人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
東欧革命(1)
◆1989年、昭和から平成へ変わった年でもあるが、東欧での民主化運動が激烈に進行し、ベルリンの壁が崩壊する。冷戦の終焉。天安門事件もあった。この年、修士課程の大学院生だったが、ほとんど経緯も展開も要因もわかっていない。経過にしても、下宿にようやくテレビが入っていたような気はするが、そういう転換期に立ち会っていながら、なにが起こっているのか正しく理解していなかったように思う。で、なぜだか確認しようと思った次第。
◆その前、1987年に新聞記者の試験を準備していたとき、話題はペレストロイカだった。1985年のゴルバチョフの登場。若々しく、ソ連を改革し、西側とも協調するような、期待を抱かせる人物だった。まあ、ソ連のことも、そのあとの経過はわけわからん。どうなって、こうなって、ああなった?。まあよい。1989の話に戻ろう。ウィキで整理する。
◆東欧革命の予兆は1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任したことにあるらしい。 ポーランドでは1980年に自主管理労働組合「連帯」が結成され、民主化運動が急進化する。ヤルゼルスキ書記長は戒厳令を敷く。「連帯」側もワレサ議長のもと、落ち着いていく。情勢が安定すると、政府と反体制運動との間での非公式協議がもたれるようになり、段階的に改革が進行していく。ポーランドの民主化は体制側と反体制側の対話によって実現される(そう、80年代には、新聞にワレサ議長というのが出現し、しょっちゅう記事になっていた。が中身はわかってなかったな~)。
◆で、「ペレストロイカ」。1988年3月にユーゴを訪問したゴルバチョフは新ベオグラード宣言を発表。ブレジネフドクトリンを撤廃する。ブレジネフドクトリンとは、チェコスロバキアのプラハの春を押さえ込んだ軍事介入を正当化するために、1968年に、社会主義国家全体の利益のために国の主権が制限されることがあってよいというというもの。それをやめるんだと。すなわち国の主権を尊重するということ。これが東欧民主化を促進する。ポーランドとハンガリーは、この情勢変化を巧みに読み取り、この機会を利用して積極的に国内改革に取り組む。
◆まずポーランドでは、1989年2月からヤルゼルスキー政権と「連帯」をはじめとする民主化勢力との間で話し合いが行われ(円卓会議)、自由選挙の実施が合意される。6月、東欧で先頭を切って自由選挙が実施され、ワレサ率いる「連帯」が圧勝。連立政権を作り新生ポーランドがスタートする。そして憲法を改正し、1990年の国民による大統領直接選挙でワレサが大統領となり、政権の完全委譲が果たされる。
◆ハンガリーでは1980年代に入り、民主化への欲求、ヨーロッパへの回帰を求める動きが無視できないものとなり、ハンガリー社会主義労働者党の改革派による取り組みがいち進められたという。ここでは体制側自らがソ連からの離脱をめざして実現させる。1989年2月に複数政党制を導入、そして5月にハンガリーとオーストリア間の国境を開放する。これにより8月19日の汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こす。10月23日に新憲法が施行される。
◆汎ヨーロッパピクニックとは何か。ハンガリーが、オーストリアとの国境を開放し鉄条網の撤去に着手。これで西ドイツに行けると考えた東ドイツ人がハンガリーに入りオーストリア国境地帯にあふれる。が、通行を許可されるのはハンガリーのパスポートをもった者だけで、立ち往生。これに対し、ハンガリーの民主化勢力は彼らを越境させてしまおうと考え、オーストリア側での支援もえられた。こうして1989年8月19日に、ハンガリー・オーストリア国境地帯のなかでも脱出しやすいショプロンで、「ヨーロッパの将来を考える集会」が開催され、この集会に参加すれば国境を越えられるという情報が伝わり、一帯に押し寄せていた東ドイツ人約1000 人が詰めかける。そして集会の挨拶が終わるか終わらないかのうちに、参加者は雪崩を打って国境を越え、オーストリア経由で西ドイツに亡命する。
