人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
戦前における文化財の保護
◆2008年末から2009年はじめに、戦前の文化財保護制度を調べる機会があり、作っておいたメモを掲げる。ある小文に掲載しようと引っ張り出してきたが、少し長く趣旨がずれるのであきらめることにしよう。わたしの感想は、「戦後の文化財保護法の枠組み、とくに遺跡発掘の届出制度は、戦前の古墳の発掘に関する制度を一般化したものなんだ」ということ。これ、和田勝彦さんなんかの文章をたどれば、とっくに言われていることなのだろうが、自分としては新鮮であった。
◆1874年(明治7)の「古墳発見ノ節届出方」(太政官達59号)では、「御陵墓ノ所在未定ノ分即今取調中ニ付」、みだりに古墳を発掘してはならないこと、発見のあった時は図を添えて届け出ることが通達される。陵墓である可能性のあるものが発掘されることを規制するためで、縄文時代の遺跡などは対象としていない。
◆1880年(明治13)には、ほぼ同趣旨の宮内省達「人民私有地内古墳発見ノ節届出方」が出されている。皇陵比定事業は、1875年(明治8)から1876年に基本的に終了するが(1889年に一応完了)、その後も古墳の発掘には制約が続く。
◆日清戦争後の1899年(明治32)、民法とその特例法である遺失物法が成立し、所有者不明の「学術技芸若ハ考古ノ資料に供スヘキ埋蔵物」を発見した場合には、警察へ提出することが義務づけられた。これに関連し、内務省は「学術技芸若ハ考古ノ資料トナルヘキ埋蔵物取扱ニ関する件」の訓令を発し、発見された遺物が「古墳関係品其ノ他学術技芸若ハ考古の資料」となるべきものである時は宮内省へ通知することとなっている。また「石器時代ノ遺物」である時は東京帝国大学へ通知され、それぞれ必要な物件を保有するものとした。戦前出土の著名な出土遺物の多くが、今日の東京国立博物館・宮内庁・東京大学などで所蔵されているのは、この理由による。この段階で、遺失物法という一般法のなかで出土物を処理するため、古墳からの出土品のみならず縄文時代の出土品を含め、考古資料が発見された際の取り扱いが定められた。しかし発見された場合の遺跡の取り扱いを規定するものでなく、あくまで出土品の措置である。
◆古墳の発掘に関しては、1884年の太政官達と1890年の宮内省達に示されている届出を遵守するよう、1901年(明治34)に内務省から「古墳発掘手続ノ件依命通牒」が出されている。「発掘セントスルモノハ」、「予メ詳細ノ図面ヲ添ヘ宮内庁ヘ打合」せるように指示している。それ以前の段階は、みだりに発掘をしないこと、発見があったら報告することであったのに対し、その前半の部分が制度的に整備され、学術調査をおこなう場合は、宮内省と事前に協議することを求めることになった。制度的には、古墳の調査についての制約を手続きを定めて強化したといえる。それ以外の遺跡についての発掘調査にかかわる規定は引き続き存在しない。
◆史蹟名勝天然記念物保存法の制定は、1911年(明治44)の第27回帝国議会(貴族院)における「史蹟及天然紀年物保存ニ関スル建議書」の可決された頃からの運動の末に、1919年に制定された。建造物、美術工芸品が古社寺保存法(〓年)で保護されているのに対して、史蹟や天然紀念物を破壊から保護するためのもので、指定による保護措置を加える今日的な制度である。内部大臣が保存区域を定めて指定し、現状変更等の制限及び環境保全命令の規定、違反に対する罰則を設けたもので、地方公共団体を管理者に指定するものである。その施行令において、史跡となっている古墳を発掘する際、宮内大臣への協議を文部大臣に義務づけており、古墳に関する宮内庁の権限を引き継いでいる。
◆また施行規則にある、「土地ノ所有者、管理者又ハ占有者古墳又は旧蹟ト認ムヘキモノヲ発見シタルトキハ其ノ現状ヲ変更スルコトナク発見ノ日ヨリ十日以内ニ左ノ事項ヲ具シテ地方長官ニ申告スベシ」と規定され(第4条)、地方長官は文部大臣に報告することを求めている(1930年文部省訓令)。これは、指定物件以外の遺跡を対象としたもので、ここに出土品発見の手続きとは別に、遺跡の発見があった場合、古墳以外の「旧蹟と認むべきもの」についても届け出ることが規定された。
◆以上をまとめると、戦前において、遺跡からの出土品はすべて、民法上の所有権との関係から、普遍的な取り扱いが必要であり、遺失物法において、出土物の発見の警察への提出と、内容に関する通知を宮内省あるいは東京帝国大学への通知が定められた。これは発見物に関する手続きであるのに対して、そうしたものが出土し遺跡と知られたものの発見については、古墳については1874年に定められていたが、その他のものについては1919年の史蹟名勝天然記念物法でようやく一般化されたということだ。また学術調査については、古墳については1901年(明治34)に詳細な図面を添えて宮内省と打ち合わせることが規定されたが、古墳以外の遺跡については、戦前はとくに規定は制定されることはなかったのである。
