人を幸せにする人になろう

宮崎駿はだめだ

◆きのうナウシカのリメーク版をテレビでやってた。もっているDVDよりはるかに鮮明。それにしても、ナウシカやラピュタ、あるいはその前の未来少年コナンは、現代文明に対する批判、若者の一途な夢など、爽快で、また考えさせられるアニメだった。となりのトトロもまあ許す。
◆ところがだ。その後のヤツはなんだ。みな礼賛するのかもしれないが、つまらんよな。映像はきれいかもしれないが、何が言いたいのかわからん。宮崎アニメの影響力たるや想像以上だ。だからこそ、もっと、みなに訴えて欲しい、メッセージを発信してほしい。アジテートする必要はないが、現代社会に対する警鐘など、きちんと伝えるようなもの。若い者、あるいは小さい子供、未来を担う世代に、大きな影響を与えうるmの。夢や冒険なども良い題材だろう。そうした影響力を発揮して欲しいと思うのだが、なんだっけ、もののけ姫とか、それから千と千尋とか、あんなん、なんなんだ。
◆ナウシカやラピュタなど、あそこに出てくる主人公、ああした人物像こそが、子供らに大きな影響を与えると思う。それ以降は駄作だ。

河内大塚山古墳はやっぱり後期なのか

◆河内大塚山古墳に入って、いきなり、流布している陵墓図がぜんぜん現状を正確にとらえていないことに驚ed9ace6b.jpgいた。一般に陵墓図は、当時の最先端測量技術をもちいた正確な図面に仕上がっていると思うが、なぜに河内大塚山はダメなのか、それはそれで考える必要がある。
◆保存状況の良い陵墓については、立ち入っても、図面通りの古墳でしたとしか言いようがないのだが、今回は、とにかく現状を観察し、それを目分量で位置を落とし、メモを書き込んでいくという、実質的な立ち入り観察となった。河内大塚山古墳については、今後の検討に際して、あの図面しか手がかりがなかったものが、今回の立ち入りにより認識した現状を基準に考えていく必要があり、その意味で、立ち入り観察による現状把握は大きな成果をもたらしたと思っている。
◆議論の中で、わたしは知らなかったが欽明のモガリが古市で行われ、大塚山を未完の欽明墓とみる意見があることを知った。やっぱり「ごぼ石」の存在が大きい(今回、第1段から仰ぎ見て、石の上半部が見えた)。4*3mの花崗岩は横穴式石室の石室材と考えるにふさわしいわな~。じゃあ列島5番目のあの墓はなんなのか。6世紀にそれにふさわしい被葬者はいるんだろうか。
◆今城塚も3段とみられるようだし、今回観察した3段築成の状況は、なんとなく今城塚に似ているような気がした。今城塚を土師ニサンザイと比較すると、後円部がかなり小さくなっているが、大塚山の内部で見た中段・上段のあり方は、現状の後円部汀の径に比してやや小さいかなという印象がある。むろん、後円部の現状を把握したといっても、新たに図面が作られたわけではないので、正確な段の状況は復元できないが、これを機会に、再度、墳丘からどこまで迫れるのか、追究してみる必要がある。

恵解山の委員会(2月15日)

◆これから3月まで、いくつか会議が入ってきた。大阪府、和泉市、高槻市、堺市、城陽市・・・(まあ、そんなに多くはない)。で、恵解山古墳の会議だった。委員長は中尾先生で、都出先生もメンバー。都出先生とお会いできるのが楽しみな会議だ。高瀬さんは、紀伊風土記の丘に週2通っているとはじめて聞いた。いま発掘してるから見に来いと。3c28504a.jpg
◆現場は面白い。まあ、ここはしつこく掘ってます。このあと現地説明会があるし、詳しく書くことはシンドイしやめておくが、やっぱりくびれ部、造出、の調査区が派手である。自分としては、周濠の隅と後円部の調査区の掘り方が気になった。下げ足らんのとちゃうか、と。去年は雪降るメッチャ寒い日にぶちあたり大変だったが、この日も雨だった。けど、おれは雨男ではありません。
◆いよいよ、来年度、上半期に補足調査は入るが、基本設計に進む。おおよその絵はできあがっており、あの傷んだ墳丘をどのように復元するのか、また墓地との住み分けをしていくのか、基本線はあるが、この日の会議でも話題になった。新しく古墳を作るに近い、かなりの土量を入れることになる。心合寺山もこれに近かったのかもしれないが、それ以上のように思う。
◆さて、この日の会議の収穫は、委員である元文化庁同僚M氏との会話だった。たばこは医者にやめろと言われたが、それにしたがうのは癪なので、「やめてない!吸ってないだけだ!」そうだ。あのM氏もついにたばこをやめたのか(いや、吸わなくなったのか)。やっぱり、なにかないとやめれないものだ。オレも時々、自覚症状がある。で、その日はそうした感慨で、やめようと決意したわけだが・・・。

