人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
青木書店の本はどうなる?
◆同成社の再校が来た。ほとんどみたが、念のためチェックするところが残る。で、青木のヤツはどうなるんでしょうね。古墳時代の研究のシリーズ本で、ほとんど同じ企画。青木が原稿がそろわず刊行がずれ込む中で、同成社の、もうひとつ若い世代の編修本が、この調子で第1回の刊行は時間の問題。
◆オレにも責任の一端はあるんでしょうね。青木では、古墳築造の話を分担したが、出すのは遅かった・・・。でも、これもだいぶ前だし、初校は済ませたが、その後はウントモスントモ。そういえば、泉大津の弥生学習舘の〈古墳時代はどう始まったか〉の連続講演およびシンポの本も、ウントモスントモ。
◆まあ、多くの人様の原稿を集めるのはしんどい。オレも『別冊ヒストリア』で苦しんだ。大歴の総会で、計上してある別冊刊行費を、2年か3年か流した。鑑査で指摘され、つらかったが、まあ、出てよかった。
◆オレにも責任の一端はあるんでしょうね。青木では、古墳築造の話を分担したが、出すのは遅かった・・・。でも、これもだいぶ前だし、初校は済ませたが、その後はウントモスントモ。そういえば、泉大津の弥生学習舘の〈古墳時代はどう始まったか〉の連続講演およびシンポの本も、ウントモスントモ。
◆まあ、多くの人様の原稿を集めるのはしんどい。オレも『別冊ヒストリア』で苦しんだ。大歴の総会で、計上してある別冊刊行費を、2年か3年か流した。鑑査で指摘され、つらかったが、まあ、出てよかった。
権現山の鏡にはヒモが残っていた
◆こないだの森先生の抜き刷り、三角縁神獣鏡は弥生後期後半に伊都国では同笵の大型鏡を多数作る技
術はあり、「その技術を母体にして、ヤマトへ移ってきた、九州勢力が新たに作り出した」もの。どうやら銅鐸の技術系譜を引いていると考え、また「母体」との表現からすると、東遷の頃に呉からの渡来系工人も加わって、古墳時代成立時に新たにヤマトで呪具・葬具として生み出された、との理解らしい。
◆三角縁神獣鏡の鈕は「鋳ばなし」であるというのと、棺内に持ち込まれず大事な鏡じゃない、というのをやはり強調する。むろん中国から出ないことがベースにはあるが、中国鏡はちゃんと鈕孔を研磨しヒモを通す、大事にされてない、だから中国鏡ではありえないと。
◆この実物をよく観察しない、出土状況から学ばない、というのが京大批判の点。だが、例にあがっているものは、紫金山。倭製で、4世紀第2四半期でしょ、三角縁神獣鏡が大きな役割を果たすのは中国王朝健在時の3世紀後半だ。もうひとつ。和泉黄金塚。モノは中国鏡だが、前期末の古墳でしょ。
◆黒塚も上がっていた。やっぱり棺内は画文帯神獣鏡だ。三角縁神獣鏡はすべて棺外だと。それはそうですね。だけど、紫金山のように小口に重ねられていたわけでもなく、黄金塚のように粘土に塗り込めていたわけではない。整然とコの字形に棺を囲む。もちろん、権現山のみならず、3世紀後半の中国製三角縁神獣鏡の多くは棺内に持ち込まれている。
◆あとは鈕孔の「鋳ばなし」論。そうなんでしょうね。無頓着にきれいにしてしまったらあかんわな(中子の土がそのままのものがあるはずとの指摘はもっとも)。だが、オレは権現山の整理で岡大で図面を書いていたとき、何号鏡だったか、いちばんいい2号鏡だったか、鈕孔に繊維が残っていたのを覚えている。もっと意識をもつべきでしたね。布目先生に鑑定してもらうべきだろうし、そういう目でほかの鏡も点検すべきですね。だが、たぶん、報告の時に記述もしなかった。自分の担当の2面ではなかったのだが。それはあかんわな。ちゃんと報告しなきゃ。実物は小袋に入れたような気もするが定かではない。たぶん、わからなくなっているのでは?