◆要は、(1)重要遺跡の史跡指定、(2)遺跡の発見届、(3)学術調査の届出、(4)出土品の文化財認定(国保有も)、という基本は戦前にでき、文化財保護法が公布されたときは、ほぼこれを引き継いだ。保護法は記憶によれば(もう彼方)、すぐに(1949年?)、戦後の学術調査でない開発にともなう遺跡破壊に対応し、いわゆる周知の包蔵地における届出制度が、このあとに加わり、1975年改正までの基本ができあがる、ということだった、と思う・・・
◆実際の運用は、別に調べなければならない。河内長野の方が詳しく、大師山古墳出土品をめぐり、くわしく調べられたのがネットで公開されていたことを記憶する。
◆1874年(明治7)の「古墳発見ノ節届出方」(太政官達59号)では、「御陵墓ノ所在未定ノ分即今取調中ニ付」、みだりに古墳を発掘してはならないこと、発見のあった時は図を添えて届け出ることが通達される。陵墓である可能性のあるものが発掘されることを規制するためで、縄文時代の遺跡などは対象としていない。
◆1880年(明治13)には、ほぼ同趣旨の宮内省達「人民私有地内古墳発見ノ節届出方」が出されている。皇陵比定事業は、1875年(明治8)から1876年に基本的に終了するが(1889年に一応完了)、その後も古墳の発掘には制約が続く。
◆日清戦争後の1899年(明治32)、民法とその特例法である遺失物法が成立し、所有者不明の「学術技芸若ハ考古ノ資料に供スヘキ埋蔵物」を発見した場合には、警察へ提出することが義務づけられた。これに関連し、内務省は「学術技芸若ハ考古ノ資料トナルヘキ埋蔵物取扱ニ関する件」の訓令を発し、発見された遺物が「古墳関係品其ノ他学術技芸若ハ考古の資料」となるべきものである時は宮内省へ通知することとなっている。また「石器時代ノ遺物」である時は東京帝国大学へ通知され、それぞれ必要な物件を保有するものとした。戦前出土の著名な出土遺物の多くが、今日の東京国立博物館・宮内庁・東京大学などで所蔵されているのは、この理由による。この段階で、遺失物法という一般法のなかで出土物を処理するため、古墳からの出土品のみならず縄文時代の出土品を含め、考古資料が発見された際の取り扱いが定められた。しかし発見された場合の遺跡の取り扱いを規定するものでなく、あくまで出土品の措置である。
◆古墳の発掘に関しては、1884年の太政官達と1890年の宮内省達に示されている届出を遵守するよう、1901年(明治34)に内務省から「古墳発掘手続ノ件依命通牒」が出されている。「発掘セントスルモノハ」、「予メ詳細ノ図面ヲ添ヘ宮内庁ヘ打合」せるように指示している。それ以前の段階は、みだりに発掘をしないこと、発見があったら報告することであったのに対し、その前半の部分が制度的に整備され、学術調査をおこなう場合は、宮内省と事前に協議することを求めることになった。制度的には、古墳の調査についての制約を手続きを定めて強化したといえる。それ以外の遺跡についての発掘調査にかかわる規定は引き続き存在しない。
◆史蹟名勝天然記念物保存法の制定は、1911年(明治44)の第27回帝国議会(貴族院)における「史蹟及天然紀年物保存ニ関スル建議書」の可決された頃からの運動の末に、1919年に制定された。建造物、美術工芸品が古社寺保存法(〓年)で保護されているのに対して、史蹟や天然紀念物を破壊から保護するためのもので、指定による保護措置を加える今日的な制度である。内部大臣が保存区域を定めて指定し、現状変更等の制限及び環境保全命令の規定、違反に対する罰則を設けたもので、地方公共団体を管理者に指定するものである。その施行令において、史跡となっている古墳を発掘する際、宮内大臣への協議を文部大臣に義務づけており、古墳に関する宮内庁の権限を引き継いでいる。
◆また施行規則にある、「土地ノ所有者、管理者又ハ占有者古墳又は旧蹟ト認ムヘキモノヲ発見シタルトキハ其ノ現状ヲ変更スルコトナク発見ノ日ヨリ十日以内ニ左ノ事項ヲ具シテ地方長官ニ申告スベシ」と規定され(第4条)、地方長官は文部大臣に報告することを求めている(1930年文部省訓令)。これは、指定物件以外の遺跡を対象としたもので、ここに出土品発見の手続きとは別に、遺跡の発見があった場合、古墳以外の「旧蹟と認むべきもの」についても届け出ることが規定された。
