人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
大阪城探査ねらい
◆本日の大阪城見学会を終えて、レーダー探査のねらい目を整理した。原稿書かなあかんのに、こんなことばっ
かりして!。まあ、メンツの中では、わたしはこういうコーディネートをやるにふさわしいかもしれない。深いところはわからんし、まずは地表下1mで検出されうる最上段の石垣天場を、天守閣および貯水場周辺をぐるっとやる。そして徳川御殿は別途やる。
◆レーダー探査、実は昭和60年代はじめに奈文研がやってるんだって(追記:1989年だそうです)。だけどよ~、そういうことは、誰も知らない。かつまた、天守閣の中で情報が共有されていないみたい。困ったもんだ。
◆こっちは、理学部の先生が機械を借りてきてやる。まずは何本か試しで、と言っている。かつての探査は古いんだろうが、ともかくもやっている。やろうとしていたことがヤラレているわけだ。ま、それにしてもな~、大阪城については、いろんな試みはやられてるんだけど、まとまっちゃいない、レポートも分散、いったい何がどこまでやられているんだ!。まあ、西村ヤッサンに聞こ・・・
◆レーダー探査、実は昭和60年代はじめに奈文研がやってるんだって(追記:1989年だそうです)。だけどよ~、そういうことは、誰も知らない。かつまた、天守閣の中で情報が共有されていないみたい。困ったもんだ。
◆こっちは、理学部の先生が機械を借りてきてやる。まずは何本か試しで、と言っている。かつての探査は古いんだろうが、ともかくもやっている。やろうとしていたことがヤラレているわけだ。ま、それにしてもな~、大阪城については、いろんな試みはやられてるんだけど、まとまっちゃいない、レポートも分散、いったい何がどこまでやられているんだ!。まあ、西村ヤッサンに聞こ・・・
大阪砲兵工廠
◆大阪砲兵工廠のうち、残った建物はほぼ1棟。化学分析場というもの。城の西北にある。門があり敷地を囲
うレンガ塀なども残り、そして建物。![033caf1f.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1313222853?w=150&h=112)
◆この建物、実は、難波宮第1号瓦を採集した置塩章さんお設計したもの。置塩さんは、そのあと兵庫県に出て、設計した建物は、だから兵庫県内の方が多く残るんではないか。あんまり知りませんが・・・。で、兵庫県もやめて、個人事務所で設計をやり、各所の公共建物などを手がけた人である。
◆さて、文化庁の戦争遺跡の史跡指定候補として、詳細調査のリストに、大阪府では3箇所が挙げられていたはずだ。うちひとつが大阪砲兵工廠跡。その化学分析場。なんか悲しくなる。公園整備の資材置き場みたいなものになっている。ここが砲兵工廠のかつての建物の中で、唯一残るものなんですよ、といった扱いになっていないのである。国の史跡になろうがなるまいが、大阪市としては、あるいは大阪府としては、文化財として整備すべきですよね。土地利用上、そういうように公開物として整備したとして、人がどれくらい来てくれるんだろうか、という問題はあるんでしょう。砲兵工廠のなかでも本体部分というより端っこ、ということもある。
◆建物は使ったらどうなんでしょう。ただし、見学者も入ってきて、玄関先あたりには、しっかりと砲兵工廠としてのアナウンスがしてある、といった使い方もできるように思うが・・・。
◆この建物、実は、難波宮第1号瓦を採集した置塩章さんお設計したもの。置塩さんは、そのあと兵庫県に出て、設計した建物は、だから兵庫県内の方が多く残るんではないか。あんまり知りませんが・・・。で、兵庫県もやめて、個人事務所で設計をやり、各所の公共建物などを手がけた人である。
◆さて、文化庁の戦争遺跡の史跡指定候補として、詳細調査のリストに、大阪府では3箇所が挙げられていたはずだ。うちひとつが大阪砲兵工廠跡。その化学分析場。なんか悲しくなる。公園整備の資材置き場みたいなものになっている。ここが砲兵工廠のかつての建物の中で、唯一残るものなんですよ、といった扱いになっていないのである。国の史跡になろうがなるまいが、大阪市としては、あるいは大阪府としては、文化財として整備すべきですよね。土地利用上、そういうように公開物として整備したとして、人がどれくらい来てくれるんだろうか、という問題はあるんでしょう。砲兵工廠のなかでも本体部分というより端っこ、ということもある。
◆建物は使ったらどうなんでしょう。ただし、見学者も入ってきて、玄関先あたりには、しっかりと砲兵工廠としてのアナウンスがしてある、といった使い方もできるように思うが・・・。
