人を幸せにする人になろう

やっと台場がおわった

◆11月24日土曜日、同志社へ出張しなければならないが、このままでは引越ができそうに98df5757.jpgないので、申し訳ないがパスすることにした。
◆今週、ヒストリアの仕上げで終わった。先週の〓曜日、〓をすっぽかして(いや、やむをえなかったのです・・・、いちおう断ってから出た)、〓に行き必要書類を整えたのち、兵庫県まで行ったものだから、西宮台場と堺台場へ足をのばした。
◆堺台場はすごいわ。それからまた、台場のある大浜公園が大観光地として、阪堺電車も通っていて、にぎわっていたということを知った。いまも公園で、野球場とかテニスコートとか、そういう利用がなされていることは仕方がない。いまや15ea40f5.jpg近畿の一大観光地から、地元民の公園に転じ、その機能をはたしているから。でも、そこに、台場なんですよという顕彰、明治以降、大観光地だったんですよという顕彰、もうちょっとその部分がアピールされてもいいのではないかと思った次第。
◆それと台場、堺市は国史跡にすべきやね。現状変更がややこしくなるから、既に公園で保存の心配はないから、というのでなく、これって、品川台場に匹敵するモノとして、その価値に即して指定すべきや、と思う。発掘もすべきや。よく残っている土塁はともかく、削られたところを調査し、なにか植栽とか園路などで、台場の輪郭を表示すべきや。11c0f3f3.jpg
◆ついでに兵庫県〓市の学芸員から電話があり、「堺奉行所の文書がまとまって出てきて、堺市博でもっているものより古い絵図もある。〓市として文化財指定しようかとも考えているが、どれくらいの価値付けがあるのか、堺奉行所関係文書の全体像がわからんから問い合わせたけど、ナシのつぶてや。詳しい人おらんか?」との問い合わせ。うちの近世の人間に聞いたら、堺奉行所って研究が遅れているらしい。なんでやの?
【追記】12月06日に記事になりました。あと、うちの近世史の先生と大学院生がかなり興味を示しています。
◆このへんは、どこともそうなんだろうけど、考古屋と文献屋のバランスや連携が悪いんだろうな。堺の町の調査はやっている、一方で文献史としても、日本を代表する自治都市として、研究所を置いてもいいくらいの研究テーマであろう。そこは部署としては博物館なんだろうけど、そんなことはどうでもよい。個人を非難したいのではない。堺市として中世堺、それと連続する近世堺、これはほかにはない、かつ全国区の遺跡であり日本史の研究課題であって、それに堺市がどうとりくむかという問題だ。なんか弱いと聞くと(その見方が妥当かどうかは知らん)、悲しいのだ。

台場つづき

◆台場関係の写真など、出版物を転載しても提供を受けても、掲載許可の事務手続きもある。手続きさえすればb1df5ab5.jpg使えるんだからそうしてもいいのだが、いまは仮にどっかから取ってきたものを当ててはいるが、オレの趣味としては、自分で写真を撮りたい。なによりも現地を見たいと思う。淡路由良の高崎台場、岩屋の松帆台場、舞子、和田岬、西宮、堺、岬町谷川、こんだけ、見て回りたい。いつ行こうか。
◆堺台場はいい。よく残っている。大阪府埋蔵文化財保護協会?が発掘もしているらしいが、報告書は見ていない。明治12年という早い時期に大浜公園ができたため、土塁がかなり残っている(公園になった関係での改変もあるとはいえ)。これ未指定のようなのだ。これ国史跡だろう。堺だったら近いし、すぐに行ける。大阪市大に赴任して、最初、上野芝に住んだとき、カミさんにつきあってもらって、堺で買い物をした。そのとき、いま思えば大浜公園にもっとも近づいた時だった。ジャスコかヨーカドーか、なにかあって、そこへ行った。海辺に海浜公園がある、となぜか印象づけられた。あそこに台場があったのだ。