◆以上をまとめると、戦前において、遺跡からの出土品はすべて、民法上の所有権との関係から、普遍的な取り扱いが必要であり、遺失物法において、出土物の発見の警察への提出と、内容に関する通知を宮内省あるいは東京帝国大学への通知が定められた。これは発見物に関する手続きであるのに対して、そうしたものが出土し遺跡と知られたものの発見については、古墳については1874年に定められていたが、その他のものについては1919年の史蹟名勝天然記念物法でようやく一般化されたということだ。また学術調査については、古墳については1901年(明治34)に詳細な図面を添えて宮内省と打ち合わせることが規定されたが、古墳以外の遺跡については、戦前はとくに規定は制定されることはなかったのである。
◆要は、(1)重要遺跡の史跡指定、(2)遺跡の発見届、(3)学術調査の届出、(4)出土品の文化財認定(国保有も)、という基本は戦前にでき、文化財保護法が公布されたときは、ほぼこれを引き継いだ。保護法は記憶によれば(もう彼方)、すぐに(1949年?)、戦後の学術調査でない開発にともなう遺跡破壊に対応し、いわゆる周知の包蔵地における届出制度が、このあとに加わり、1975年改正までの基本ができあがる、ということだった、と思う・・・
◆実際の運用は、別に調べなければならない。河内長野の方が詳しく、大師山古墳出土品をめぐり、くわしく調べられたのがネットで公開されていたことを記憶する。
河内大塚山古墳
◆今朝、通勤前に河内大塚に寄った。実は昨日も、試験の答案の採点を、夜、河内大塚山脇の
サイゼリヤでやっていた。古墳はまっくらで、改めて今朝、行ったわけである。
◆河内大塚をちゃんと回ったのは、これが2回目である。前方部の両側の堤は、昨年、やりかえられたもので、実はその工事期間に宮内庁に立ち入りを要請したが、工事中で安全面から実現しなかった。で、石積の真新しい堤になっているわけである。後円部については、前回は東南しか行かなかったが、今回は西から見た。だいぶ堆積土がたまり濠は狭まっている。おそらく浅いのだろう。
◆この古墳、未完と思っているが、どう考えるか。土師ニサンザイに後続する神聖王墓であるので、候補は清寧だ。で、継体擁立にともなって王墓は未完に・・・、というのがシナリオ。土師ニサンザイがキナシカルに相当する神聖王墓であるが、埴輪![8fde9da3.jpg](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1265274676?w=150&h=112)
からすると、市野山と変わらんらしい。キナシの没年は不明だが、あまり下げられず、460年代のうちにはあるのだろう。そのあと、神聖王清寧と、執政王雄略の体制となる。
◆河内大塚が平面形がおよそ形作られているので、割り付けられて掘削され、おもに後円部に盛土され(後円部も高くはなく造営途上と理解しやすい)、そこで中断。が、しかし。清寧かどうかはともかく、ニサンザイに後続する神聖王墓として造営されたとして、継体即位まで未完状態だったというのは、あまりに後に引っぱりすぎており、違和感があるわな。
◆だとすると、河内大塚の年代を決めるのはきわめて困難だから、考えてもしかたないのだが、もう少し古く考える、5世紀後半のなかで未完に終わるデキゴトがあったとみるか、実は、雄略段階で、神聖王墓は小さくなり(白鳥陵)、その次が河内大塚と、1枚はさむのか・・・
◆河内大塚をちゃんと回ったのは、これが2回目である。前方部の両側の堤は、昨年、やりかえられたもので、実はその工事期間に宮内庁に立ち入りを要請したが、工事中で安全面から実現しなかった。で、石積の真新しい堤になっているわけである。後円部については、前回は東南しか行かなかったが、今回は西から見た。だいぶ堆積土がたまり濠は狭まっている。おそらく浅いのだろう。
◆この古墳、未完と思っているが、どう考えるか。土師ニサンザイに後続する神聖王墓であるので、候補は清寧だ。で、継体擁立にともなって王墓は未完に・・・、というのがシナリオ。土師ニサンザイがキナシカルに相当する神聖王墓であるが、埴輪
◆河内大塚が平面形がおよそ形作られているので、割り付けられて掘削され、おもに後円部に盛土され(後円部も高くはなく造営途上と理解しやすい)、そこで中断。が、しかし。清寧かどうかはともかく、ニサンザイに後続する神聖王墓として造営されたとして、継体即位まで未完状態だったというのは、あまりに後に引っぱりすぎており、違和感があるわな。
◆だとすると、河内大塚の年代を決めるのはきわめて困難だから、考えてもしかたないのだが、もう少し古く考える、5世紀後半のなかで未完に終わるデキゴトがあったとみるか、実は、雄略段階で、神聖王墓は小さくなり(白鳥陵)、その次が河内大塚と、1枚はさむのか・・・