◆その前、1987年に新聞記者の試験を準備していたとき、話題はペレストロイカだった。1985年のゴルバチョフの登場。若々しく、ソ連を改革し、西側とも協調するような、期待を抱かせる人物だった。まあ、ソ連のことも、そのあとの経過はわけわからん。どうなって、こうなって、ああなった?。まあよい。1989の話に戻ろう。ウィキで整理する。
◆東欧革命の予兆は1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任したことにあるらしい。 ポーランドでは1980年に自主管理労働組合「連帯」が結成され、民主化運動が急進化する。ヤルゼルスキ書記長は戒厳令を敷く。「連帯」側もワレサ議長のもと、落ち着いていく。情勢が安定すると、政府と反体制運動との間での非公式協議がもたれるようになり、段階的に改革が進行していく。ポーランドの民主化は体制側と反体制側の対話によって実現される(そう、80年代には、新聞にワレサ議長というのが出現し、しょっちゅう記事になっていた。が中身はわかってなかったな~)。
◆で、「ペレストロイカ」。1988年3月にユーゴを訪問したゴルバチョフは新ベオグラード宣言を発表。ブレジネフドクトリンを撤廃する。ブレジネフドクトリンとは、チェコスロバキアのプラハの春を押さえ込んだ軍事介入を正当化するために、1968年に、社会主義国家全体の利益のために国の主権が制限されることがあってよいというというもの。それをやめるんだと。すなわち国の主権を尊重するということ。これが東欧民主化を促進する。ポーランドとハンガリーは、この情勢変化を巧みに読み取り、この機会を利用して積極的に国内改革に取り組む。
◆まずポーランドでは、1989年2月からヤルゼルスキー政権と「連帯」をはじめとする民主化勢力との間で話し合いが行われ(円卓会議)、自由選挙の実施が合意される。6月、東欧で先頭を切って自由選挙が実施され、ワレサ率いる「連帯」が圧勝。連立政権を作り新生ポーランドがスタートする。そして憲法を改正し、1990年の国民による大統領直接選挙でワレサが大統領となり、政権の完全委譲が果たされる。
◆ハンガリーでは1980年代に入り、民主化への欲求、ヨーロッパへの回帰を求める動きが無視できないものとなり、ハンガリー社会主義労働者党の改革派による取り組みがいち進められたという。ここでは体制側自らがソ連からの離脱をめざして実現させる。1989年2月に複数政党制を導入、そして5月にハンガリーとオーストリア間の国境を開放する。これにより8月19日の汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こす。10月23日に新憲法が施行される。
◆汎ヨーロッパピクニックとは何か。ハンガリーが、オーストリアとの国境を開放し鉄条網の撤去に着手。これで西ドイツに行けると考えた東ドイツ人がハンガリーに入りオーストリア国境地帯にあふれる。が、通行を許可されるのはハンガリーのパスポートをもった者だけで、立ち往生。これに対し、ハンガリーの民主化勢力は彼らを越境させてしまおうと考え、オーストリア側での支援もえられた。こうして1989年8月19日に、ハンガリー・オーストリア国境地帯のなかでも脱出しやすいショプロンで、「ヨーロッパの将来を考える集会」が開催され、この集会に参加すれば国境を越えられるという情報が伝わり、一帯に押し寄せていた東ドイツ人約1000 人が詰めかける。そして集会の挨拶が終わるか終わらないかのうちに、参加者は雪崩を打って国境を越え、オーストリア経由で西ドイツに亡命する。
黒姫山古墳
