人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
福士成豊
◆福士成豊の残したものに鳥の剥製があり、山階鳥類研究所が関係資料を引き取ったとのこと。福士成豊について、函館市のHPから。
福士 成豊(ふくしなりとよ)1838年~1922年
【函館の副基線を測量し、北海道三角測量が全国の測量と結びつく基礎をつくり、函館港湾の測量に従事した続豊治の子】
日本初の洋式帆船となった箱館丸を建造した船大工である続豊治の子として、天保9年、函館山之上町に生まれる。天保13年、5歳の時、回船業を営む福士長松の養子となる。9歳で私塾である愛池堂に入学し5年ほど学ぶ。その後、実父の豊治について造船技術を学び、箱館型スクーナー船(*簡単な説明がほしい)を建造した。しかし、より高度な造船技術を習得するためには英語を学ぶ必要があり、函館駐在のアメリカ代理領事であるダブルュ=アール=ペーテ(*調べる)に英語の指導を受け、さらにイギリス人ポーターの経営する商会に5年間勤務し、語学力をつけた。この間、新島襄と出会い、彼の米国へ脱出の力になったことはよく知られている。また、イギリス人ブラキストンから、測量・機械・測候・博物学を学んだ。
慶応2年、ポーターの商会を辞め、再び造船界に転じ、箱館奉行の御船大工棟梁見習となる。明治元年5月には苗字帯刀を許され、名を成豊と改める。11月には、箱館府の外国方運上所出役通弁兼器機製造掛趨事席となる。さらに2等訳官を経て、開拓使の官吏となり、明治5年に自宅に日本初の気象測量所を設けて本格的な気象観測を始める。
その後、函館地方の沿岸測量を行い、さらにアメリカ人技術者ワッソン=デーらの指導のもとで実施された三角測量に従事する。明治8年、ロシアのペトロパブロフスクに出張し、翌年に千島列島を調査し「クリル諸島海線見取図」を作成する。その後も北海道の測量や気象観測事業の上で指導的役割を果たし、北海道庁時代初期にはイギリス人メークとともに函館港湾調査に従事する。明治24年3月に退職し、札幌に居を定め悠々自適の余生を送った。
福士 成豊(ふくしなりとよ)1838年~1922年
【函館の副基線を測量し、北海道三角測量が全国の測量と結びつく基礎をつくり、函館港湾の測量に従事した続豊治の子】
日本初の洋式帆船となった箱館丸を建造した船大工である続豊治の子として、天保9年、函館山之上町に生まれる。天保13年、5歳の時、回船業を営む福士長松の養子となる。9歳で私塾である愛池堂に入学し5年ほど学ぶ。その後、実父の豊治について造船技術を学び、箱館型スクーナー船(*簡単な説明がほしい)を建造した。しかし、より高度な造船技術を習得するためには英語を学ぶ必要があり、函館駐在のアメリカ代理領事であるダブルュ=アール=ペーテ(*調べる)に英語の指導を受け、さらにイギリス人ポーターの経営する商会に5年間勤務し、語学力をつけた。この間、新島襄と出会い、彼の米国へ脱出の力になったことはよく知られている。また、イギリス人ブラキストンから、測量・機械・測候・博物学を学んだ。
慶応2年、ポーターの商会を辞め、再び造船界に転じ、箱館奉行の御船大工棟梁見習となる。明治元年5月には苗字帯刀を許され、名を成豊と改める。11月には、箱館府の外国方運上所出役通弁兼器機製造掛趨事席となる。さらに2等訳官を経て、開拓使の官吏となり、明治5年に自宅に日本初の気象測量所を設けて本格的な気象観測を始める。
その後、函館地方の沿岸測量を行い、さらにアメリカ人技術者ワッソン=デーらの指導のもとで実施された三角測量に従事する。明治8年、ロシアのペトロパブロフスクに出張し、翌年に千島列島を調査し「クリル諸島海線見取図」を作成する。その後も北海道の測量や気象観測事業の上で指導的役割を果たし、北海道庁時代初期にはイギリス人メークとともに函館港湾調査に従事する。明治24年3月に退職し、札幌に居を定め悠々自適の余生を送った。
2023年5月7日(日)、松前の福山城2
◆で、旧幕府側が蝦夷地に入ると、函館を押さえ、松前藩を押さえということになる。新たに「館城」が造られ、そっちに藩主も移動していて、松前城の守備兵は50人程度だったという。で早くに勝敗の決着はつく。この時、敗走する側が火を放ち、このため町の3/4が焼亡してしまったという。なので、古い屋敷やら町屋などはほぼ残っていない。そして、函館戦争時に、松前藩兵が奪還する。
◆この城、雪国の城なので、瓦葺きでなく、銅瓦というのと銅板葺きであった。
◆そしてさらに。以下、ウィキ。
松前城は政府や道庁に保存の補助を働きかけたが実現せず、天守を改装して公会堂に利用していたが、昭和初期には修理続きで無用の長物扱いもされる状態であった。しかし、1935年(昭和10年)6月7日、城跡が国の史跡に指定され、1941年(昭和16年)5月8日には、天守、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)6月には、軍の命令により、天守が敵の目標となるのを防ぐため、藁縄を編んだものを天守に被せて遮蔽した。戦後、この網を除去したが、白壁が崩れて建物は骨ばかりとなり、鯱も落下している状況となった。1946年(昭和21年)に国が調査を行い、1948年(昭和23年)度に国と道で修理工事を行うことになったが、道が資金を捻出できず1949年(昭和24年)度に修理を行うこととなった。この解体修理を始めようとした矢先、火事に襲われる。1949年6月5日午前1時10分頃、国の史跡・松前奉行所跡であった松前町役場の当直室から出火したものが飛び火して、午前4時には天守と本丸御門東塀を全焼。