圃場整備事業の推移
◆新聞の趣旨は政権交替にかかわる地殻変動を順次取り上げるもので、民主党になって前年比63%減と大幅ダウンとなり、政権交替の影響がモロに出ていることを取り上げたものだ。野中広務の言うとおり、政争の具にしてはいけないだろう。土地改良が必要なものもあるに違いない。しかし、自民農水族と農水官僚が結託して、全国の農地をいじり倒してきたことは確かな事実であり、それがおおよそ終わってきているということもあるが、ようやくストップがかかったわけで、見なおされるのは当たり前だ。
◆80年代に異常に伸び、それにウルグラウンド合意が拍車をかけた。その結果はいかに。効率的な農地ができあがったのか。農民は事業終了後の換地を受けても、自分の土地が1枚ではなく、数人で同じ土地を分け合うことになる愚を聞いたことがある。自尊心ややる気をそぐ。また実際にどれだけ耕作されているのか。そうした検証がなされてしかるべきだろう。
◆これだけの予算があれば、農業を支える人々の高齢化を見越し、将来に向けて、いかに農業を継承し食糧自給率を上げていくかという明確な目的の上で、田圃をいじるだけではない政策が実現できたはずである。しかし、結果は、金が土建屋に流れ、政治家にバックされ、そうした予算は国債でまかなわれ、これからさきわれわれが負担し続けなければならない。
日米の密約
◆2009年07月12日の朝日新聞で日米の密約が整理されていたので取っておいた。そこで示されたのは4つ、60年安保時の2つ、沖縄返還時の2つ。
◆60年安保(1)。60年安保で、核兵器+αを日本国内へ持ち込む場合は事前協議が必要との条項が入った。しかし、「米軍機の日本飛来、米軍艦船の日本領海並びに港湾への進入に関する現行の手続きに影響を与えるものと解釈されない」という内容らしい。仕切りとしては、在日米軍基地に核兵器を持ち込み、そこから出撃する場合は事前調整が必要だが、恒常的でない「たまたま」の立ち寄りはいいんだ、ということ。事実上、核兵器搭載の米軍機が横田や三沢に降り立つことも、核兵器を装備した戦艦が横須賀に入港するのもOKというもの。非核3原則の「持ち込ませず」というのは放棄している、ということ。この密約は、外務省で文書にされていることを元事務次官が明かにしたそうだが、むろん公表されていない。
◆60年安保(2)。朝鮮半島でコトが起きた緊急の場合など、「ただちに着手することが必要とされるような軍事作戦のため、日本における施設及び地域を使用してもよい」という内容。在日基地を米軍が出撃拠点として自由に使えることを、岸信介から全権を委任されていた外相が会議で発言しサインしたもので、全文が明らかになっているらしい。これ、安保の条文を読まんと理解できないね。たぶん、在日米軍は備えのためにあるのであって、米軍の戦争遂行のために戦略基地としては使ってはイカンということになっているんだろう。
◆沖縄返還(1)。89年返還交渉時、ベトナム戦争が激化するなか、沖縄の米軍基地に配備されていた核兵器について、撤去を求める日本と継続を譲らないアメリカ。で、「ニクソンは沖縄からすべての核兵器の撤去を約束するが、有事には日本政府と事前協議をした上で持ち込む権利を認めるよう要求し、佐藤は「かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう」と応じた」という議事録の形での密約だそうだ。建前(1)アメリカが事前協議をすれば日本は認める、建前(2)アメリカが勝手に持ち込んでも、事前協議がない以上、日本政府は「核兵器の持ち込みはない」と言い逃れる。が、たぶん、実際には撤去されていないで、ずっとあり、また必要に応じて最新兵器に取り替えているだろう。
◆沖縄返還(2)。これは返還にかかる経費負担の話。(1)アメリカが支払うと定められた軍用地の原状回復費400万ドルを日本が払う。(2)短波放送中継局の移転費1600万ドルを日本が支払う。(3)日本がアメリカに支払う(どういう名目なんですかね)返還協定に記された3億2000万ドルとは別に、2億ドルを基地移転費などとして支払う、という3つの内容らしい。まあ、実際に返還する部分の移転経費もあるんだろうけど、それがいくらか誰もわからん。日本が支払った総額のどこまでの範囲かはわからんが、ベトナム戦争遂行のため投入され、たとえば軍需産業から爆弾などを購入するのにあてられたんだろうね。
◆ところで、すこし前に佐藤栄作の家から文書が出てきた、と新聞報道されていたが、これはどれに当たるんかな。たぶん沖縄返還(1)なんだろう。ノーベル平和賞を受賞した佐藤の虚偽が改めて批判されていた記憶があるので。