◆百舌鳥御廟山古墳のカラミで、同日、黒姫山古墳に寄る。甲冑と河内鋳物師の展示館は行ったのに、その時は時
間がなく、古墳本体は見たことがなかった。一部復元をやっているというのは聞い
ていたし、宮内庁の陵墓の護岸工事のカラミで、史跡の場合を見ておきたいと思っていた。
◆周濠の安全管理の問題からか、常緑樹の植栽がめぐり、堀ばたに立ち入れないようになっている部分もある。そうでないところも、ところどころゲージがあって、基本的には入れないようにしているんだろうが、オープンのところもあって、釣りをしているおじさんたちがならぶ。前方部前面の復元整備したところは草ぼうぼうだった(下)。
◆基本的にあんまり手をかけないというのも理解できるし、ひとつの選択なんだが、やっぱり植栽封鎖というの
は何とかならんのか、と思う。それとどこからどう入るのかのサインがない。
◆本題に戻って、なので護岸工事はしていない。水位の変化がどのくらいあるのかわからんが、基本的にもとのまま。それはそれでいいのだが、周濠が完周し内部には立ち入れないわけだが、もうすこし内部は樹木を間引いて、外からでも墳丘を視認できるようにしてほしい。
◆周濠の安全管理の問題からか、常緑樹の植栽がめぐり、堀ばたに立ち入れないようになっている部分もある。そうでないところも、ところどころゲージがあって、基本的には入れないようにしているんだろうが、オープンのところもあって、釣りをしているおじさんたちがならぶ。前方部前面の復元整備したところは草ぼうぼうだった(下)。
◆基本的にあんまり手をかけないというのも理解できるし、ひとつの選択なんだが、やっぱり植栽封鎖というの
◆本題に戻って、なので護岸工事はしていない。水位の変化がどのくらいあるのかわからんが、基本的にもとのまま。それはそれでいいのだが、周濠が完周し内部には立ち入れないわけだが、もうすこし内部は樹木を間引いて、外からでも墳丘を視認できるようにしてほしい。
百舌鳥御廟山の護岸工事
◆こないだの陵墓懇談会の時に、施工済みの百舌鳥御廟山古墳の護岸工事の話になった。これは見ておかなけ
ればと思っていた。ヒストリア8月号の記事に、その写真の枠を取っているので、撮
影に行って画像を入稿しないといけないという理由もあった。
◆フトン篭は夏場で草が生えて、後円部はあまり目立たないし、その上の植生土嚢は、既に土嚢は破れていたが、垂直でなく墳丘状の斜面ができあがる格好となっており、宮内庁の担当官が言っていたように、確かに景観上はわりと自然な感じに仕上がっている。汀はフトン篭で防御しているが、その上の土壌は次第に流出するだろうから、また先々の問題はあるだろうが、工法も試行錯誤。石垣やコンクリートで固める工法から、フトン篭、洲浜工法など工夫をし、状況で使い分けるようになっている。
◆フトン篭は夏場で草が生えて、後円部はあまり目立たないし、その上の植生土嚢は、既に土嚢は破れていたが、垂直でなく墳丘状の斜面ができあがる格好となっており、宮内庁の担当官が言っていたように、確かに景観上はわりと自然な感じに仕上がっている。汀はフトン篭で防御しているが、その上の土壌は次第に流出するだろうから、また先々の問題はあるだろうが、工法も試行錯誤。石垣やコンクリートで固める工法から、フトン篭、洲浜工法など工夫をし、状況で使い分けるようになっている。
根来の話
◆今日、8月4日、和歌山県庁を訪ねる。仁木さん、海津さんと3人で、県文化遺産課の方々と話し合いをもつ。遺構の評価、一乗閣移転の問題、根来の史跡指定の、大きくは3つ。いまあんまり詳しく書く気力はない。教育記者クラブで会見、帰ってきた。明日はオープンキャンパスの準備か・・・
◆根来は和歌山県の誇るべき歴史遺産なんですけどね。海津さんが、行った学生が「なんにもありませんでした」と言ったという話を紹介していた。周辺の開発が進み、また広域農道が横切っているとはいえ、まだ中心部分はよく残っている。それをいかに保全していくか、そして有効な場所を選んで史跡整備してやれば、中世根来を体感できる場になるはずだ。こんなにもイイ素材があるのだが、その玄関先に、なんで一乗閣をおっ建てなければならんのか、誰もが理解できないと思う。
