人を幸せにする人になろう

堅下の葡萄

◆05月27日、柏原市立歴史資料館に鏡3面の写真撮影に出向く。窓際の自然光が入る場所に設定し、これにライト1燈で文様を出し、いい写真が撮れた(と思う)。逆に密閉された写場だと39634d9f.JPG実は困る。ストロボで撮るわけではないので、やはり基本的な明るさ、自然光がなにより大事。そうでないとシャッタースピードが落ちてブレが怖い。
◆1時間ほどで終了。「柏原ぶどう物語」の展示を見る。日本における葡萄栽培は鎌倉時代にさかのぼるんだとか。で、甲州ぶどうなんだそうだ。歴史は長いのである。河内でも江戸時代には富田林で栽培していたという。堅下の葡萄の栽培は幕末の頃からで、明治9年に道明寺にあった大阪府のぶどう試験園から甲州ぶどうの苗木をもらい、その後、本格化していくらしい。昭和初期には大阪府が全国一、その30%を堅下村が生産していたという。もうかったらしい。
◆大正に入って葡萄酒造りが始まる。たくさんの醸造所があったらしい。しかし、戦後の台風で大きな被害を受け、また高度経済成長により、次第に宅地化が進行し、かつての葡萄畑が激減していったという。そういえば、播州ぶどう園の史跡指定の会議にかかわったが、あれはその後、どうなっただろうか。
◆大阪府下の資料館、だいたいは廻ったが、いま柏原市のようにちゃんと企画展を重ねているところは、実はあんまり多くはない。展示施設がないところ、あっても常設のみに近いところも少なくない。そのなかで、柏原市、河内長野市や八尾市は、地道によくやっていることがわかる。
◆一方、いまのやっている企画展でいえば、愛知県陶磁資料館(実質、県立博物館?)のアンデス・メソf83fff75.JPGアメリカ展、神戸市博の大英博物館所蔵古代ギリシャ展、大阪歴史博物館の超絶技巧。まあ、大きいところは話題になるようなものを打ち上げないといけないんかもしれないけれど、どうだかな~と思う。年間の企画展も数多いのだろうし、こんなんばっかりではないと思うが、神戸市の博物館であり、また大阪市の歴史博物館なのに、地元に根ざした企画が疎かになって軽んじられているのではないか。図体がでかくて、埋文含めた文化財、市史編纂とか、そういうのから遊離してしまっているんだろう。

梅雨入り・・・

◆「梅雨のあとさき」という歌を知っていますか。さだまさしです。昔、大学生の頃、LPを借りてきてそのなかに入っていて、それ以来、好きな歌である。とはいえ、さだまさしの湿った歌(だいたい別れる歌)は、大学生の不安定な頃にはハマルのだが、いま聞くことはないな~。
◆それはさておき、雨はうっとおしい。まだ5月というのに。カエルは喜んでいるだろう。こないだ田植えをした時もカエルだらけだったし、卵も浮かんでいた。
◆26日、大阪市の7点の鏡を撮影するため、大阪文化財研究所(旧大阪市文化財協会)の保存科学室を訪ねる。長原の事務所にあったのだが、事務所の廃止により、引っ越してきて4月に開設したばかりという。前漢鏡片1、後漢鏡の破れ鏡3点、小型ボウ製鏡3点である。
◆破片は俯瞰だけにしようと思っていたのだが、例えば破れ鏡で言えば、摩滅状況とか、穿孔部の状況とか、破片のヤツも斜め写真はあった方がいいと思い撮影した。破片も俯瞰と斜めを組み合わせるとなると、やっかいである。これまで破片はあんまり撮影していないが、ないことはなく、それらは俯瞰しか撮影していない。まあしゃーない。やっぱりそろえるとなると、また出向くしかなかろう。
◆ところで、ボストン美術館には例の大仙古墳とされる百舌鳥出土の鏡ほか、長持山古墳出土とされるものがある。フリアギャラリーには、松岳山古墳出土の可能性が高い三角縁神獣鏡がある。こいつらの撮影はあきらめているが・・・、なんとかならんもんかいな。