◆60年安保(1)。60年安保で、核兵器+αを日本国内へ持ち込む場合は事前協議が必要との条項が入った。しかし、「米軍機の日本飛来、米軍艦船の日本領海並びに港湾への進入に関する現行の手続きに影響を与えるものと解釈されない」という内容らしい。仕切りとしては、在日米軍基地に核兵器を持ち込み、そこから出撃する場合は事前調整が必要だが、恒常的でない「たまたま」の立ち寄りはいいんだ、ということ。事実上、核兵器搭載の米軍機が横田や三沢に降り立つことも、核兵器を装備した戦艦が横須賀に入港するのもOKというもの。非核3原則の「持ち込ませず」というのは放棄している、ということ。この密約は、外務省で文書にされていることを元事務次官が明かにしたそうだが、むろん公表されていない。
◆60年安保(2)。朝鮮半島でコトが起きた緊急の場合など、「ただちに着手することが必要とされるような軍事作戦のため、日本における施設及び地域を使用してもよい」という内容。在日基地を米軍が出撃拠点として自由に使えることを、岸信介から全権を委任されていた外相が会議で発言しサインしたもので、全文が明らかになっているらしい。これ、安保の条文を読まんと理解できないね。たぶん、在日米軍は備えのためにあるのであって、米軍の戦争遂行のために戦略基地としては使ってはイカンということになっているんだろう。
◆沖縄返還(1)。89年返還交渉時、ベトナム戦争が激化するなか、沖縄の米軍基地に配備されていた核兵器について、撤去を求める日本と継続を譲らないアメリカ。で、「ニクソンは沖縄からすべての核兵器の撤去を約束するが、有事には日本政府と事前協議をした上で持ち込む権利を認めるよう要求し、佐藤は「かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう」と応じた」という議事録の形での密約だそうだ。建前(1)アメリカが事前協議をすれば日本は認める、建前(2)アメリカが勝手に持ち込んでも、事前協議がない以上、日本政府は「核兵器の持ち込みはない」と言い逃れる。が、たぶん、実際には撤去されていないで、ずっとあり、また必要に応じて最新兵器に取り替えているだろう。
◆沖縄返還(2)。これは返還にかかる経費負担の話。(1)アメリカが支払うと定められた軍用地の原状回復費400万ドルを日本が払う。(2)短波放送中継局の移転費1600万ドルを日本が支払う。(3)日本がアメリカに支払う(どういう名目なんですかね)返還協定に記された3億2000万ドルとは別に、2億ドルを基地移転費などとして支払う、という3つの内容らしい。まあ、実際に返還する部分の移転経費もあるんだろうけど、それがいくらか誰もわからん。日本が支払った総額のどこまでの範囲かはわからんが、ベトナム戦争遂行のため投入され、たとえば軍需産業から爆弾などを購入するのにあてられたんだろうね。
◆ところで、すこし前に佐藤栄作の家から文書が出てきた、と新聞報道されていたが、これはどれに当たるんかな。たぶん沖縄返還(1)なんだろう。ノーベル平和賞を受賞した佐藤の虚偽が改めて批判されていた記憶があるので。
東京一極集中
◆名古屋は横ばいで落ち着いており健全だが、大阪は70年代以後、基本的に少しずつだが下がり続けている。
◆ついでに、いつの新聞かわからんが、例の景況感グラフ。これ、岡村さんが埋文の研修会やらで貼り付けていたことを覚えている。さすが主任文化財調査官だ。おれがこうしたグラフを、面白いなと思ったら新聞を取っておくようになったのも、岡村さんの影響だろう。
万葉の女たち
◆田中裕子のNHKドラマが気になってネットで調べた。田中裕子1955年生まれ、1979年NHKテレビ小説『マー
姉ちゃん』でデビュー。1981年、映画、『ええじゃないか』、『北斎漫画』(これけっこう話題になった)。オレの見たのは、4~5回シリーズのヤツ。どうやら1981年の『万葉の女たち』らしい。これ、帝塚山で考古学を学ぶ(たぶん堅田直のもとで)女子大生の話で、田中裕子、名取裕子、森下愛子、それと・・・、そんなことを覚えているのだ。展示室のカットがあり、土器が並んでいたからなのかも。このドラマについてはネットに引っかからなかったので、調べられなかった。樹氷のCMの起用も1981とのこと(『おしん』は1983年)。高校3年生だった、という計算。
原稿を削る
◆原稿用紙40枚くらいの原稿を書いてメール送信したら、編集者から電話が入り、長いと。おれは30枚だったから、ちょっと長いな~、でも削りにくいからなんとかこれでと思っていたが、電話によると、あんたのその原稿は10枚ですよ、と。ええ~!
