人を幸せにする人になろう

16学協会の運動この10年

◆わたしは90年代前半、考古学研究会の陵墓委員だったが、90年代後半には抜け、ふたたび2004年から大阪歴史学会の担当でかかわっている。90年代前半、まだ若くて、とくに発言するものももたないし、年配の方々の活動をみていただけ、ということもあるが、マンネリだったと思う。7月の懇談会では、同じことを質問し、同じような回答。言うことは言わねばならんから、同じことを問い続ける必要はあるが、戦略はなかった。1例だが、事前調査の見学枠を1学会2枠から3人にしたのは、わたしが発言したからです(ささいなことだが、そういう考えられる1歩前進を求めていくという姿勢に欠けていた)。
◆それに比べると、この10年、とくに2000年代に入ってからでしょうか、若い人たちが加わり、情報公開で資料を求めたり、合宿をやったり、懇談会前の打ち合わせが念入りになったり、ずいぶんとタバで動く機運ができてきた。その一環が立ち入り要望であり、ものの見事に実現した。これはわたしが2004年度から再び関与するようになる以前、直前のことで、立ち入り要望を出そうという議論には加わっていない。幹事団体の日本考古学協会の担当では、菱田さんが立ち入り要望をまとめ、高橋浩二氏が第1回の立ち入り実現まで苦労され、そして昨年来、福永伸哉さんが、実にうまくさばいておられる。
◆なので、会場から、もっとやれ、不十分だ、という意味に近い発言もあったが、90年代前半にくらべると、ずいぶんと活発なのです。ここ10年の総括にからむので、こう発言した。
◆それをちゃんと評価してやれよ、という趣旨の一方で、たしかに、もっとやることや、やりようはある。あんまり派手なことではない。地道なこと。それが、どうしても閉会前に言いたかったこと。
◆飯豊陵の時に、規模も小さく、柵の外からでも調査区を見ることができるので、内部に入れるのは学会の人間だけだが、一般の人に呼びかけて、学会側で外で説明することができないか、ということを考えた。しかし、安全面など、学会側で責任をもつことはできないし、実現しなかった。それが堺市の御廟山で実現した。しかし、この同時調査は、別に学会運動が功奏したものではない。世界遺産がらみとはいえ、堺市だからこそ、ああいうことが可能だったのであり、その要望に対して、宮内庁が応じたことも、きちんと評価すべきだろう。堺市と宮内庁の関係者の尽力による。
◆われわれとしては、ああいうことに学ぶべき。実際にわれわれが何かできるか、むつかしい。しかし、7月の懇談会時に、わたしは言った(ブログに書いた覚えがかすかにある)。コナベは御廟山とまったく同じ条件ですね、と。要は、奈良市が堺市と同じような調査はできないとしても、日を決めて一般公開を要請することはできるだろう。やる気になりさえすれば、書陵部と話をして、公開日を設定するということは可能ではないか。学会としては奈良市に働きかけるなどのことが必要だった(そう思うのなら自分で動かなければならないのだが・・・)。7月の懇談会では、思いっきりそれをほのめかしたのだが、そうしましょう、という声は上がらなかった。そのへんが問題だろう。
◆カクアルベシという話も重要かもしれないが、いまやるべきこと、やれることが、あるんではないですか。文化庁時代、和田勝彦氏は、役所は「そんなこともできないのか」という、そういう声に弱いのだ、と。難題は一挙に解決しない。ちょっと努力すれば、歩み寄ればできること、それを求める、実現する、そしてまた半歩前進するような課題をぶつける、それが大事だと。

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HN:
雲楽
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60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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