◆ヒモありましたよ、と森先生への手紙に書いた。ちゃんと報告していない、機会があれば紹介するとも。あの2号鏡は古段階。「鋳ばなし」というのも多くの指摘があるからそうなんだろうけど、ちゃんと観察し、また時期別に見れば、きっと、古いモノはちゃんとしていて、新しくなれば「鋳ばなし」になるんでは。卒論のテーマにはなるかもしれん。なので、三角縁神獣鏡を、さいしょっから、だめなやつというのは問題である。データにもとづき実証的な反論はできないが、きっと、森先生の指摘2点はクリアできるはず。
◆三角縁神獣鏡の鈕は「鋳ばなし」であるというのと、棺内に持ち込まれず大事な鏡じゃない、というのをやはり強調する。むろん中国から出ないことがベースにはあるが、中国鏡はちゃんと鈕孔を研磨しヒモを通す、大事にされてない、だから中国鏡ではありえないと。
◆この実物をよく観察しない、出土状況から学ばない、というのが京大批判の点。だが、例にあがっているものは、紫金山。倭製で、4世紀第2四半期でしょ、三角縁神獣鏡が大きな役割を果たすのは中国王朝健在時の3世紀後半だ。もうひとつ。和泉黄金塚。モノは中国鏡だが、前期末の古墳でしょ。
◆黒塚も上がっていた。やっぱり棺内は画文帯神獣鏡だ。三角縁神獣鏡はすべて棺外だと。それはそうですね。だけど、紫金山のように小口に重ねられていたわけでもなく、黄金塚のように粘土に塗り込めていたわけではない。整然とコの字形に棺を囲む。もちろん、権現山のみならず、3世紀後半の中国製三角縁神獣鏡の多くは棺内に持ち込まれている。
◆あとは鈕孔の「鋳ばなし」論。そうなんでしょうね。無頓着にきれいにしてしまったらあかんわな(中子の土がそのままのものがあるはずとの指摘はもっとも)。だが、オレは権現山の整理で岡大で図面を書いていたとき、何号鏡だったか、いちばんいい2号鏡だったか、鈕孔に繊維が残っていたのを覚えている。もっと意識をもつべきでしたね。布目先生に鑑定してもらうべきだろうし、そういう目でほかの鏡も点検すべきですね。だが、たぶん、報告の時に記述もしなかった。自分の担当の2面ではなかったのだが。それはあかんわな。ちゃんと報告しなきゃ。実物は小袋に入れたような気もするが定かではない。たぶん、わからなくなっているのでは?
◆ヒモありましたよ、と森先生への手紙に書いた。ちゃんと報告していない、機会があれば紹介するとも。あの2号鏡は古段階。「鋳ばなし」というのも多くの指摘があるからそうなんだろうけど、ちゃんと観察し、また時期別に見れば、きっと、古いモノはちゃんとしていて、新しくなれば「鋳ばなし」になるんでは。卒論のテーマにはなるかもしれん。なので、三角縁神獣鏡を、さいしょっから、だめなやつというのは問題である。データにもとづき実証的な反論はできないが、きっと、森先生の指摘2点はクリアできるはず。
歯が痛くて
◆歯が痛いと・・・
◆内閣も替わり、台風がやってきて、9月になる。1週間ほど前、夜のキャンパスで虫が鳴いていた。秋です。![5e345f3d.jpg](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1314852548?w=150&h=135)
◆いろいろある、悩ましいことも。が、ここ数日は、仕事をやったという感じで、悪い気はしない。
◆何を書いているのでしょうね。あの、数日前に出した図のことですが(再掲しておく)、要するに倭の2王並立はどのように終わったか、ということを考えているわけ。いまのところのシナリオを書いておく。
◆(1)神聖王允恭+執政王反正→(2)反正没(誉田御廟山)→(3)神聖王允恭+執政王イチノベ→(4)允恭没(大仙)→(5)神聖王キナシ+執政王イチノベ→(6)キナシ没?(土師ニサンザイ)→(7)神聖王清寧+執政王イチノベ→(8)イチノベ暗殺(市野山)→(9)神聖王清寧+執政王雄略(キナシとイチノベの前後はどっちがいいんだろう。埴輪チェック、いずれ近似)→(10)雄略没(岡ミサンザイ)→(11)神聖王清寧+執政王仁賢→(12)清寧没(軽里、このへんが問題か。が、清寧墓がほかには見いだしがたい)→(13)神聖王不明(飯豊は?)+執政王仁賢→(14)仁賢没(ボケ山)、継体が統合された倭国王となる(ただし仁賢没にともなうのか、並立したのかは検討の余地あり。)。