台場特集号

◆毎度毎度、ヒストリアの特集で、疲弊する。なんでこんなに一所懸命やってるんだろう。馬鹿みたい。論文1本書くくらいの労力は十分にかかっている。前号に続いて、特集のイントロダクションの文章を書いている。全体のボリュームがかさばって迷惑をかけているのでコンパクトを心がけたが、切り縮める気力がないし、思い切ってバッサリやるにはもったいない。何を書いているかというと、現地見学検討会の記録、18世紀後葉からの外国船来航と海防政策のおおよその流れ、プチャーチンの天保山来航以後の大坂湾岸の防備、そして文久期以降の摂海防禦が重要視されていくまでを概観する文章。
◆もうひとつは、これを機会に大坂湾岸の台場をまとめようと企画委員のメンバーで分担して、10数カ所の短い紹介記事。冒頭に分布図と一覧表を付ける。原稿は委員のメンバーが分担したが、地図や図面や写真やらは、全部、オレがやっている。分布図も・・・。こういうのが疲弊する。やりだすと面白くて仕方がないのだが、疲弊する。ああそれと、全体の原稿の調整。なるだけ各人の原稿を活かしてとは思うが、全体として短くするためもあって、けっこう手を入れる。かつ、小見出しをつけて解説をつけるのだが、遺構そのものを記述する項目立てがなく(本日、気がついた)、「構造」という小見出しを新設し、なにも書いてないヤツは、調べて書き足している。委員はみな文献史の大学院生で、経緯のところは一所懸命書いているが、台場の構造物についてはあまり触れていない。
◆まあ、調整しても、各人各様、徹底して統一的な記述にすることはあきらめよう。ああ、掲載許可の事務手続きもやらなあかんな~。たいへんや。もう一息のところまでは来た。

国分西1丁目に引っ越し

◆10月31日に引っ越します。手付けを打っていた物件が9月末で空いたので、部屋を見に行った。面積は少し広くなるくらいだが、1996年築、そうこれ、おれの京都のマンションと一緒なんだ・・・。なので、いまの古いヤツと違って、設備はよい。いまのところはLDKというにはおこがましい、真ん中のスペースが狭い、風呂が狭い、断熱材がほとんど入っていないのか、夏は暑く、冬は寒い。電力容量も少なく、時折、電気が落ちる。それに比べると、なによりLDKらしい広さがあり、相模原の大きなテーブルも置けるし、風呂も追い炊きができる。家賃はちょっと上乗せだが、まあまあ。引っ越し一時金をどうやってまかなうか、それが問題だが、なんとかなろう。