監視社会

◆昨年来、新大阪駅に行くことが多い。カミサンの迎えだ。相模原に住んでいて週1回、大阪に戻るたび、金曜日00b70fdb.jpgの最終新幹線で帰るのを迎えに行っていた。10月からそれは解消されたが、前職の関係や研究会など、いまなお週2回東京に行ったりしているので、その都度、遅いときは車で迎えに行く。
◆22時に大学を出て、新大阪駅のロッテリヤでパソコンを開き、時間を待つ。金曜日最終の23:47分で着き、柏原の家に戻る時間帯は、ちょうど探偵ナイトスクープの時間で、ETCのテレビで流している。
◆それはさておき、こないだ行ったとき、改札のひとつひとつに向けて監視カメラが設置しているのに気付いた。これ、前にあったかしらん。ともかくもそういう社会になってしまっているわけである。

とほほ・・・

◆昨日(2月17日)、やっと卒論・修論の試問が終わった。例年以上にピンチで、よく間に合わせた。うちは日本史で、世界史ともミックスする。とはいえ最近は世界史の卒論がまわってくる本数は少なくなったが。学生の作品、きちんと読んで評価してやらなければならない。またそれがこちらの勉強になる。今回で言えば、古代史の、大兄、風土記、任那復興などは、面白かった。また修士論文は事務的には主査1+副査2だが、日本史では全員が読むことになっており、古代でも中世でも近世でも近現代でも、すべてだ。
◆試問は苦手だ。ちゃんと読んで、メモを作り、とはいえ、主査とのやりとりを聞きつつ、質問などをセレクトしたり順番を考えたり。これいまだ慣れなくて苦手意識がある。考古の卒論は少ないから多くは副査なわけだが、本論に即した適切な質問が求められる。また、内容そのものは主査とのやりとりがあるから、入り口のところとか、周辺とか、その論文内容の位置を確かめるために、主題となっている時代の前や後のこととか、むろん、資料の収集や分析方法とか、そういうことも意識している。よくできた論文はきちんと褒めるべきだし、そうでないものも評価できるところは指摘しつつ、言うことはいわなければならない。要するに指摘しておきたいことや印象や感想を的確に言うことが求められるが、なかなかうまくしゃべれないものである。その点は栄原先生はさすがた。話す内容、話し方、きき方、また和やかな雰囲気を醸し出す、あのしゃべり。
◆大学は一番忙しい時期で、大学院入試もあるし、後期の試験の採点や成績提出、すぐに大学入試と、あわただしい。ともかくも、試問を乗り切って、ほっと一息。帰って、2部の後期試験の採点を今晩中にやらんといかん。

河内大塚山立ち入りに際してのレジュメ

河内大塚立ち入り観察メモ(2010.02.18.)岸本直文(大阪歴史学会)

河内大塚山古墳は未完成か

(1)河内大塚山古墳の年代観
・近世末 雄略陵(丹比高鷲原陵)説
・1968上田宏範『前方後円墳』 土師ニサンザイ古墳(D型式)に酷似 これに後続するもの(倭王武)
・1978森浩一『大阪府史』第1巻 中期古墳とされてきたが、埴輪の欠落を未完成とみることも一案だが、「ごぼ石」の存在からも、埴輪が樹立されなくなった後期古墳となる可能性がある。
・1979石部正志ほか「畿内大型前方後円墳の築造企画について」(『古代学研究』89) 剣菱型前方部
・1981原島礼二ほか『巨大古墳と倭の五王』 低平前方部+剣菱形前方部+埴輪なし+ごぼ石=年代は下降する。
・1983近藤義郎1983『前方後円墳の時代』 墳丘寸法の類似から上記を承けて五条野丸山に近い6世紀後半
※5世紀後葉の雄略陵(丹比高鷲原陵)との見方→森浩一が年代下降示唆→後期古墳との見方が定着

