人を幸せにする人になろう

網野銚子山の整備計画立案がはじまる

◆網野銚子山古墳の整備計画を今年度立案するのだが、そのメンバーになることになり、京丹後市の岡林さんがb82fd474.JPG訪ねてこられた。銚子山・小銚子・寛平法皇、この3基からなり、必要な追加指定が実現した。で、これから整備事業を進めていくことになったもの。
◆まずは買い上げ。前に聞いたときには、営農を続けたいという人も多いということだったが、5年くらい経つと、担い手の方もさらにそれだけ年齢を重ね、子供も故郷を離れているし、手放しても・・・という人も多くなったという。銚子山本体は公有地で、周囲の民地をしばらく買い上げなくても、墳丘本体でやれることをやったらと思っていたが、順当に買い上げ→整備ということになるか。
◆合併前の網野町時代に基本構想はまとめられている。オレはその時以来のメンバーである。大がかりな復元整備をする必要はない。実に美しい古墳なので、立木の間伐などで、墳丘がずっとよく見えるようになる。傷んでいるところを補修し、部分的に復元する部分を作ってもいいが、基本はあるがままでよいだろう。
◆地元の意向、市長の意向、教育委員会の意向もおおむね聞いた。神明山の測量など、いろいろお世話になっている京丹後市に、なにがしかお役に立ちたいものである。
【追記】話の中で、大垣市の昼飯大塚の話になった。整備事業中で、あと2年くらいだという。長らく昼飯には行っていない。なんでも、端末をもって、立ち位置からの復元3D映像が見ながら現地見学ができるようなものを開発しているらしい。これからも仕入れたネタをできるだけ取り上げることにします。

無題

de32a8b2.JPG◆卒論を書くはずの1人が、こないだ2ヶ月のイギリス語学留学へ旅だった。就職活動をしたがうまくいかず、面接のヤリトリの中でこれでは通らないと感じ、人生経験が足りないと。やりたいことは割と明確で、そうした関係の職につきたいと、でこの先どうするかも考えているようだ。
◆教育実習から帰ってきたとたん、イギリスに行きます言われた時、、「アカン」とも言えないし、「そりゃいいことだ」とも言えなかった。大学教員としては、大学院生、とくに博士課程の院生の先行きには一定の責務が生じるだろうが、学部生、修士課程の院生の人生について責任をもつことはできない。通常、みな自分で考え、なにがしかの進路を選択し、就職してゆく。一方で、夢を語る者もいて、それぞれ特殊な世界であることが多いし、アドバイスができるわけではない。
◆が、しばらくアルバイトをしながら、いろんなチャレンジをし、考えたりするにしても、20代後半にはやっぱり食い扶持をちゃんともつ方がいいんだろう。基本的に一定年齢には親から独立して働くことが必要だ。しばらくは不安定ながら自己実現の道をさぐることはあってもいいが、自分は何をしたいのかと悩み続けるべきではなく、ある段階には職をえた方がいい。いまはとくに就職も厳しい。ずれ込むほどシンドクなる。
◆そしてちゃんと働き、結婚適齢期に配偶者をえて子供を作ることも人間の勤めであるし、なによりも家族のいる人生はすばらしい。そして記事にあるように、働く中で自己を磨くことが、自分の可能性を広げることになる。やっぱり給料をもらって組織のメンバーとして働くことで、社会の中でなにがしかの生産活動に加わること、それを通じて社会の一員として、共同して何かを動かし実現させていくことを学ぶ。おおむね大学を出て、20代後半から30代前半くらいのなかで一人前になっていくという面があって、時期というものがあるように思う。
◆その先、転職したり違う世界に飛び込んだりするにしても、苦労をするかもしれないがやっていける資力・能力・自信をこうして身につけることで、次のステップへの道が開ける、そのためにもいまの持ち場で一所懸命やることだ、ということだろうか。

古墳編年の推移

◆同成社の古墳時代本、第1回配本で、まだ原稿を出していないのは、オレを含めて3人だそうだ(もう一人の人795d9a95.jpgの話による)。今日、結局、授業は休講となったので、仕上げようと努力。なんとか金曜日までには仕上げたいものだ。
◆挿図は2点を考えており、1点はほぼできたが、もう1点の編年図はいましばらく時間がかかるだろう。できた方、古墳編年の推移を示すもの、これを掲げておこう。

