人を幸せにする人になろう

津堂城山古墳の現地説明会10/03

◆藤井寺市の上田さんから連絡をもらい、津堂城山を掘っているから見に来てと連絡が入り、9/17朝、見に行った。下段の葺石が天場まで残り、上面テラスに埴輪列、そして中段の基底石も出ている。
◆この調査は、陵墓参考地のフェンスが北側で倒壊しそうになっており、来年度、藤井寺市が崖面の手当をした上で、宮内庁がフェンスを直すらしいが、その前の事前調査として藤井寺市が発掘調査をしているもの。
◆津堂の発掘なんて、これまで見たことがないので、たいへん感激した。

引っ越しの準備

◆この5連休、2日は神奈川でカミさんの自宅の引っ越し準備にあてようと思っていた。結婚以来のモロモロの89ecee46.jpg荷物はすべて相模大野にあるから。大阪国分の現住居での生活開始は楽ちんだった。なんにもないところから、必要なものは、こっちでだんだん揃えていったので。その前に住んでいた大阪市住吉区我孫子からの引っ越し、自分の荷物は、机とベッドのみだった。そういうわけで、国分に来たときと違い、今回の相模大野を引き払うことは大変な作業となる。
◆ETC割引があるので、家族4人が高速道路で異動すると、メチャ安く済む。今回は、後半は大阪に戻る予定なので、土曜日の1700に出て、その日のうちにたどりつき、日曜日、月曜日と、4人で作業。で、火曜日の05:00に相模原を出て昼に大阪に戻った。
◆子供2人も大きくなり、しょっちゅう脱線しているとはいえ、労働力になるのはありがたい。基本は、「どうしても取っておきたいもの以外は捨てる」。とはいえ、大きな家具には愛着がある。しかし、なるべく身軽にすること。最終は10月末引き払いになりそうなので、何回かはさらに行かなければなるまい。
◆それに比べると、大阪の引っ越しはまだ荷物は少ない。が、国分に来たときに比べると、だんだんと荷物も増えているので、それなりの労力がいる。新しく移るところは、河内国分のなかでの異動で近距離なのだが(少し面積がグレードアップする)。昨日電話があり、手付けを打った部屋は30日に空くので、1日以降、見ることができるとのこと。たぶん、あそこで決めるのだろう。1軒引き払い、1軒異動、で荷物が集まってくる、さてどういうスケジュールでコトを運ぶかな・・・。

東海道・国道1号はなんで鈴鹿峠なんだろう

◆土曜日(9/19)、人間ドックのあと、家族4人で神奈川へ向かう。西名阪・東名阪、伊賀上野、御0bb60f83.jpg墓山古墳のあたりに至ると、眼前にノコギリ山が立ちはだかる。いつも、このルートを通るたびに、よく目立つ特徴ある山だと思っていた。で、今回、写真を撮ってもらった。伊吹山とならぶような、東国との境に位置する山だ。
◆帰ってきて調べてみると、油日岳、那須ケ原岳、そして高畑山と連なるものをタテに見ているらしい。
◆ところで、6月だったか、はじめて紫香楽に行ったわけだが、草津線の通っている谷筋(野洲川)のことを、もうひとつはっきり認識していなかった。いや、国道1号線が、栗東で東南に折れて、三重に出るということはわかっていたが、鈴鹿を超えたのは、大学時代にバイクでたぶん通った1回くらいで、あんまり正確な地理情報、イメージを持ち合わd952ed51.jpgせていない。一方で、草津線の走るところで、三重とつながっていることはわかっていたが、両者があいまいなままだった。
◆グーグルマップで見ると、やっぱり、御墓山は、伊賀上野の東北の地峡部を押さえる位置にある、そこからもうすこし進み、油日岳が突き出している地点に、草津線は出るのか・・・。これが柘植。で、鈴鹿峠とは、同じ野洲川沿いだが1本東で、高畑山の東、標高400m近いところだったんだ。滋賀から三重県に抜けるのに、草津線沿いが一番低かろうに、なんで江戸時代の東海道は鈴鹿越えになり、また現在の国道1号線もまた鈴鹿を超えるのだろう?不思議だ。
◆このあたりの近江と伊勢のルートは歴史的に興味ある問題だが、地図を見ていると、柘植から亀山市関までは、非常に狭いけわしいところみたいだ。柘植には出られても、そこから伊勢に抜けるにはあまり良いルートではなかったということか。そのへんは名阪国道を通っていてもなんとなくわかるが、下の道、25号線を通ってみないと体感できないのだろう。天理から東に向かうルートと共に、高速道路でなく、地道をできれば歩いてみるのが一番だ。
◆鈴鹿峠をあえて通ることを考えていると、これは国分-関屋ルートが、河内-大和のメインルートになりえなかったことと通じるように思われる。