弥生のはじまりも簡単じゃない

◆研究会の帰り、吉田君と小林謙一さんに京成電車のなかでいろいろ教えてもらう。恥ずかしい話、議論の意味がよくわかっていないので、そこを理解するため解説してもらう。で、理解したこと。
◆突帯文土器そのものが、こないだ韓国で土器を見せてもらった意味がわかっていなかったわけだ。朝鮮半島の突帯文、日本の突帯文が、年代観が定まっていくことで接近してきたらしい。両方に同じような土器があるんなら関係あるに決まってるやんとは思うが、そこは年代が違っていたためあまり結びつけて考えられてこなかったらしい(判明してきたのが新しいか?)。で、むこうの突帯文のもっとも(?)新しい部類と、日本の突帯文が年代的に連続することがほぼ確実になってきた。そしたら、西日本の突帯文って外来土器にとってかわられたんかと思ってしまうが、そのへんは、現段階としてはそうではなく、、縄文土器なんだが半島の影響を受けたと考えるらしい。
◆で、紀元前11世紀(?)、突帯文にともなって、水田稲作+畑作のアワ・キビという農耕がもたらされる(第1波)。これによる稲作は、北部九州にはなく(ほんとにないのか見つかっていないだけなのか?)、山陰や岡山の方が早いのだそうだ。で、突帯文の後半?に平行する同じ頃の東日本にも影響が及んでいるらしく、アワ・キビの畑作が認められるということらしい。
◆で、弥生への引き金である第2波は、夜臼期(山の寺じゃないの?)に、玄界灘沿岸にまとまった形での移住があり、これが弥生化をもたらす。弥生早期がBC10世紀というから、100年とか200年くらいの時期差か。また、第1波のイネと第2波の本格的な水田稲作とは、時期差もあるのだが、朝鮮半島での系譜差も考慮すべしということらしい。
◆問題は、第1波による水田もあるイネ、これをどう評価するかだ。縄文文化のなかの以前からある原始的栽培に試行的な穀物栽培が加わったあくまで縄文文化と位置づけるのか、縄文文化とは一線を画し、だが弥生とはいえない中間段階あるいは移行期とするのか、弥生時代に編入するのか、なかなか難しいということらしい。現時点は、確実な資料を探索し内容を明らかにする段階といえ、それをふまえないと簡単には決められないというところか。
◆第1波と第2波は穀物栽培の波及という大きな流れとしては共通するものではある。第1波のみだったら、それこそ列島のなかで長時間かけて水田稲作技術をゆっくりと発展させていったのかもしれない。だが実際はそうではない。影響力の強い第2波があり、その波及にはやはり人々の移住が必要で、今日の年代観によると以前考えられていたような短期間ではないものの、しかしそれぞれの地域で急激な変化をもたらし、列島の人々の暮らしを転換させる。ここでいう第2波以降こそが弥生時代だと考えてきたし、そうするのはたやすいが、それでいいのか?、そう簡単でもない、ということを学んだ。

奴国・伊都国

◆懇親会。JR佐倉から少し歩いたKINGS。そのあと2次会。吉田君に銅矛のことを聞き、上野くんに2世紀後半のabe38bcb.JPG鏡のことを聞き、みなさんに弥生時代後期の北部九州の話を聞く。
◆やっぱり三雲、伊都国の方が優勢なんちゃうか、ということらしい。後期に入っての奴国の青銅器生産はすごいと、だが、あんまり評価は高くないらしい。奴国と伊都国は仲がいいんかね~、戦争はしないんだろうか。仲良く共存しているんだろうか。で、北部九州が全体として後期に入って落ち目になる、ということはないらしい。なんか、そのへんの、弥生時代後期の北部九州を論じている論文があれば、誰か教えてください!
◆だが、奴国と伊都国が並立している間に、例えば畿内はひとつにまとまっていくんだろう、伊勢湾岸も広域のまとまりを形作っていくんだろう。吉備も山陰も紐帯をつよめていく。倭国乱とはなにか、それはまだまだわからんことだし、なぜに畿内がという答えにも遠いけれども。
◆奴国・伊都国は突出している、が、両者がともに強く、それゆえ統合されることなく、前代以来の枠組みにある。それに対し、そこまで地域的統合が進んでいなかった故に、一定の優位にある中河内・大和南部が、どっかの支援があったのかもしれないが、畿内をまとめていくことに成功したのかもしれない。そういうことにしておこう。ちゃんちゃん。