(2)後期の倭国王墓だろうか
・継体の三島藍野陵=今城塚古墳(高槻市)
・安閑の古市高屋丘陵=高屋築山古墳(羽曳野市)
・宣化の身狭桃花鳥坂上陵=鳥屋ミサンザイ古墳(橿原市)
・欽明の檜隈坂合陵=五条野丸山古墳(橿原市)
・敏達の未完陵=平田梅山古墳(明日香村)※高橋照彦説
※河内大塚は丹比にあり、列挙した6世紀の倭国王墓で丹比を冠するものなく、また上記の比定で敏達陵をのぞき異論は少ない。あてうる倭国王はいないのではないか。敏達の可能性が唯一残るが、敏達の本拠を考えた場合、桜井周辺ないし広瀬郡であって、河内の丹比に王墓を営む蓋然性は低いだろう。
※倭国王墓でないとの見方や、安閑陵など、陵墓名が正しくないとの見方に立てば、なお検討の余地はある。

(3)やはり中期古墳ではないのか
・河内大塚は百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間にあり、大津道に面する。大津道の整備は7世紀であろうが、前身は5世紀にさかのぼるだろう。河内政権の段階において、外港である住吉津ないし大津川河口(百舌鳥)から、本拠古市をつなぐ陸路がなければならない(磯歯津道を含め)。大津道に平行する5世紀後半の溝も検出されている。
・河内大塚はこうした東西道(大津道の前身)に前方部を向ける。河内政権の時代にふさわしい。

(4)未完成ではないのか(中期古墳とすれば)
・中期古墳とすれば埴輪・葺石がないことはまず考えられない。
・前方部が低いのは、五条野丸山に通じる最後の前方後円墳の時期であることを示し、かつ大塚村があったからと理解されているが、5世紀後半の王墓とすると前方部が後円部を凌駕しもっとも高まる時期。それを崩したとなれば、丁寧な搬出を考えない限り、現状のような整った前方部の形態を留めていることは理解できない。
・後円部はあまり着目されていないが、ほぼ同規模の土師ニサンザイ古墳で汀から高さ約24mあるのに対し、大塚山は約19mである。20m近くほぼ円丘に盛られているとはいえ不整であり、斜面に明瞭なテラスはない。
※中世には丹下城、のちには天満宮(大塚社)、墳丘東側に寺院があった。→後円部の墳丘斜面の観察
・後円部の周濠はかなり浅そうである(前方部側は不明)。墳丘盛土は濠を掘削して基本的にまかなわれるが、
周濠が浅いとすれば(【追記】工事立ち会いの見学会に参加しなかったので、こう書いたが、実際、浅いそうである)、掘削土量が完成までに必要な量に達していないのではないか。
・[参考となる未完成の類例]岡山・赤磐市両宮山古墳は、大仙型の前方後円墳(5世紀第3四半期)で、確実に埴輪・葺石がなく、また再測量により墳丘が完成された姿でないことが明らかになった。200mの前方後円墳がほぼ盛土工程を終えながら未完であることは、雄略朝における吉備の叛乱伝承と結びつけうるだろう。
※墳丘を割り付け、周濠部分を掘削し、外周と墳丘を画し、後円部に盛土したところでストップしたか。

(5)河内大塚山古墳の位置づけは難しい
・しかし「ごぼ石」(4×3m)は横穴式石室の石材とみるのがふさわしく、西田孝司氏によれば、これ以外にも持ち出された石材があり、毛利家文書に「磨戸石」との記述が残る。

◆立ち入っての結果は、明日の新聞報道を待って、また書きます。

大阪府の公文書館

◆いまの住吉区帝塚山にある大阪府立公文書館を府政情報センターと統合するというので、大歴と大阪歴科5bc27ae0.jpg協で要望書を出し、本日、府庁で情報公開室と話し合いをもった。これもまた、まとめて『ヒストリア』3月号の原稿を書かなきゃならん。
◆具体のタイムスケジュールとしては、府庁のWTC一部移転が秋後半に始まり、そのあとなので、大手前本庁への資料移管は2010年度でも2011年に入ってからになるようだ。現公文書館機能が新たな体制で動き出すのは2011年度になるのであろう。
◆実態として、府庁各課には、なお把握されていない文書もあると思われるが、平成15年度以降、リスト作りやその仕分けはルール化されており、これに公文書館の統合を実現させることによって、大阪府の公文書の取り扱いの骨格は、2010年度の検討・準備を経て、2011年度にはできあがるということのようである。
◆大阪府の府政の情報開示は進んでおり、自負もあるとのことであり、これに公文書管理法の趣旨にしたがい、過去の膨大な文書についても、適正な管理と公開の筋道をつけていこうという意気込みを感じた。
◆情報公開重視という知事の強い意向があるから、お会いした室長さんはとくに有能な幹部を当てているであろうし、事実、受け答えからもよくわかった。その発言はよく理解できたし、オレは同行者と違って、モノわかりがいいので素直に受けとり、きっときちんとやってくれるんだろうと思っている。やりとりもフランクだったし、これからも話し合って意見交換をしていくのもOKで、各段階で進捗を聞くことができそうである。

