人を幸せにする人になろう

千足のチョッコモン入り石障をはずすことに

◆こっちの新聞にも割と大きな記事になったのでご存じだと思いますが、造山の陪塚である千足古墳の傷んだ石14554b08.JPG障をはずす手段が決定された。3月にはずすことは決まったが、その後、より専門的な検討をもとに、いかにはずすかが検討され、それが6月17日の会議に提案され、審議の上、決められたのである。
◆その前に、日経の記者(大学の後輩)が、こりゃ高松塚と同じでけっこう大事な話だというので取材に来た。この会議、やっぱり苦手である。なにが苦手かというと、新納さんがおられるので、ついつい新納さんの顔色をうかがうようなことになってしまうので、自分の意見がないようで、あんまり居心地がよくない。
◆発掘現場をまず見るが、やはり気になる。短い羨道と墓道がある。十字に畦が残してるのだが、横断の畦の両壁に沿って断ち割りが入っている。ややこしい土層の判断にとって割るのが確実であるとしても、これは史跡である。盗掘坑をさらって検出された墓道は遺構です。それを壁際に幅50センチで抜いてしまうのは破壊です。その辺、史跡とはいえ、岡山市がよかれと思えばやればいいのではあるが、しかし文化庁も岡山県も、もうちょっと注文をつけるべきだし、岡山市だって、盛土を掘り込んで(というより構築墓道では?)墓道が設けられている様子をつかみたいのはわかるが、もうちょっと史跡であるという意識をもつべきだ。壊される遺跡の調査の効率から割って断面を確認するのとは訳が違う。それに墓道埋土を、まだ底に達しないと、1区画ではあるが、がんがん下げてしまうのも問題だ。

またまた大阪城

◆大阪城の調査のことを、いくつか記事にした。オモシロイもので、そうこうするうちに大阪市から電話があり、大阪城の集客・活性化のマスタープランを作るのだそうで、その専門的ワーキンググループみたいなの(なんとかアドバイザリーなんとか、という横文字に弱い人間には覚えられない不親切な名前であった)に入ってくれと。「ハイ、喜んで」。で、16日の木曜日に説明に来られて話を聞く。
◆これはどうやらうちの生活科学部の谷直樹先生(建築史)の推薦であるらしい。坂井英弥さんもメンバーに入っている。いろいろ話をしていると、やっぱり石垣のレーザースキャン話は伝わっていない。大阪市のことは前にも悪口を書いたが(別にバレてもメンバーから外されまい)、偉い専門家はいても、教育委員会の文化財保護課が強いリーダーシップで、そのパワーを大阪市の文化財保護に生かせていない点であろう。発掘屋は発掘屋。博物館は博物館。天守閣は天守閣。市史編纂は市史編纂。いずれも大阪市の歴史や文化の専門家として雇用されているのだが、それらのパワーが分離しているのである。
◆最初の会議は7月という。まあ、あんまり突出してはなんだし、今後のこともあるので嫌われ者になってはいけないが、とはいえ、しょっぱなに注文をつけておきたいものである。大阪城を何とかしようというなら、一致団結してそれにむかう体制を作ってくれと。

山本新田

◆近鉄に河内山本なる駅がある。ここで線路は屈曲し、南に折れて国分にむかう。ここから信貴山方面の支線が8a512e33.JPG出ており、信貴山口駅からはケーブルがのびる。
◆で、なんで山本というか知っていますか。オレは知らなかった。大和川付け替え後、干上がった玉串川の河床を新田開発する。それを請け負ったのが、山中善兵衛と本山弥衛門で、2人の名前をとって山本新田と名付けられたそうな。だって!知ってましたか。


