人を幸せにする人になろう

八尾の資料館と心合寺山

◆それから八尾の資料館。何度か行ってますが改めて展示を見る。ここはもう少しスペースが欲しいですね。河内のba07642c.JPG木綿栽培と藍染めが一方のウリで、2階はその体験室だが、1階の展示部分、八6f62b881.JPG尾も数々の発掘をしているし、東大阪の博物館のように、ひととおり八尾の歴史を示すような展示ができればいいのだけれど、面積が限られている。久宝寺や八尾の寺内町に行けば、またそこはそこで展示施設があるのかもしれない。心合寺山の展示館を含めて、各所各所に必要なものを配置していくという考え方なのかもしれない。
◆それはそれで結構だが、現地と結びついた施設とは別に、八尾の歴史を通しで勉強できるところがあってもいいだろう。たとえばプリズムホールなど、近鉄八尾駅前のどこかとか。
◆写真は心合寺山の展示館のパネル。また季節のいいときに高安古墳群をめぐりたいものだ。なかなか工夫されたいいパネルがある。ここは指定管理だが、女性がきめ細かく施設を飾ったりしている様子がよい。あんまりこういう言い方はよくないかもしれないけれども、どこかの引っ越し会社の「心遣いが細かく社長さんは女性に違いない」というコマーシャルではないが、こうした施設を維持していくには、地元の女性を中心とする団体が確かにふさわしいかも、というようなことを考えていた。実によく整いきれいにしてあり、見学者の親子連れに対応している様子もほほえましかった。
 

安中新田会所植田家住宅

◆鴻池は行ったことないんですけど(一度行ったんですが閉まっていた)、八尾の安中新田会所に行きました。きれいになり、建物を開放し、ギャラリーのようなものも設け、工夫してある。6891e38c.JPGce697966.JPG127ecf3e.JPG

渋川神社

◆渋川神社は八尾市植松町にあり、 若江郡の式内社。祭神は、天忍穂耳尊、饒速日命、國狹槌尊、日高大神、a79ada4e.jpg菅原大神を祭神としている。物部守屋の渋河の家の跡ともいわれている。もとは旧f7cf637e.JPG大和川の東側の字川向にあったが、天文3年(1533年)の大洪水で境内全域を流失。 その後元亀2年(1572年)、お旅所のあった現在地に再建された。【ウィキ】
◆これとは別に渋川天神社というのがあり、渋川廃寺があるらしいですね。で、寺院が見つかっていることから、物部氏が廃仏派というのに疑問が投げかけられている、みたいなことがネットにありますが、寺跡は7世紀第2四半期だそうで、別にええんとちゃうの。
 

大阪府下市町村の規模

◆大阪市253万人/堺市83万人/東大阪市48万人/枚方市40万人/豊中市39万人/高槻市35万人/吹田市34万人/茨木市27万人/八尾市26万人/寝屋川市23万人/岸和田市20万人/和泉市18万人、だそうである。
◆これ、むろん人口のみナラズ、予算規模も調べた、うちの教育費も調べた。そうすると、市民ひとりあたりナンボかけているか、というのも出てくるわけである。大阪府がそうした統計データを公表してくれているので、そういう計算もした。が、結果は発表しないでおく。あまりにも、ある市が問題があるので。要するに、人口は多いのに、市民税が他の市町村にくらべて圧倒的に少ないんだろう。格差は歴然とある。

東大阪市立埋蔵文化財センター発掘ふれあい館

◆平野に下り、発掘ふれあい館に行く。体験学習がメインだが、展示室もあり、実物がならんでいる。えのき塚のc581fca6.JPGパネルもあった。でも鰭付円筒埴輪はなかったな~。どこにあるんだろうか。博物a3e8d67e.JPG館でもここでも、常設としてならべてほしい。
◆隣に収蔵庫展示のような部屋があり、無数の各時代の土器たちがならべてあり、自由に手にとって見ることができる。ここは、縄文晩期の突帯文から、弥生土器、古墳時代の土師期や須恵器、律令期の土器、青磁や白磁をはじめとする陶磁器、瓦器にいたるまで、あらゆる土器がならぶ。学生にさわらせながら土器を教えるにはもってこいの場所である。