旧代師団司令部&大阪市立博物館
◆いまの大阪歴博ができたことにより、2001年に市立博物館としては閉館し、そのまま。大阪城の魅力
アップ会議の課題のひとつ。
◆大阪市は1929年2月に昭和天皇即位の記念事業として、大阪城公園の整備と大阪城天守閣の復興とともに、城内に分散していた陸軍施設を集約するために陸軍第4師団司令部庁舎を新築し、国へ寄贈した。設計は第4師団経理部、施工は清水組があたり、1929年4月に着工し、1931年3月に竣工した。この記念事業の財源は大阪市民からの寄付150万円によって賄われたが、天守閣の再建費用が47万円であったのに対し、第4師団庁舎建設費用は80万円だった。外観は左右対称のロマネスク様式で、ノルマン地方の古城の意匠をもとに褐色色斑スクラッチタイルで仕上られた。戦災を受けず終戦を迎え、戦後は連合国軍により1948年まで接収される。返還後、大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として利用される。大阪府警が現在地の大手前に移転した1958年に再び大阪市の管理下に置かれ、利用方法として大阪市は郷土博物館、歴史博物館とすることに決め、1960年5月1日に教育委員会に博物館創設事務室を設置した。この時、開館日を12月1日と決定し、博物館への転用のための改装工事が行われたが、軍事施設として頑丈に作られていたため、改装に時間がかかることから、1階と地階部分を第1期改修とし、2~3階部分を未改修のまま、1階部分のみを開館することとなった。また、もともと所蔵品が無く、資料の蒐集と調査の準備期間が短かったため、当初は他館やコレクターの所蔵品による企画展示に頼っていた。1962年に一旦休館した上で、2~3階の改修工事を行い、11月1日に全面会館。大阪の歴史に関する史料・資料を最終的には7万点も揃えるようになり、1963年に人文系博物館資料の分類表をはじめて発表するなど、研究活動も盛んになり、地域の歴史を扱う博物館の先駆的存在だった。【ウィキ】
◆そうか、それまでは美術館だったんだ。それで市立博物館ができる。たぶん、これで考古系は博物館に移るんだろうな。そういうことも、あんまり知らない。
◆大阪歴史博物館の分館として、大阪近代史博物館とでも命名すればよい。あるいは軍都大阪博物館、名前がいやなら戦争博物館。で、ピースには行ったことがないが、右翼に軍都大阪の歴史を、左翼にピースを移設するとか。いずれにしても、大阪砲兵工廠は終戦前日の空襲で焼け落ち、城東は様変わりしてしまったので、大村益次郎に始まる大阪の軍の歴史をたどる博物館にすればいいのだ。
◆あるいは、大阪文化財研究所が入るとか、大阪城の公園事務所が入り、将来的には大阪城研究所が入ればよい。とはいえ、大阪城本丸に来る外国人を含む観光客の多さを考えると、戦争博物館にすれば、かなり優れた教育施設になりうるだろうな~。
◆大阪市は1929年2月に昭和天皇即位の記念事業として、大阪城公園の整備と大阪城天守閣の復興とともに、城内に分散していた陸軍施設を集約するために陸軍第4師団司令部庁舎を新築し、国へ寄贈した。設計は第4師団経理部、施工は清水組があたり、1929年4月に着工し、1931年3月に竣工した。この記念事業の財源は大阪市民からの寄付150万円によって賄われたが、天守閣の再建費用が47万円であったのに対し、第4師団庁舎建設費用は80万円だった。外観は左右対称のロマネスク様式で、ノルマン地方の古城の意匠をもとに褐色色斑スクラッチタイルで仕上られた。戦災を受けず終戦を迎え、戦後は連合国軍により1948年まで接収される。返還後、大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として利用される。大阪府警が現在地の大手前に移転した1958年に再び大阪市の管理下に置かれ、利用方法として大阪市は郷土博物館、歴史博物館とすることに決め、1960年5月1日に教育委員会に博物館創設事務室を設置した。この時、開館日を12月1日と決定し、博物館への転用のための改装工事が行われたが、軍事施設として頑丈に作られていたため、改装に時間がかかることから、1階と地階部分を第1期改修とし、2~3階部分を未改修のまま、1階部分のみを開館することとなった。また、もともと所蔵品が無く、資料の蒐集と調査の準備期間が短かったため、当初は他館やコレクターの所蔵品による企画展示に頼っていた。1962年に一旦休館した上で、2~3階の改修工事を行い、11月1日に全面会館。大阪の歴史に関する史料・資料を最終的には7万点も揃えるようになり、1963年に人文系博物館資料の分類表をはじめて発表するなど、研究活動も盛んになり、地域の歴史を扱う博物館の先駆的存在だった。【ウィキ】
