人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
博物館設置基準にかかわる博物館法改正
◆日本考古学協会から、平成21年10月7日の地方分権改革推進委員会第3次勧告において、都道府県による登録要件の審査を定めた博物館法第12条の改正が示され、日本の博物館に大きな影響を与える改悪になるもので、それぞれの学会から反対の意思表明をするよう呼びかけがあった。12月4日には、文部科学省生涯学習政策局社会教育課から、都道府県および政令市の教育委員会社会教育主管課に対して、第三次勧告を承けて法改正になれば、それぞれで要件を定めることになるとの通知が出されている。
◆大阪歴史学会では、これが文部科学省で検討が進められてきた、日本の博物館を今日的な要請に応えられる機能を充実させていこうという方向性と相反するもので、博物館を存立させる根本にかかわる要件について国が責任をもたず、機能後退につながる虞があると考え、12月委員会で反対の意見表明を行うことに決定した。
◆地方分権推進委員会は国の地方行政への規制を点検するものであるが、実態は、国が定めた要件を満たす登録博物館は限られ、多くが相当施設であって、公式には博物館と呼べないという程度の問題であり、実際には公立の資料館がそれぞれ機能し、その運営に国が規制をかけているわけではない。そして登録要件を緩和して登録博物館の数を増やすことが日本の博物館・資料館にとって良いこととは思えない。
◆「これからの博物館の在り方に関する検討協力者会議」が2007年6月にまとめた『新しい
時代の博物館制度の在り方について(報告)』にしたがって、まずは国が登録制度について責任をもって基準を定め、また審査機関のあり方が検討されるべきである。しかし、この方向性は、2007年9月の第14回の検討協力者会議で、日本博物館協会への博物館登録基準の検討委任、そして第二次報告のとりまとめが図示され目指されたはずが(右図)、その後は、学芸員課程の見直しについて主に議論され、登録基準の見直しが会議で検討された形跡はなく、いきなり昨年の分権推進委員会の勧告に至る。
◆以上、『ヒストリア』の原稿だが、最後のところは裏が取れていないのだが、文部科学省のHPを追いかける限り、ニッパクキョウに検討委任し、それをフィードバックして、検討協力者会議で練られた形跡はない。どうしたんでしょうね。今回の博物館の見直しが、意気込みは大きかったが、あまり進展なしと新聞にたたかれ、委員からも2年間の時間はムダだったと言われ(どっかで見た)、ほとんどやる気を喪失し、学芸員課程の施行規則改正で終結させようとしてるんじゃないかと思う。で、分権委の勧告にしたがって都道府県に丸投げして幕引きをはかった。だが、さまざまな団体から反対表明が提出され(新聞で見たが切り取るのを忘れた)、さてと、文部科学省はどう対応するのか。
◆大阪歴史学会では、これが文部科学省で検討が進められてきた、日本の博物館を今日的な要請に応えられる機能を充実させていこうという方向性と相反するもので、博物館を存立させる根本にかかわる要件について国が責任をもたず、機能後退につながる虞があると考え、12月委員会で反対の意見表明を行うことに決定した。
◆地方分権推進委員会は国の地方行政への規制を点検するものであるが、実態は、国が定めた要件を満たす登録博物館は限られ、多くが相当施設であって、公式には博物館と呼べないという程度の問題であり、実際には公立の資料館がそれぞれ機能し、その運営に国が規制をかけているわけではない。そして登録要件を緩和して登録博物館の数を増やすことが日本の博物館・資料館にとって良いこととは思えない。
◆「これからの博物館の在り方に関する検討協力者会議」が2007年6月にまとめた『新しい