2023年5月7日(日)、松前の福山城(19世紀中頃)
◆がコメは取れない。3000石とか7000石とか、換算というより、処遇をどのくらい相当にしておくか、というところなんでしょうか。参勤交代もたいへんで、3年ごととか配慮してもらったらしい。
◆で、天守の展示では、19世紀前半、一時期 青森県に移封されている。「なんでかいな」と思ったが、そう、ロシア船などの近接に対し、松前を幕府直轄にしたのですね。が、なんとか戻り、次は築城を命じられる(嘉永)。
◆「松前館」をベースに、高崎藩の兵学者が縄張りし、城へと変貌を遂げる。これを福山城というのだそうである。3万石だかに格上げも。グリーンタフの石垣で、石切丁場も調査されている。
2023年5月6日(土)、函館2泊目
◆福島から先は海岸に海が迫り、陸路は内陸に入る。そこを抜けると知内(しりうち)、そして木 古内となる。有料道路が木古内まではのびていて、それに乗りました。
◆で北斗市に入ると、沿岸部になにやら大きな工場。で、そこから湾内に橋が伸びている。あれはいったいなんなんだ。調べてみると、セメント工場で、山側から石灰石を運び込む8km?におよぶコンベヤーがあり。作ったセメントを湾内にのびる橋で沖合へ運び、船に積み込むのだそうです。
◆宿に帰り着き、食べに出る。昨夜よりずいぶんましで、すんなりと入れました。おっちゃんがとてもいい人で(漁師をやめてからだいぶ経つようだが)、ホッケ刺しなど、おいしくいただきました。
◆宿に帰り着き、食べに出る。昨夜よりずいぶんましで、すんなりと入れました。おっちゃんがとてもいい人で(漁師をやめてからだいぶ経つようだが)、ホッケ刺しなど、おいしくいただきました。
2023年5月6日(土)、伊能忠敬像
◆白神岬から東へ進むと、福島町、千代の富士のふる さとらしいですね。その吉岡というところを通過中、なにやら銅像があって、少しかがんだ姿勢で、もしかして測量か?、ということになり、しばらく先に進んでいたが引き返す。
◆伊能忠敬でした。55歳、最初の蝦夷地の測量は、渡海の時期が遅く、また測量許可の関係もずれ込み、計画通りとはいかず、ここから函館までの測量に切り替えたのだとか。伊能さんの全国測量着手の最初の起点がここ、ということらしい。【追記】間違い。この時、奥州街道を測量しながら津軽に行っているので、全国測量の起点でなく、蝦夷地測量の起点が正確。説明看板の標題もそうなっていました。
2023年5月6日(土)、上ノ国勝山館
◆洲崎館と花沢館、この2つもめぐるべきでしたね。出張で上ノ国に泊まった時、武田信広とか、勝山館をめぐる歴史年表など、もらった資料を読んだことを覚えている。むろん、中身はすっかり忘れている。
◆その後、勝山館は史跡整備が進められ、ガイダンス施設もできあがっており、そこへ行く。1996年は海岸べりの旧笹浪家住宅のところから、館へ向かう道を歩いて上がっていった。
◆もらってきたパンフレット類によると、割と早くに本拠地を松前に移し、城代を置いていたようである。コシャマインの蜂起の話は1996年当時も知っていたが(15世紀中頃なんですね)、武田信広と結びついていなかった。以下、ウィキ。
応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市銭亀沢支所管内にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。
製鉄技術を持たなかったアイヌは鉄製品を交易に頼っており、明や渡島半島から道南に進出した和人(渡党、道南十二館などを参照)との取引を行っていた。しかし1449年の土木の変以後、明の北方民族に対する影響力が低下すると明との交易が急激に衰え、和人への依存度が高まった。一方、安藤義季の自害により安藤氏本家が滅亡し、道南地域に政治的空白が生じた。
そこにアイヌの男性「オッカイ」が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。
1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁によって派遣された季繁家臣武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。
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プロフィール
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雲楽
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。