安藤さんの話をきく

◆05月21・22日は佐倉歴博の研究会。1日目は安藤広道さんの「水田中心史観批判の功罪」。2時間半たっぷりしゃべらはったが、勉強になる興味深い発表だった。安藤さんとは、東博におられた頃以来で(文化庁の速報展は初期はオープニングを東博でやっていた)、10数年ぶりか。
◆いっぱい書くことがあるが、メモしまくって、なにがなんだか・・・。じっくりと読み返しが必要。ここではひとつだけ。そもそも、指摘の通り、2000年代に入り、縄文にイネやムギ、雑穀があるのはもはや自明、といった雰囲気となる。オレも宮本さんのものを読んで、共通教育の授業の準備をしたな~。だが、佐原さんのいうように、弥生の稲とは違うと・・・。それはその通りとみな考えているようだが、やはり縄文の栽培植物の意味をどの程度とみるかで、見方が変わってくる。前に松木さんの書いたものにコメントしたが、縄文後期を重視するというのも、この流れであるようで、弥生の稲の前段として、縄文のイネを含めた栽培が始まっていることを重くみているわけだ。
◆だが、確実な資料があるのだろうか、というのが安藤さんの話。イネ・アワ・キビの確実例はないらしい。いまは、一時的に盛り上がった縄文農耕論が再検証されているのだそうだ。そういう潮流、山崎純男さんがなんか言ってるらしいという話は聞こえてきていたことを思い出すが、ほとんどわかっちゃいなかった。
◆どうなるかはわからん。が、安藤さんの、資料を検証し、コクゾウムシの実験などもしながら、きっちりとした議論を組み立てていこうとする姿勢に感銘する。この人は立派な学者だと。それに比べて、面白そうな話に飛びつく自分はアカンのやろな~。
◆発表最後の、弥生農耕以降の列島文化をどうくくっていくか、というところはさらに詰めていただくとして、全体としてほぼ同感だ。共感を覚える。

小谷古墳へ行きました

◆続きです。1278bf1c.JPGで、宣化陵の近くに有名な横穴式石室墳があったはずなので、さがそうとするも、なんの準備もないので、258d40ea.JPGわからん。すこしうろうろする。そうすると、益田池の堤の遺跡公園がある。9世紀に造られた記録があり、木樋も確認され、いま奈良県の史跡だそうだ。堤の上に上がると、益田池周辺の遺跡を示した金属板があり、白橿町の背後のところに小谷古墳とある。宣化陵の近くに有名な古墳があったはずと思っていたのは、場所はやや違ったが小谷古墳のことだ(そういう意味では目的を果たした)。
◆写真は宣化陵から見た畝傍山、きれいです。それと益田池堤近くの築坂邑の標柱。大伴氏の本拠地?。
◆丘陵斜面に続く一体が畑になり、そこを上がっていくと、石室開口部が露出している。柵があって進入禁止なのだが失礼する。
◆いや~見事な石室である。同時に岩屋山式のちょっと小さいヤツとして、白石先生が論文を書いているものだ96614bed.JPGと思い出す(不正確)。切石の徹底さは岩屋山ほどでなく、壁面がふっくら丸みをやbdaebda4.JPGや残すが、見事なものである。エエモン見せてもらった。17d27da7.JPG

田植えとそのあと(記事ナンバー700)

◆某日、いろいろと変転したあげく、どうしてもこの日となり、休みをとり、和歌山に田植えに行く。そんな大きくbca1debd.JPGない田が3枚、1枚はやってあり、残り2枚をやった。まあまあか。
◆なので、朝行って、けっこう早く終わる。お昼をいただき、15時前に出る。中途半端な時間なので、近つ、あるいは橿考研の博物館にでも行くか、と、五條からいつものルートでなく、風の森峠を抜け御所に。
◆まず室宮山。墳頂に案内板と埴輪のレプリカが置いてある。5・6年前に来たときはなかったと思う。墳頂はきれいにしてあるが、その外は、篠竹を含む(?)ブッシュがすごく、前方部側へ下りることができない。ずうっと前、最初に来た頃は、こんなんではなかったように思うが。もし、室宮山を測量するとすれば、下草等の刈り込みがかなりいる。
◆前から行きたかった鴨都波神社へ。新しい国道から細い道を入ったが、ほんとは御所2345ba22.JPGの旧市街があり、そこを通る東側の旧道に面して鳥居があり、参道は反対側であった。想像していたものより敷地や社殿も小さかったが、これこそ鴨氏の発祥の地ですよね。御所の旧市街、車で通過しただけだが、けっこう雰囲気がある。面的に広がりがあり、縦横に道路が通る。商店街はさびれているんだろうけど、町はいいんとちゃう。
◆それから宣化陵へむかう。京奈和道の建設が進んでいる。新沢千塚の資料館へは前に行ったが、古墳群1e7ab997.JPGをまわったことがないので立ち寄ってもいいのだが、広大なので機会を改める。で、宣化陵。がちがちに汀を石積みの護岸で固めてある。宣化陵なのか、宣化皇后陵で宣化が合葬されたのか?。こないだの辛亥の変のこともあり、一度見ておきたかったので行くが、陵墓やし、それだけではある。そしてその奥の倭彦陵に行く。山裾の村のなかで駐車場もないので、写真を1枚のみ。
◆いま22日、佐倉のホテル、07:08地震!。