◆以上、『ヒストリア』の原稿だが、最後のところは裏が取れていないのだが、文部科学省のHPを追いかける限り、ニッパクキョウに検討委任し、それをフィードバックして、検討協力者会議で練られた形跡はない。どうしたんでしょうね。今回の博物館の見直しが、意気込みは大きかったが、あまり進展なしと新聞にたたかれ、委員からも2年間の時間はムダだったと言われ(どっかで見た)、ほとんどやる気を喪失し、学芸員課程の施行規則改正で終結させようとしてるんじゃないかと思う。で、分権委の勧告にしたがって都道府県に丸投げして幕引きをはかった。だが、さまざまな団体から反対表明が提出され(新聞で見たが切り取るのを忘れた)、さてと、文部科学省はどう対応するのか。
朝青龍のこと
◆カミサンがブログに書いとけと。とっかかりはアエラ。銀行員40代正社員の年収は1600万円だって。バカにしてるよな。公的資金を入れて、金利を思いっきり下げて回復を果たし、金利はそのままで、自分らは高給をハム。アエラの特集は二つあり、ひとつが不安定な40代正職(で上に上げたようなこと)というのと、もうひとつがその結婚プラスかマイナスか、というものだった。で結局、専業主婦を含め、年収ではなく、満足度だという話らしい。人それぞれのモノサシだ、ということか。
◆これが本題ではない。どうもJAXAの宇宙科学研究本部(カミさんの前の職場)の仕事のやり方、いついつが報告書が締め切りだから、持ち寄りはこの日に設定し、それにむけての打ち合わせを1週間前にやって、とか、そういうマジメ人間のやり方に「ついていけん」という話。で、朝青龍が登場する。仕事をちゃんとやるかどうかが問題で、やり方は人それぞれや、相撲に強い朝青龍がなんでやめなあかんねんと。
◆いまどこでも成果が問われ、それをキチキチやっていくためには、段取りして計画的にコトを進め、間違いのないように進める風潮が進行し、ツマランと。仕事やから、給料もらっているから、することはせなあかんが、締め切りの前の日にやってもええやん、と。顔をあわしても仕事の話しかしない、なんの面白みもないと。破天荒な生き方しとるやつ、別にそんなんでなくとも仕事はするが遊びもちゃんと入れてるヤツの方が、人間的だし魅力あるわな。
◆宇宙科学研究本部の正職は、日本ではそこしかない頭脳の集まる超エリート集団であるが、楽しそうに仕事をしていないようなのだ。でも一方、ハチャメチャナ東大の先生の話を聞くと安心もする。
◆とくに研究というのは、キチキチ計画通り成果を出すようなことが果たしてよいのか、あるいは成果が出るのか、といわれれば、積み上げ+発想や飛躍だから、どうなんでしょうね。人によってスタイルは違うから、キッチリやる人がいてもいいが、そうでない者が排除されるのはたぶんよくないんだろう。縛りのない自由さが必要だ、と。そういうことかな。
◆オレはけっこう自由にやらせてもらって幸せだ。計画性のなさはいつも反省しているのだが、それでいいんだと肯定しておこう。
◆いずれにしても、人の幸せとは何か、そのモノサシは個人のものだから、マジメだったらいかんのか、とはいえないが、カミさんの言うように、人とのつきあいや(あの人はほんまに幅広い。職場だけでなく、日銀・小学館・朝日新聞社・外務官僚、大学のテニスサークル、保育園の時の母親友達、小学校の時の母親友達、研究分野で言っても、形と構造をやっているので、折り紙研究家や、沖縄のプランクトン研究者・・・)、うまいもんを食う、そうした人間味のある生き方に共感する。おれもキチキチやる、研究史をしっかりふまえる、なんていうのが苦手で、一発屋なので、これからもチャランポランでいこう。メールを見てなくてもエエヤン。
◆これが本題ではない。どうもJAXAの宇宙科学研究本部(カミさんの前の職場)の仕事のやり方、いついつが報告書が締め切りだから、持ち寄りはこの日に設定し、それにむけての打ち合わせを1週間前にやって、とか、そういうマジメ人間のやり方に「ついていけん」という話。で、朝青龍が登場する。仕事をちゃんとやるかどうかが問題で、やり方は人それぞれや、相撲に強い朝青龍がなんでやめなあかんねんと。
◆いまどこでも成果が問われ、それをキチキチやっていくためには、段取りして計画的にコトを進め、間違いのないように進める風潮が進行し、ツマランと。仕事やから、給料もらっているから、することはせなあかんが、締め切りの前の日にやってもええやん、と。顔をあわしても仕事の話しかしない、なんの面白みもないと。破天荒な生き方しとるやつ、別にそんなんでなくとも仕事はするが遊びもちゃんと入れてるヤツの方が、人間的だし魅力あるわな。