◆都道府県が、例えば滋賀県が安土城をやる、奈良県が飛鳥京をやる、というように、府県内の重要遺跡の調査を自らやることはいいことだと思っている。基本は市町村ではあるが、しかし市町村ではしょいきれないものもある。府県が自ら調査し整備し範を示すものをもっていていい。ず~とやっていくものもあっていいし、10年スパンでやって市町村に引き継いでいくのでもよい。和歌山県にとって根来はそういう遺跡だと思う。岩橋千塚はもう和歌山市に任せればええんとちゃうの。和歌山県は史跡根来寺の調査研究に切り替えて、保存整備に取り組む、一定程度の下地づくりまでやる。後進県和歌山ではそういうことに県が動いて市町村を育てていくというのが重要なんではないか。
【追記】遺構の解釈で見解が分かれている。階段や直角に折れる通路は北にある坊院に取り付くものであろうが、それだけで、あんな削り出しをやるんだろうか。坊院にともなう通路ではあれ、南側へ続く尾根斜面とともに、やはりイザという場合には、防御機能も果たすようなものになっているんではないか。要望書に「城郭的機能を果たす」と書いたのはそういう意味である。当然、西側を守るような配慮はしているだろうと考えられるし、それにもって来いの尾根があり、そこで実際に急傾斜の削り出しが検出された。南に続きそうである。こうした地形や周囲の状況をふまえるべきで、まして尾根頂部の機能はわからないままで、解釈すべきではないだろう。和歌山県もそれを否定しないとしているが、ただちに保存に切り替えるほどのものとは考えていない。遺構の解釈については、学術的にできるだけ詰める必要があるが、そういうことも考えておく必要があるんではないか。そして、敢えてそこに一乗閣を移す必然性はないだろう。さらにいえば、オレは遺構はよく残っていると思っているが(石垣じゃない、ああした削りだした法面のこと)、たとえ遺構の残りが悪かったとしても、根来の寺域の山林や南面の前山を史跡に取り込んでいるように、あの西面部もまた根来の構成要素として保存すべきなのである(なにが違うんか)。和歌山県は何とかあの場所で、遺構の保存に配慮したという形でそのまま事業を進めたいのであろうが、なんであそこに建てなアカンのかという問いには答えられなかった。場所を選べば、なにもこんな問題は起こらないのである。
【追記2】あんまりシャベリがうまくないので、思うところを意をつくして語れないし、ついつい上ずってしまう。そんな肝の据わった人間でもない。でも、やっぱり根来を大事にしてほしい。白山平泉寺も遺跡を町おこしに使おうと努力しているし、宗教都市でなく城下町だが一乗谷なんかの例もある(そういえば、あれも福井県がやってますよね。)。根来も、文化財保護部局としては、ああいった史跡整備をして、和歌山県民はじめ全国から訪れてもらえるような場所にしたいと思うのが普通だろう。そう簡単ではないだろうが(現・根来寺という宗教法人がある、集落がある、田んぼがある、人々の生活がある、すべて廃墟になってソックリ残っているというのでない)、それだけの価値のある遺跡だ。それは和歌山県の担当者とも夢を共有できることだろう。そう考えなきゃウソだ。あそこが「たいしたことない」というので、記録保存か部分保存かといった値踏みをすることそのものが馬鹿らしい。
【追記3】日本考古学協会の要望書も提出されたようである。8月20日発行の『ヒストリア』で、海津さんに今回のことを取り上げてもらい、要望書も掲載する予定(今日のヤリトリは10月号かな)。そして『考古学研究』9月号に、この問題についてオレに書けと言ってきたので、書き始めている。県の専門職員のみなさんも同業者で仲間であり同志だと思っている。叩けばいいと思っているわけではない。苦労されていることは理解できる。こちらも謙虚でありたいと思う。けっして戦闘的な人間ではない。だが、誰かに動かされているわけでもない、自分がそう思うからやっているのです。遅すぎることはない。いまからだって方向転換できると思う。そういう方向に行って欲しい、そう願って、やれることをやっている。