自転車通勤

◆重要な会議があったのに、結果的にすっぽかしてしまった。ああ・・・ああ・・・どうしよう。取り返しがつかない。
◆ぽっかり空虚になったが、思い立って、かねてよりの念願の自転車を買いに行く。イーオンのコマーシャルに惹かれたというのもある。29800円のあの自転車はとても魅力的なのだが、引っ越しをかかえている現在、散財はできない。大阪は平坦だし変速はいらないだろうと、14800円のヤツを買った。これが火曜日(9/6)のこと。翌日、さっそくと思いきや、台風が接近し雨。やめとけというカミさんの制止を振り切り、小雨の中、自転車をこぎ出す。途中、雨もすこし強くなり、またなんということか、初日からパンクだ!。パンク修理もあり、1時間25分を要した。しかし、その日の帰りは、さすがに大雨で自転車で帰ることは断念した。
◆翌日、昨日のことだ(9/7)、22:00に大学を出て、大和川の土手を東にむかう。松原インターくらいまで順調だったが、そこから津堂城山を通ってやや南下するつもりが、東除川沿いに行くと、なにかおかしい。月を見ると、進行方向(東)でなく左手にあった。どんどん実は南下していて、ちょっと西に戻り気味だったかもしれない。とにかく近鉄にぶつかり、そこが恵我ノ荘駅、あれれ・・・藤井寺インターをめざしていたのに、かなり西だ。気を取り直し家に向かう、1時間10分くらいを要した。
◆夜、地図をチェック、翌日(9/7)の朝の戦略を練る。いちばん直線的で効率のいい道をさがした。一応、案はできあがった。でも疲れていてプリントする気力がない。だいたい頭に入れて、本日、出発。允恭陵の所から大津道に入る。旧道はよい。旧家があり寺があり、府道沿いでは目立たない田畑がまだまだある。島泉丸山を南に見て、西へ。結局、大津道沿いに近いのだろうが、ところどころ切れているのだ、とくに松原に入ると。大津道は古代の名前か・・・、近世の何街道だっけ。これもきちんと調べて、これをずっと行くということもやってみよう。
◆大和川も東西一直線でなく、北に張り出したり、南へ曲がったり。今日の帰りは大和川沿いを帰った。橋のところの大きな道が横切るところは信号はあるが、あとは基本的にない。東半分では自転車道として整備され車の心配もない。だけど、距離がかならずしも最短でないため、スムーズに帰ったつもりだが1時間5分かかった。
◆だんだん慣れてくるだろう。いまは時々迷いながらだから。でも逆に、2日だけだが、お尻が痛く、また脚もすこしだが筋肉痛となり、初日の行きのように張り切って飛ばすことができない。いずれ1時間程度に落ち着いてくるだろう。そうなると、電車、自動車と変わりはない(もっとも自動車は帰りは早い、だいたい40分くらい)。いい運動だ。
◆自転車って、これ奈文研でサッカーやったときに、滝村さんから勧められたのもきっかけだな・・・。いつまで続くかわからない。だんだん寒くなってくるとツラクもなるだろうが、まず1箇月くらいはやってみよう。

下降線

◆いろんなことから逃げて不義理を重ね、それも一時的でなく長期になり、細かいことモロモロの仕事も果たせず、かなり精神的にきつくなってきて、下降線をたどっていると感じる。10月1日から生活が変わり、カミさんがいる生活。9.5年間の別居のあとだ、慣れるのに少し時間がかかる。弁当は入れてくれるし、洗濯もしてくれるし、言うことはないのだが、自由気ままな生活ではなくなる。いままでがあまりにも好き勝手だったということだろうが、ペースが狂うのだ。で、不眠症気味で、夜、寝られず、今週はずっと睡眠不足で頭がだるい。そして火曜日の重要な会議をすっぽかしってしまった。いくつかのことが重なったが言い訳はできない。
◆これを離脱するには、動くこと、仕事を片付けることだ。というわけで『ヒストリア』特集号の原稿に没頭している。しかしこれもひとつの逃げで、バランスを考えれば、いろんな手を打っておくべき事を片付けてからやるべきなのだが、逃避している。
◆なにも手につかないよりはいいのだが・・・。ようやく原稿はできた。だけど企画委員で取り組んだ、台場跡の紹介記事の全体調整をしている。もうすこしだ。これを脱稿したら、すこしだけだが精神的に楽になるかな。

このブログ

◆最近、このブログ見ましたよ、といってくれる人がいる。おっとっと。なんの宣伝もしていないのに・・・。こっちは名刺にsumikoukenのアドレスは書いていて、このブログのある部分には、この「人を」のブログ(タイトルは恥ずかしいが)に飛べるように設定しているが、住考研ブログを見ても、注意して「人を」に行き着く人はほとんどいないと思っていた。こっちが好き勝手に書くもの。ストレス解消だ、と。
◆前から何人かの人は見てくれていることは知っていたが、ここ1週間の間に、2人ほど、見てますと言われた次第。これがネットというものか。うち1人はT大学のHさん、ご本人もブログを始めたとか、それで学生に考古学のブログをいろいろ教えてもらったそうで、その時に、この私のネットを知ったという。その学生さん、どうやってたどりついたのかな。
◆まあしかし、スタイルを変える必要ない。だいだい、日常の暮らしの中で、関心の向くネタはだいたい挙げていると思う。考古学ばっかりじゃない。自分の感じるもの、これはと思うことを、その都度、話題にする。それがブログのよさですね。日記じゃなく、手記だ。
◆いつもポケットにイクシーが入っているので、おお、大和川が増水していると思ったら撮り、なんやこの看板と思ったら撮り、ブログにアップするのも楽しい。媒体として、とっても気に入っているのです。