◆宇宙科学研究本部の正職は、日本ではそこしかない頭脳の集まる超エリート集団であるが、楽しそうに仕事をしていないようなのだ。でも一方、ハチャメチャナ東大の先生の話を聞くと安心もする。
◆とくに研究というのは、キチキチ計画通り成果を出すようなことが果たしてよいのか、あるいは成果が出るのか、といわれれば、積み上げ+発想や飛躍だから、どうなんでしょうね。人によってスタイルは違うから、キッチリやる人がいてもいいが、そうでない者が排除されるのはたぶんよくないんだろう。縛りのない自由さが必要だ、と。そういうことかな。
◆オレはけっこう自由にやらせてもらって幸せだ。計画性のなさはいつも反省しているのだが、それでいいんだと肯定しておこう。
◆いずれにしても、人の幸せとは何か、そのモノサシは個人のものだから、マジメだったらいかんのか、とはいえないが、カミさんの言うように、人とのつきあいや(あの人はほんまに幅広い。職場だけでなく、日銀・小学館・朝日新聞社・外務官僚、大学のテニスサークル、保育園の時の母親友達、小学校の時の母親友達、研究分野で言っても、形と構造をやっているので、折り紙研究家や、沖縄のプランクトン研究者・・・)、うまいもんを食う、そうした人間味のある生き方に共感する。おれもキチキチやる、研究史をしっかりふまえる、なんていうのが苦手で、一発屋なので、これからもチャランポランでいこう。メールを見てなくてもエエヤン。
新潟が大雪だそうで
◆新潟市内が26年ぶりの大雪だって。1984年のことだ。そう、この冬は忘れない。オレが大学1年ではじめての京都の冬を体験した年。京都は寒いが、この年は特別だった。前年1983年の12月18日は総選挙で、ドカ雪だった。朝から子供みたいにはしゃぎ、叡電に乗って鞍馬に行って雪かきをした。この冬は、それ以来、北向きの軒下の雪が春まで溶けなかった。年が明けても、毎週のようにドカ雪が降り続いた。
◆おれの下鴨の下宿は、水道屋の物置の2階で、外気が廊下まで筒抜け、つまりドアの向こうは外気温で、布団から出ている顔がひりひりに冷えた。この話、前も書いたかな・・・。だとしたらもうボケてるんだけど。
◆おれの下鴨の下宿は、水道屋の物置の2階で、外気が廊下まで筒抜け、つまりドアの向こうは外気温で、布団から出ている顔がひりひりに冷えた。この話、前も書いたかな・・・。だとしたらもうボケてるんだけど。
試験の答案を次にいかそう
◆こないだの試験 2題出したが、1題は縄文で、2題目は日本列島における国家形成を論じさせた。設問にも工夫し、一定の予備情報を与えた上で、だ。弥生時代後期の話を1回、3世紀前半の話を1回、統合のプロセスを示し、これが日本の国家形成だ、と言ったのに・・・。答案を見ると、なかなか伝わっていない。弥生時代後期の社会に言及したもの、倭国乱に言及したものが少なすぎる・・・。
◆伝わってないのは、教え方がまずいんでしょうね。反省・・・。
◆伝わってないのは、教え方がまずいんでしょうね。反省・・・。
戦前における文化財の保護
◆2008年末から2009年はじめに、戦前の文化財保護制度を調べる機会があり、作っておいたメモを掲げる。ある小文に掲載しようと引っ張り出してきたが、少し長く趣旨がずれるのであきらめることにしよう。わたしの感想は、「戦後の文化財保護法の枠組み、とくに遺跡発掘の届出制度は、戦前の古墳の発掘に関する制度を一般化したものなんだ」ということ。これ、和田勝彦さんなんかの文章をたどれば、とっくに言われていることなのだろうが、自分としては新鮮であった。
◆1874年(明治7)の「古墳発見ノ節届出方」(太政官達59号)では、「御陵墓ノ所在未定ノ分即今取調中ニ付」、みだりに古墳を発掘してはならないこと、発見のあった時は図を添えて届け出ることが通達される。陵墓である可能性のあるものが発掘されることを規制するためで、縄文時代の遺跡などは対象としていない。