◆根来は和歌山県の誇るべき歴史遺産なんですけどね。海津さんが、行った学生が「なんにもありませんでした」と言ったという話を紹介していた。周辺の開発が進み、また広域農道が横切っているとはいえ、まだ中心部分はよく残っている。それをいかに保全していくか、そして有効な場所を選んで史跡整備してやれば、中世根来を体感できる場になるはずだ。こんなにもイイ素材があるのだが、その玄関先に、なんで一乗閣をおっ建てなければならんのか、誰もが理解できないと思う。
◆都道府県が、例えば滋賀県が安土城をやる、奈良県が飛鳥京をやる、というように、府県内の重要遺跡の調査を自らやることはいいことだと思っている。基本は市町村ではあるが、しかし市町村ではしょいきれないものもある。府県が自ら調査し整備し範を示すものをもっていていい。ず~とやっていくものもあっていいし、10年スパンでやって市町村に引き継いでいくのでもよい。和歌山県にとって根来はそういう遺跡だと思う。岩橋千塚はもう和歌山市に任せればええんとちゃうの。和歌山県は史跡根来寺の調査研究に切り替えて、保存整備に取り組む、一定程度の下地づくりまでやる。後進県和歌山ではそういうことに県が動いて市町村を育てていくというのが重要なんではないか。
【追記】遺構の解釈で見解が分かれている。階段や直角に折れる通路は北にある坊院に取り付くものであろうが、それだけで、あんな削り出しをやるんだろうか。坊院にともなう通路ではあれ、南側へ続く尾根斜面とともに、やはりイザという場合には、防御機能も果たすようなものになっているんではないか。要望書に「城郭的機能を果たす」と書いたのはそういう意味である。当然、西側を守るような配慮はしているだろうと考えられるし、それにもって来いの尾根があり、そこで実際に急傾斜の削り出しが検出された。南に続きそうである。こうした地形や周囲の状況をふまえるべきで、まして尾根頂部の機能はわからないままで、解釈すべきではないだろう。和歌山県もそれを否定しないとしているが、ただちに保存に切り替えるほどのものとは考えていない。遺構の解釈については、学術的にできるだけ詰める必要があるが、そういうことも考えておく必要があるんではないか。そして、敢えてそこに一乗閣を移す必然性はないだろう。さらにいえば、オレは遺構はよく残っていると思っているが(石垣じゃない、ああした削りだした法面のこと)、たとえ遺構の残りが悪かったとしても、根来の寺域の山林や南面の前山を史跡に取り込んでいるように、あの西面部もまた根来の構成要素として保存すべきなのである(なにが違うんか)。和歌山県は何とかあの場所で、遺構の保存に配慮したという形でそのまま事業を進めたいのであろうが、なんであそこに建てなアカンのかという問いには答えられなかった。場所を選べば、なにもこんな問題は起こらないのである。
【追記2】あんまりシャベリがうまくないので、思うところを意をつくして語れないし、ついつい上ずってしまう。そんな肝の据わった人間でもない。でも、やっぱり根来を大事にしてほしい。白山平泉寺も遺跡を町おこしに使おうと努力しているし、宗教都市でなく城下町だが一乗谷なんかの例もある(そういえば、あれも福井県がやってますよね。)。根来も、文化財保護部局としては、ああいった史跡整備をして、和歌山県民はじめ全国から訪れてもらえるような場所にしたいと思うのが普通だろう。そう簡単ではないだろうが(現・根来寺という宗教法人がある、集落がある、田んぼがある、人々の生活がある、すべて廃墟になってソックリ残っているというのでない)、それだけの価値のある遺跡だ。それは和歌山県の担当者とも夢を共有できることだろう。そう考えなきゃウソだ。あそこが「たいしたことない」というので、記録保存か部分保存かといった値踏みをすることそのものが馬鹿らしい。