◆本日、削りに削って16枚になった。削れるもんだ。編集子には20枚以内にと言われたので合格だろう。なんの原稿か、恥ずかしくて言えませんが・・・
◆本日、削りに削って16枚になった。削れるもんだ。編集子には20枚以内にと言われたので合格だろう。なんの原稿か、恥ずかしくて言えませんが・・・
不毛地帯
◆年末くらいから不毛地帯を見ている。こないだ新聞で、キャストもいいし作りもいいのに視聴率があがらん、と指摘していた。この木曜日も見た。カミさんが見ていて、毎週、録画されている。
◆カミさんは、商社の仕事がどうのこうの、あんな仕事よくやるわ、といったトーン。とはいえ、こっちは小雪目当てで、というより、おっさんの願望として、若い愛人をうらやましがって見ているわけだ。
◆ついでに・・・。はぐれ刑事で、事件が解決すると、真野あずさの飲み屋で藤田まことが一杯やっている。ああいうのにグッとくるわけだ。相棒でも、高木沙耶(字、ちがうかな)が。おれには縁がないが、美人ママのいる飲み屋に通う姿はあこがれる。
◆ついでに・・・。むろん若くて美形はいいのではあるが、同じくらいの年齢の女優も好きだ。あんまり出てこないが、富田靖子は好きだったし、いまでもいい(薬師丸ひろ子は嫌い)。元気さがよい。それと最近もブレンディのCMでよく見る原田知世。昔は別に好きではなかったが、いまはなかなかアジがある、と思うようになった。昔好きだったのは斉藤由紀。別にスケバン刑事を見ていたわけではない。いつどうなって好きになったのだろう。歌がすきだったんだろう。齊藤由紀のテープをずっと聞いていた。いまでもCDが確か2枚ある。むかし、いまは宮城県で教員をやっている当時岡大院生だったI氏の下宿で、意気投合しCDを2人で聞いた記憶がある。いまはもはやアホらしくて聞かないが、その頃としては、よかったわけだ。いま、彼女等もドラマに出るときは母親役だ。
◆ついでに、女優で好きだった人を列挙してみよう。まず田中裕子(誰かさんに似てるな~)。NHKドラマの「平城山の女たち」で、帝塚山の考古学徒で、春日大社の釣り灯篭の写真を撮影しているジーパン姿にグッときた。下宿に、樹氷を買ってもらったポスターを貼っていたな~。それから、その時すでにオバさんだった松原智恵子。わりと原田美枝子も好きだった。いまはそうでもなくなったが黒木瞳(いきなり今になるが、JINの中谷美紀と綾瀬はるかはよかった)。飛鳥の頃の竹内結子。いまは柴咲コウ。もっといたように思うが、思い出せない。むろん、今度の熱いものをすすっている壇れいはやっぱりいい。
◆アホみたいにどうでもいいことを書いているが、ひとつだけ。不毛地帯は最初の頃のシベリア抑留から帰ってくる頃などは見ていないのだが、この木曜日には1970年のシーンに入ったのだが、シベリアから帰って15年とか、そんな数字だったかな。1945年の終戦後、日本に戻るまで10年あるいはそれ以上かかった元兵士もいる、そうしたことがあったということに驚きを禁じ得ない。聞いたことはあったのだろうが、ほとんど自覚することはない。そんな歴史は今ほとんど認識されていないと思う。最近思うのだ。戦争なんて、終戦なんて、オレらの生まれるずっと前のことだと思っていた。しかし考えてみれば1964年生まれだから終戦後19年だ。ものごころつく1970年としても25年。しかし大学に入った1983年から25年足すと2008年、もうそれ以上の期間がたっている。大学に入ってから、例えば入学したときパソコンはなかった、しかし大学院生になって最初に奨学金が3ヶ月分入ったときパソコンを買った。いまパソコンはさらに驚くべき進化をとげた。だけど、1945年から1970年に生じた日本社会の変化ほど激しいものはないということだ。そして自分の生年が、いまの若い奴らに比べると、はるかに戦後間もない頃だったのだ、ということに気付く。そしてシベリア抑留者にしてみれば、帰国してその人にとってようやく終戦となったのは、自分の生まれたちょっと前に過ぎないことに。
◆カミさんは、商社の仕事がどうのこうの、あんな仕事よくやるわ、といったトーン。とはいえ、こっちは小雪目当てで、というより、おっさんの願望として、若い愛人をうらやましがって見ているわけだ。
◆ついでに・・・。はぐれ刑事で、事件が解決すると、真野あずさの飲み屋で藤田まことが一杯やっている。ああいうのにグッとくるわけだ。相棒でも、高木沙耶(字、ちがうかな)が。おれには縁がないが、美人ママのいる飲み屋に通う姿はあこがれる。