7世紀史

◆東京からの新幹線はなんともなく新大阪へ。翌日の20日水曜日が考古学通論の最後の授業なので、まとめ91af8c4b.jpgをやろうと思い、3連休の月曜日に図表を作り始めた。だが、その日、そして宮内庁に行く火曜日に準備すべく、授業のファイルをUSBに移したのだが、この図表を移すのを忘れていてがっくり。
◆大阪に戻ってから同じような図表を作り、水曜日に統合すればよいと考えて準備する一方、明日は果たして授業が行われるのか、台風の進路をながめつつ作業をした。
◆結局、まったく雨は収まったが、強風警報が7時段階で発令されたままなので、1・2限は休講となる。出勤し、いちおう統合したのがこれ。図をちりばめていくと、もっと楽しいものになるだろうが・・・。来週が試験なのだが、今日の分の休講はどうなるんだろうか。

陵墓懇談会2011

◆いつものように1200に明治大学に集まり意見交換の後、書陵部を訪ねる。
◆内容は『ヒストリア』8月号に書くことにするが、今年度の予定を公表しておく。まず、陵墓の保全整備工事は、2年前に事前調査が行われたコナベ古墳の護岸工事が行われる。また、昨年、事前調査が行われた広陵町の新木山古墳の外構柵工事が行われる。
◆今年度の事前調査は、大和郡山市の郡山新木山古墳と、古市古墳群の小白髪山古墳の2箇所で実施するとのこと。郡山新木山は、金魚の養殖に使われている濠がめぐる裾部以外の三方での発掘調査、小白髪山古墳は、1999年の南側に続く北側の発掘となる。
◆こうした情報は、宮内庁書陵部の公文書で、関係府県に示され、日本考古学協会に提示されたものなので、堂々とオープンにして問題ないと思うが、図面をブログに示すことはやめておこう。
◆立ち入りは、当初リストで残っているもののうち、2箇所が候補となりそう。これは16学協会で引き続き検討することになるが、今回改めて残ったものの実現可能性を確認したところでは、そんなところになりそう。この2箇所を粛々とやって、次のステージに行けばいいのでは、と個人的には思う。
◆なお、サンケイ新聞の記事が話題になったが、森先生となんとかさんの意見公表とセットとなっていた、陵墓の調査に関するアンケート結果が実は重要。これコピーは配られなかったが、紹介された内容では、国民は陵墓について学術的に調査することに、かなり賛成意見が多いという結果となっている。

鐸(ぬで)比古・鐸比売神社

河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:278m)を神体山・磐座と13808c62.jpgしている。  祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり、鐸比古命を祭神とするのは日本全国でもここと岡山県の和気神社のみとされている。『河内名所図会』 には、「鐸比古神社 (高尾神社・大県神社・高尾明神) 延喜式内、高尾山の嶺にあり、今比賣春日御前という。傍に清泉あり」と記されている。 もともとは鐸比古神社と鐸比賣神社は別々の神社であり、鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られていたが、中世には現在の地に遷されたといわれている。現在の社殿は江戸時代・元禄年間の再建。〔ウィキ〕
◆鉄器生産と関連ある祭神らしい。ネットでいくつか記事が見える。



恩智神社(河内二の宮)

af21b780.jpg現在の主祭神は、大御食津彦命(おおみけつひこ)、大御食津姫命である。当初は天児屋根命を祀っていたが、後になって枚岡神社に遷座し、現在の祭神を祀ることになる。大御食津彦命は天児屋根命の五世代の孫、大御食津姫命は伊勢神宮外宮に祀られる豊受姫大神の別名であるとされる。〔ウィキ〕
 