◆まあ、こんなところ。古市の王陵の時期を勘案し、例えば軽里がニサンザイを継承する墳形だというのを考慮し2王並立の手がかりとし、むろん文献から考えられる倭国王を考えたら、以上のような筋書きに、現段階ではたどり着いたわけである。わりといい線か?、はたまた砂上の楼閣か。
◆内閣も替わり、台風がやってきて、9月になる。1週間ほど前、夜のキャンパスで虫が鳴いていた。秋です。
◆いろいろある、悩ましいことも。が、ここ数日は、仕事をやったという感じで、悪い気はしない。
◆何を書いているのでしょうね。あの、数日前に出した図のことですが(再掲しておく)、要するに倭の2王並立はどのように終わったか、ということを考えているわけ。いまのところのシナリオを書いておく。
◆(1)神聖王允恭+執政王反正→(2)反正没(誉田御廟山)→(3)神聖王允恭+執政王イチノベ→(4)允恭没(大仙)→(5)神聖王キナシ+執政王イチノベ→(6)キナシ没?(土師ニサンザイ)→(7)神聖王清寧+執政王イチノベ→(8)イチノベ暗殺(市野山)→(9)神聖王清寧+執政王雄略(キナシとイチノベの前後はどっちがいいんだろう。埴輪チェック、いずれ近似)→(10)雄略没(岡ミサンザイ)→(11)神聖王清寧+執政王仁賢→(12)清寧没(軽里、このへんが問題か。が、清寧墓がほかには見いだしがたい)→(13)神聖王不明(飯豊は?)+執政王仁賢→(14)仁賢没(ボケ山)、継体が統合された倭国王となる(ただし仁賢没にともなうのか、並立したのかは検討の余地あり。)。
◆まあ、こんなところ。古市の王陵の時期を勘案し、例えば軽里がニサンザイを継承する墳形だというのを考慮し2王並立の手がかりとし、むろん文献から考えられる倭国王を考えたら、以上のような筋書きに、現段階ではたどり着いたわけである。わりといい線か?、はたまた砂上の楼閣か。
なにかと
◆ヒストリアの原稿もかなり書いたがストップ。宣化陵は現・宣化陵なんでしょうね。やっぱり宣化がわからん。水
谷さんの言うように、親蘇我であったとして、即位したんだとすると、それなりの前方後円墳を築造するわな。鳥屋ミサンザイは140m、のちの平田梅山とほぼ同規模で、それでええんかもしれないが、五条野丸山がある。140mでええんか、と。だが、ムサツキノウエノ陵はやっぱり鳥屋ミサンザイなんやろうし。須恵器は古いとも、埴輪は新しいとも・・・。とほほ。
◆ついでに岡ミサンザイ以後にも手をのばし、それなりにやってみると気がつくこともあるが、なかなか古市末期の前方後円墳、ボケ山・峯塚・高屋築山・白髪山を配列するのは難しい。でもまあ、こんな順番らしい。で、清寧陵ってドレ?。白髪山は新しいんでしょ(白髪山なんて、清寧陵とされて以降の名前なんちゃうの?)。軽里大塚かな、とも思うが、埴輪からするとあわんみたいやし。まあ、文献のことはわからん、で、考
古学的にならべようとするが、なかなかシンドイ。2王並立みたいなものに合わせて考えようとしてしまう自分がいる。新納さんの言うことも、もっともや。やっぱり横目で文献とか、自分の2王並立論から、動かそうとしてしまう。それがあかんわけではないが、考古資料でいけるという根拠を積まないと・・・。
◆ついでに岡ミサンザイ以後にも手をのばし、それなりにやってみると気がつくこともあるが、なかなか古市末期の前方後円墳、ボケ山・峯塚・高屋築山・白髪山を配列するのは難しい。でもまあ、こんな順番らしい。で、清寧陵ってドレ?。白髪山は新しいんでしょ(白髪山なんて、清寧陵とされて以降の名前なんちゃうの?)。軽里大塚かな、とも思うが、埴輪からするとあわんみたいやし。まあ、文献のことはわからん、で、考
あさきゆめみし
◆このところ、『あさきゆめみし』を読んでいた。なにをやっているんでしょうか。「源氏物語って、あんな話なんや」
と言うと、カミさんが「よくそんなんで文学部に行ったな」と。「いずれのおおんときにか、にょうごこういあまたさぶらひたまいけるなかに、いとやんごとなききわにはあらぬが、」とそらんじると、「完全に受験だけやな」ともバカにされる。ま、そんなもんです。大学に入って、友人の高善雄くんが「紫の上作戦が理想や」と主張していたのを思い出す。
◆まあ訳本を読むわけがない。なんでか、谷崎訳の源氏物語をそろえてはいたが、読みはしない。マンガがちょうどよい。