◆1880年(明治13)には、ほぼ同趣旨の宮内省達「人民私有地内古墳発見ノ節届出方」が出されている。皇陵比定事業は、1875年(明治8)から1876年に基本的に終了するが(1889年に一応完了)、その後も古墳の発掘には制約が続く。
◆日清戦争後の1899年(明治32)、民法とその特例法である遺失物法が成立し、所有者不明の「学術技芸若ハ考古ノ資料に供スヘキ埋蔵物」を発見した場合には、警察へ提出することが義務づけられた。これに関連し、内務省は「学術技芸若ハ考古ノ資料トナルヘキ埋蔵物取扱ニ関する件」の訓令を発し、発見された遺物が「古墳関係品其ノ他学術技芸若ハ考古の資料」となるべきものである時は宮内省へ通知することとなっている。また「石器時代ノ遺物」である時は東京帝国大学へ通知され、それぞれ必要な物件を保有するものとした。戦前出土の著名な出土遺物の多くが、今日の東京国立博物館・宮内庁・東京大学などで所蔵されているのは、この理由による。この段階で、遺失物法という一般法のなかで出土物を処理するため、古墳からの出土品のみならず縄文時代の出土品を含め、考古資料が発見された際の取り扱いが定められた。しかし発見された場合の遺跡の取り扱いを規定するものでなく、あくまで出土品の措置である。
◆古墳の発掘に関しては、1884年の太政官達と1890年の宮内省達に示されている届出を遵守するよう、1901年(明治34)に内務省から「古墳発掘手続ノ件依命通牒」が出されている。「発掘セントスルモノハ」、「予メ詳細ノ図面ヲ添ヘ宮内庁ヘ打合」せるように指示している。それ以前の段階は、みだりに発掘をしないこと、発見があったら報告することであったのに対し、その前半の部分が制度的に整備され、学術調査をおこなう場合は、宮内省と事前に協議することを求めることになった。制度的には、古墳の調査についての制約を手続きを定めて強化したといえる。それ以外の遺跡についての発掘調査にかかわる規定は引き続き存在しない。
◆史蹟名勝天然記念物保存法の制定は、1911年(明治44)の第27回帝国議会(貴族院)における「史蹟及天然紀年物保存ニ関スル建議書」の可決された頃からの運動の末に、1919年に制定された。建造物、美術工芸品が古社寺保存法(〓年)で保護されているのに対して、史蹟や天然紀念物を破壊から保護するためのもので、指定による保護措置を加える今日的な制度である。内部大臣が保存区域を定めて指定し、現状変更等の制限及び環境保全命令の規定、違反に対する罰則を設けたもので、地方公共団体を管理者に指定するものである。その施行令において、史跡となっている古墳を発掘する際、宮内大臣への協議を文部大臣に義務づけており、古墳に関する宮内庁の権限を引き継いでいる。
◆また施行規則にある、「土地ノ所有者、管理者又ハ占有者古墳又は旧蹟ト認ムヘキモノヲ発見シタルトキハ其ノ現状ヲ変更スルコトナク発見ノ日ヨリ十日以内ニ左ノ事項ヲ具シテ地方長官ニ申告スベシ」と規定され(第4条)、地方長官は文部大臣に報告することを求めている(1930年文部省訓令)。これは、指定物件以外の遺跡を対象としたもので、ここに出土品発見の手続きとは別に、遺跡の発見があった場合、古墳以外の「旧蹟と認むべきもの」についても届け出ることが規定された。
◆以上をまとめると、戦前において、遺跡からの出土品はすべて、民法上の所有権との関係から、普遍的な取り扱いが必要であり、遺失物法において、出土物の発見の警察への提出と、内容に関する通知を宮内省あるいは東京帝国大学への通知が定められた。これは発見物に関する手続きであるのに対して、そうしたものが出土し遺跡と知られたものの発見については、古墳については1874年に定められていたが、その他のものについては1919年の史蹟名勝天然記念物法でようやく一般化されたということだ。また学術調査については、古墳については1901年(明治34)に詳細な図面を添えて宮内省と打ち合わせることが規定されたが、古墳以外の遺跡については、戦前はとくに規定は制定されることはなかったのである。
