人を幸せにする人になろう

2月23日車塚

◆朝、4時に目覚める。8時過ぎに現場に立つ。大阪大谷からも今週から参加(多いのはこの週だけ だが)。前日の雨で少々シートに水が。水替えの指示をしてやらないと、バケツやひしゃくや雑巾やら、もって出ることはないが、次はやってくれよう。濡れたシートは広げて干し、通常の場合はたたむべし。先週まで南区の埴輪列まわりの掃除をやっていたが、こんなんは後でよろし。養生しておき、広大な手つかずの北区の展開させることにする。一列に並ばせ、畦から北行きで削らせていく。作業員さん1人だけは南区の造り出し斜面の、斜面出し。それで10時、大学へ向かう。
◆11時から会議、12:30まで。そのあと今晩の大歴委員会の資料を完成させ、コピーし、13:30に大学を出て(教授会はパス)、現場に向かう。
◆14:40には到着。結局、この日は、北区の半分くらいまで削る。こっちは、南区の斜面出し。斜面にも小ジャリが上面から続き、下方では握拳大の礫が密にあったりする。きっと飛ぶものだと確信しているが、礫が密に出てくると不安になる。ひとまず洪水層を除去し、小砂利の斜面に仕上げ、次を考えることに。
◆終了後、梅田に向かう。

いや~みなさんのおかげです

◆難波宮と大化改新シンポⅡを無事、終えることがデキタ。実は資料はこっちで刷ると請け負 い、実際、刷ったのだけど、実は1人分の2頁が抜けていて、木曜日のどたばたのなかで、確認を怠り、これで準備OKと思っていたのですが・・・。そのあと城陽に行ったのだが、確認のために発表者にほかの発表者のものを含めた通しのPDFを送っておいたのだが、留守の間に抜けているという指摘があり、実は、ぜんぶ刷り直したのだそうです。すいません~。
◆日曜日、本番当日、11時頃までパワポを作成しようやく完了、会場に出向く。天気予報は雨、客足はと心配したが、おかげさまで日中はほぼ曇り、ぞくぞくと人が集まってきて300人くらいにはなったのでは。1人40分の2番目。昨年はマシンガンのようにしゃべり、なんとか時間内でほぼ収めたが、今年はパワポの枚数も少なめだし、比較的ゆっくり目でもいけると思ったのが大間違い。このへんの感覚は、まだまだ未熟です。時間の半分が経過したところで、こりゃあかんと、サト領域論はすっとばし、なんとかまとめの話を入れ、それでも5分オーバー、10分オーバー未満くらい、少し足が出たのだろう。タイムキーパーの人、すいませんでした。
◆討論がしたがって1時間はなく、50分程度になるが、S氏の捌きで、無事、進行した。後半の2人とコーディネートの議論を聞いていて、どうしてもしゃべりたいので、最後、発言をさせてもらう。ひとつは尺度論。難波宮条坊が900尺というのに前から違和感がある。土地は高麗尺の歩でしょう。125歩として考えないといけない。前期難波の建物が29.2㎝だか、やや短いという話で、それで条坊を割ろうとしていて、天武段階の条坊と違うような方向を考えているように聞こえたので、そりゃちゃうでと。天武段階も高麗尺だろうし、孝徳段階のものそのままとみる方がいい。
◆もうひとつは、中国の都城の話にからみ、ここ半年の持論である、なんで内裏前殿というのか大極殿と言いませんかという話と、そのまえに広大な朝庭をもうけることは中国の影響を読み取れるんだろうが、そこに16もの朝堂を配置することが日本的なんだ、と主張させてもらう。
◆書いていると中身の話にやはり行ってしまったが、終了後の打ち上げで、発表者のみならず、大阪市博物館協会の方々、市大の地域連携のみなさんらと、楽しく呑めたことも、またうれしい。とはいえ、いつものメンバー的な考古・古代史の人間がひとかたまりになり、あ~でもないこ~でもないという楽しい議論を勝手にやっていた観はあるが、最後の方では向こう側にも行き、話もできた。
◆こっちはこっちで、大阪市との連携協定のなかで企画を考え、言い出した以上は自分がやらねばならず、しんどいことだが、でも楽しくやっているのだが、それを実行するにも、実に多くの人の協力があって成り立っていることを実感する。連携協定での各関係者の協力関係として、どこかが多大な負担をすることなく、相互に協力しあって実現できた観があり、とてもよかったなと思う。だからこそ打ち上げも楽しい。

あかん、できん

◆陵墓立入り観察後、打ち上げがあったが、シンポの準備というのも頭にむろんあったが、事後検討会の終盤になる と、疲労感に襲われ、しんどいので、ゴメンしてもらう。なので家にはかなり早く帰り着き、早めに寝る。
◆朝から、ようやくパワポ作りにかかる。14時から3時間ほど、F氏と摩湯山の報告書の打ち合わせ。そのあと、パワポ作りを続けるも、21:40現在、資料6枚分の4枚分まできたが、終わらず。まずいです。明日は12:30スタート、われわれの集合は11:30なので、8:30に行けば3時間あるとはいえ、ちとしんどい。あとは郷領域論と、まとめなのだが。
◆で、大阪の図をさっき作り直していて、いちおう明日画像で示すものができたので挙げておきます。