◆そうか、それまでは美術館だったんだ。それで市立博物館ができる。たぶん、これで考古系は博物館に移るんだろうな。そういうことも、あんまり知らない。
◆大阪歴史博物館の分館として、大阪近代史博物館とでも命名すればよい。あるいは軍都大阪博物館、名前がいやなら戦争博物館。で、ピースには行ったことがないが、右翼に軍都大阪の歴史を、左翼にピースを移設するとか。いずれにしても、大阪砲兵工廠は終戦前日の空襲で焼け落ち、城東は様変わりしてしまったので、大村益次郎に始まる大阪の軍の歴史をたどる博物館にすればいいのだ。
◆あるいは、大阪文化財研究所が入るとか、大阪城の公園事務所が入り、将来的には大阪城研究所が入ればよい。とはいえ、大阪城本丸に来る外国人を含む観光客の多さを考えると、戦争博物館にすれば、かなり優れた教育施設になりうるだろうな~。
豊臣期の石垣
◆1959年の総合調査の際に見つかった石垣は、埋め戻さずにのぞき込めるようになっているのだ。そんなん、
ダアレも知りませんよ。実は、今日も人混みで混雑する大阪城
天守閣前の「広場」(天守閣の入場料600円*1000人として=60万円、すごいわ)、円筒形の井戸状のものに蓋をしてある。それがそうなのだ。通常は鍵がかかっている。それを開けてもらったわけだ。
◆もう一箇所は、水道管埋設のために、貯水場と御金蔵の間で見つかった、櫓の角の石垣。これは埋めてある。だが、なんの看板もない。むろん遺構表示もない。徳川期において、南の御殿と異なり、東側(いまも現役の貯水場がある)は空閑地であるようなので、発掘調査で、豊臣期の石垣の頭を1m分くらい露出させたような遺構表示は可能だと思う(むろん、上層で徳川期の遺構がないのが前提)。もったいない。
◆さらに、この貯水場のある、いまの本丸の東北が、豊臣期の天守台に相当する。明治28年にできた貯水場は、近代化遺産相当らしいし、なによりも今も現役なんだが、豊臣期の天守閣の価値と比べると、どうなんでしょうね。あの場所がすっかり使えるなら、面的に豊臣期の天守閣を発掘し、見せることができるはずである。で、その貯水場の北と東で、ボーリングで地下の石垣があたっているらしく、そのうちの1箇
所は、やはりコンクリートの筒を入れて、のぞけるように保存してある。これ、1959年の石垣のようにきれいに積み上がったものではなく、天守台の北の石垣そのものかどうかはわからんようだが、これなんぞも、ダアレも知っちゃいない。
◆まず、1959年の石垣は、いまある鉄格子でもいいし、モノを落とさないようガラス張りにするかなんかして、常時、見せればいいのだ。それだけ。安全対策をしてただちに公開すべし。
◆もう一箇所は、水道管埋設のために、貯水場と御金蔵の間で見つかった、櫓の角の石垣。これは埋めてある。だが、なんの看板もない。むろん遺構表示もない。徳川期において、南の御殿と異なり、東側(いまも現役の貯水場がある)は空閑地であるようなので、発掘調査で、豊臣期の石垣の頭を1m分くらい露出させたような遺構表示は可能だと思う(むろん、上層で徳川期の遺構がないのが前提)。もったいない。
◆さらに、この貯水場のある、いまの本丸の東北が、豊臣期の天守台に相当する。明治28年にできた貯水場は、近代化遺産相当らしいし、なによりも今も現役なんだが、豊臣期の天守閣の価値と比べると、どうなんでしょうね。あの場所がすっかり使えるなら、面的に豊臣期の天守閣を発掘し、見せることができるはずである。で、その貯水場の北と東で、ボーリングで地下の石垣があたっているらしく、そのうちの1箇
◆まず、1959年の石垣は、いまある鉄格子でもいいし、モノを落とさないようガラス張りにするかなんかして、常時、見せればいいのだ。それだけ。安全対策をしてただちに公開すべし。
市大・大阪城プロジェクト
◆8月13日、朝9時天守閣前集合、起きたら8:30、あちゃ~。車で飛ばすと、法円坂出口までほぼ30分で行く
が、そこから大手門を抜けて天守閣まで行くのに時間がかかり、約20分の遅刻。天守閣の入り口では、ミストを噴霧していた。気持ちいいモンですね。
◆メンツは、大阪市大・文の仁木先生(研究代表)、生活科学・谷直樹先生、それと理学部の地質専門のみなさん、松尾館長、そして大阪市のユトミド・観光室の合田さんほか。
◆具体的な調査の打ち合わせ兼、現地確認。現地はやはりよかった。どこがどうなっとるのか、よくわかる。ただやはり、データは散漫で、いろいろ統合して、いままでどこまでわかっているか、わかりやすいものを作らなければ、先に進まない。今年度の研究の半分はこれに充てるべし。