◆要は、(1)重要遺跡の史跡指定、(2)遺跡の発見届、(3)学術調査の届出、(4)出土品の文化財認定(国保有も)、という基本は戦前にでき、文化財保護法が公布されたときは、ほぼこれを引き継いだ。保護法は記憶によれば(もう彼方)、すぐに(1949年?)、戦後の学術調査でない開発にともなう遺跡破壊に対応し、いわゆる周知の包蔵地における届出制度が、このあとに加わり、1975年改正までの基本ができあがる、ということだった、と思う・・・
◆実際の運用は、別に調べなければならない。河内長野の方が詳しく、大師山古墳出土品をめぐり、くわしく調べられたのがネットで公開されていたことを記憶する。
◆1874年(明治7)の「古墳発見ノ節届出方」(太政官達59号)では、「御陵墓ノ所在未定ノ分即今取調中ニ付」、みだりに古墳を発掘してはならないこと、発見のあった時は図を添えて届け出ることが通達される。陵墓である可能性のあるものが発掘されることを規制するためで、縄文時代の遺跡などは対象としていない。
◆1880年(明治13)には、ほぼ同趣旨の宮内省達「人民私有地内古墳発見ノ節届出方」が出されている。皇陵比定事業は、1875年(明治8)から1876年に基本的に終了するが(1889年に一応完了)、その後も古墳の発掘には制約が続く。
◆日清戦争後の1899年(明治32)、民法とその特例法である遺失物法が成立し、所有者不明の「学術技芸若ハ考古ノ資料に供スヘキ埋蔵物」を発見した場合には、警察へ提出することが義務づけられた。これに関連し、内務省は「学術技芸若ハ考古ノ資料トナルヘキ埋蔵物取扱ニ関する件」の訓令を発し、発見された遺物が「古墳関係品其ノ他学術技芸若ハ考古の資料」となるべきものである時は宮内省へ通知することとなっている。また「石器時代ノ遺物」である時は東京帝国大学へ通知され、それぞれ必要な物件を保有するものとした。戦前出土の著名な出土遺物の多くが、今日の東京国立博物館・宮内庁・東京大学などで所蔵されているのは、この理由による。この段階で、遺失物法という一般法のなかで出土物を処理するため、古墳からの出土品のみならず縄文時代の出土品を含め、考古資料が発見された際の取り扱いが定められた。しかし発見された場合の遺跡の取り扱いを規定するものでなく、あくまで出土品の措置である。
◆古墳の発掘に関しては、1884年の太政官達と1890年の宮内省達に示されている届出を遵守するよう、1901年(明治34)に内務省から「古墳発掘手続ノ件依命通牒」が出されている。「発掘セントスルモノハ」、「予メ詳細ノ図面ヲ添ヘ宮内庁ヘ打合」せるように指示している。それ以前の段階は、みだりに発掘をしないこと、発見があったら報告することであったのに対し、その前半の部分が制度的に整備され、学術調査をおこなう場合は、宮内省と事前に協議することを求めることになった。制度的には、古墳の調査についての制約を手続きを定めて強化したといえる。それ以外の遺跡についての発掘調査にかかわる規定は引き続き存在しない。
◆史蹟名勝天然記念物保存法の制定は、1911年(明治44)の第27回帝国議会(貴族院)における「史蹟及天然紀年物保存ニ関スル建議書」の可決された頃からの運動の末に、1919年に制定された。建造物、美術工芸品が古社寺保存法(〓年)で保護されているのに対して、史蹟や天然紀念物を破壊から保護するためのもので、指定による保護措置を加える今日的な制度である。内部大臣が保存区域を定めて指定し、現状変更等の制限及び環境保全命令の規定、違反に対する罰則を設けたもので、地方公共団体を管理者に指定するものである。その施行令において、史跡となっている古墳を発掘する際、宮内大臣への協議を文部大臣に義務づけており、古墳に関する宮内庁の権限を引き継いでいる。
◆また施行規則にある、「土地ノ所有者、管理者又ハ占有者古墳又は旧蹟ト認ムヘキモノヲ発見シタルトキハ其ノ現状ヲ変更スルコトナク発見ノ日ヨリ十日以内ニ左ノ事項ヲ具シテ地方長官ニ申告スベシ」と規定され(第4条)、地方長官は文部大臣に報告することを求めている(1930年文部省訓令)。これは、指定物件以外の遺跡を対象としたもので、ここに出土品発見の手続きとは別に、遺跡の発見があった場合、古墳以外の「旧蹟と認むべきもの」についても届け出ることが規定された。
