人を幸せにする人になろう

生姜丸しぼりジンジャーエール

◆盆にやっぱり紀美野町へ行ったとき、JAわかやまの、ジンジャーエールの看板を見て、Aコープに行って探そうc35abd5b.JPGと思っていた。稲刈りの帰りに店によるとあった。
◆家に帰って冷やして呑む。うまい!
◆今回の稲刈り、きつかった。1日目、前の晩、夜更かしをしたのもまずかった。かんかん照りで、へたりそうになる。2日目、残りを午前中に済ませる。よく寝ていたので、この日は大丈夫。背筋がちょこっと痛いほか、だるい。年である。
 

稲刈り2011年09月10日

◆09月10日と11日、和歌山で稲刈り。機械の調子が悪く、横に付いているのも楽ではない。。まだハナから任さ574fb031.JPGれない。機械はよくできているので、バリカンのように削り込めば良く、田植えの方が難しい。ただ、こないだの台風で、いくらか稲が倒れていた。まあ、しかしそんな問題はない。しかし、83歳の岳父の仕事をぜんぶ取ってしまうわけにはいかない。「口で稲刈りをしてください、ぜんぶこっちでやるから」と言いつつも、実際には譲ってくれないので、機械の横で稲送りの不具合を横について押し込みつつ、交替を待つ。
◆楽しいもんです。農業も金かかります。乾燥機もあるが、村でもいくつかしかもってるところはないらしい。なので、ほかの家も稲刈りはしたいが、乾燥機の確保、その順番待ちなのだそうである。

ねごろ、もひとつ

◆今年度・来年度で、岩出市が史跡「根来寺境内」の保存管理計画を策定する。史跡に指定され、現状変更の取り扱い等を決めておくものであるが、ここの場合は、そもそも史跡になっている範囲が限定的なので、むしろ課題は、これからどこまで史跡に指定して保存を図っていくのかの検討が、大きな課題になろう。
◆史跡の保存管理計画策定の実際を必ずしも知っているわけではないが、いまわかっているデータから、保存をめざす範囲を定めたりするはずだ。その場合も、絶対に含めるべき範囲や、確認調査の必要な範囲など、いろんなグレードが考えられよう。実際には、現状の土地利用状況や、指定した場合の買い上げの緊急度などもあり、遺跡のもつ重要度のみでは決まらない。また、広大な遺跡であるので、史跡をめざすにしても、段階を設定することになろう。
◆だが、そうした現実はあれ、保存管理計画で将来的な史跡指定の範囲を見極める際には、基本は史跡として、遺跡に即して必要な範囲を見定め、目標を定めるものだ。
◆どういう人選がなされ検討が進められるのであろうか。原案は岩出市が和歌山県と相談しながら会議にかけるのであろうが、現状ではマトモな案が出てくるとは思えない。文化庁記念物課史跡部門も、ひどい計画案なら、はっきりダメ出しをしてもらいたいものだ。だいたい人選が定まって、年度後半には議論がスタートするのであろうが、文化財調査官も出席するんだろう。ま、うるさい人間を入れるはずもなく、とはいえ、あからさまにやる気のない計画も示せまい。お茶を濁すような、坊院が入っていないではないかという批判をかわすべく、多少、そうした部分を加えた案をズルく示してきそうなもんだ。
◆今回の調査地点がどうなるか、むろんそれが焦眉の課題。今年度、一条閣移転の設計をやるのだそうだ。来年度、保存管理計画案を策定する2年目の議論となるが、その一方で、あそこの取り扱いが会議で議論されぬよう、年度がかわるとすぐに移転工事に着工し、削平してしまいたいのであろう。
◆この記事を書いたのは、発掘地点の取り扱いがどう決着するかわからんが、保存管理計画という、県や岩出市がどういう姿勢でネゴロに取り組むか、それがアラワになる検討がこれから進められることを紹介するためです。どんなものが出てくるか、楽しみにしよう。

文化庁文化財データベースの史跡根来寺境内の説明

◆以下は文化庁のデータベースにある史跡「根来寺境内」の説明文

◆和歌山県の最北、大阪府との境界には和泉山脈が横たわっており、根来寺はその一峰、一乗山の南麓と南側の前山と称される独立山塊状の山に挟まれた狭小な平地部と谷筋に立地する。かつての境内地の主要範囲は、東は菩薩峠、西は大門池東側の細尾根、南は東西に衝立のように延びる前山、北は和泉山脈南麓の北山であり、東西・南北とも約2kmに及ぶ。このなかに菩提川・大谷川・蓮華谷川などに形成された谷が入り組んでいる。
◆ 根来寺は一乗院大伝法院と号する新義真言宗の本山である。その淵源は大治5年(1130)に覚鑁上人が高野山に大伝法院と密厳院を創建し、みずから大伝法院の座主となったことにはじまる。高野山中における金剛峰寺方と大伝法院方の対立により、正応元年(1288)、頼瑜のとき根来に移転し、新義真言宗が成立した。室町時代には伝法堂院や大塔(国宝)が造営され、戦国時代にかけて大きく発展した。山内には円明寺などの塔頭子院が多数存在し、山内の坊舎2700余りとも伝えられ、大きな勢力をなしていた。この時期に紀北地方や泉南地方の小領主地侍層の子弟が根来の山内に入って、根来衆という僧兵集団となり強力な軍事力を構成した。こうしたなかで、天正13年(1585)3月23日、豊臣秀吉の紀州攻めにあって、その多くが焼亡した。江戸時代に入り和歌山藩主の浅野家が復興し、大伝法堂・大門が再建され今日至る。
◆ 旧境内地の発掘調査は昭和51年の広域農道建設を契機に始まった。このとき中世・近世の寺院遺構と焼き討ちに伴う焼土層が確認され、和歌山県と岩出市の教育委員会等により、これまで各所で継続的に行われ、大きな成果が上げられている。それによれば、15世紀から16世紀の段階に遺構の分布が急速に広がり、寺院が拡大していった様子がわかる。子院は斜面を造成して石垣などを配して平坦地をつくり、仏堂や住坊、倉庫・井戸・便所などを備えているのが一般的である。湯屋も確認されている。「根来寺伽藍古絵図」は作成年代が不明であるが、遺跡の状況と合致するところがあり、最盛期の様相を伝えるものと推定される。
◆発掘調査の出土品には多様なものが豊富にある。食膳具・煮炊具・調理具などの日常用品のほか、仏具、鉄砲玉・槍などの武器、筆・硯などの文具、お茶道具や茶臼などがある。焼き物は備前・瀬戸美濃・瓦器・土師器などの国産品のほか、中国・朝鮮・タイ・ベトナムなどで生産されたものがある。出土品は強く火を受けていたものが多く、焼き討ちの状況を如実に示す。
◆ このように根来寺は中世に一大勢力をなした寺院の在り方をよく示し、多数の遺構を包蔵した往時の広大な境内地の全域が良好な状態で保存されている。また、現在まで法灯が継がれており、建造物や仏像などの多様な文化財が現境内地に残されている。中世における寺院の成立と展開、政治・経済等との関連等を具体的に知ることができる貴重な事例である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。

