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人を幸せにする人になろう

そのあとと日曜日

◆終了後、会場にS君が来てくれていて、場所を移して話をする。彼は車でドリンクだが、こっちはワインをがぶがぶと。いろいろ話を聞きました。これはこれで何とかならんもんですかね。ひとまず事情は理解した。
◆大学に寄らずそのまま家に帰り着き、そのままダラダラ休むことにする。翌日も、先週来の疲れがあり、1日休もうかとは思っていたが、いくつかすることはあるな~と思いつつ、まあ月曜日は月曜日!、ということで。
◆日曜日、橿原博物館に継体の展示を見に行きました。9時前に着いて、外の横口式石槨などを見て、入館。800円か、高くなりましたね。いろいろ感じるところはあるが、ひとつだけ。展示と図録はむろん対応し、何を見てもらうかを考え、図録の原稿を作りつつ、それも使いながら展示パネルも作られていくんでしょう。が、展示パネルがおろそかになっているように感じるのです。
◆隅田八幡の鏡があると、それがどういう意味をもつのか、継体朝の理解にとってどう重要かが伝わらない。また尾張型埴輪があると。で尾張の埴輪がならび、額田部の埴輪もならぶ。尾張型埴輪の分布図がほしい。このへんの埴輪の研究はかじっているけど正確には知らないし、しかし一方で断続ナデの埴輪もある。いま埴輪研究でどこまでのことが言われているのか、勉強したいのです。また一足飛びに欽明朝にならないわけで、大伴の失脚も関連し、安閑側と欽明の対立とか、学問的には共通理解にないとしても、スムーズに継体→欽明とはいかないというのもまた、考えてもらう材料として必要なんじゃないか、と。
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でしゃべりました。

◆330名の聴衆。これだけ埋まっていると、やりがいありますね。館長からも2時間めいいっぱい しゃべってもいいと。実は最後のところで、すこしアジろうと前から思っていましたが、控えめにしました。まず、倭国が倭国乱が持続するなかで休戦合意し、卑弥呼を立てて収束させたこと。日本の国家形成の最大の特質はここにある。そして第2代も女王としたこと、この100年で日本の君主制の基調ができあがった、前方後円墳の共有という特異な制度の発達もそこに原因があるという、いたって学問的な話。
◆もひとつです。コンフリクトという言葉は、考えていたが出せなかったが、いわゆる平和学の話。いろんなコンフリクトがある、それをどのように解消するか。競争・競合を果てしなく続けるのでない解決方法があるんだと。卑弥呼共立に現代社会も学ぶべきだというものです。これ大まじめな話です。イスラム国の画像を調べました。そんな画像はいやだし、見ない。が首を切られた写 真が累々と出てくる。頭を銃で撃った瞬間の写真も、刃物を何十本も突き立てられた遺骸・・・、など。これを画像で示すのはやめたが、日本人2人がとらわれている画像を出そうと思っていた。がこれもやめた。で、最後に自国の問題として、いまの安保法制の議論とか、日本国憲法の話をして(卑弥呼共立と通じます)、グローバルホークとかオスプレイとかイージス艦の話を持ち出し、最後に文化財保護予算の話で終わろうと。が、思っていたようにはしなかった。卑弥呼共立に学ぶべし、というところまで。

5月30日弥生博

◆13時前に行き、展示を見る。リニューアルしてからは見たことがない。とはいえ、全面新しくす るほどの予算はなく、どこが変わったんだろうと思いながら見る。弥生文化全体の面と、一方で近畿地方の弥生という面があるだろう。全般的に総体として弥生文化を示すのはわかるが、しかし北部九州の資料なんかも上げつつ、近畿の弥生文化の全体像がわかるようなものであってほしい。そして、前期、中期、後期という動き、変化も。解釈はちがえど、池上曽根を含めて拠点集落が継続せずに廃絶していく、そのことの重要性、そして後期にはどうなっていくのか。そういう動きが感じられない。農耕文化がどのように熟成し、そして大きく変化していく、そういう変動を是非とも示して欲しいと希望する。
◆そして特別展の卑弥呼。人、多かったです。撮影禁止のものは印があり、あとはフリー。まんな かは鏡がずらずらあり、熱心に撮影している人もいる。こっちも撮影禁止以外のものを撮ったが、カメラの性能がいまいちで、再出撃したほうがいいかも。図録を見ると、Mさんが年代論をいろいろ書いていて、わたしの議論にも言及してくれている。勉強が足りないのは確かでしょうね。ご指摘を受け止め、丁寧に先行研究をふまえるよう努力したい。