中塚明氏の講演

◆で、昨日の2.11集会は中塚明氏の韓国併合の話だった。頭が痛くて、講演が終わったらすぐ帰ったのだけれど、ちょっと書いておきたいと思ったことがあった。
◆まず事実関係として。ひとつは、これこないだNHKでも見たが、江華島事件の事実。対外的に取り繕った公式報告でなく、館長が長崎だったかどっかに戻ってただちに本省に送った詳細な報告書がある。内容の差の詳しいことは忘れた。いずれにしても、要ははじめからコトを起こすことを目的としていたわけだ。もうひとつ何だっけ、閔妃殺害だが、これ会津っちゅうたか、福島あたりの図書館?、なんかどっかで、詳細な報告書?が見つかって、いままで決定的な証拠がなかったものを、日本公使館主導でコトが起こされたことがハッキリしたのだとか、そういう話があった。確かに他国の軍隊が王宮に押し入り執政者を殺害するなんてことは西欧列強もやったことはなく(ほんまか)、ソウルの各公使が本国に日本の蛮行を報告していることが紹介された。
◆不確かなネタで申し訳ないが、上記のように、これまでなおハッキリしない、日本軍がわざとやったかもしれないが証拠はない、みたいに言われていたことも、はっきりしてきているようだ。
◆「日韓併合」は間違いで「韓国併合」なんだそうです。でもはっきり「朝鮮占領」とした方がよりよいだろう。
◆もうひとつ「日清戦争」だが、主として朝鮮における主導権をめぐるものだという意味合いが表現されていないことが気になる。
◆さて、ブログに書いておきたいと思ったことは上記とは別。
◆中塚氏は、NHKドラマの「坂の上の雲」を問題にしている。伊藤博文のこととか、日清戦争を描きながら、朝鮮の人々などの姿がほとんど出てこないとか。ちなみに、ウイキで例えば閔妃を調べると、昨年報道ステーションの特集では犯人を日本人とし、現場にいた国王と王子が殺したのは朝鮮人だという証言があるが説明はなかったとか、年末の「坂の上の雲」第5回で、「朝鮮で大事件が起こった。王妃・閔妃が、三浦梧楼公使率いる日本人たちによって暗殺されたのである」というナレーションに対する反論が書き込まれていたりする、のもこれに通じる。
◆まあ、やっぱりカチンと来る奴がいるということだ。しかしこれ、先述したように新出資料もあって大勢は決したのであろう。それだけではこの国は変わらんのやけど、まずは学問的に白黒をはっきりさせることだ。いずれ、ちょっとだけ調べてみよう。
◆いずれにしても、朝鮮半島での日本の行為を知らなさすぎる。たとえ朝鮮が為政者集団が特権化し、また日本の幕末維新期あたる重要な時期に王室内部がゴタゴタしていようが、そして日本がハングルを普及させようが、国家予算をつぎ込んで近代化させようが、それによって「朝鮮にとって良いこともしたんだ」と朝鮮占領が正当化されるわけではない。ということが理解されておらず、『嫌韓流』という漫画に典型的なように、若者の多くが「日本はこんな悪いことをした」ということに反発する風潮があるのは、きわめて深刻で危険なことである。
◆台湾出兵はあったものの、近代日本のはじめての対外戦争で、最初はビクビクしていたのに、「勝った勝ったまた勝った」となり、天皇も政府も民衆も、戦勝に酔っていく様が恐ろしいと思う。