◆全文、引用したが、赤の部分が重要。発掘地点のある尾根を含む範囲が主要部分と考えられており、背後の山、前山も史跡となっている。今度の尾根も、「主要範囲」で、なんら変わりはない。ま、指定しやすいところはするけど、民地に手を出すつもりはない、かつ一条閣移転問題は、もう決着したい、このまま押し通したい、というところ。『考古学研究』の校正も返した。タイトルは「根来寺旧境内遺跡はこのままでいいのか」だったか。ま、『ヒストリア』よりは、考古学業界、文化財業界に対しては影響が強かろう。「根来はなにやってんだ」という全国からの目が和歌山県に注がれることを期待する。

津堂城山の記事

◆大学図書館に保管されている当時の新聞では、朝日では4月5日と7日に2回に分けた記事が出ている。しか1d8f7501.jpgし、当時、大阪の新聞では、写真を掲げて大きく喧伝されたようであり、それらをもまた探してみたい。

これまたついでに神明山

◆神明山のまとめもストップしたまま。最後に補足調査に行ってからもだいぶたつが、北側の住宅地裏部分の測36aaa880.jpg量をしたいと思いつつできていない(前の時にやったのだが、これが使えないのです)。
◆前にトレースの話をしたが、その範囲はできたので、図示しておく。

温江丸山の三角縁神獣鏡

◆加悦の温江丸山から三角縁神獣鏡の破片が2点出ている。チュウの破片があり、そこの神像の翼(なんて言う92279006.jpgのが適当だったか忘れた)などから、東求女塚から出ている、2神3獣1虫鏡と同笵だろうと思ってきた。昔、写真を引き比べて、『樋口古鏡』に書き込みをした。『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』でならべて配列しているので、その段階には特定していたのだろう。
◆これも東博さんには悪いが、同笵関係を示しておく。縁部は適当です。実物をつきあわせれば傷でわかるだろう。こんなんで、松岳山のもわかればいいんだけど、こないだ少しやってみたが、わからんかった。

110906歴史を楽しもうかい

◆堺で2時間しゃべる。できて20年になる会だそうである。4・5世紀f4eba4d6.jpgの丹後、まあ、しゃべ8fd51263.jpgれるところは限られている。弥生後期のことを皮切りに・・・。自分にとっては、4世紀後半のことのみならず、前後の時期の資料を集め、既に書かれていることに学び、勉強になった。会場は150人ほどだろうか。よく見る顔もちらほら。それにみなさん、たいてい現地に行き勉強もしている。あまり新鮮味はないかも、とも思いつつ・・・。
◆12月になったのだったか、網野銚子山の追加指定がなったので、丹後でシンポが行われる予定で、声がかかっている。三大古墳について、加悦町のシンポ以来になるが、墳丘についてきちんとまとめなければならない(今日は比較の作62e47d26.jpg業は進めず、従来の見方で通した)。いい準備作業をさせてもらったように思う。d6119f9d.jpg

本の話のつづき

◆『和泉市史 地域叙述編 池田谷の開発と歴史』は、半年ずれたが、もうすぐ刊行されるらしい。楽しみだ。こないbb0ee723.JPGだ、瓦の掲載許可の関係で、どこの瓦か追加で問い合わせが来た。市史編纂の主力の1人が3月で抜けたのも大きい。軒丸瓦は禅寂寺所蔵で、軒平瓦は大阪府の発掘資料で泉北で資料調査した、と返事。あれらの拓本や図面も、もう手元においておく必要はないし、和泉市に渡そう。坂元寺の時は、大阪府、京大など、頑張って見れるものは学生と見に行ったなあ、と思い出す。
◆同じ和泉市史がらみで、和泉の条里復元をやっている。これも3年くらいやっている。奈良盆地のがすごい。それから福井県史。あんなふうにはいかないが、同等のことを和泉でやろうとしている。条里の線を入れるのは終わっているが、それだけではダメなので、昨年度、和泉市域内については小字調査をやってもらい、その成果図をもらって、イラレで、小字の範囲と文字を専属アルバイトにやってもらっている。が、ゴールはまだ見えませんね・・・。だが、今年度ではできるのでは?

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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