◆以上をまとめると、戦前において、遺跡からの出土品はすべて、民法上の所有権との関係から、普遍的な取り扱いが必要であり、遺失物法において、出土物の発見の警察への提出と、内容に関する通知を宮内省あるいは東京帝国大学への通知が定められた。これは発見物に関する手続きであるのに対して、そうしたものが出土し遺跡と知られたものの発見については、古墳については1874年に定められていたが、その他のものについては1919年の史蹟名勝天然記念物法でようやく一般化されたということだ。また学術調査については、古墳については1901年(明治34)に詳細な図面を添えて宮内省と打ち合わせることが規定されたが、古墳以外の遺跡については、戦前はとくに規定は制定されることはなかったのである。
◆要は、(1)重要遺跡の史跡指定、(2)遺跡の発見届、(3)学術調査の届出、(4)出土品の文化財認定(国保有も)、という基本は戦前にでき、文化財保護法が公布されたときは、ほぼこれを引き継いだ。保護法は記憶によれば(もう彼方)、すぐに(1949年?)、戦後の学術調査でない開発にともなう遺跡破壊に対応し、いわゆる周知の包蔵地における届出制度が、このあとに加わり、1975年改正までの基本ができあがる、ということだった、と思う・・・
◆実際の運用は、別に調べなければならない。河内長野の方が詳しく、大師山古墳出土品をめぐり、くわしく調べられたのがネットで公開されていたことを記憶する。
河内大塚山古墳
◆今朝、通勤前に河内大塚に寄った。実は昨日も、試験の答案の採点を、夜、河内大塚山脇の
サイゼリヤでやっていた。古墳はまっくらで、改めて今朝、行ったわけである。
◆河内大塚をちゃんと回ったのは、これが2回目である。前方部の両側の堤は、昨年、やりかえられたもので、実はその工事期間に宮内庁に立ち入りを要請したが、工事中で安全面から実現しなかった。で、石積の真新しい堤になっているわけである。後円部については、前回は東南しか行かなかったが、今回は西から見た。だいぶ堆積土がたまり濠は狭まっている。おそらく浅いのだろう。
◆この古墳、未完と思っているが、どう考えるか。土師ニサンザイに後続する神聖王墓であるので、候補は清寧だ。で、継体擁立にともなって王墓は未完に・・・、というのがシナリオ。土師ニサンザイがキナシカルに相当する神聖王墓であるが、埴輪
からすると、市野山と変わらんらしい。キナシの没年は不明だが、あまり下げられず、460年代のうちにはあるのだろう。そのあと、神聖王清寧と、執政王雄略の体制となる。
◆河内大塚が平面形がおよそ形作られているので、割り付けられて掘削され、おもに後円部に盛土され(後円部も高くはなく造営途上と理解しやすい)、そこで中断。が、しかし。清寧かどうかはともかく、ニサンザイに後続する神聖王墓として造営されたとして、継体即位まで未完状態だったというのは、あまりに後に引っぱりすぎており、違和感があるわな。
◆だとすると、河内大塚の年代を決めるのはきわめて困難だから、考えてもしかたないのだが、もう少し古く考える、5世紀後半のなかで未完に終わるデキゴトがあったとみるか、実は、雄略段階で、神聖王墓は小さくなり(白鳥陵)、その次が河内大塚と、1枚はさむのか・・・
◆河内大塚をちゃんと回ったのは、これが2回目である。前方部の両側の堤は、昨年、やりかえられたもので、実はその工事期間に宮内庁に立ち入りを要請したが、工事中で安全面から実現しなかった。で、石積の真新しい堤になっているわけである。後円部については、前回は東南しか行かなかったが、今回は西から見た。だいぶ堆積土がたまり濠は狭まっている。おそらく浅いのだろう。
◆この古墳、未完と思っているが、どう考えるか。土師ニサンザイに後続する神聖王墓であるので、候補は清寧だ。で、継体擁立にともなって王墓は未完に・・・、というのがシナリオ。土師ニサンザイがキナシカルに相当する神聖王墓であるが、埴輪
◆河内大塚が平面形がおよそ形作られているので、割り付けられて掘削され、おもに後円部に盛土され(後円部も高くはなく造営途上と理解しやすい)、そこで中断。が、しかし。清寧かどうかはともかく、ニサンザイに後続する神聖王墓として造営されたとして、継体即位まで未完状態だったというのは、あまりに後に引っぱりすぎており、違和感があるわな。