けっこう冷えてます

◆昨夜、いつものようにバーミヤンで仕事をして2:00に店を出ると、車の窓が半透明になっていた。冬だ。空気もうすら寒い。気持ちよい季節だ。食欲の秋、睡眠の秋、収穫の秋。近畿でも早稲はもう借り入れだ。今日の御所周辺はまだ黄金色でなく、10月に入ると言っていた。
◆阪神が3位に浮上、差を広げつつある。いつのころからか、すっかり阪神タイガースファンになっている。

生駒の石切場

◆奈良をまわったあと、玉手山1号墳の報告書のために、大阪府から借りていた図面とネガアルバムを返しに竹城台へ行く。担当は三宅さん。
◆実は別冊ヒストリアの刊行直前に、実は三宅さんらが生駒西麓の残石調査をけっこうやっていると聞き込んだ。遅い!助成金をもらって、車谷だけでなく、東大阪にかけて、かなりわかってきているらしい。報告書を作るんだ、と言っておられた。なかなか自分で、かじっただけでなく、分布調査をやれるかというと、そうはいかない。それでも一度くらい、案内してもらい見てまわりたいものだが、まずは報告書を楽しみにしよう。大坂城関係では、大阪府下がもっとも遅れていると、けっこう叩いたのだが、それを変える必要はないと思うが、おそらく仕事でなくボランティアで、関心ある者が集まり分布調査をやっておられた、のだ。

感激!桜井茶臼山の石室に入る090916

◆月曜日、カシコウケンの嘱託をしている関本優美子さん(うちの大学院修了生)から電話があり、出ると茶臼c56aa19b.jpg山を発掘している豊岡さんから、是非見に来て欲しいというラブコール。ありがたいことだ。豊岡さんとは、くびれ部再発掘の時から親しくさせていただいている。「水曜日行きます!」と。
◆9:40分には現地に行く。前方部墳頂もきれいに下草が刈られ、後円部は巨木も刈り払われ、60年前の調査区が開けられ、天井石がならんでいた。まず墳頂の構造について教えていただく。木柱列、そこに落ちてきた壺形埴輪、地震による墳頂平坦面東西の陥没など、驚くことばかり。墓坑壁面に岩盤がのぞく。ほぼ墳頂までもともとの丘陵だ。天井石も赤い、それをパックしていた被覆粘土もfcf09406.jpg真っ赤。そして石室へ。美しい・・・。長方形の箱。そして棺の下の板石敷き、あんな構造はほかにはないよな~。そこに〓面を越える鏡が並んでいたのだろう。壮観だったに違いない。東影君と酒井君がなかに入っていた。
◆石室に長居をして出てくると、森浩一先生だった。カシコウケンの同志社卒業生が随行だ。先生は、脚立で、なんとか石室内へ入り込んだ。石室の写真や木棺の写真は控えておこう。アップしたのは天井石が並ぶが、調査風景のものだし、これなら許されるかな。森先生の写真もひかえておこう。一番下は、電動のフルイである。ここから山のように鏡片が出るのか・・・。去年は、フルイを自分で20786bd1.jpg作ったな~。
◆いやはや、さすがは王陵である。
◆ついで、関本さんの御所の京奈和の現場に行く。これもとびっきり面白い。30mの大壁建物かと目されるもの。いくつかある。流路に沿って、おおむね地勢に応じて溝が掘削され、建物がならぶ。古墳時代前期、中期、それ以降の遺物も大溝から出ている。大壁建物など、時期の帰属が問題となろう。雰囲気では、小丸と高杯を中心とする布留1・2段階のものが大溝からまとまって出土しており、建物などの遺構も前期ではないかとみているようだ。鉄滓もあり、工房があったようで、やっぱり時期が問題だ。10月24日現説予定。
◆関本さんに案内してもらい、御所市担当の現場にも行く。西村慈子さんが待っていてくれる。弥生前期(船橋も)・中期・後期、古墳時代の水田である。JR玉手駅のすぐ北。
◆どこともそうではあるが、カシコウケンの正職は年令が高く、もう現場に出ない人がほとんどで、かなり若い職員と、多く抱えている嘱託職員で現場がまわっている。しゃーない。だけど、若い者同志、現場に放り出されて、鍛えられるだろう。優秀な者ばかりだが、しかし京奈和の発掘のピークもあと2年ほど、育った人材が、みんな就職できればいいのに!。そう願いたい。