29日の金曜日、そろそろ弥生博の準備を

◆公務は会議がひとつ。あとは杭全神社に連絡するも宮司さんは不在で、これは夕方。あるところ の測量の段取りがようやくついた。そしてひたすらピースの原稿を書き、けっこうな分量を書いてきたが、そろそろ弥生博のパワポを作ろう(16:30)。
◆20:50ほぼ終了。

ピースリニューアルの記事原稿を書こうと思ったのですが

◆いったい何をしてたのでしょうか。
◆ピースの受付で、館内で撮影するなら事務所で、了解事項を確認し、記帳して許可証をもらう。了解事項とは、1枚のパネルや個別の資料などに近づいての撮影をしないこと。展示風景はいいのだけど、字が読み取れるようなものはやめろ、ということでしょうか。それと商業利用はあかんと。3番目が個人の記録ですよ、と。3番目は正確な言い方ではないが、例えばブログに載せるなということかもしれません。が、ネットに上げてはいけない、という明言はありませんでした。まあ、わりとふつうのことです。これなら、わざわざ事務所に行かせることもなく、受付で対応できると思うし、そんな記帳をさせなくても、入り口の注意で普通は済ませることだと思う。なにか、頭からひっかかった。
◆どこまで書くかはわかりません。展示としてどうか、という視点にしようかと。その前に、やはり侵略という言葉はないです。満州国の権益、と。安倍君と同じですね。それと中国は出さざるをえないが、朝鮮はまったくないがしろにされている。そこからでしょ。いきなり日清戦争で、朝鮮をめぐって日本と清でドンパチやったと。ほとんど併合しか出てきませんよ。で展示。野村工芸が入ってキレイだけど、まあリニューアル委員長があれですから、そういうテーマパーク的展示。伝えようというものが根底にないように思う。それが根本ですね。橋下にやれといわれ、しゃーないとやっている。本来違うでしょ。万単位で空襲で人が死に、その聞き取りをやり、それを残し伝えないといけない、と思った側が働きかけて実現し作った。そういう側の絶対に伝えたいことは何か、ということをもとに展示業者が入って、ノウハウを活かして、それを効果的なものにする、というもの。そうじゃないわけです。
◆前の展示の映像はかなりいいものでしたよ。前にも書いたかも知れませんが、学校教育で連れてこられ、しゃーないから見ている者も、しばらく座っていると、引き込まれていた、と記憶する。
◆お上品なものではだめ。空襲死没者は名前が刻まれているように、不明者ももちろんいるけれ ど、1万人からわかっている。生前の顔写真をたとえ100名分でもいい、了解をとって出してはどうか。この人たち1人1人に人生があったのに、ここで終わったということこそ、戦争の意味ではないか。そしてその先に、攻め込んでいった先の人々の命が、もっと理不尽にも膨大な数、断たれたことを伝えないといけない。それが戦争がいかなるものか、そして平和を考えると言うことであって、起こしちゃならないという抑止力になる。入り口の写真を示すが、もったいない、展示として導入部らしくイメージを伝えたいという技術はあっても、ハートはない。

慰安婦問題に対する歴史学会の共同声明

◆歴史学研究会の声明に感動。そのあと、韓国の新聞社から、大歴にもどう考えるか、意志を表明 するような要請があったと記憶する。で、委員会で、それに応えることも必要かもしれないが、あの声明は非常に重要であるので、歴史学の研究会がもうすこし束になって、例えば金を出し合って新聞1面に意見書を出すとか、それくらいのことをやらなあかんのとちゃうと提案した。事務局長もいろいろ動いてくれたようです。今回の共同声明が、そうしたことのどこまでの産物かは知らないが、とにかくもまとまり、東京で記者会見を開いたことは、とてもよかったと思う。

水野先生を語る催し

◆案内をいただきました。7月5日だそうです。

吉備の古墳時代のイメージ(3)

◆しかし崇神没後、佐紀遷都。東アジアは流動化し、伽耶との関係を深めていく。で神宮寺山166mが旭川河口部にで~んと来る。五色塚も、輿塚も、丹後も(陸路もだが)。神宮寺山の立地は、佐紀段階のありように合致すると。
◆まあしかし続かない。佐紀段階に2代続けて大きいのを造っているのはあまり見ません。これはこれで解かなければなりません。佐紀後半は金蔵山。五社神型の前方後円墳はほぼこれも1代止まりです。けっして古市・百舌鳥段階に続くことはない。佐紀前半が陵山型で表現され、後半が五社神型で表現されるところに、さっきの佐紀段階のなかでの王権のありようならびに地域首長との関係の変化を解く鍵があるのかもしれません。
◆でホムダワケのクーデタ。玉丘の被葬者とともに、佐古田堂山の被葬者も、これに荷担したのでしょう。佐古田堂山はでかい。足守川東岸です。そもそも津堂城山型はまだまだ少ないが、そのなかで玉丘は後続墳を造っている。太田天神山はそれっきり。佐古田も単独。河内政権段階とすれば造山が顕著ですが、佐古田と造山の間をどうみるかです。近しいと思うが別系譜なんでしょうね。
◆で作山となる。
◆次は雄略朝の反乱伝承とかかわる。狩野さんの論文を見ると、日本書紀分注の方に信憑性があるという。雄略7年に、下道前津屋と上道田狭を倒す。日本書紀紀年でいけば463年。允恭没から10年後、両宮山は田狭墓でもいいのか・・・。このへんで、やめましょう。ウラ伝説も考えてみたいところですが。