【追記3】日本考古学協会の要望書も提出されたようである。8月20日発行の『ヒストリア』で、海津さんに今回のことを取り上げてもらい、要望書も掲載する予定(今日のヤリトリは10月号かな)。そして『考古学研究』9月号に、この問題についてオレに書けと言ってきたので、書き始めている。県の専門職員のみなさんも同業者で仲間であり同志だと思っている。叩けばいいと思っているわけではない。苦労されていることは理解できる。こちらも謙虚でありたいと思う。けっして戦闘的な人間ではない。だが、誰かに動かされているわけでもない、自分がそう思うからやっているのです。遅すぎることはない。いまからだって方向転換できると思う。そういう方向に行って欲しい、そう願って、やれることをやっている。
町田章奈文研前所長の逝去
◆1991年に奈文研に入った時、町田さんが平城部長でした。所長は鈴木嘉吉、センター長田中琢、研究指
導部長佐原真、藤原部長は牛川さん。古き良き時代の奈文研の最後だったといえるかもしれません。まだ大運動会はあったし、大忘年会もあった。作業員さんには、毎月、現金で給料を支給しており、給料日は発掘は早めに終了し、給料の分配が行われていました。
◆入所した11月に結婚しました。20年前のことです。町田さんに仲人をお願いしました。橿原市白橿町のご自宅にカミさんと訪ね、奥様にもお会いし、われわれと顔合わせをしました。町田さんが平城部長時代に、媒酌人になっていただき結婚したのは、玉田さん、われわれ、そして建築の箱崎君、この3組でした。
◆去年の藤沢さんの会の時、玉田さんと3組で一度おたずねしようという話になり、そのとき、わたしはベロベロでした
が、玉田さんが「4月や」と言ってきたのは覚えています。
◆そのあと、3月に入院する前に手紙をいただきました。埼玉県の方から、埼玉の集落遺跡で鏡が出土し、その解釈について町田さんに類例などを問い合わせたもので、わたしは鏡について下垣君に類品を質問し、返事をしました。そのあと、町田さんからお礼の手紙を受け取りました。肺ガンの手術をしていまは在宅していると。
◆そのあと、いまに至るまで、町田さんをお訪ねすることなく「部長」は逝ってしまわれた。ついこの間、実は「行っておかないと」と思う出来事があったのですが、訃報に接することになってしまい、ほんとうに後悔します。
◆長らく平城部長で、長屋王邸の発掘を含めて、むろんその前の自ら発掘していた時期を含めて、研究所時代の多くを平城宮・京の調査に邁進された方でした。所長となった時期は、独立行政法人への移行など、たいへんな変革期に舵取りをなされ、その苦労はたいへんなものであったに違いありません。中国考古学の第一人者として学究肌であり、かつ平城の調査の指揮を取り、また組織の長として、仕事に打ち込まれた人生だったと思います。享年72歳、若すぎます(20年前は52歳だったのですね)。調査部考古第2の部屋が多かったと思いますが、夕方にやってきては、毛利光さんや巽さんが酒を出してきて、一緒に呑んだことも少なくありませんでした。人間くさい、そんな町田部長が好きでした。
◆叙勲の時、そのお祝いの会でお会いしたのが最後となってしましました。
◆入所した11月に結婚しました。20年前のことです。町田さんに仲人をお願いしました。橿原市白橿町のご自宅にカミさんと訪ね、奥様にもお会いし、われわれと顔合わせをしました。町田さんが平城部長時代に、媒酌人になっていただき結婚したのは、玉田さん、われわれ、そして建築の箱崎君、この3組でした。
◆去年の藤沢さんの会の時、玉田さんと3組で一度おたずねしようという話になり、そのとき、わたしはベロベロでした
◆そのあと、3月に入院する前に手紙をいただきました。埼玉県の方から、埼玉の集落遺跡で鏡が出土し、その解釈について町田さんに類例などを問い合わせたもので、わたしは鏡について下垣君に類品を質問し、返事をしました。そのあと、町田さんからお礼の手紙を受け取りました。肺ガンの手術をしていまは在宅していると。