◆ついでに・・・。むろん若くて美形はいいのではあるが、同じくらいの年齢の女優も好きだ。あんまり出てこないが、富田靖子は好きだったし、いまでもいい(薬師丸ひろ子は嫌い)。元気さがよい。それと最近もブレンディのCMでよく見る原田知世。昔は別に好きではなかったが、いまはなかなかアジがある、と思うようになった。昔好きだったのは斉藤由紀。別にスケバン刑事を見ていたわけではない。いつどうなって好きになったのだろう。歌がすきだったんだろう。齊藤由紀のテープをずっと聞いていた。いまでもCDが確か2枚ある。むかし、いまは宮城県で教員をやっている当時岡大院生だったI氏の下宿で、意気投合しCDを2人で聞いた記憶がある。いまはもはやアホらしくて聞かないが、その頃としては、よかったわけだ。いま、彼女等もドラマに出るときは母親役だ。
◆ついでに、女優で好きだった人を列挙してみよう。まず田中裕子(誰かさんに似てるな~)。NHKドラマの「平城山の女たち」で、帝塚山の考古学徒で、春日大社の釣り灯篭の写真を撮影しているジーパン姿にグッときた。下宿に、樹氷を買ってもらったポスターを貼っていたな~。それから、その時すでにオバさんだった松原智恵子。わりと原田美枝子も好きだった。いまはそうでもなくなったが黒木瞳(いきなり今になるが、JINの中谷美紀と綾瀬はるかはよかった)。飛鳥の頃の竹内結子。いまは柴咲コウ。もっといたように思うが、思い出せない。むろん、今度の熱いものをすすっている壇れいはやっぱりいい。
◆アホみたいにどうでもいいことを書いているが、ひとつだけ。不毛地帯は最初の頃のシベリア抑留から帰ってくる頃などは見ていないのだが、この木曜日には1970年のシーンに入ったのだが、シベリアから帰って15年とか、そんな数字だったかな。1945年の終戦後、日本に戻るまで10年あるいはそれ以上かかった元兵士もいる、そうしたことがあったということに驚きを禁じ得ない。聞いたことはあったのだろうが、ほとんど自覚することはない。そんな歴史は今ほとんど認識されていないと思う。最近思うのだ。戦争なんて、終戦なんて、オレらの生まれるずっと前のことだと思っていた。しかし考えてみれば1964年生まれだから終戦後19年だ。ものごころつく1970年としても25年。しかし大学に入った1983年から25年足すと2008年、もうそれ以上の期間がたっている。大学に入ってから、例えば入学したときパソコンはなかった、しかし大学院生になって最初に奨学金が3ヶ月分入ったときパソコンを買った。いまパソコンはさらに驚くべき進化をとげた。だけど、1945年から1970年に生じた日本社会の変化ほど激しいものはないということだ。そして自分の生年が、いまの若い奴らに比べると、はるかに戦後間もない頃だったのだ、ということに気付く。そしてシベリア抑留者にしてみれば、帰国してその人にとってようやく終戦となったのは、自分の生まれたちょっと前に過ぎないことに。
大阪歴史学会とのつきあい
◆大阪歴史学会とのつきあいは2004年に始まる。会員でもなんでもなかった。積山さんから電話があり委員をやれと言われ、はいと答えた。説明をうけてはいたが、行ってみると企画委員長で、こりゃたいへんだ。でも、いまはどっぷりはまっているわけだ。しんどいのではあるが、やりがいをもってやっている。
◆月曜に委員会があり、いくつか感慨深いことがあった。ひとつは大会規定の改正案が出て、ほぼわたしの原案に近い線で落ち着いたこと、個人報告の公募を、会誌掲載だけでなく、全国の大学に試みとして書面で送ったところ、10本近く集まったこと、このふたつ。もうひとつ、次年度から年6冊化が決定した。
◆委員をやっての感想は、2年で事務局が変わるため、経験の蓄積がうまく伝わらずリセットを繰り返し、すべてがこれまで通りにやって2年を無事に終えるという姿勢。2点目はそれもあって、いまがいいのかという現状に対する問題意識が低く、改善していこうという姿勢が希薄で、提案しても、いつも継続審議で決まらないことだった。だがしかし、こっちも慣れてきた。次回、事務局でこれについて原案を提示してください、とか、こういう体裁について編集委員会で議論して次回報告してくださいとか、宿題を出すようになった。
◆企画が上手く回っているか、と問われればそうでもない。ちょっとどうにかせんといかん。でもそれはここでは。