2王並立の最新の系統図など

◆かねてから使っていた王陵の系統と変遷図、『ヒストリア』の論文で使うべきだったと思うが、79cdd881.jpg版面のこととか、締め切りに間に合うよう図を作り直す気力もなく、未掲載に終わった。おれがイラストレーターを使えるようになったのは今年から。この図をただちに直した。糊で貼ったものを認識の変更とともに貼り直していく必要はない。パソコン上で異動ができる。ただし、技術的に未熟な段階だったので、改良の余地があるが、現状はそのままだ。これ、いずれ今年度締め切りの原稿に使おう。
◆それと渋谷向山および佐紀段階の理解について、微妙な時間的前後関係の認識も深まっている。『ヒストリア』の並列図についても、少し変更をくわえた。
◆小沢科研の研究会でも話をしたが、須恵器の製作開始年代とどう整合をとるか、自分でも4世紀が間延びし、いずれも長寿だったとでも説明しないと無理があることはわかっている。古市百舌鳥の始まりをもう1世代程度早めた方が年代的にはバランスがとれるとは思っているのだが、それを変更するまでの確信はまだもてない。a495d3e0.jpg

古市百舌鳥のおわり

◆岡ミサンザイ以後のことは前方後円墳についてもあまりちゃんとやってない。埴輪の研究に依拠するほかはない。埴輪研究会の編年では、
【Ⅳ3】〈460年前後〉ニサンザイ[TK47]と市野山[TK208]+前野山(200mニサンザイ型)[TK23]、
【Ⅴ1】〈480年前後〉岡ミサンザイ+白髪山(清寧)(115m)+峯ヶ塚(96m)[MT15]、
【Ⅴ2】〈500年代前後〉ボケ山(仁賢)(122m)(これ今城塚に近いな~)[MT15~TK10]、
【Ⅴ3】〈530年前後〉今城塚[MT15]に高屋城山(安閑)(122m)[TK47]、
という順序だそうである(須恵器は白石科研の植野さんの時期比定)。
◆むろん、須恵器は量的な問題、また初葬への供献物かどうか、埴輪に比べて条件設定が難しいが、なかなか埴輪と須恵器も整合がとれていないな。一方の埴輪による順序が絶対的かどうか、わたしにはわからん。
◆スパッと料理してスッキリしたいものだ。これは古市百舌鳥政権がどう終わり残存し最終的に消えていくか、新たに継体親百済政権の登場という、5世紀後葉から6世紀前葉の歴史の解明のために不可欠だ。
◆岡ミサンザイが雄略陵というのは、1)年代観(とはいえアバウト)、2)ギリギリ丹比高鷲でもいいのではないか、という論拠にもとづく主流の比定に、わたしなりに、3)市野山(イチノベオシハ墓)に後続する執政王墓の巨大墳としては最後であり、履中系の王を惨殺して治天下大王となったワカタケル墓にふさわしいとの見方を加え、みなさんの比定にならっている。この前提がくつがえれば見直しが必要だが、ひとまず定点としよう。
◆そのあと、清寧と仁賢墓が古市に造営されたということになっている。
◆ボケ山って安閑陵にふさわしいような気がする。でも記紀や延喜式で高屋丘となっており、高屋丘陵にある現・安閑陵は固い。けれど須恵器はTK47だって。この年代はあわんわな。どうするんだろう。
◆清寧がキーパーソンだが、河内大塚を築造していたが、継体即位とともに廃され、最終的にガタガタの白髪山を急遽作って葬った、ということもありかな、なんて思ったりもする。河内大塚、大津道に面して築造されたニサンザイに後続する巨大古墳でありながら、最終的に未完に終わった巨墳、この埋葬予定者は誰がふさわしいかということだ。
◆すっきりせん!
◆今日は10/04(日曜日)、昨日から大阪電気通信大学小沢先生の科研の研究会があった。終了後、福永さんと北條さんが桜井茶臼山に行くというのに同行したかったが、仕事が溜まっているので、研究会のあと泣く泣く大学に来たが、電気工事で停電しておりパソコンは立ち上がらず、USBもなく、あまりにも眠くフテネをし、電気が復旧したが、もうやる気をなくして、こんなことを書きました。それも気力なく、考え抜くことができません。
◆気を取り直し、安村さんの石室編年
高井田山[TK23/TK47]〈475直後〉→二子塚[TK47](郡川西塚)〈490年前後〉→峯が塚[MT15](七の坪)〈500年初頭〉→郡川東塚[MT15]〈515年前後〉→市尾墓山[MT15/TK10]〈529年〉。安村さんは高井田山を475年直後とする。市尾墓山は河上氏の説のように529没の許勢男人である蓋然性は高い。この間、約50年である。年代観をイメージするためにこれを割り振れば、上記の〈〉のようになる。ふ~ん。この年代観は、わりあい、従来のもので理解しやすいように思われる。
◆両者をミックスするとどうなる?
TK208 埴輪Ⅳ3  市野山
TK23              前野山
           埴輪Ⅴ1   岡ミサンザイ    高井田山   ≒475年前後 稲荷山鉄剣471
TK47             高屋築山         二子塚      ≒490年前後 
MT15  埴輪Ⅴ2                   峯が塚    ≒500年初頭
                      (ボケ山)         郡川東塚   ≒515年前後
           埴輪Ⅴ3   今城塚          市尾墓山    ≒530年前後
TK10
◆けっこういい線かな。ああ、無為に過ごした。帰ろ。    