伊賀上野城

◆既に御墓山古墳と敢国神社の記事を書いたように、土曜日の晩からカミさんと伊賀上野に出かける。翌朝、まず32819bfa.JPGd7a43664.JPG御墓山古墳に行き、神社はたまたまで、それから上野城に行く。
◆以前に市役所とその脇にある資料館に行ったことはあるが、城には行ったことがない。藤堂高虎の居城で、日本一高い石垣があるというので、大阪城との関係で行ってみたかった。
◆伊賀上野はかなり涼しかった。この日、全国的にうだるような厚さだったのだが、なんで伊賀盆地はすずしいのだろうか。
◆石垣は確かに高い。「一、二の高さで有名な」という文言はおもしろいですね。その縁回りに安全柵がなく、子供を遊ばせるには怖い。30mともいわれる石垣が堀に落ちている。発掘調査をして石垣を復元している工事も行われている。下に下りて周囲をめぐる。藩校もよく残っf0bde731.JPGていて史跡になってa7bceb85.JPGいる。また旧制第2中学校の校舎が、いまの上野高校内に保存されている。
◆合併前の上野市の人口が6万人、合併後の伊賀市では10万人である。なかなかのどかでよい城下町である。観光資源にめぐまれ力も入れている。が一方で町はややさびれている様子。大店舗ができ、町中の商店はかなり閉まっている。城下町を活かしつつ、コンパクト化をはかり、味わい深い町づくりで魅力を増して欲しいもの。伊賀国府は知らないが、御墓山や国分寺などの遺跡も、そうした魅力に組み込んで欲しいものだ。
◆お昼を取り、名物のでんがくも食べる。それと、帰りに伊賀焼の展示館に入る。歴史学教室旅行でも、行った先でいろいろ焼き物を見てまわるのが好きである。で、あんまり高いもの16c82aa6.JPG79e980f4.JPG手を出すことはないが1000円前後の気に入った器があったら買うことにしている。で、教室旅行ではそれを取り出してビールを飲んでいる。で伊賀焼。どうしても欲しい魅力的な器を見つけたのだが、ちと高い。迷ったが、思い切って5000円出して買う。
◆昼過ぎには帰途につき、奈良の河合町の「虹の湯」で汗を流す。これで3週連続である。屋外の露天風呂をのぞくと、素っ裸のおっさんがゴロゴロ横たわる。
◆家に帰ると、子供らはそれぞれでかけている。さっそく、伊賀焼の器で焼酎のオンザロックを飲み、夕方から仮眠を取って、サッカーの試合に備える。
◆4時から試合を見る。液晶テレビが修理中なので、寝室に置いている単身赴任時代の小さいブラウン管テレビでサッカーを見る。最後、後半の後半くらいから、カミさんと娘が起きてきて、3人で見る。

敢国(あえくに)神社(伊賀一の宮)

◆敢国神社に立ち寄る。御墓山から遠くない。伊賀盆地の東側の山裾だ。df398e9c.JPG907849e2.jpg
◆地図を見ていると、国分寺と、なんとか廃寺というのがあったんだ。気がつかなかった

御墓山古墳

◆伊賀上野に行き、御墓山古墳を見る。前の科研の時に、澤田さんと訪ねたのが2回目で、今回は3回目か。新し9591c8a4.jpgく看板ができ、付近の道路にも道案内がある。何よりも古墳の草刈りなどの手入れが、以前からするとダンチになされており、墳丘が実によく観察できるようになっていることに驚く。そして実に残りがよい。
◆前はもっと樹木も繁茂していて、縦断するような見学路はあっても、あんまり墳丘各所に入っていけないような、あるいは入っていく気がしないような状態だったと思うが、非常にスッキリしている。2段築成は明らかな間違いで、後円部の背後を含めて3段築成である。下段の葺石が溜め池の斜面に露出している。5464b9a1.JPG
◆伊賀上野の教育委員会も力を入れているのか、そして地元における草刈りなどの管理がされるようになったと思われる01746744.jpg。ここ5年くらいのようであるが、いや~、見応えがあります。5世紀前半になっていたが、たぶんやっぱり4世紀後半でしょうね。伊賀盆地がここで狭まり、少し行けば近江への入り口となる柘植だし、その先は伊勢の平野まで狭隘な谷部となる。佐紀段階の交通路を押さえるあり方の典型的なひとつになろう。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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