◆それにしても、源氏物語ってよくできた話ですね。ストーリーとか・・・。女性が書いたところにも意義があるだろう。最後のところ、紫の上が死んだところの描写で、ズキンとくる表現が。いま原本がないが、「なんでオレはしあわせになれたのに、しあわせをつぶすようなことしかしてこなかったんだろう」というところ。オレは人をしあわせにできているんだろうかと自省する。
◆別に、里中真智子の『ギリシア神話』も読む。あは、何をやってるんでしょうね。これも勉強になる。これも「そうやったんや」と言うと、カミさんは「常識や」と。いや、これはよくできてるマンガですよ。
◆まあ訳本を読むわけがない。なんでか、谷崎訳の源氏物語をそろえてはいたが、読みはしない。マンガがちょうどよい。
◆それにしても、源氏物語ってよくできた話ですね。ストーリーとか・・・。女性が書いたところにも意義があるだろう。最後のところ、紫の上が死んだところの描写で、ズキンとくる表現が。いま原本がないが、「なんでオレはしあわせになれたのに、しあわせをつぶすようなことしかしてこなかったんだろう」というところ。オレは人をしあわせにできているんだろうかと自省する。
◆別に、里中真智子の『ギリシア神話』も読む。あは、何をやってるんでしょうね。これも勉強になる。これも「そうやったんや」と言うと、カミさんは「常識や」と。いや、これはよくできてるマンガですよ。
岩崎山4号の斜縁二神四獣鏡
◆1992年10月22日、科研で香川に行き、岩崎山4号墳の鏡の拓本と断面図を作った。津田町の資料館の鍵を
開けてもらい、しばらく籠もった記憶がある。そのあと、富田に行ったような・・・。
◆この科研で年度末にニコンのカメラを買ったが、このときは、高校以来使っていたペンタがしばらく前に壊れて以来、バカチョンしかなく、ろくな三脚もなかった(新婚旅行をするときに、このバカチョンを買ったのだったか・・・)。前にカメラのことをブログに書いた時、大学院の頃にニコンを買ったように書いた記憶があるが間違いであることを思い出す。この鏡の写真のネガもデジタル化したはずだが、どうなったかもはや定かでない。
◆この鏡、津堂に2面の同笵鏡がある。この岩崎山の拓本や断面図を使うこともなかったが、もしかすると津堂がらみで使うことになるかもしれない。この2面が、関大に破片がそれぞれあって、くっついたというもの。
◆この科研で年度末にニコンのカメラを買ったが、このときは、高校以来使っていたペンタがしばらく前に壊れて以来、バカチョンしかなく、ろくな三脚もなかった(新婚旅行をするときに、このバカチョンを買ったのだったか・・・)。前にカメラのことをブログに書いた時、大学院の頃にニコンを買ったように書いた記憶があるが間違いであることを思い出す。この鏡の写真のネガもデジタル化したはずだが、どうなったかもはや定かでない。
◆この鏡、津堂に2面の同笵鏡がある。この岩崎山の拓本や断面図を使うこともなかったが、もしかすると津堂がらみで使うことになるかもしれない。この2面が、関大に破片がそれぞれあって、くっついたというもの。
森浩一先生
◆大阪府の鏡の件で、森浩一先生に撮影のお願いの手紙を書き、本日、承諾書ならびにお手紙、それと抜き刷
りをいただく。森先生をはじめて見たのは五條野丸山の見学会。名刺を取り交わしたのは2008年の和泉市の黄金塚シンポである(写真)。![IMG_0155.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1316412869?w=150&h=112)
◆手紙のなかで百舌鳥大塚山の鏡の保管場所が分離している経緯など、森先生の調査関係のことをお知らせいただいた。ありがたいことである。さっそく、お礼状と、こちらの書いたものを送る。
◆抜き刷りは、邪馬台国の会での講演録である。三角縁神獣鏡の理解はまったく異なるが、目についたのは、森先生が同志社に赴任したが、大学院の授業はまだもてない時期に、水野清一先生がずっと非常勤講師で通っていたことである。そして「考古学は遺跡にもとづく歴史学」との定義を水野先生から学んだことを知る。つながっていたんですね。水野先生の書いたものとして『世界考古学大系』第16巻の「考古学の問題」(1962年)があることを知る。