和泉市合同調査―納花―

◆和泉市教委と大阪市大の合同調査が9月28日-30日の2泊3日で実施された。今年で13回目、kimari.jpgわたしは2000年からの参加で10回目だ。今年も池田谷。槇尾川南岸、池田荘上荘にあたる納花町。
◆最終日にわたしが報告したこと。水利からこの地域の歴史的変遷を考えよと。納花の水利、谷川池(府中)の水利、梨本池の水利(万町・浦田)、鍛冶屋の水利、そして神田の水利がある。なんといっても谷山池。重源が作ったという伝承があるが、おそらくより古く古代に和泉国衙が作ったものだろう。梨本池は13世紀はじめの築堤がわかっている。万町などの荘園開発にともなうもの。これに対して、納花はよha.jpgり上流に溜め池をつくっており、ややおくれるだろうが中世後半には確実だろう。これは納花の村がいつ形成されたのかにかかわる。それと一段下の神田あたりも、おそらく納花が開発したものだろう。こういった地域開発の進展について、大学院生・学生には関心をもち追究して欲しい。
◆2点目は、しかし大字界はきわめて不自然である。菅井は平井村だし、神田・上林は三林だ。しかし実際には納花の人たちが耕作している。池上の時以来の経験によれば、これらは中世を通して形成された村落のまとまりがあるにもかかわらず、江戸幕府による村切りの時に、年貢を納める単位として人為的な分割がなされたものである。納花の集落であり水田だったが、江戸時代には、切り離されたところは、平井・三林として年貢を納めることになるので、そこに、その責務を負う菅井総代みたいな地位が作られるのも、こうした理由だ。
◆大字の範囲を見たとき、すぐに不自然だと感じたが、この10年間で中世・近世の社会を学び、身についてきたもの。調査時は、文献調査は当然近世、近代以降となるが、わたしはいつも地図をいじりながら、古代・中世以来の形成過程を考えている。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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