◆だとすると、河内大塚の年代を決めるのはきわめて困難だから、考えてもしかたないのだが、もう少し古く考える、5世紀後半のなかで未完に終わるデキゴトがあったとみるか、実は、雄略段階で、神聖王墓は小さくなり(白鳥陵)、その次が河内大塚と、1枚はさむのか・・・
圃場整備事業の推移
◆新聞の趣旨は政権交替にかかわる地殻変動を順次取り上げるもので、民主党になって前年比63%減と大幅ダウンとなり、政権交替の影響がモロに出ていることを取り上げたものだ。野中広務の言うとおり、政争の具にしてはいけないだろう。土地改良が必要なものもあるに違いない。しかし、自民農水族と農水官僚が結託して、全国の農地をいじり倒してきたことは確かな事実であり、それがおおよそ終わってきているということもあるが、ようやくストップがかかったわけで、見なおされるのは当たり前だ。
◆80年代に異常に伸び、それにウルグラウンド合意が拍車をかけた。その結果はいかに。効率的な農地ができあがったのか。農民は事業終了後の換地を受けても、自分の土地が1枚ではなく、数人で同じ土地を分け合うことになる愚を聞いたことがある。自尊心ややる気をそぐ。また実際にどれだけ耕作されているのか。そうした検証がなされてしかるべきだろう。
◆これだけの予算があれば、農業を支える人々の高齢化を見越し、将来に向けて、いかに農業を継承し食糧自給率を上げていくかという明確な目的の上で、田圃をいじるだけではない政策が実現できたはずである。しかし、結果は、金が土建屋に流れ、政治家にバックされ、そうした予算は国債でまかなわれ、これからさきわれわれが負担し続けなければならない。
日米の密約
◆2009年07月12日の朝日新聞で日米の密約が整理されていたので取っておいた。そこで示されたのは4つ、60年安保時の2つ、沖縄返還時の2つ。
◆60年安保(1)。60年安保で、核兵器+αを日本国内へ持ち込む場合は事前協議が必要との条項が入った。しかし、「米軍機の日本飛来、米軍艦船の日本領海並びに港湾への進入に関する現行の手続きに影響を与えるものと解釈されない」という内容らしい。仕切りとしては、在日米軍基地に核兵器を持ち込み、そこから出撃する場合は事前調整が必要だが、恒常的でない「たまたま」の立ち寄りはいいんだ、ということ。事実上、核兵器搭載の米軍機が横田や三沢に降り立つことも、核兵器を装備した戦艦が横須賀に入港するのもOKというもの。非核3原則の「持ち込ませず」というのは放棄している、ということ。この密約は、外務省で文書にされていることを元事務次官が明かにしたそうだが、むろん公表されていない。
◆60年安保(2)。朝鮮半島でコトが起きた緊急の場合など、「ただちに着手することが必要とされるような軍事作戦のため、日本における施設及び地域を使用してもよい」という内容。在日基地を米軍が出撃拠点として自由に使えることを、岸信介から全権を委任されていた外相が会議で発言しサインしたもので、全文が明らかになっているらしい。これ、安保の条文を読まんと理解できないね。たぶん、在日米軍は備えのためにあるのであって、米軍の戦争遂行のために戦略基地としては使ってはイカンということになっているんだろう。
◆沖縄返還(1)。89年返還交渉時、ベトナム戦争が激化するなか、沖縄の米軍基地に配備されていた核兵器について、撤去を求める日本と継続を譲らないアメリカ。で、「ニクソンは沖縄からすべての核兵器の撤去を約束するが、有事には日本政府と事前協議をした上で持ち込む権利を認めるよう要求し、佐藤は「かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう」と応じた」という議事録の形での密約だそうだ。建前(1)アメリカが事前協議をすれば日本は認める、建前(2)アメリカが勝手に持ち込んでも、事前協議がない以上、日本政府は「核兵器の持ち込みはない」と言い逃れる。が、たぶん、実際には撤去されていないで、ずっとあり、また必要に応じて最新兵器に取り替えているだろう。