◆会員がどれだけ意識しているかわからないが、最近、大阪歴史学会およびヒストリアはかなり変わってきたのだ。ヒストリアは紙もよくなったしオフセット印刷になった。本文中の写真も鮮明。わたしたちの文化財もなんとかつないでいる。別冊は出したし、特集もやった。あんまり投稿されないが、会員の声欄もつくった。現地見学検討会なんて、今城塚の時は20人ぽっち。それが宣伝を工夫して50人100人となってきた。総会の時に、大会参加者や総頁数、大会報告数、部会開催数と参加人数など、過去10年の経年表をつけるようにした。年6冊化もほぼGOとなった。そして、大会を充実させようという方向が、今回、ねらい通り個人報告に多くの手が上がって、ほんとうにウレシイ。部会報告者への旅費支給も。考古を盛り上げていくことは、依然として課題だが。
◆自慢、そうかもしれないが、ちょっと違うような気もする。とにかく、最近の変化は、だいたいオレがやったんです(えっへん)。もう代わってもいいかな、楽になりたいな、とも思うが、まだやることがあるので、いましばらく委員を続けようといまは思っている。
◆この前、だれかが遺跡学会のことを嘆いていた。「誰が作ったんや」とか。うまくいってないのかね~。その時思ったのは、まあ文化庁-奈文研主導で作られたのだろうが、それはそれとして、しかし、近藤義郎と考古学研究のように、私財を投げ売ってでもオレが育てるといった、それは極端にしても、そうした気概のある主導者が、軌道に乗り組織的に自己運動を始めるまでグイグイ引っぱらんとあかんのやろな~、ということだった。奈文研の人間は人間で、誰かがやらなあかんから仕方なしに、ではアカンし、外の委員も、まあ奈文研の研究会やから、と思っていてはダメだろう。実態はまったく知りませんが。
◆月曜に委員会があり、いくつか感慨深いことがあった。ひとつは大会規定の改正案が出て、ほぼわたしの原案に近い線で落ち着いたこと、個人報告の公募を、会誌掲載だけでなく、全国の大学に試みとして書面で送ったところ、10本近く集まったこと、このふたつ。もうひとつ、次年度から年6冊化が決定した。
◆委員をやっての感想は、2年で事務局が変わるため、経験の蓄積がうまく伝わらずリセットを繰り返し、すべてがこれまで通りにやって2年を無事に終えるという姿勢。2点目はそれもあって、いまがいいのかという現状に対する問題意識が低く、改善していこうという姿勢が希薄で、提案しても、いつも継続審議で決まらないことだった。だがしかし、こっちも慣れてきた。次回、事務局でこれについて原案を提示してください、とか、こういう体裁について編集委員会で議論して次回報告してくださいとか、宿題を出すようになった。
◆企画が上手く回っているか、と問われればそうでもない。ちょっとどうにかせんといかん。でもそれはここでは。
◆会員がどれだけ意識しているかわからないが、最近、大阪歴史学会およびヒストリアはかなり変わってきたのだ。ヒストリアは紙もよくなったしオフセット印刷になった。本文中の写真も鮮明。わたしたちの文化財もなんとかつないでいる。別冊は出したし、特集もやった。あんまり投稿されないが、会員の声欄もつくった。現地見学検討会なんて、今城塚の時は20人ぽっち。それが宣伝を工夫して50人100人となってきた。総会の時に、大会参加者や総頁数、大会報告数、部会開催数と参加人数など、過去10年の経年表をつけるようにした。年6冊化もほぼGOとなった。そして、大会を充実させようという方向が、今回、ねらい通り個人報告に多くの手が上がって、ほんとうにウレシイ。部会報告者への旅費支給も。考古を盛り上げていくことは、依然として課題だが。
◆自慢、そうかもしれないが、ちょっと違うような気もする。とにかく、最近の変化は、だいたいオレがやったんです(えっへん)。もう代わってもいいかな、楽になりたいな、とも思うが、まだやることがあるので、いましばらく委員を続けようといまは思っている。
◆この前、だれかが遺跡学会のことを嘆いていた。「誰が作ったんや」とか。うまくいってないのかね~。その時思ったのは、まあ文化庁-奈文研主導で作られたのだろうが、それはそれとして、しかし、近藤義郎と考古学研究のように、私財を投げ売ってでもオレが育てるといった、それは極端にしても、そうした気概のある主導者が、軌道に乗り組織的に自己運動を始めるまでグイグイ引っぱらんとあかんのやろな~、ということだった。奈文研の人間は人間で、誰かがやらなあかんから仕方なしに、ではアカンし、外の委員も、まあ奈文研の研究会やから、と思っていてはダメだろう。実態はまったく知りませんが。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。