◆で、天守閣の模型はよかった。撮影禁止だが館長の許可をもらって撮影。勝手に使っては悪いが、使わせてもらおう。豊臣大阪城はよくわからんが、いちばんいまイメージできるのは、この模型。立体構造物としての把握は、この模型がいちばんである。この模型をレーザースキャンすることを、今日、考えた。今後、調査をする上で、この模型のデジタルデータと、それにもとづく3次元画像があれば、調査成果が上がったときに大いに参考になる。そもそも調査をする際に、予想することが可能になるから、ちょっと金をかけてもいいのではないかと思った次第です。
◆模型の写真、勝手なアップ、すいません。怒られたら除去します。だが、古文書や絵はしゃーないけど、こんな模型など、撮影禁止にする必要はまったくない。前からそうだったからそうしているだけ。ではなぜダメなんだろう、なぜダメということにしているんだろう、と考えて欲しいものだ。前にも書いたが、「写真を撮ってください。秀吉が築き、大阪の陣で焼け落ちたのは、この城なんです」、くらいのことをやればいいのだ。
◆メンツは、大阪市大・文の仁木先生(研究代表)、生活科学・谷直樹先生、それと理学部の地質専門のみなさん、松尾館長、そして大阪市のユトミド・観光室の合田さんほか。
◆具体的な調査の打ち合わせ兼、現地確認。現地はやはりよかった。どこがどうなっとるのか、よくわかる。ただやはり、データは散漫で、いろいろ統合して、いままでどこまでわかっているか、わかりやすいものを作らなければ、先に進まない。今年度の研究の半分はこれに充てるべし。
◆で、天守閣の模型はよかった。撮影禁止だが館長の許可をもらって撮影。勝手に使っては悪いが、使わせてもらおう。豊臣大阪城はよくわからんが、いちばんいまイメージできるのは、この模型。立体構造物としての把握は、この模型がいちばんである。この模型をレーザースキャンすることを、今日、考えた。今後、調査をする上で、この模型のデジタルデータと、それにもとづく3次元画像があれば、調査成果が上がったときに大いに参考になる。そもそも調査をする際に、予想することが可能になるから、ちょっと金をかけてもいいのではないかと思った次第です。
◆模型の写真、勝手なアップ、すいません。怒られたら除去します。だが、古文書や絵はしゃーないけど、こんな模型など、撮影禁止にする必要はまったくない。前からそうだったからそうしているだけ。ではなぜダメなんだろう、なぜダメということにしているんだろう、と考えて欲しいものだ。前にも書いたが、「写真を撮ってください。秀吉が築き、大阪の陣で焼け落ちたのは、この城なんです」、くらいのことをやればいいのだ。
京大の鏡
◆京大のみなさんのご配慮で、博物館蔵ではない鏡8面分の撮影が実現した。阪口君にはたいへんお世話になった。京大はオープンキャンパスで、高校生たちが博物館にも押し寄せていた。
◆文学部博物館から総合博物館になったのは、だいぶ前。実は、総合博物館の展示は見ていないのである。撮影場所は、かつての文学部博物館4階の考古学研究室だった。
◆松岳山の鏡の破片2~3点、もう1点薄い青銅器片があるが、鏡かどうかはわからん。で、小片2点は省略。まあええでしょう、あんな破片は。で厚みのある2点だが、錆でぼろぼろであるが、はじめて観察する機会をえた。うち、1点は確実に三角縁神獣鏡でしょう。鈕が脱落し、有節重弧文がめぐり、その外に傘松形文様がある。表現2かもな~。同笵関係をチェックしてみよう、わかるかもしれない(やったけどわからんかった)。もう1点は、内区外周の破片で、界圏鋸歯文があり、銘文?があり、櫛歯文がある。先のものと同一個体かどうかはわからんが、可能性はあろう。これは収穫でした。
◆文学部博物館から総合博物館になったのは、だいぶ前。実は、総合博物館の展示は見ていないのである。撮影場所は、かつての文学部博物館4階の考古学研究室だった。
◆松岳山の鏡の破片2~3点、もう1点薄い青銅器片があるが、鏡かどうかはわからん。で、小片2点は省略。まあええでしょう、あんな破片は。で厚みのある2点だが、錆でぼろぼろであるが、はじめて観察する機会をえた。うち、1点は確実に三角縁神獣鏡でしょう。鈕が脱落し、有節重弧文がめぐり、その外に傘松形文様がある。表現2かもな~。同笵関係をチェックしてみよう、わかるかもしれない(やったけどわからんかった)。もう1点は、内区外周の破片で、界圏鋸歯文があり、銘文?があり、櫛歯文がある。先のものと同一個体かどうかはわからんが、可能性はあろう。これは収穫でした。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。