◆そのあと、いまに至るまで、町田さんをお訪ねすることなく「部長」は逝ってしまわれた。ついこの間、実は「行っておかないと」と思う出来事があったのですが、訃報に接することになってしまい、ほんとうに後悔します。
◆長らく平城部長で、長屋王邸の発掘を含めて、むろんその前の自ら発掘していた時期を含めて、研究所時代の多くを平城宮・京の調査に邁進された方でした。所長となった時期は、独立行政法人への移行など、たいへんな変革期に舵取りをなされ、その苦労はたいへんなものであったに違いありません。中国考古学の第一人者として学究肌であり、かつ平城の調査の指揮を取り、また組織の長として、仕事に打ち込まれた人生だったと思います。享年72歳、若すぎます(20年前は52歳だったのですね)。調査部考古第2の部屋が多かったと思いますが、夕方にやってきては、毛利光さんや巽さんが酒を出してきて、一緒に呑んだことも少なくありませんでした。人間くさい、そんな町田部長が好きでした。
◆叙勲の時、そのお祝いの会でお会いしたのが最後となってしましました。
あ~あ、よう働いた
◆ヒストリア8月号の原稿の作成と、わたしたちの文化財、企画メンバーの報告原稿の調整をすべてやった。
◆自分の原稿、陵墓懇談会、歴史教科書採択反対声明の記事。海津さんの根来の記事に、図や写真を配列して編集、保存要望書の記事の付加。それから、企画メンバーの大阪府の君が代条例の反対声明記事、公文書館問題の記事ふたつ。重点研究の会議をすっぽかしてしまった。仁木先生、すいません。
◆自分の原稿、陵墓懇談会、歴史教科書採択反対声明の記事。海津さんの根来の記事に、図や写真を配列して編集、保存要望書の記事の付加。それから、企画メンバーの大阪府の君が代条例の反対声明記事、公文書館問題の記事ふたつ。重点研究の会議をすっぽかしてしまった。仁木先生、すいません。
大阪府の君が代条例の撤廃を!
◆かねてよりこの問題について活動してきた、教員や弁護士らによる「「日の丸・君が代」強制反対ホットライン大
阪」では、本条例の撤廃を求める署名運動を始めている。内容は、大阪歴史学会など3
学会の反対声明と同じく、条例撤廃と、9月議会で制定されようとしている、したがわなかった教職員への処分を定める条例に反対するものである。9月までに集約して、知事らに提出する予定であり、是非とも協力をお願いしたい。
◆署名用紙(右)は、ホットラインのホームページ
http://www7a.biglobe.ne.jp/~hotline-osk/
からダウンロードできるほか、ネット署名もできるようになっており、ご協力を重ねてお願いする次第である。
◆署名用紙(右)は、ホットラインのホームページ
http://www7a.biglobe.ne.jp/~hotline-osk/
からダウンロードできるほか、ネット署名もできるようになっており、ご協力を重ねてお願いする次第である。
和泉黄金塚古墳の追加指定
◆和泉黄金塚の整備委員会の委員をやっているが、この会議は開店休業中。で、ここの場合、墳丘本体の土地所有者が自分で守るということで史跡指定に応じず、まわりが史跡になった、なんともへんな指定がなされていたが、このたび、墳丘本体の追加指定ができるようになったとのこと。
◆あわせて指定地に隣接する土地の寄付の申し出があったとのことも。土地の買い上げを進めており、しばらく先になるだろうが、本格的に黄金塚をどうするかという時期がきそうである。
◆あわせて指定地に隣接する土地の寄付の申し出があったとのことも。土地の買い上げを進めており、しばらく先になるだろうが、本格的に黄金塚をどうするかという時期がきそうである。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。