集落と土地の研究会

◆勝手に上記の名前の研究会を名乗る。メンバーは岸本と古代史院生濱道君。中世史院生の小橋君も巻きdf91ef3c.jpg込もうとしている。条里とか荘園とか土地の制度や集落に興味がありそうな有志で、通史的な研究ができないものかと考えている。
◆とはいえ、これは名乗っているだけ。きっかけは、オレは古代の郷(里)は当初から領域と考えており、論文を書こうとしている。で、古代史の通説はそうではなく、濱道君に、古代史研究では、いったいぜんたい何を根拠に郷(里)が領域ではないとの見方がなされるようになったか、主要な研究を調べ、根拠を整理してくれとお願いした、それだけのことなのである。
◆で、だいたい調べましたというので、16日の木曜日の大学院演習の後に、いちおう資料を作ってもらい発表してくれと頼む。大学院の授業は、考古の院生(いないのだが・・・)のほかは、M1が受講する。で、彼らM1のやつに、古代の郷(里)について濱道君がしゃべるので、興味があれば残って聞いてみてくれと呼びかけるが、誰も残りやしない(向学心がない!)。で、日本史院生室に行って声をかけると、齊藤さんとバルディ君が興味あるといって参加してくれた。
◆で発表を聞いてみると、たいした根拠はないように思われる。だいたい5項目くらいが挙げられており、吉田孝の著書を基礎にしているようだが、ほんとにこれくらいなのかは、もうちょっと濱道にも勉強してほしいが、古くからの説を含め、いちおうメジャーなものではあるのだろう。
◆この日以来、そこで挙げられた根拠を自分なりに考え、史料を読んだり、風土記をみたりしている。その時、挙げてくれた根拠は、いずれも決定的でないと思った。むしろ『田令』の「狭郷(里)」「寛郷(里)」の定義を見たりすると、そりゃ領域やろ、ということになる。で、週末から原稿を書き始める。また、ほかのことをほっといて、優先順位を考えず書いている。敵はけっこう手強いであろう。が、そんな確たる根拠はないように思う。いまの時点では、たぶんいけるだろうと・・・。きっちりと相手を見定め、根拠をつぶし、逆にこっちの根拠を積み上げ(難しかろう)、疑問をぶつけてみたい。図は和泉郡における近世の郷(和泉市史にまもなく掲載される)。

伊居太神社2011年6月6日

◆伊居太神社と書いて「いけだ」神社と読む。前に書いたように、ここに三角縁神獣鏡が1面あって、撮影に行った。猪名川に面する五月山のへりに鎮座すc6dc619e.JPGる。式内社。けっこう社殿は立派です。宮司さんに手作りの冊子をいただく。
◆対岸には呉羽神社があるのだとか。綾ハトリ・呉ハトリのあれ。中国系渡来人の定着したところということらしい。あんまり勉強していないが。ゴ三堂古墳の画文帯神獣鏡を、その後、池田市の資料館に撮影に行くが、この古墳も五月山にある。

高鴨神社2011年6月12日

◆思い起こせば、最近は神社仏閣巡りというか、寺院はどうでもよくって、神社フェチのような状態である。むかし4d7a17c2.JPG8cad7553.JPGはそうではなかったが、古墳時代をやっていると、やっぱり神社は重要ですからね。あちこちに行っては、神社にそこそこ足を伸ばしていると思う。このブログでも、けっこう神社を拾えるだろう。
◆まあ行ったからといって、そんなに書くことはないと思うが、ひとつ神社へ行ったら、これを1記事に独立させてみよう。集めたら、神社巡りの小冊子になるかもしれない。
◆で高鴨神社。先の鴨都波神社とともに、これも鴨氏の神社。こじんまりした感じがよい。だいたい、江戸時代とかに幕府と仲良くして社殿を立派にしたようなところは多いが、そんな成金でない、古風さがよい。御所の金剛山東麓から続く斜面地にひっそりと佇む。社域がそこそこ広く、斜面あり谷ありと、古くからここにあって、ず~とそうなんだろう。
◆五角形の「合格」鉛筆を息子に買う。

久しぶりに

◆6月12日からの週、なにかとシンドク、ブログともご無沙汰だった。今日、20日、少しほっと一息。先週、1週eb7f049f.JPG間のことを振り返ってみようか。
◆12日の日曜日。というか前日の土曜日、1日大学で仕事をして、18時頃帰宅し、それから和歌山へ。大歴の大会の議案作りで、この前後は追われていた。
◆13日月曜日。大歴の委員会。14日火曜日、例の鏡の写真撮影で京都に行き、泉屋博古館で3面、京都国立博物館で3面。ともに大学の後輩と先輩の学芸員で、気楽に撮影させてもらう。泉屋は、権現山51号墳の報告書の時に、同笵鏡の観察に行った時以来だろう。たぶん1990年くらいの話だから、20年ぶりということになる。まあ、中国の青銅器を見に行くことはないわな。
◆水曜日、2限の授業後、池田市立歴史民俗資料館で1面、そのあと関大博物館で3面、うち2面は津堂のカケラ。展示室での撮影で、もしかするとはじめて関大の博物館の展示室をまともに見たかも。すごいわ。大学の博物館って、こういう研究展示のようなものであるべきですよね。同志社もそうだった。京大は、立派な博物館ができたのはいいけれど、ありきたりの展示ケースにいいものが並べてあるだけの普通の展示で、ち~とも大学博物館らしくない。研究室付属的なゴテゴテならべた、そういう博物館こそが大学の博物館と思う。で、本山コレクションを基礎とする関大の博物館はすごいわ。とはいえ、研究会に間に合うように帰らなきゃいけなかったので、そそくさと・・・。結局、眺めたが見てはいない・・・。


あんまり調子はよくない(2011年6月6日-10日)