2.11集会

◆2月11日の集会、こんなん行ったことはなかったが(大学の時、民青シンパの友人から誘われたが行かなかった)、大歴の委員になって、お勉めとして参加するようになった。ちなみに「科学運動」という言葉が嫌いで、オレは学会の「社会的活動」とかなんとか言っているが、日本史系の人はああいう言い方をするよな。科学ですと宣言しなくても、人間としてまっとうな主張をする、抗議する、注文をつける、説明せよと言う、別に特殊でない普通のことだと思っている。
◆ちなみに奈文研で組合の委員長をさせられたのは、ほんとうにヒドイ話だった。あんな義務でしかない活動はやめたらいい。組合って、頑張ってる人がいて、新入りなどを巻きこんでいって、だんだん世代交替して受け継がれていくべきもんでしょ。必要ないというのではない。昔熱心にやってた人などもすべて退場して、ぜんぶ若い者に任せ、それでも人がいないから、新入りで間もないわたしなんぞに、順番やからといって委員長をやらせるような運動体がまともであるはずがない。ちなみに、大阪市大の組合は最初入ったが、単身赴任手当の要望をしたら、当局のような受け答えでまともに取り合ってくれなかったからやめた。
◆で、お勉めで行くようになったが、これもいい機会かな~と思うようになった。運動体は労働組合とか昔ながらのもので、平和を考えましょうという、もうすこし幅を広げた方がいいと思う。だが、今年は400名と、昨年以上に会場が満杯になり、講師の先生の話を聞いているのを見ると、スタイルは古いんだろうし、あまり若返ってもいないんだろうけど、それでもこれだけの人が聞きに来るということに、ちょっと感動めいた気持ちになる。また執行部のような層は別に、聞きに来る人はむろん意識がある層だとは思うが、特別でない普通の人で、わりと純粋な気持ちから来ているように、わたしには見える。なんか、こういうのもヨイモンダと思った。
◆年1回、こうした講演を聴くというのもよいか、となんだか思うようになった。

永井津記夫のワカタケル471クーデタ説を読んでみました

◆前から勧められていた『季刊 邪馬台国』67の永井「辛亥の変とワカタケル」を読んだ。これ、継体紀の辛亥年に入れられている「天皇と太子と皇子が死んだ」という記事を、別に531でなくてもいいと考え、一巡遡らせ471とすれば、これが安康が死んで白黒やイチノベを殺して雄略が即位したことに符合するから、クーデタおよび雄略即位年が471ということだと主張するもの。
◆継体没年をめぐっては3つの年があり、もめている。だが、百済本記において「辛亥年に日本の天皇・太子・皇子がともに死んだ」という記事を、高句麗王が死んだ年(531)とならべている(百済本記段階からの組み合わせと永井はみる)ことにも百済側として一定の根拠にもとづくのだろうし、日本書紀編纂者が不可思議な「あとの人の研究に委ねる」みたいな態度が表明されているとはいえ、これを継体25年分注に記したことも、継体にかかわることという理解あってのことだろう。そして意見は分かれているが、欽明即位年が日本書紀と他史料で食い違うことから、継体と安閑を排除するクーデタを山尾幸久は想定している。
◆そしてたぶん新納さんは、継体を擁立した勢力と欽明をかつぐ勢力との間の確執を想定しており、大伴が後退し蘇我が台頭してくることとも関連あるとみているはずだ。
◆531年に書紀は位置付けていること、531における政変が、古くからの二朝並立説などを含めて文献史でも指摘され、そして考古学的な追究はなお足りないにせよ、権力主体の交替も示唆されている。なので、まずは531とは考えにくい、疑問だ、ということが前提として論じられる必要がある(が、ない)。
◆次に、で471だが、ワカタケル即位年が471であるという理由はなにもない。「ワカタケル即位前にいろいろ死んでいる、これが百済本記の記事に対応するんではないか、だから辛亥だから471になるんとちゃうか」ということだ。しかし、これはあくまで発想であって、それが確からしいという論証がない。あえていえば、雄略8年の呉国への派遣が471即位だと478になるから倭王武の上表の倭国伝とあう、という指摘くらいである。ただしこれも、雄略元年を457と書記紀年にしたがった時、雄略6年に呉国から使者が来たという記事があり倭国伝の462にあう(済の世子興、武がワカタケルというのは有力だが決定的ではない)。雄略期に呉国関係記事はいくつかあり、それが宋書などと対比し、471即位ですべて合致する、説明がつくというなら、それは論証になっていると思うが、うちひとつを取り上げているにとどまる。
◆471の傍証に稲荷山鉄剣を持ち出すのも根拠にならない。辛亥年にこれを記したというのが、オワケがクーデタにおいて大きな役割を果たしたからだ、というのは空想である。断っておくが、論文としての説得性を問題にしている。稲荷山鉄剣に年号を記すこと、それが「景初3年」など重要な年だからこそ書き込まれるということは考えうるだろう。だが、それが雄略即位年を示すなんて、どっからも出てこないと思う。
◆いまのところ、ナルホドとはまったく思わない。允恭没年は453ないし454で記紀でほぼ一致し、そのあとゴタゴタはあるが雄略が登場してくるということ(日本書紀では457)を大きく見なおさなければならない(471まで下げなければならない)理由は見当たらない。通説的な見方を墨守する必要はないが、それを脅かすものにはなっていないと思う。

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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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