国土地理院には腹が立つ

◆いつからだろうか、地理院のHPで2万5000分の1地形図がネットで見ることができる。便利だ。そのシステムが1年以上前だろうか更新された。その前は、画面がダウンロードできた。なので、もう地形図を買う必要がないと思った。図面を作るのに必要な地図をダウンロードして、加工してきた。
◆しかし、この更新によって、画面のダウンロードはもとよりプリントアウトも出来なくなった。更新直後から腹が立っていたが、今日、石槨材の石材産出地の地図を作ろうかと思い、再度、チャレンジしてみたがダメだった。国民の税金で仕事をしてできた国土地理情報だ。国のものではない!主権者のものだ!バカヤロー!

行政の調査と大学

◆大学と行政は連携して互いのためになればよい。それは思う。教員の専門からお役に立て、自分の研究にもなるんだったら、やったらよい。だけど、発掘を請け負うと、あとあと大きく縛られる。むろん、資料整理など、地元行政がかなりやってくれるのが一番楽。
◆両者がためになるのが一番良い。ただし、両者がためになるためには、よくよく頭を使わなければならない。そううまくいくことが、むしろ少ないかもしれない。中町東山古墳群の調査は、地元のMさんが実にしっかりした人だから、京都府立大学も力を発揮し、立派な報告書ができ。加古川市のなんとか古墳は、地元がダメだし、大学教員もだらしないから、発掘から15年、報告書は出ない。
◆わたしも失敗している。玉手山7号墳の第1次調査の時、欲を出して、報告書刊行費を地元で予算化してもらった。だけども、わたしは出せなかった。予算化した以上、なんにもなしでは困るから、2002年度の第2次調査を踏まえて、簡単な概報を出した。けれど、この16頁冊子を出すのさえ、2003年度上半期を費やし、地元の柏原市に多大な迷惑をかけた。こういうこともあって、柏原市はうちの調査を慎重に見ている。それはしかたがない。それだけの失策をこちらがやったので、信用はまだ取り返せないから。1号墳、3号墳と、こちらがキチンと報告書を出すことが何よりも大事だ。
◆そういうこともあって、わたしは行政に金を出してもらうことは基本的にやめた。こんな人間なので、報告書が期限通りに出ることはない(胸を張って言うことではない)。公金にしばられず、したがって時間に縛られず、しかし、納得のいく報告書を出すことを心がけている。金は自力でなんとかせなしゃーない。一度、京丹後市神明山古墳の時、基準点測量と伐採をしていただき(これは地元の自発的なもの)、やりきれなかった範囲の補足調査の滞在費を市史編纂でお願いできないか、また欲を出したこともあったが、やめた。
◆行政が報告書を予算化し刊行物として発行し、編集費をまかない、紙代だけで増し刷りし大学の刊行物とするという手法は、わりあい常套手段である。それで、ひとつの調査について、互いが連携し、ひとつの報告書だが、行政の成果物にもなり大学の成果物にもなる、一石二鳥の方法で、そういう風にしたらとアドバイスも受ける。でもやめとこうと思う。期限通りにきっと出せないから。
◆わたしは行政は、なんか遺跡整備をしたいと思ったとき、特殊な遺跡で、どうしても専門家を入れて調査しなければならないこともあろうが、基本的に集落でも窯跡でも古墳でも、自分のところでできる場合にやるべき、と思っている。自力でできそうにないなら、指定・保存をやっておいたらよい。整備までしようというなら、行政がそういう体制を整えてやるべきだという考え。おいしい古墳がある。それを発掘してもらえませんか、ときても、よっぽど、自分の研究ピンポイントでなければ請けないつもりだ。
◆より重要なのは、大学は、大学で、大学らしい目的の明確な調査をすべきだ、ということ。したがって、偶然的に合致する場合がありうるが、行政目的の調査と、大学の調査は別物と思っている。どこかの先生は、いろんな仕事で、頼まれ仕事をし、学生はそういう調査をやっている。学生は整理するのも謝金をもらうのが当たり前と思っている、という話も聞く。それもひとつの行き方で、それで学生が育ち、刺激を受け、論文も生産されるのだろう。そういう風にうまく回るのなら、それでもいいが、どうもうまくいっているようにも見えない。また、うちでは、そんな風にうまく回す自信はまったくない。
◆もうひとつ。行政とタイアップすることは、大学の社会的認知につながる。記者発表などもやりやすい。記事になる。世間のお役に立っている。上層部も目にする。よくやっている、学生も来る?・・・。うらやましい限りである。ほんとうにそうであるなら、それでよい。だけど、花火を打ち上げているところの調査は、あとあとまでうまく完結させられているだろうか。同じようにマスコミ受けすることを考えれば・・・、新聞に載って、大阪市大の調査を世間に広く知ってもらえるのはうらやましい限りである。象牙の塔にとじこもっているのでない、社会的に役に立っているんだと、わかりやすい。だけど、禁欲的に行こうと思う。いい調査をやっていけばよい。別に新聞に載らなくてもよい。アピール力がなくてもよい。それは、そういうことに長けた人がやればよい。おれはまったく性にあわないので、背伸びしないことだ。
◆なんかタコツボに籠もっているようだ。しかし考古学の専門家として、埋蔵文化財行政の世界でお役に立てる場面はほかにもある。行政は行政、大学は大学、一旦掘れば報告書まで責任の発生する発掘調査、そこは仕切りをつけといた方がよいと思っている。