御廟野古墳見学記4

◆で、言い忘れたが、8角の斜面ですが、途中で段があるのかどうか、埋もれているのではという指摘も検討会であり、そうやな~決めつけはできないな~、とは思った。しかし、既に書いたようにけっこう露出する石の具合を含め、見かけ上は、8角斜面が2段構成になるとかいった様子はなく、ひとつづきの斜面ではないかと思われた。天武陵が多段構成を取ることは頭に入れないといけないが、段の塚の8角上段も、おそらくひと続きだろうし、低い下段に高い上段というのが基本で、天武陵が新機軸を打ち出しているのではと思う。これ、凝灰岩切石貼り付けになることと関係するのでは。
◆さてと、いままでは上8角下方の範囲、その下にもうひとつ方形段がある。ここには石がひとつもないことも含め、基壇的な最下段だと思う。等高線からすると、それは斜面下方の南側のみと見えるが、現地で見れば、東西両側とも段差は北までのびていく。そうすると、きっと北辺もあって、埋まってわからないだけだろう。3段というのは違和感があり(むろんそれを含めて墳丘であり、3段構成ではあるが)、辺70mに近い基壇上に、上8角下方の墳丘を載せている、と理解したい。

御廟野古墳見学記3

◆それとトップ。トップから1mくらい下に8角のまた縁石がある(見えません)。斜面途中という ことだが、後述する大きな石が周囲にあり、そのへんはやや緩斜面になっているように見える。おそらく8角の墳丘本体の上は平らに整えられており、すこし内部に引いたところに8角のおそらく加工石を基底石として(地覆石ですわ)据えていると考えた方がいい。そして、書陵部紀要にある通り、その上に載っていたであろう大きな(材は?)石が崩され、縁石の外に点在していたり、斜面途中にずっていたりする。大きさは、どうだろう40㎝程度の厚みはあり、長さは1mくらいあったりする。書陵部紀要の写真と図面を点検する必要があるが、この大きな石は、今日、下からでも見ることができた。なかには、ある面を平らに加工しているのだろうと思うものもある(南面)。
◆要するに、いま座っている8角の地覆石の上に、より大きな石材が積まれるのであろう。この縁石より上は、いま高さ1m程度のまんじゅうのような高まりになっていて、キャップみたいな高まりを頂部にもつ、といったことも言われているようだが、今日の印象では、垂直的な基壇が上に載るとみる方がいいと思う。それにしては石が少ないということもあるだろうが、転用するのに適度な石で、運び出されたものもあるのではないだろうか。そりゃ1340年経過してますのでね。
◆基壇外装の石がすべてはずされるか転落し、地覆石だけが残り、土が流れ、いまのような姿になっていると理解できる。で、ふと思ったわけです。まあ、1mの高さの基壇があったとして、何のためにそんなことするのかと。むろん、そういう表飾でもいいわけだけど、前期古墳のように埋葬施設上にその表示として方形壇を明示する必要はあまり感じられない。そうすると、建物があってもいいのではと思ったのです。江戸時代には8角堂があったらしいが、それ7世紀後半からあるんでは、その可能性はあるのでは?、と。やめときます。とにかく、30度くらいの墳丘斜面とは区別され、トップは垂直な石で外装した基壇状としていた可能性がある、というところまでにしておこう

御廟野古墳見学記2

◆靴石というのがある。方形段の縁石が、南辺中央のこの部分では石英斑岩らしいがきれいになら び、それに接して、その下に、幅3m、厚さ30センチの巨大なこれも石英斑岩らしいが、靴石なるものがデンと据えてある。なので、方形段からはみ出すわけだ。完全にキレイに掃いてくれているとウレシイのだが、そうでもなく、重なりは不明瞭だが、靴石が下で、縁石が上に乗るのでは。
◆要するに石室開口部、そこから続く墓道、その位置に据えてあるということだ。確か、アオキノ山陵記では天武陵でもそうした石がある記述があったような。完全に石槨を埋め込むのは7末まで下り、天武陵は石室で短いながら羨道がある。だから、おそらくハの字にやや開く墓道があり、石室開口部の扉的施設が見えるような完成形であったのだろう。おそらく盗掘もされているのでは。今日の話では、山科は禁裏御料となり、天智陵は大事に守られてきたとされるが。なので、おそらく修陵段階で、窪んでいるところに土を入れ、封鎖したのではないだろうか。