◆沖縄返還(2)。これは返還にかかる経費負担の話。(1)アメリカが支払うと定められた軍用地の原状回復費400万ドルを日本が払う。(2)短波放送中継局の移転費1600万ドルを日本が支払う。(3)日本がアメリカに支払う(どういう名目なんですかね)返還協定に記された3億2000万ドルとは別に、2億ドルを基地移転費などとして支払う、という3つの内容らしい。まあ、実際に返還する部分の移転経費もあるんだろうけど、それがいくらか誰もわからん。日本が支払った総額のどこまでの範囲かはわからんが、ベトナム戦争遂行のため投入され、たとえば軍需産業から爆弾などを購入するのにあてられたんだろうね。
◆ところで、すこし前に佐藤栄作の家から文書が出てきた、と新聞報道されていたが、これはどれに当たるんかな。たぶん沖縄返還(1)なんだろう。ノーベル平和賞を受賞した佐藤の虚偽が改めて批判されていた記憶があるので。
◆60年安保(1)。60年安保で、核兵器+αを日本国内へ持ち込む場合は事前協議が必要との条項が入った。しかし、「米軍機の日本飛来、米軍艦船の日本領海並びに港湾への進入に関する現行の手続きに影響を与えるものと解釈されない」という内容らしい。仕切りとしては、在日米軍基地に核兵器を持ち込み、そこから出撃する場合は事前調整が必要だが、恒常的でない「たまたま」の立ち寄りはいいんだ、ということ。事実上、核兵器搭載の米軍機が横田や三沢に降り立つことも、核兵器を装備した戦艦が横須賀に入港するのもOKというもの。非核3原則の「持ち込ませず」というのは放棄している、ということ。この密約は、外務省で文書にされていることを元事務次官が明かにしたそうだが、むろん公表されていない。
◆60年安保(2)。朝鮮半島でコトが起きた緊急の場合など、「ただちに着手することが必要とされるような軍事作戦のため、日本における施設及び地域を使用してもよい」という内容。在日基地を米軍が出撃拠点として自由に使えることを、岸信介から全権を委任されていた外相が会議で発言しサインしたもので、全文が明らかになっているらしい。これ、安保の条文を読まんと理解できないね。たぶん、在日米軍は備えのためにあるのであって、米軍の戦争遂行のために戦略基地としては使ってはイカンということになっているんだろう。
◆沖縄返還(1)。89年返還交渉時、ベトナム戦争が激化するなか、沖縄の米軍基地に配備されていた核兵器について、撤去を求める日本と継続を譲らないアメリカ。で、「ニクソンは沖縄からすべての核兵器の撤去を約束するが、有事には日本政府と事前協議をした上で持ち込む権利を認めるよう要求し、佐藤は「かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう」と応じた」という議事録の形での密約だそうだ。建前(1)アメリカが事前協議をすれば日本は認める、建前(2)アメリカが勝手に持ち込んでも、事前協議がない以上、日本政府は「核兵器の持ち込みはない」と言い逃れる。が、たぶん、実際には撤去されていないで、ずっとあり、また必要に応じて最新兵器に取り替えているだろう。
◆沖縄返還(2)。これは返還にかかる経費負担の話。(1)アメリカが支払うと定められた軍用地の原状回復費400万ドルを日本が払う。(2)短波放送中継局の移転費1600万ドルを日本が支払う。(3)日本がアメリカに支払う(どういう名目なんですかね)返還協定に記された3億2000万ドルとは別に、2億ドルを基地移転費などとして支払う、という3つの内容らしい。まあ、実際に返還する部分の移転経費もあるんだろうけど、それがいくらか誰もわからん。日本が支払った総額のどこまでの範囲かはわからんが、ベトナム戦争遂行のため投入され、たとえば軍需産業から爆弾などを購入するのにあてられたんだろうね。
◆ところで、すこし前に佐藤栄作の家から文書が出てきた、と新聞報道されていたが、これはどれに当たるんかな。たぶん沖縄返還(1)なんだろう。ノーベル平和賞を受賞した佐藤の虚偽が改めて批判されていた記憶があるので。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。