久しぶりに実家に帰る

◆土曜日、埴輪の整理作業を休みにしていたので、久しぶりに9c8a5cae.jpgd888f241.jpg加古川へ帰る。子供らも、月1の週休土曜日である。長男の学級は、新インフルで月~水曜日、休みという。
◆翌、日曜日、前から行きたいと思っていた、那珂ふれあい館に行った。旧の中町、東山古墳群を京都府立大と共同調査し整備されたもの。
◆まずは展示館、ボランティアのみなさんが寄ってくる。まあ、お元気だ。古墳に行くなら案内すると。展示を見た後、ひととおり横穴式石室を見て回る。いちばん大きい8add49e2.jpgヤツは、玄室044bb22d.jpg長6.2m、これはでかい!
◆そのあと、加西市の玉丘古墳公園に寄って帰ってきた。高校時代に一日盗掘坑にもぐり、長持形石棺の略測(自分では実測のつもり)したことを思い出す。腐葉土多く、棺材が少ない。葉っぱをめくると長側板片は出てきたが、小口完形1枚と、蓋石の破片は見つからない。あの時のノートは取ってあるはずで、この研究室に持ち込んだはずだが、まあすぐには出てこん。出石の石棺材もなんかの時に実測したな~。あの図面はどこへいったのやら。

やっと玉1が出そうだ!

◆市大の4冊目の報告書、玉手山1号墳の発掘調査報告書。いつも難産。でもある時点で、できそうだ、という予感が来る。玉1はいまである。ガンガンというわけには行かないが、未提出者の原稿も出てきて、あちこち未完部分の原稿も進む。宮内庁の有馬君の原稿ももうすぐ出そう。なお仕事量は膨大であるが、岩が転がりだした。勢いができてきたので、このままいくだろう。
◆9月末には、渋谷向山関係以外の約8割を入稿することに決めた。なんとか12月には刊行したい。
◆これまでの3冊、いずれもフォントはモリサワなのだが、インデザインに組み込まれているオープンフォントは小塚。でモリサワパスポート、書体800種の1年間の使 用パックを購入した。3万円!。インデザインで組みつつ、仕上げは印刷屋でどうかと思っていたが、こっちでリュウミンにして、できるだけのことをしよ うと決意し、購入した。いきなり本文250頁の報告書でやるには荷が重いが、これからのこともあるので、やっちまう。ただし、きちんと打ち合わせをしとかないと、 こっちの作業が無駄になるおそれがある。来週、月曜日に印刷屋とインデザイン入稿について相談する。
◆印刷製本費はない。メスリの時も同じだが、茶臼山の売り上げ分がいくらかあった。今回は0だ。見積もりがいくらになるのか。メスリの在庫90冊が売れれば足しになるが、〓冊売れて勢いはストップした。茶臼山がぜんぜん足らなかったので、印刷部数をメスリでは上積みしたが、無理があったようだ。古墳の報告書、〓冊が限度だな。それ以上だと、在庫を抱える。

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HN:
雲楽
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61
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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