御廟野古墳見学記1

◆朝、今日は呑み会になると思うので電車にしようかとも思ったが、車塚の現場の時間を確保する ために はやはり車。11時過ぎに出て、山科には12:15くらいに着いたか。腹ごしらえをして集合場所に行くと、12:30くらいだが、ほぼ集まっており、無事、順調に13時から始まる。
◆迫力があった、見応えがあった。なかなかよかったです。なぜか、まあよく残っているわけです。基底の切石や靴石などの構造物も適度にあるし、葺石がかなり見え(上)、そして8角の斜面がよくわかり、その下の方形の段も含め、あまり後世の改変なく、こっそり残っているという様子である(下)。
◆8角は、この段階は方形の4つの角を落とす形で、東西南北の面と斜めの面で構成される。なので、西南、東南、東北、西北のところは三角形状のテラス面が実に美しく見え、東西南北の辺のところでは、下の方形段とほぼ接するようになっているが、上の段の流出で狭くなってはいるもの の、犬走り状に平坦面が通る。アタシの復元でいけば、おそらく1歩1.5m幅なんだろう。
◆方形壇は高さ1m強くらいかな。で、上からの土が被りにくく、またテラス面の自然流出もいくぶんあるとして、見えてくるのはコーナーの石。4つの角すべてに、原位置を保つ凝灰岩切石がある。きっと基底石だろう。そう、基底石のみが切石で、斜面は基本的に川原石なのである。だから、貼り石ではなく、雰囲気は葺石で、天武陵のような切石をがちがちに組み上げたものでなく、古墳時代の古墳っぽい。
【註】写真はやめときます。後日また。

久津川車塚、2月20日

◆朝、6:30には起きながらダウン。再び起きた時は、9:00には間に合わない時間。車塚に着いたのは、9:30くらい。山科に向かう11時まで現場。南区の調査、作業員さん1人に削ってもらいつつ、うちの学生・院生は、造り出し上面の礫出し、東西畦沿いの幅1mは、ほぼなにもなく礫もまばらだったんだろうが、やや下げすぎで段差になっている・・・。完全にピュアな面まで下げると掘り過ぎ。造り出し盛土面があり、埴輪を据え、礫を敷き、そう厚くはないそれらが遺構で、それが露出している間に表土化し、草木が生えたりさまざまな撹拌を受け、さらには江戸期の洪水層で流されたりしている。それで堆積した黄色粘質土も礫の隙間等に入り込んでいく。礫はきたない土のなかにあ り、埴輪が下に噛む、と。それらは厳密には動いているわけだが、はずしていくと何も残らない。黄色土やきたない土を礫や埴輪片を残しながら間をほじり、箒ではいて起こした土を取り除く、そういう作業をひたすら繰り返すことで、礫面残存状況を表現するほかない。埴輪片は基本的には残しつつ、状況が判明した段階で、樹立埴輪との関係でひとかたまりなものを残しつつ、遊離しているものは、今日設定した1mの地区ごとに上げればよいだろう。それで、一定の掘り上がり。樹立埴輪に帰属する形で、残っている埴輪片をどこまで上げるかは、当今、文化財保護部局との相談も必要。あとは、カゴメ土器などの、方形区画内部の食物供献化器類は、とくに重要なので、確認すれば、基本的には残し、原位置を記録した方がよいだろう。
◆てなことを教えつつ、ほじほじをさせる。11時に現場を離れたが、さあ、どうなったか、本日の報告を待とう。

疲れるが、まあ楽しい

◆弥生の「若い考古学徒、論壇デビュー」はありがたい企画で、それめざして準備するいい機会である。先週以来、ほぼ毎日時間を取って、院生1人と向き合っている(普段は何しとんねん、と言わないでくださいね。普段もやってますが、それに加えてと)。22時もまわり、明日はつきあえないので、あとは自分で、やれるだけ資料をブラッシュアップせよ。帰ろ。バタバタの1日でした。

車塚、2015年2月19日

◆なんとか資料を10:30までにやっつけ、+3人分の資料を組み込み、表紙裏のプログラムをつけ、裏表紙が白いのも芸がないので実習展のリーフレットの1頁を使い、12:30くらいから印刷にかかったのだろうか。13時から大阪市博物館協会の方、大学地域貢献の方も集まってきて、いろんなチラシをあわせて手提げ袋に封入する。今日できてよかった。昨日、無理かもと電話し、今日の朝、状況を連絡するとしたが、なんとか予定通りの日と時間でやれてほっと胸をなでおろす。これ、自分がさぼって間に合わなかったら、けっこうな信用問題だったかも・・・。
◆だいたい14時頃に先が見えてきて、車塚に行くことにする。14:35頃に出て、15:45には現地に立ったか。第2京阪は大きい。
◆現場を見ると、案の定、土をなでている。それでは下は見えません。道具が小さすぎる。バチをもちさっさと削り始める。南辺の埴輪の東側を削っていくと、埴輪片まじりの濁った土と、洪水層の黄色粘質土がきれいに分かれる。埴輪からそう距離はないが、肩である。だいたいわかったので、それより南の純粋黄色土はほっといて、肩部をはさんだ一定幅を西へ削っていけば、ほぼ南区は決着する。
◆城陽市と拡張の相談。南区のみ、西へ東へ、両側に拡張することにした。それと、いま見えている埴輪の高さと、それを覆う耕土を考えると、下段テラス面と造り出し上面の間の小斜面は、おそらく飛んでいると思われる。基底石くらい残っていないものか、そこだけは注意が必要。
◆明日は、午後から天智陵なので、朝から11時くらいまでなんとかいて、南区の肩沿いの一定幅をぜんぶ削って検出してしまいたい。

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HN:
雲楽
年齢:
61
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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