人を幸せにする人になろう

宇宙開発も原子力も

◆その前、日本の宇宙開発を定めた決めごと、そのなかにあった平和利用に限るとの文言を削除するとの記事。どんどん軍事利用のスパイ衛星を上げるというこ と。はやぶさは確かに画期的で、勢いづいて予算が投入されるようだが、軍事利用が促進されることになる。そっちの側は大喜びだろう。
◆そして原子力。原子力基本法というのか、そこに安全保障のために、という文言を入れるという。中曽根の思うつぼだ。核兵器をもちたい、そのための布石をこっそりと打つ。
◆すべては再軍備、押しつけ憲法を廃し軍事力をもち、そこに核兵器を備えるために。

土日も暮れてゆき

◆15日は教授会。府市統合本部にわたりあっていくために、学長は市大側が自分で改革案を出すと、まあ、そういうことになっているらしい。執行部側の会議では試案も出ているようだ。この日、そういったものをもとに意見表明の時間が割かれる。人の意見を聞いていると、我慢ならなくなって発言。国立でない公立として、大阪に立脚した研究分野を強化すべし、という至って当たり前の主張。うちはやっぱり、京大・阪大に続けと「国立大学のコッピー」だったと思う。そうじゃなくて、地方大学に徹するということ。それでいい。大阪でちゃんと研究するということが、自ずから普遍的なものへと発展する。地域地域の歴史こそが真の歴史なのだ。もうひとつの柱もあるが省略。いままで通りとはいかない、見える形の改革をせよという場合、この2本にもとづき考えるのが基本、こう主張。ほかにも多くの意見表明あり。
◆16日土曜日、大阪歴史学会の大会直前の委員会で、午後から大阪商業大学へ。新代表委員は今井修平氏、事務e8c4bd81.JPG局は大阪大学に移る。
◆17日の日曜日、歴史学ハイキングで纒向へ(写真はJR「巻向駅」の前の看板)。昼飯後、大神神社、そのあと今井町。こういうやつを担当する学生委員をやっているわけではない。学生委員、それと学生院生の旅行委員で行き先が検討され定まったもの。パンフを作り、学生旅行委員が現地で説明するが、纒向・ホケノ・箸墓の担当はみな欠席らしく、結局、ひととおり説明する。行きの電車の中で要点を少しメモして整理したが、もうちょっとちゃんと整理しておくべきだったかな。桜井市の埋文センターの展示を見る。昼飯はソーメン+柿の葉寿司。

三津寺村

◆アメ横を行く。かつて三津寺村だったが大坂市街に取り込まれていく。いわゆる新地。御津八幡神社に立ちより、三津a4296cfe.JPG寺に寄る。こっちは17時を過ぎて閉まっていたが。
◆アメ横なんて初めてきたが、木曜昼間にゴロゴロ人がいるものである。で心斎橋筋に。戎橋、道頓堀の川端に下りる。こんなところ下りたことはなかったが、大阪市が木製の橋をかけたりしている。道頓堀の南側は○○座がならんでいたが、中座のビル、そしていまも松竹座はあり、竹本座の標柱がある。
◆難波パークスで打ち上げ。今回はやっぱり道修町かいわいの古い和風建築と近代建築をいろいろ見れたのが、とてもよかった。
 

四つ橋

◆四ツ橋。長堀と西横堀川の交点で四つ橋が渡してあったというところ。近代化に際して埋められ道路となり市電のレー29ce8cb0.JPGルも交差していた。前に朝日新聞で、長堀が埋められている段階の古写真が載っていた。
◆いまは、中央分離帯の一画に記念碑があり四つの短い橋状のものがしつらえられ、顕彰してある。
 

難波神社

◆南御堂、難波別院はパスして、難波神社。WEBb046d4c8.JPG

 反正天皇が大阪府松原市に柴籬宮しばがきのみやを開かれたとき、父帝の仁徳天皇をご祭神として創建されたと伝えられる。
 その後、天王寺区上本町に遷り、豊臣秀吉が大阪城を築城したのち天正年間(1583年)現在地に遷座。昭和20年(1945年)第二次世界大戦大阪空襲に より全焼したため、仮宮によっていたものを昭和49年7月(1974年)再建され現在に至る。


◆だそうである。神社に置いてあったチラシでは、頼朝に荘園を与えられたどうのこうの、ということも書いてあった。由緒はあまり古くなさそうだが、かなり有力な神社だったらしい。大坂に来たらまずはお参りするような。ここの場合は菖蒲がきれいであった。
 

坐摩神社

◆だんだんめんどくさくなってきた。北御堂に行く。いまの名前本願寺津村別院(大阪会館)。空襲で焼け、すっかり都025f0402.JPG市的現代風寺院となっている。
◆坐摩神社 WEB 

当社の創祀には諸説がありますが、神功皇后が新羅より御帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島のちの渡辺の地(現在の天満橋の西方、石町附近)に奉祀されたのが始まりとされています。
 平安時代の「延喜式」には攝津國西成郡の唯一の大社と記され、産土神として今日に至っています。また朱雀天皇の御代、天慶2年(939)以来祈雨11社中に列し、以後たびたび祈雨〔雨乞い〕のご祈請・奉幣に預かりました。
 天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂築城に当たり替地を命ぜられ、寛永年間現在地に遷座されました。現在の鎮座地名を渡辺と称するのも、元の地名 が移されたもので、全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地でもあります。旧社地と伝えられる石町には現在も当社の行宮(御旅所)が鎮座されています。 

◆だそうである。けっこう古い神社のよう。あじさいがきれいだった。
 

うつぼ(靫)公園脇の

◆堂島の蔵屋敷跡面影はまったくない。とくに看板等も見なかったが、あるところのはあるのかもしれません。91ee2faa.JPG
◆土佐堀沿いの細い道を西に進んだわけですが、実際に蔵屋敷が並んでいたのは、この道路と南側の土佐堀通の間なんだろう。この細い道路は、かつては土佐堀川の岸で、船の荷を積み下ろししていた場所と推測する。この道と現在の土佐堀川との間のわずかな範囲に新たに建物がならぶが、明治以降なのだろう。そのなかにはレトロな建物も。前にカミさんと歩いたときもあったような。
◆靫公園で足を休めたのち、インド喫茶に入る。店の名前は?女性ばっかりですわ。
 

安田ビル

◆1936年のものだそうだ(左)。a7620992.JPGで、北上すると、左手になにやらおしゃれな店が。建物も、下部が煉瓦である。調べてみると、安田第三ビルというやつらしいが、1961年とある。そんな古くないのかね。なかなかいいもんですよ。11ea5ba4.JPG
 

京町ビル

◆御霊神社に行くも写真を撮るのを忘れた。西横堀川を越えて堂島をめざす。48163173.JPG
◆京町堀1丁目のこれは何の建物?交差点からながめただけだが。調べてみると、旧京町堀ビル、1926年、という。

店の看板も学びになる

「美々卯」という飯屋もまた長細い。で、院生らが見ているのが、この地域の店を表示した看板。その写真を挙げておく0dabd82a.JPGが、御霊神社の北の短冊は、「おお江戸時代のままや」と。aa0e58cd.JPG
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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