橋下徹はひどい

◆日本国憲法は日本国の最高法令である。第11条「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利」。そして第19条の内心の自由がある。どのような考えをもとうが、国家がとやかく言うことはできないし、それを表明させることもできない。
◆憲法が上位で、国旗国歌法・地方公務員法は下、まして学習指導要領や、都道府県教育委員会の職務命令はさらに下である。1999年8月9日小渕首相談話「今回の法制化は、国旗と国歌に関し、国民の皆様方に新たに義務を課すものではありません」、これは、現在、内閣府のHPにも掲載されている。法律を作ったときの「強制しない」との附帯決議はネットでは出てこない(まあ、附帯決議なんて・・・だが)。
◆しかも橋下は、「府教育委員会が国歌は立って歌うと決めている以上、公務員に個人の自由はない。従わない教員は大阪府にはいらない」と指摘し、「繰り返し違反すれば、免職になるというルールを作り、9月議会をめどに成立を目指したい」、と。【条例制定は5月議会で目指すらしい!】
◆学校教育の中身こそ大事で、その職務のサボタージュなら理解できるが、どうでもいい国旗国歌に、なぜそれほどまでにこだわるのか、まったく理解できない。大阪府がやるべきは、そんなしょうもないことでなく、公立高校の教諭の1/3が非常勤職員で成り立っていること、それを大阪府は府費でもってきちんと手当てして、誇りをもって学校教育にあたることだろうが。
◆この問題は無視できない。大阪がこんなことでは恥ずかしい限りである。コテコテの自民党や、某都知事ならともかく、大阪って、どっちかというと東京に対抗意識丸出しの、オカミに従順ではない自由さ(それが悪い面もむろんあるが・・・)、がウリと思ってきたが。これは動かなければならない。

テルちゃんの河内政権論

◆阪大の科研報告書が送られてきて、目次を見て、ただちに高橋照彦氏の20頁の文章を読む。まあ、あいかわらずの切れで、文献史の成果を読み込み、一方で古墳時代考古学のことを知っており、両者を総合できる人材は、彼くらいなんだろう。書いていることは、河内政権論側で、王宮と王陵の話も、ややニュアンスは違うかもしれないが、オレのイメージとも近く、親和性がある。こないだ発表を聞いた古市さんの論文も引かれている。仁徳の磐余の王宮の話を書いているらしい。
◆でもね~。ちょっと不満はある。その中身はやめておく。こっちはこっちで、あんな芸当はできないが、松岳山を測り、津堂城山を測り、地べたに即した仕事を重ねるのみ・・・。

龍谷ミュージアム

◆こないだ、4月末かな、大阪歴史学会の委員会で梅田に行ったとき、地下の丸柱に、ずーっと右のような広告がd8c6aaa3.JPGあった。大谷探検隊などの資料をならべる博物館ができたのだろう。
◆龍谷大学、奈文研にいたとき、中国社会科学院考古研究所所長が来日し、その案内を2日間ほどおおせつかった。徐光輝さんがついていたので、奈文研側の人間として横におればよかったのだが。その時に、大谷探検隊の資料が見たいというので、龍谷大学集合だったが、オレは間違って深草だっけか?のキャンパスに行き、時間になってもこないもんで、携帯のない時代にどう連絡をつけたかわからんが大宮キャンパスの方だ、というので、あわててタクシーで移動した記憶がある。
◆考古研究所トップの来訪で、龍谷では特別収蔵庫みたいなところにも招き入れ、資料を見せていたようだったが、記憶は定かではない。大阪駅の宣伝はけっこう目立っている。
◆奈良明新社から郵送物が届いたので、なんだろうと思ってあけてみると、2011年度の発掘速報展のチラシとチケットだった。会場を見ると、あんまり近場はない。そのチラシの写真、花崗岩の石で矢穴がある。裏を見るce21cf01.JPGと、東六甲の石切丁場だった。六甲の石切場、『別冊ヒストリア』にまとめたが、その後、兵庫県が分布調査をして報告書を作り、典型的な部分の史跡指定も検討するということだった、と思う。どうなったかは知らないが、速報展でこの種の遺跡をみなさんに知ってもらえるのは有意義なことである。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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