◆豊中市に撮影に行く。大塚の甲冑は展示されていないのだそうだ。近つで並べたとき、地元のみなさんがバスを出して近つに見に行ったのだという。なんとかしたいが、いまの財政状況では厳しいと。なにも新たに施設をつくる必要はない、資料を見せていただいた中央公民館に、大塚コーナーを作れないものか。
◆そのあと、伊居太神社で三角縁神獣鏡1面。真ん中が欠けている。同笵鏡でいいのが樋口先生の図録にあり、四国で出たものらしいいが個人蔵。背景にこの完形の写真をハーフトーンで入れるかどうか・・・。
◆白鶴美術館に2面あるのを撮影にいく予定もあったが、学内業務があって延期。そして週後半は、八尾市の個人宅と歴史民俗資料館。この個人さん、かつて200町歩を所有していたらしい。祖父は大阪府の第1号貴族院議員だったのだとか。八尾市教育委員会の方の口利きで、スムーズに撮影させていただく話が整って実現。
◆資料が増えていくのは楽しいが、実はあんまり調子はよくない。同成社の原稿もかなり書いたが、気が重いのは2~3の別業務。なんとか遅れをとりもどそうと、いま11日、土曜日、大学にいる。少なくとも、土日のうち1日、その週の後片付けをしないと、モロモロ処理が追いつかない。

大阪城の石垣のレーザースキャン

◆大阪城の調査の件で、6月2日に再び天守閣に行く。天守閣館長と、大阪産業大学の玉野先生、関西大学の西形先生で、本格的な石垣のレーザースキャンをやる打ち合わせがあり、飛び入りで参加させてもらう。
◆前に一度、ざっとやっていて、その動画もよかったが、今度はより精細にすべてやっつけようというもの。関西大学がぜんぶやるとのことで、ここにはウチが入っていく余地はないな~、と思って帰ってきた。ただし、両先生とも土木が専門で地盤や石垣の設計に興味をおもちなのだが、文化財としての観点、天下普請の西国大名の工区分担など歴史学的な検討の観点から、食い込む余地はあるかも。
◆西形先生は関大の文化財修復センターの活動で、エジプトでも仕事している。
◆石舞台の話を振るが、それは文学部だろうとのこと。科研の挑戦的萌芽が採択されたら、もう一度、石舞台にアタックしようと思っていたが頓挫・・・。かわりの金はないな~。大阪市大の新産業創世研究で再度金を取ってこようかとも思ったが、要項が変わって、なかなか応募できるような条件にはないのであきらめる。

岩倉窯跡群に行く

◆さて、ラーメンは食べたが、カミさんの会が終了するまでどうするかを考え、結局、どうしたと思いますか。岩27c3b0b4.JPG倉に行って窯跡を見に行ったのです、これが。
◆まず、木野墓窯、これ北白川廃寺の創建瓦を焼いた瓦陶兼業窯。京都国際会議場の脇にある。プリンスホテルができたのが大学時代。なんとなく、場所は覚えている。国際会議場周りは、地下鉄も通ってだいぶ様変わりしていた。木野墓窯に行く人ももういないだろう。東西方向の低い丘陵地で、頂部と北斜面が墓地、南斜面に窯がある。檜の植林地で、昔は手入れが行き届いていて見通しがよかったが、いまは放置状態。が、やっぱり須恵器と瓦がゴロゴロ落ちている(右写真)。山田寺式軒丸瓦を拾いに行ったのだが、そんな簡単ではない。が、杯GかAの蓋が重なった窯着している破片をゲットした。飛鳥Ⅲといわれている。
◆某K府立大学のHさんは、このあたりが専門で、大学からも至近、岩倉って格好のフィールドになると思うんだけどね。まあ、木野墓窯は、人知れず、いまのところ壊されることなく昔のまま、遺跡は残っていた。
◆次に深泥が池東岸窯に行く。7世紀第1四半期としたが、現時点でいえば、もうすこし下るんですかね~。阪大の高橋照彦君らの代に、それまで知られていた東岸窯とは別に、手前に南岸窯と名付けた別の地点があることが判明したのだっけ。
◆深泥が池、これ国の天然記念物ではあるのだが、訪れる人も多くはないんでしょう。天然記念物なので、公園のように整備するわけにもいかないのでしょう。あるがままの姿を残していく、というところか。で、訪れる人も、南の堤防のところで説明板を読んで池を眺めて終わりなんでしょう。東岸窯にいくには、湖岸を東に歩いていくのだが、あんまり人が歩いているようには思えなかった。山が迫って木道を敷いているところなど、グスグスになっていて、引き返す人もいるのでは。
◆で、窯跡、たしかこのあたりと思われるところにたどりつき、確かに須恵器片が落ちているが、ほとんど腐葉土に覆われて隠されている状態で収穫なし。
◆最後は妙満寺裏窯に行くが、ここもほとんど人が入らなくなって荒れ放題。いちおう進入してみたが、ここも収穫なし。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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