◆まあ、この抜き刷りでも、京大はいろいろ悪口を書かれていますね。そんなことは、もはやどうでもいいのだが。気になって、放送大学の新しいテキスト(2009)を見る。これほぼ京大の教員で固めてある。そこでは濱田の定義は遺構も含むものだったが、「人間の残したあらゆる行動の痕跡」により「人類の過去を研究する学問」と再定義している。そして、遺物・遺構・遺跡に大別されると。
◆まず、やっぱり濱田が出発点なのである。その言い直しというのはどうなんでしょうね。「人間の残したあらゆる行動の痕跡」って、ふつう遺跡と言い、「人類の過去を研究する学問」とはふつう歴史学と言うと思うのだが・・・。オレはそれよりも、水野先生のずばっと、実態をとらまえて「われわれが相手にするのは遺跡なんだ」と自ら定義する姿勢に共感する。
◆手紙のなかで百舌鳥大塚山の鏡の保管場所が分離している経緯など、森先生の調査関係のことをお知らせいただいた。ありがたいことである。さっそく、お礼状と、こちらの書いたものを送る。
◆抜き刷りは、邪馬台国の会での講演録である。三角縁神獣鏡の理解はまったく異なるが、目についたのは、森先生が同志社に赴任したが、大学院の授業はまだもてない時期に、水野清一先生がずっと非常勤講師で通っていたことである。そして「考古学は遺跡にもとづく歴史学」との定義を水野先生から学んだことを知る。つながっていたんですね。水野先生の書いたものとして『世界考古学大系』第16巻の「考古学の問題」(1962年)があることを知る。
◆まあ、この抜き刷りでも、京大はいろいろ悪口を書かれていますね。そんなことは、もはやどうでもいいのだが。気になって、放送大学の新しいテキスト(2009)を見る。これほぼ京大の教員で固めてある。そこでは濱田の定義は遺構も含むものだったが、「人間の残したあらゆる行動の痕跡」により「人類の過去を研究する学問」と再定義している。そして、遺物・遺構・遺跡に大別されると。
◆まず、やっぱり濱田が出発点なのである。その言い直しというのはどうなんでしょうね。「人間の残したあらゆる行動の痕跡」って、ふつう遺跡と言い、「人類の過去を研究する学問」とはふつう歴史学と言うと思うのだが・・・。オレはそれよりも、水野先生のずばっと、実態をとらまえて「われわれが相手にするのは遺跡なんだ」と自ら定義する姿勢に共感する。
柴籬神社
◆ここへ行ったのは、大塚山から出た手水鉢を見るため。4月の見学会でも行ったが、そ
のとき、ちゃんと写真を撮っていなかった。きのうふと、「ごぼ石」の写真を見ていて、この手水鉢、もしかして「ごぼ石」とくっつくのではないかと思った。『書陵部紀要』の写真を見ていて、矢穴で割られた面が船の形をしていて、これってシバガキ神社の手水鉢ちゃうか、と思った次第。
◆ま、それはともかく、柴籬神社。神社の中を掘るのは難しいんでしょうね。だけど、柴籬宮跡なんて伝承について、どっちかというと根も葉もないこととは思わない。それこそ古墳時代の王宮は、反正が死んだあとも継承されていくものだろう。どっかで途絶えるにしても、どっかまではなにがしかの特別な土地利用が続き、そこに神社が営まれることは十分にありうることだろう。境内地を掘れば、掘立柱建物が出てくるので
は?。なんちゃって。![IMG_0922.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1314841149?w=150&h=112)
◆話は変わるが、河内国府はなにもわかっていない。瓦葺きなのに。かねてからの経験で、総社を掘れば出る。三河も武蔵も播磨も、あとは忘れた。河内の総社、ちっぽけに成り下がっていたようにも思うが、きっと、そのあたりが国衙だ。
◆ま、それはともかく、柴籬神社。神社の中を掘るのは難しいんでしょうね。だけど、柴籬宮跡なんて伝承について、どっちかというと根も葉もないこととは思わない。それこそ古墳時代の王宮は、反正が死んだあとも継承されていくものだろう。どっかで途絶えるにしても、どっかまではなにがしかの特別な土地利用が続き、そこに神社が営まれることは十分にありうることだろう。境内地を掘れば、掘立柱建物が出てくるので
◆話は変わるが、河内国府はなにもわかっていない。瓦葺きなのに。かねてからの経験で、総社を掘れば出る。三河も武蔵も播磨も、あとは忘れた。河内の総社、ちっぽけに成り下がっていたようにも思うが、きっと、そのあたりが国衙だ。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。