吉備の古墳時代のイメージ(2)

◆3世紀第2四半期くらいか、卑弥呼治政の後半に入り、中国魏との関係ができ、箸墓古墳が築造され、前方後円墳共有システムが本格的に発動されていく。その時に、箸墓型である浦間、宍甘、網浜という3基が備前側にあり、前方後方墳である車塚を含め、すべて旭川東岸。操山の先端に古墳が築造され、背後には140mの浦間がある。そこには畿内の都月型埴輪があると。
◆一方で、西方は前方後方墳が多く、しかし規模はそう大きくはない(美作地域も視野に入れないといけないが)。前方後円墳もある。全体的に見れば、美作を含む特殊器台の分布域と、前方後方墳のありようの重なりがあり、そこに東から前方後円墳が進出しているイメージ。庄内式から布留1式の津寺遺跡などのありよう、しかし初期の大型前方後円墳が備中に現れないことは、倭国に連なりながらも、鯉喰以後の盟主なき連合関係の延長にあり、箸墓型のような王権とのより直接的なつながりは入り込んでいかない様子。備前車塚古墳もまた前方後方墳で、そうした吉備における関係のなかにありつつも、前方後円墳に取り囲まれ、三角縁神獣鏡多数を与えられ、とても興味深い位置を占めるようにも思われる。まっこうから対立しているとはいえないだろうが、吉備の首長間関係のそれはそれで隠然たるまとまりそのままに任せるほかないが、備前側首長を王権に近い存在として起用しているイメージ。
◆で4世紀に入り、吉備津彦が。半分冗談で、半分まじめです。中山茶臼山は行燈山型である。行燈山形前方後円墳のあり方からすると、崇神はかなり列島広域にわたり、倭国に緩やかに参画していた諸地域に対し、王権の関与を強めていくように思っている。丹後の湧田山、会津大塚山、大分の小熊山など。で中山茶臼山が吉備の中山に出現する。大型前方後円墳がここまで来たと。

吉備の古墳時代のイメージ(1)

◆弥生時代後期の特殊器台の共有にしめされるまとまりの形成と楯築の築造。しかしそのあとのイメージは、倭国形成主体論ともからみ、なかなか難しい。津寺があると。足守川河口部の交易拠点ができ、瀬戸内海上交通の重要な中継地である。例えば特殊器台の議論でも、立坂、向木見と、分布は拡大するんですかね。文様の系統論もあり単純に時期区分できないとしても、立坂が楯築を画期にできあがったとして、これが130年くらいとして、箸墓が250年、宮山や矢藤寺山などはややさかのぼるとしても、宮山型は別にしても、向木見が例えば2世紀中か、3世紀第1四半期まであるのか、知りませんが、へたすりゃ立坂から向木見まで100年くらい使われたのかもしれませんよね。3つとか、4つとかに時期区分でき、それによって共有関係がどう進展したのか、といった論文にお目にかかったことがないようにも思います。まあ、独立度の高い吉備、しかし西日本の諸権力の一画に位置付いていたと。
◆その次、鯉喰として、それが纒向石塚並行くらいだろうか。2世紀半ば。そのあと吉備の王墓はどうなるんでしょうか。2世紀後半は、ヤマトが求心力を強めていく時期にあたり、吉備ではせっせと特殊器台は作られ、まとまりを維持しようとしてはいるんだろうが、盟主的な大型墳墓は途絶えたのかな。
◆倭国乱が収束し3世紀に入る。倭国が確立する。瀬戸内一帯であるが。吉備の3世紀前半の墳墓はどんなだろう。そこに宮山と矢藤寺山という前方後円墳が現れる。総社と吉備中山に。なので、倭国の枠組みに入り、前方後円墳を共有する関係が発現する。しかし、そのあと、そのまま前方後円墳の社会が拡大するわけではない。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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