東大阪市郷土博物館

◆ここは2回目。以前、奈文研にいるとき、瓦の展示で資料が集められてい9517ba54.JPGる時期に、上原真人さんに誘われ00737ae5.JPGて行ったことがある。瓢箪山駅からひたすら坂道を登っていったんでしょうね。
◆山畑古墳群のなかにある。そういう場所に博物館を建てた意味もわかる。が、なかなか多くの東大阪市民に来てもらうには不便なところだろう。次に取り上げる発掘ふれあい館は平地部にあるが、ああいうところに併設できればいいんでしょうけど。
◆しかし、展示をちゃんと見たが実によかった。この博物館は、これまでの東大阪市での発掘調査成果を、古いところから新しいところまで、ちゃんと展示されている。いろんなパネルも工夫されて掲示されているし、ガイドブックなども手頃な値段で出されている。実に勉強になった。
◆縄文の貝塚あり、弥生の遺跡は瓜生堂や鬼虎川はじめ数多い。鬼虎川の銅鐸鋳型などもある。古墳時代では西の辻遺跡の水の祭祀遺構の模型もあった。土師器もならぶ。学生らに、弥生土器・土師器の変遷の基本を教える。あとは、法通寺(石切神社のとこ)の瓦(池田寺Ⅱ式など)、山岳寺院の客坊廃寺と神感寺跡、若江城など、なかなか見応えがあった。江戸時代の生駒西麓の谷筋に設けられた水車のコーナーもある。そして東大阪市の成立の話、いまの近鉄線の開業の話もある。実に充実している。望むらくは、ここに大阪城の石切丁場の話が加わってほしいものだ。東大阪にいくので、あちこちの残石も見て回りたかったが、真夏でもあり、今回はパスした。
◆いや~、いい展示だけに、もっと市民に見てもらいやすい場所にあればいいのにと思う。

瓢箪山古墳(記事№800)

◆瓢箪山古墳って、北に前方部をむける前方後円墳でしょうね。東側の周濠の名残である溜め池の形状は、前e9a1d469.JPG方後円形をしている。そういう話をしていると、宮司さんが「違う!双円墳や」と介入960ef8bd.JPGしてきて、そこから東日本大震災の話だの、南海地震の話など、アメリカの国債の話だの、日本の国債の話だの、増税の話だの、エンエンエンエン、しゃべりたくってしょうがないのか話が続く。オレはいやになってその場を離れるが、学生は抜けられず、最後までつきあう。ご苦労さん。
◆石室は前方部のものが知られているようだが、入れるようなところはなかったぞ。6世紀前半とみて問題ないだろうが、普通は埴輪もありそうなもんだが、どこまで知られているんだろうか。中に入りたいものだが、うるさそうである。
 

河内平野を行く

◆考古の学生との見学会で、8月7日、河内平野を行く。東大阪の瓢箪山の学生がおり、集合は瓢箪山駅。671497cb.JPG
◆瓢箪山古墳→山畑古墳群→東大阪市郷土博物館→東大阪市埋文センター発掘ふれあい館→(昼飯)→大聖勝軍寺(下の太子堂)→渋川神社→安中新田会所植田家住宅→八尾市立歴史民俗資料館→心合寺山古墳→大阪経済法科大学の好太王碑文→愛宕塚古墳→瓢箪山駅前で打ち上げ。

岡村さんの発掘

◆町田さんの告別式で、岡村道雄さんにお会いできた。「いま発掘している」というので、現地説明会資料をいたfdd4cd1d.JPGだいた。故郷である新潟県上越市で、国史跡となった斐太遺跡群のなかの釜蓋遺跡という環濠集落を発掘しているらしい。史跡にはなっているものの、内容がよくわかっておらず、北陸新幹線の新駅駅前になるため、ノッパラというわけにはいかず、一定の史跡整備をめざして調査が行われているらしい。盆休みをはさんで再開するとのこと。

東欧革命(2)

