乞い〕のご祈請・奉幣に預かりました。
天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂築城に当たり替地を命ぜられ、寛永年間現在地に遷座されました。現在の鎮座地名を渡辺と称するのも、元の地名 が移されたもので、全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地でもあります。旧社地と伝えられる石町には現在も当社の行宮(御旅所)が鎮座されています。
◆だそうである。けっこう古い神社のよう。あじさいがきれいだった。
◆坐摩神社 WEB
当社の創祀には諸説がありますが、神功皇后が新羅より御帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島のちの渡辺の地(現在の天満橋の西方、石町附近)に奉祀されたのが始まりとされています。
平安時代の「延喜式」には攝津國西成郡の唯一の大社と記され、産土神として今日に至っています。また朱雀天皇の御代、天慶2年(939)以来祈雨11社中に列し、以後たびたび祈雨〔雨乞い〕のご祈請・奉幣に預かりました。
天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂築城に当たり替地を命ぜられ、寛永年間現在地に遷座されました。現在の鎮座地名を渡辺と称するのも、元の地名 が移されたもので、全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地でもあります。旧社地と伝えられる石町には現在も当社の行宮(御旅所)が鎮座されています。
◆だそうである。けっこう古い神社のよう。あじさいがきれいだった。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。