◆ピクニックが成功したニュースは東ドイツに広がり、多くの東ドイツ市民がハンガリーやチェコスロバキアのオーストリアや西ドイツ国境地帯に押し寄せる。両国政府と西ドイツ政府は協議の結果、東ドイツ市民に西ドイツのパスポートを与え西ドイツに出国させる手筈を整えた。さらにハンガリーではその 後、東ドイツに配慮することを止めて、堂々と東ドイツ市民に国境を開放する。東ドイツ政府は、西ドイツ・ハンガリー政府に対して抗議を行ったが、 東から西への人の移動を止める力はもはやなかった。
◆秋になると、東ドイツ国内でもライプツィヒやベルリンなどで、旅行の自由化、民主化を求めるデモが頻発。ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソ 連の支持だけであったが、10月7日の東ドイツ建国40周年式典で、ゴルバチョフ書記長は新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する。式典に動員されたドイツ社会主義統一党員らが、突如として「ゴルビー! ゴルビー!」とシュプレヒコールを挙げる。後盾だったソ連に見捨てられ、民衆に目の前で反目されたホーネッカーは10月18日に退陣する。11月4日には首都の東ベルリンで大規模なデモが起こり、もはや混乱は収拾がつかない状態となる。
◆そして11月9日を迎える。「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案が東ドイツ政府首脳 部で審議される。だがこの時、クレンツをはじめとする政府首脳部は国内のデモや国外に流出する東ドイツ市民への対応に追われ、混乱をきわめていた。このため、十分な審議もされず政令の内容を確認したかも怪しい状態で、「11月10日から、ベルリンの壁を除く国境通過点から出国のビザが大幅に緩和される」政令が了承される。この政令を発表する東ドイツ政府のスポークスマンであるシャボウスキーは、この会議には出席しておらず、内容をよく把握し ないまま、現地時間19時頃から記者会見し、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表。また、「(この政令は)いつから発効されるのか」との記者の質問に対し、翌日の11月10日の朝に発表することが決められていたにもかかわらず、それを伝えられておらず(諸説あるらしい)、シャボウスキーは「私の認識では直ちにです」と発言する。
◆この記者会見の模様は夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は半信半疑で壁周辺に集まりだした。一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近でいざこざが起きる。21時頃には東ベルリン側 でゲートに詰めかける群衆が数万人にふくれあがり、門を開けるよう警備隊に要求し、やがて「開けろ」コールが地鳴りのように響く状況となる。膨れ上がった群衆に、さして多くはない国境警備隊は太刀打ちできなかった。また天安門事件の影響もあり、武力弾圧という手段はまず不可能で、事態を収拾する策は尽きていた。日付が変わる直前の11月9日23時台に、ついに 警備隊は群衆に屈しゲートが開放され、東西ベルリンの国境は開放される。本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」が内容であって、東ベルリンか ら西ベルリンに行くには許可証が必要であったが、混乱の中でそんなものは確認されることなく、東ドイツ市民は、歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ 込んだ。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まり、東ベルリン群衆 を歓迎する(この大騒ぎはそれから三日三晩続く)。数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマー やつるはし、建設機械が持ち出され、壁の破壊が始まった。数日後には、東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになる。東西ベル リンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。これで決まり。翌年の1990年10月3日に東西ドイツは統一される。
◆1989年12月3日のマルタ会談で、冷戦の終結が宣言される。
◆チェコスロバキアでは、11月17日以降、民主化勢力を中心にデモやストライキ、ゼネストが繰り返され、事態を収拾できなくなった共産党政府は、民主化勢力との話し合いにより、共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結(ビロード革命)。
◆これらに対し国内の改革に全く否定的であったルーマニアでは、12月16日に民主化革命が勃発、治安維持部隊と市民の間で衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にチャウシェスクが射殺されて終結する。
◆長くなりました。汎ヨーロッパピクニックの時は、たぶん雪野寺の発掘でなにも知らんかったんだろう。ベルリンの壁が崩されたときは、雪野山の発掘から戻り、下宿にいて修士論文を書いていたように思う。テレビで映像を見ていた記憶があるように思う。ポーランドとハンガリーの地道な運動、そしてゴルバチョフの登場によって、ついに東欧の一党独裁国家が次々に普通の民主主義国家に転じることになったわけだ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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